経済とは何か

認識の三つの要素は、位置と運動と関係である。

先ず、明らかにしなければならないのは、経済とは何かである。
現在の多くの人は、経済と言う事の意味もわからずに、経済について語っている。
それが根本的な間違いなのである。

経済は、決して金勘定の事を言うのではない。
経済を語る時、儲かるか、否かが一義的に問題とされるのではない。
一義的に問題とされるのは、生きるか死ぬかの問題である。
そして、次に問題となるのは、如何に、人間として生きるかである。
その上で、貨幣的な事象が問題となるのである。
お金の問題が真っ先にあるわけではない。

働いて、報酬を得て、生活に必要な物を市場から手に入れ、家族を養うそれが人としての生きる道である。そのためにお金が必要なのである。金のために人は生かされているわけではない。

しかし、だからといってお金が卑しいわけではない。
お金に汚い人が卑しいのである。

根本にあるのは、如何に生きるかである。
経済学とは如何に生きるかを考える学問である。

経済的手段で解決できない場合は、政治的手段によって解決を図り。政治的手段で解決できない場合は、暴力的手段で解決を図る。
暴力的手段は、最終的手段なのである。

経済というのは、生きる為の活動である。
経済は、貨幣的事象ではない。
貨幣は、生きる為の活動に必要な二義的な手段である。
貨幣は、本来、一義的な手段ではない。
経済の一義的な手段は、生産、貯蔵、分配、消費、労働である。

重要な要点は、貨幣経済は数値的経済だという点である。
対象に単価を掛け合わせる事で価値を貨幣価値に統一した体制が貨幣経済である。
価値は、定量的情報に還元される。即ち価値は数値として表現される事を前提としている。

経済を構成する要素には、人の要素、物の要素、金の要素がある。
人は、人数、物は数量、金は価格によって数値化される。
貨幣価値は、人数と価格、数量と価格の積として表現できる。

人数の基礎は人口である。
経済変動は、時間の関数であり、分配によって引き起こされる。故に、経済で重要なのは差と比率である。

経済を構成する要素には人、物、金がある。人と物は、伝統的な要素である。それに対して金銭的要素は、歴史的な産物だと言える。つまり、人が長い期間かけて定着した要素、後天的、人為的要素である。

経済を考える時、経済を構成する要素や流れが重要になる。

貨幣経済を構成する貨幣的要素には収入、貯金、借金、支出の四つがある。
貨幣経済を構成する物的要素には生産、貯蔵、分配、消費の四つがある。
貨幣経済を構成する人的要素には、労働、所得、財産、生活の四つがある。
人は、貨幣経済下では、働いて、売って、買って、養うと言うのが原則なのである。
労働は、報酬となり、所得になる。生活は欲求を生み出す。生産手段は供給力を制約し、欲求は、需要を形成する。

収入、生産、労働は相互に結びつき。支出、消費、生活も相互に結びついている。
収入と支出、生産と消費、労働と生活は非対称である。また、これらは時間的にも非対称である。
この非対称性を解消する手段は、貯金、借金、貯蔵、分配、報酬、欲求、時間である。
又、資金の流れによってこの非対称性は解消される。

これらの要素は、表裏の関係となってお互いに連結している。
物事には、表裏がある。生産と消費、需要と供給、労働と分配、収益と費用、投資と回収、調達と返済。これらの事象は表裏となって経済を動かしている。
例えば、生産量は、供給力となり。供給力は分配の元になる。消費量は、欲求を導き出し。欲求は、需要を喚起する。労働に基づいて報酬は支払われる。報酬は収入となる。収入は欲求に基づいて支出される。収入から支出を引いた余りは、貯金となる。貯金は貸し出され、貸し出された資金は借入金になる。投資した資金は計画的に回収される。投資の基本は、資金の調達と返済である。

所得と生産と収入は等しくなり、生活と消費と支出は等しくなる。
収入と借金の和は、支出と貯金の和と等しくなる。
生産と輸出入の和は、在庫と消費の和と等しくなる。

生産と消費、収入と支出、報酬と生活とを測る基準は必要性である。
必要性が過不足を原因となる。

人の経済の基本は、生活である。生活は消費である。
人の経済の基礎は、生活手段と生活費である。
生活費の中には、扶養家族の分も含まれる。
人の経済の基礎を構成するのは人口である。

人の生産手段は労働である。故に人の生産性は労働によって決まる。
しかし、労働ができる期間は限られている。
勤労期間が人の経済を制約する。

物の経済の基本は、生産である。故に、物の経済の基礎は生産手段と生産物によっている。
生産手段とは、土地や労働力といった事を指す。生産物には、有形の物と無形な物がある。
生産物は、生産手段を組み合わせて製造される。生産手段には、物的な物と人的な事がある。

経済の基礎となる物的要素は、生産手段と生産物に区分される。
経済の基礎となる人的要素は、所有と労働である。所有と労働は、権利と義務の根拠となる。
生産手段と生産物、所有と労働が経済の一義的要素を構成する。

生産手段と生活手段は、投資によって形成され、ストックを構成する。
生産物と生活費は、消費に結びついてフローを形成する。
生活は、生産物を消費する事で成り立っている。

資金は、収入と借金によって調達され、支出と貯金(貸出)によって放出される。
資金は、調達から放出の方向に流れる。

現代の経済は、労働を基礎としている。この点は、社会主義も共産主義も同じである。
基本原則は、働かざる者食うべからずである。
そして、労働に対する報酬はお金で支払われる。これが鉄則なのである。
問題となるのは、働かなくても贅沢な生活ができる人間やどんなに働いても生活できない人間がいる事である。
そして、不労所得は、生産手段の所有から発生する。
その事をどう捉えるかが、資本主義と社会主義、共産主義の根本的な違いとなるのである。
しかし、資本主義も、社会主義も共産主義も私的所有権には何らかの制約を設けるべきだと言う事に関しては一致している。

働いている者が生活できなくなる最大の原因は差別である。故に、いかにして差別をなくすかが問題となるのである。

貨幣は、物の価値や労働の価値を測るための手段である。その上で、生産物を人に分配する手段である。

貨幣の流れで基本となるのは、収入と支出である。
そして、前提は、収入と支出は対称的ではないという点である。
収入に対して支出が上回れば資金不足が生じ、収入が支出を上回れば余剰資金が生じる。
この過不足を補うのは、借金と貯金である。

貨幣的な要素から経済行為を見た場合、基本的に売買と貸借しかない。売りと買い、貸しと借りは、表裏を為す行為である。それ故に市場取引は均衡するのである。

収入と支出は売買と貸借によって対称化する。収入と支出の働きは、生産物と生産手段を売買、或いは、貸借する事で実現する。
期間損益主義では、収入と支出を単位期間に分解して、収益と費用を算出する。収益に対して費用に対応させて費用対効果を測定する。費用対効果は、資金の流れの働きに相当する。

国防、警察、消防を費用対効果で測定する事が難しい。
それ故に、公共事業が設定される。
公共事業は税金によって賄われる。

これが大前提である。

利益に対する間違った認識が、現在の経済をおかしくしているのである。
利益をどの様に定義し、設定するかによって市場経済は、まったく違った様相を呈する。
利益を利己主義的に捉え、肯定したり、否定したりするのはお門違いである。
利益は、設定の仕方で利己主義的な事にも個人主義的な事にも変わるのである。
そして、経済の目的を明らかにすれば、利益が目指す目標も定まるのである。
闇雲に利益を上げなければと言っても意味がないのである。
問題はどの様に利益を設定するかにある。
利益は所与の事象ではない。
利益こそ思想を代弁した事なのである。
どの様に利益を設定するのかは、思想の問題である。偶然の所産ではない。 利益の設定の仕方で資本主義も変質するのである。
そして、利益は、本来公共の福祉を目的として設定されるべき事なのである。
利益は、自由や平等、博愛を実現するための手段、指標なのである。





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