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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第4章  創造

 神は全一である。故に、無分別な存在である。無分別な存在には、善も悪も始まりも終わりもない。それに対し、自己は、魂を持つ。即ち、霊的存在である。霊的存在は、気と心を持つ。分別は、気と心から生じる、そして、意識は、分別によって形成される。人間の観念は、この意識の上に投影された神性の投影に過ぎない。
 分別によって形成された意識にとって、全一にして無分別なる神は、不可知な存在である。しかも、全一にして無分別な神を、意識が、捉えると無に等しくなる。また、分別によって形成される意識は、全一なるものを多様なるものに置換する事を意味するのである。それ故に、意識は、生じた瞬間から矛盾をはらんだ、不完全なものなのである。
 自己の存在は、本来、全一なる神の存在と一体なものである。それ故に、自己の意識は、全一なる神と一体になるための過程に成立しているに過ぎない。全ての関係は、最後に一対一の関係に帰結したとき完結する。多様なる愛は、唯一の愛に、多様なる価値観は、唯一の価値観に、多様なる神は、唯一の神に帰結した時、多様な意識は、唯一の意識に統合され、その結果、意識は、無に等しくなり、自己は、意識から開放されのである。博愛は、至上の愛に昇華された時、無上のものとして完結する。ドストエフスキーは「人間は、神によって全ての事が許されている。どの様な非道も許されている。しかし、許されていると知った人間は、非道な行いをしない。」といった。神と自己との間にはこの様な弁証法的な関係が成り立っているのである。
 創造は、神と自己との間にあるこの弁証法的関係の過程で生じる。言い替えれば、創造は、自己の意識と神の存在との間で為される業である。
 天地創造、それは、壮大なロマンである。天地創造の神話は、あらゆる宗教にある。科学もその例外ではない。ビックバン、それは宇宙の始まりだと科学者達は言う。科学を他の宗教と同列に語るつもりはないが、人間は、常に、万物の始まりに常に強い関心を持ってきた証拠である。確かに、今日、科学的な解明は他の哲学や宗教を凌駕している。ならば、科学は万能と言えるであろうか。科学も宇宙の始まりについて、新しい神話を生みだそうとしているのである。あたかも絶対的であるがごとく言われている科学の宇宙論も、仮説に過ぎないのである。謎は謎として今も残されている。科学者の間でも、多くの学説があり、現実には、何が真実なのか確証はないのである。いまだに、全ての始源それは深い謎に包まれている。
 天空の神話は、生まれたが、人の神話はまだ生まれていない。人間は一体何処からきたのか、そして何処へいくのか。死後の世界は存在するのか。生命の神秘は、さらにまだ、深い闇の中にある。
 世界の始まりには、一体何があり、そして、世界の終わりはあるのか。それは、時間の始まりと終りに対する問いかけや、人生の始まりと終りに対する問いかけでもある。一体、この様な問いかけに、どの様な意味があるのだろう。ただでさえ忙しい毎日を送っている多くの人々にとって、こんな事を考えるのは、暇人の道楽に過ぎないのかも知れない。物理学で扱われている単位の多くは、それが微少なものでも巨大なものでも、人間の一生や日常からおよそかけ離れた単位なのである。この様な単位が現実の日常生活のなかで問題なるのは、ごく僅かしかないのである。たとえ、それが話題になったとしても、現実の生活には、ほとんど、関係ないところでである。それ故に、科学的な意味で、万物の始源を解明したところで、人の一生に与える影響は、微々たるものである。結局そうなると、科学的な学説も一種の神話にすぎないのである。
 世界の創造は、神のみぞ知るなのである。しかし、人間は、想像力たくましく宇宙の始まりや、死後の世界に思いを巡らせるのである。そして、この想像力によってもたらされたものが、科学技術の発展を促し、まわりまわって、人々の生活に大きな影響力を持つようになってきたのである。始まりと終わりがあることは、人の生き方を左右することにもなるのである。不思議な事に、始まりと言うのは、ハッキリしないことが多い、しかし、終わりは、常に人間の念頭にあって人の歴史を動かし続けてきたのである。こう考えてみると、俺たちには、関係ないとばかりは、言っておれないのである。しかも、人間の精神世界に与える神話の影響は、計り知れない。熱狂的な人にとっては、それは、人生そのものなのである。また、神話や宗教は、文化の根源でもある。つまり、万物の創造神話は、人間活動の母体でもあるのである。
 人間の創造力を生み出す源は、人間の想像力である。人間の創造力のさらに源をたどると夢にたどり着く。そうなると、人間の創造の源泉は、夢だといえるかもしれない。夢を持つこと、それが人間の創造の始まりだともいえる。
 現代人は恐怖心を喪失しつつあるように思える。しかし、恐怖は現実に存在する。しかも、生病老死という恐怖の本質は、昔と何も変わっていないのである。ところが、現代人は、物質文明の発達や科学の発達によって、これら、古来から、繰り返しとい続けられた、根源的な問題も、解決してしまったように、錯覚しているらしい。だが、医学技術の発達した今日でも生病老死の問題は、解決していないのである。生を思う時、人は死に思いをはせる。いつの時代の権力者も、自分の思うようにできないのが、自分の死である。人は、死の前に、平等なのである。それ故に、古来から人は、死と向かい合うことによって自分の人生を考えたのである。死に対する恐怖は、世界の始源に対する疑問の対局にある終末に対する思いもなる。それ故に、死や終末に対する恐怖は、人間に宗教や哲学、文学をもたらしたのである。そして、人間の道徳の根本の動機にもなったのである。恐怖は、人間の創造力を刺激するのである。恐怖による創造力は、人間の生き方を厳しく規制してきた。それは、恐怖の功徳でもある。死は、神が与えたもうた厳然たる事実である。死という事実があるからこそ、人の一生にも現実性があるのである。死という現実を忘れた現代人にとって、生そのものの現実感も希薄になってきたのである。
 創造と破壊。生と死。光と闇。ヒンズー教の最高神の一つであるシバ神は、創造と破壊の神である。考えてみると創造と破壊は、一体である。創造は、常に、破壊を伴い。破壊は、常に、創造の母、創造の始まりである。生きとし生きるものは、常に、死と対峙しているように、創造は、常に破壊と向い合っている。このように、生と死、創造と破壊は、表裏一体のものなのである。そして、創造と破壊が一体であることは、光の裏側に闇の世界があるように、新たな世界や時代を創造しようとする影には、常に、既存の世界に対する破壊がともなう。即ち、新しい世界の創造は、既存の世界と新たに生まれ出ようとする世界との間に、激しい葛藤がある事を意味するのである。創造と破壊とが表裏一体のものならば、破壊と創造を分つものは、なんなのであろうか?一方でそれを創造といい。他方でそれを破壊という。ならば、闇を光りに変えるように、破壊を創造に変えるものは、はたしていったい、何なのだろうか?
 破壊を創造に変化させるの、それは意志である。つまり、我々がこれから為そうとしている事業が、創造的なものになるか、破壊的なものになるかは、我々の意志によって違ってくるのである。この事は、翻って考えてみると、自分の人生を創造的なものとするか、破滅的なものにするかは、その人自身の意志によって左右されてしまうのである。どの様に恵まれた環境に育とうと自分のおかれた環境を呪い、自堕落な生活をすれば、その人の人生は破滅的なものとなるであろうし、どの様な逆境に置かれても、前向きに取り組めばいつかは、人生を切り開くことができるであろう。幸せか否かは、その人の心持ちによって決まるのである。これからの時代は、意志の時代である。これからの時代を切り開くのは、我々の意志である。破滅的な人生とは、自らが自滅していくことなのである。人類は今まさに、次の時代を創造的なものとするか、破壊的なものにするかの分岐点に立たされている。そして、それを決定するのは、私達の意志なのである。
 人間は自分に与えられた運命を素直に受け入れていくことに少なからず抵抗を感じるものらしい。自分が目に見えないものに操られていると考えるのが気色悪いからなのであろう。その証拠に神と人間との葛藤や運命に対する抵抗は文学や芸術の古典的なテーマである。運命に従う事は、人間が得たいのしれない何者かに支配されることを意味していると受け取りがちである。しかし、それは思い過ごしにすぎない。人間の運命は、与えられているのであって決められているのではない。そして、神から与えられたものを受け入れることは、諦めを意味するのではない。寧ろ希望を意味するのである。
 現代人が、機械によって取り囲まれた生活を送るようになって、最近、多くの人が、よく「私は、電算機に使われるのはいやだ。」「機械の奴隷になりたくない。」と、主張するのを耳にするようになった。しかし、電子計算機は道具に過ぎないのである。人を使ったり、支配することなどできないのである。もし仮に、その様な事実があるとしたら、それは、その機械の背後にいる人間がそうしているのである。道具である機械が、自分の意志で、人を支配することなどできはしないのである。道具である機械を問題にする以前にそれを操っている人間を問題とすべきなのである。そして、我々が電子計算機を道具として受け入れたとき、我々の可能性は飛躍的に高まるのである。可能生こそ希望の泉である。創造の原動力を支えているのは人間の意志である。自分達の一生を絶望的な気持ちで生きていくか、希望をもって生きていくかは、自分の意志によって決まるのである。そして、人間は神から与えられたものを利用し、活用することによってのみ何ものかを創造することができるのである。人間は、神にはなれない。たとえどれほど抵抗しようとまた拒絶しようと、人間は、自分の運命から逃れる事はできないのである。自分の人生を呪っているかぎり何ものも創造することはできない。ならば、人間が創造的に生きるためには、自分に与えられたものを素直に受け入れそこから前向きにそれを生かそうと努力する以外にはないのである。自分に与えられたものに感謝し、真摯な気持ちで受け入れることから全ての創造は、始まるのである。そして、それが、科学である。
 創造とは過程である。自分に与えられた能力は、完成されたものではない。不断の努力によって発揮され、完成されていくものである。真の美は与えられたものではなく、創造していくものである。つまり、そこに可能性があるのである。可能性は完成された美ではないのである。我々に与えられてものは素材なのである。そこに創造の可能性がある。人は歳をとり、絶え間なく変化をしている。若さに奢り、心身ともに自分を磨き続けることを怠れば、人間の成長は止まり、醜く老いさらばえていくのである。美しく歳を取ることは難しい。しかし、歳を重ねるに連れて世俗の垢がとれ、苦労によって磨かれて美しく変身していく人々も多くいるのを忘れてはならない。虚飾を脱ぎ捨てれば、修羅の炎が我とわが身にまとわりつく夾雑物を焼き尽くし、人の魂を純化する。そのために、常に、未来に希望を持ち、前向きに生きていく必要があるのである。だからこそ、人は、絶望をせずに、赤裸々に自己と自身に対峙し、希望をもって生きていかなければならないのである。そして、それは同時に、自分自身に正直に生きていくことを意味するのである。
 人の一生も過程である。舞台や小説、映画には、結末があるが、人生には、生きているかぎり結末はない。栄光は、一瞬の幻に過ぎない。人が地位を得るのは、偉くなることが目的なのではなく、何を成就せんとしているかが一番の問題であり、目的なのだ。栄光は、かえって人を臆病にする。そして、事を成就した後、土海を処していくかによって人は、評価されるのである。それ故に、大切なのは、手に入れた栄光に溺れずに未来に向かって常に、心を新鮮にしている事である。歴史も、また、過程である。革命によって築いた政権も政権を奪取した時からが始まりなのであり、終わりではない。
 人間の運命は、生まれる以前からどうしようもなく決っているのか。それとも人間は、全ては曖昧で不確かなものであり、全ての事を生み出していかなければならないのか。決定論と非決定論の論争は科学のみではない。寧ろ、どの様な宗教にも哲学にも決定論、非決定論の論争はあるといっても過言ではない。それは、ある時は、運命論の形をとる場合もあり、また、神の問題の形をとることもある。それは、自分の人生が動かすことのできないものであるか否かの論争でもある。そして、この世の全ての事が予め定められているのか、それともまったく定められていないのかの議論である。私は、この様な議論にどれだけの意味があるのか疑問に思う。
 自分の生まれる以前から自分の定めは決っており、逃れることができないとしたら、人間は、なんと無力なものなのか。逆に、何も定めがないとしたら、一体何を信じれて生きていけばいいのであろう。いずれにせよ、なんと悲観的で投げやりな考え方ではないか。確かに、人は、自分の親を選ぶことはできない。だからといって人間は、自らの一生を選ぶことができないわけではない。確かに、自分の一生は予めに定まっているのかもしれない。しかし、その事を知ることができるであろうか。たとえ予め定まっていようと、知ることができなければ、定まっていないのと同じ事ではないか。確かに、人は死すべき定めなのかもしれない。限りある人生だからこそむしろ人間は多くの可能性を秘めているのである。だから、私は、物事全てが決定的であるか否かは、相対的なものであり、決定論、非決定論の議論はいずれも極論だと思う。明らかなことと明かでないことは、たしかに両方ともあるのである。肝心なことは、何が明らかで、何が明らかではないかである。全てが決っているとか、何も解らないと決めつけ、安易な人生を送ってはならないということである。あるがままの人生を、ただ、受け入れるだけで、仕方がないと諦めていく事は、自分の人生を最初から否定してしまうことであり、反対に、現実を直視せず、ありもしない、出来もしない妄想の中で、世の中を呪い続けることは、自滅的なことなのである。故に、物事を創造的にとらえるためには、何が決定的であり、何が決定的でないかを見極めることこそが肝心なのである。
 美しさというものは、美しくなろうとする努力の中に秘められているのだと思う。自分が綺麗だという自惚れでも、また、どうせ自分は綺麗になれっこないのだという諦めでもない。だから、人を美しくするのは夢である。自分が綺麗になりたいとしたら、先ず自分をよく知ることである。それもあるがままの自分の姿をである。自分をごまかしたり、偽ってはいけない。また、自分に絶望してもいけない。自分を直視することである。自分を直視したとき、自分の厭な面に気が付くかも知れないが、同時に自分のいい面にも気が付くであろう。そして、ただ外面の姿ばかりに目を奪われることなく、内面の美しさをも磨くべきなのである。長所を伸ばし欠点を補うことによって人間は成長するのである。自分の長所を伸ばし、自分の欠点や短所を補うためにも本当の自分の姿を知らなければならないのである。人間の成長は創造的な生き方によって促されるのである。大切なのは自分に与えられた境遇を呪うことでも、また、今の自分に満足をして、怠惰な生活を送ることでもなく、自分を知り、自分を生かすことを前向きに考えることである。生まれつき不治の病に冒されている子供もいれば、あらゆる事に恵まれている人もいる。しかし、その人の人生が有意義なものであるか否かは、その人が如何に生きたかによって決まるのである。時間は残酷である。人から若さや情熱、純粋さを奪いさっていく。絶え間なく、自分をしっかりと掴んでいないと、気が付いてみたら、いつのまにか自分が望まないところへと押し流していってしまう。だからこそ人は、自分を正しく知ることが大切なのである。
 人間にとって劣等感は、必ずしもマイナスに作用するものとは限らない。問題なのは劣等感に負けてしまうことである。人間にとって一見否定的に思えることでもそれを克服すればかえって大変な力になることもある。人間にとって必要な知識の中には経験しなければ解らないことも多くある。人の苦しみや哀しみは同じ様な体験を経験した人間でないとなかなか理解できないものである。挫折や屈辱感の苦さを知らないものは、人生の味わいや深みを知らないであろう。自分の痛みを知らないものは、人の痛みを理解することはできない。苦しみや哀しみ、寂しさは経験しないかぎり解らないであろう。暑さ、寒さにしてもそうである。失恋の痛みに耐えて、人は大人になる。いろいろな体験が人を成長させ、諸々の経験が、人に愛情や生命に対する畏敬心を目覚めさせるのである。恨みや憎しみですらそれを克服し、前向きな力にすることができれば人生の肥しにすることができるのである。苦しみ悩み、そして、人は何かを掴み取ることができるのである。創造の歓びは、そうした経験の積み重ねの上にあるのである。そして、苦しみや哀しみに耐えて人間に生きる勇気を与えるのは、創造に対する意志なのである。
 創造とは苦しいものである。それは、陣痛に似ている。全力を出そうとするときは、全身に力を漲らせ、顔面を紅潮させる。その表情は苦悶しているようである。苦しみや辛さは、破壊の前兆でもあれば創造の前兆でもある。自分の持てる力全てを出し切ったとき、何かが生まれるのである。逃げ出したくなるほど辛く苦しい、それでも、創造は素晴らしいのである。苦しみや辛さから逃げだしたとき、我々はね創造からも遠ざかることになるのである。しかもそのうえ、苦しみや辛さからは逃れられないのである。創造の歓びを知った時、苦しみを喜びに変えることができるのである。
 創造とは、道程である。過程である。一つ一つの努力の積み重ねである。決められたことを決められた通りすることではない。自分に与えられたものを上手に利用してそれまでにないことを生み出すことである。自分自身との葛藤を通して自分の限界を克服していこうとする努力に他ならないのである。どの様な道にらも過程があり、その過程や手順を飛ばして発展することはできない。ローマは一日にして成らずというように、志しが高く、事業が大きいほど根気強く努力を続ける必要があるのである。創造は、単純で退屈な日常生活の中で苦悩し、懊悩し、それに耐え抜く事によって生み出されるものである。
 対象の持つ意味や理念、概念は、対象を認識していく過程で与えられる。それは、丁度、白紙のキャンバスに絵を描いていくのと同じである。対象そのものに意味があるのではなく、意味は、人間が創造したものである。それ故に、全ての意味や理念、概念は相対的なのである。また、起こりえない現象はないという者がいるが、そうではない。人間は、この世の全てをいまだに理解したわけではなく。そのために、認識を越えた現象を否定しきれないのである。
 創造の喜びは、楽をして得られものではない。その喜びは、断片的なものでも、部分的なものでもなく、一つの過程によってもたらされるのである。創造は山登りのようなものである。一歩一歩山を登るように目的に近付き、それを達成することによって喜びはもたらされるのである。苦しみや悩み、退屈に耐えてある一つの過程をやり抜く事である。安直な労働には、安直な喜びしか得られないのである。流れ作業の単調さがいやだといいながら、一つの過程に付きまとう努力の積み重ねを無視するのは、ただ怠惰なだけである。現代人は、テレビや映画の、運輸通信設備の発展よっていくつかの過程を省いても目的地にたどり着くことができる。子供達は何の努力をしなくても美味しいものや欲しいもの、楽しいことを手にいれることができる。しかし、それは疑似体験であって真の創造の喜びを知ったことではないのである。創造の喜びは、自分の努力によってかち取るから価値があるのである。前置きが長いのはいやだというがそれなりの内容を持った小説は、それだけの基盤を必要としているのである。推理小説を結末から読んだならば面白くなくなってしまう。結論や結果だけを知ろうとする者は、結局、結論や結果を理解することはできない。努力もせずに自分の都合のいいところだけを取ろうとしてもうまくいまものではない。建物を建造する場合でも基礎工事が必要なように、どの様な理論でも、科学でも、技術でもそれなりの地盤が必要なのである。努力をせずに創造の喜びを知ろうというのは無理である。単調で退屈な作業の延長線上に真の喜びがあるのである。
 創造には破壊が伴うものである。特に新しい体制や時代を生み出すときには、古い世代や体制とそれを更新していこうとする新しい体制や世代が攻めぎ合い激しい苦痛を伴うことが多いものである。それは古い体制が滅びさっていくときの断末魔の叫びなのである。それが革命である。故に、革命に破壊は伴うが、それを創造に結び付けようとする意志が、なければならないのである。その為に、革命には必ず建設的、創造的な実体が存在しなければならないのである。そして、革命家には、創造に対する献身的な姿勢が必要なのである。革命に建設的な姿勢や献身的な態度がなければ、悲惨な事態を巻き起こすことになるのである。
 革命は、現実である。革命はレッテルによって決まるのではない。革新、革新とお題目を何萬遍唱えたところで、革新性も斬新さも、つまりは、創造性がなければそれは革命勢力たりえないのである。現実に対する洞察力もなく、未来に対する確信もないまま、ただ、現実の矛盾のみに目を奪われ、物事の本質を見ないで破壊のかぎりを尽くすことは革命ではない。暴虐に過ぎないのである。
 この様な革命を支える思想にせよ、科学にせよ長い風雪の中で磨かれ、風化され、淘汰されることによってはじめて完成するのである。反体制のどうのといっても百年一日のごとく同じ事を繰り返すだけでは、激動の時代を切り開くことはできない。思想そのものが時代と戦い、批判や反論によって鍛え上げられなければならないのである。一個人の身勝手や独善、都合によって新しい時代は開かれるものではないのである。時代をつき動かす力は時代の流れであり、勢いなのであり、人民大衆の力なのである。その勢いや流れに逆らえばどの様な勢力も押し流されてしまう。要は、その流れを正しい方向に導くことである。そして、思想や哲学はその流れや勢いを導いているにすぎないのである。
 民主主義を成就するために多くの殉教者が生まれた。そして、今日も彼らの尊い血が流され続けているのである。人民の意志が正しく反映されることのない国家は、それが存在する大義がない。なぜならば国家は人民のものであり、国家権力は人民が与えるものだからである。つまり、国家権力の正統的継承者は、人民の代表でなければならないのである。
 正統性を失った権力は堕落する。人民の声が権力の中枢に届かない限り、人民の意志は国家の政治に反映されることはない。人民の声は、神の声である。それ故に、言論の自由は神聖なものである。人民の心を知ることのない権力者は、必ず人民を暴虐と圧政を持って弾圧をする。
 国家体制は肉体である。国家体制に、心や魂、意志を持たせるのは、国民であり、為政者である。国家体制は、為政者が人民の意志を正しく反映した時、聖なる魂が宿る。国民の意志を正しく反映できない体制は、それ故に悪である。国家が、人民の意志を代表している限り、国家体制は、神の肉体であり、神聖なものである。国家は、その体制を支配する為政者が、人民の意志から遊離し、人民の意志を踏みにじった時に、邪悪な魂が宿り、悪魔と化すのである。つまり、邪悪な者が為政者になることのできない体制、また、たとえ邪悪な者が為政者となってもこれを代えることのできる体制こそが正当的な体制なのである。故に、民主主義的な体制こそが、正当的な体制なのである。民主主義国家にとって民主主義の大義を護ることは、神聖な行為なのである。
 民主主義が血塗られた歴史によって生まれるのは、権力者が権力を人民の正統的な継承者に後継する手続きを持たないことによるのである。そのために、権力の正統的な継承者達は、簒奪者達によってかえって弾圧を受け、暴虐への生贄とされるのである。そのために、民主主義的体制を生み出そうとしたとき、多くの場合、正当的な手続きに代わって、暴力的な手段が用いられるのである。しかし、それは、二度と人民の血が不当に流される事のないようにする為に流される血なのである。聖なるものは、人民の意志であり、神の魂は、人民の意志を正しく反映できることのできる体制に宿る。それ故に、殉教者達の血は、革命の大義によって報われるのである。故に、我々が、平和的に正統的な手段で後継者を選ぶ事ができず、そのうえ人民の意志を暴力をもって圧殺しようとする体制に対し武力を持って対決するのは、神の意志なのである。そして、それは邪悪なる体制と戦い、二度と神の肉体を人民の血で汚し、聖なる者の名の下に暴虐が行われないようにするためにである。
 創造は、危機感からも生まれる。誘惑は、人間から創造力を奪い堕落させる。自己の存在を否定し、また、堕落させていこうとする者達は、誘惑や恐怖によって人間から創造力を奪い取ろうとする。確かに、追い詰められ、恐怖心にかられると人は、冷静さや思考力を失うものだ。しかし、神の力は、混乱しきった頭の中にさえ創造力を与える。それは、魂の叫びである。恐怖心や誘惑と戦わなければならない。自己の主体性を破壊し、我を隷属させようとする力と自己の存亡を賭けて戦わなければならない。しかも、その力は、外から加えられものばかりではない。内と外から誘惑と恐怖となって、我々を、支配しようとしているのである。誘惑と恐怖との葛藤の中から真の創造はもたらされるのである。その故に、創造は、猛々しいものなのである。
 人間は危機に瀕すると萎縮するものである。また、同時に危機をはね除けようとする内面の力も作用するのである。外側からくる圧力と内面の反発力との葛藤が、創造力の原動力となる。人が限界に挑戦し、なにものかを創造していこうと決意した時、自分の精神を一定の状態に保つためには、過度の緊張と集中力を強いられものである。そして、その緊張と集中力に耐えることによって創造的な意志は育まれるのである。創造は、日々の地道な努力の上に成り立っている。創造を支える自由な意志は、緊張と集中力のなかで研ぎすまされる。人間が、創造的な努力から逃げ出すとしたら、それは、単調さや単純さに耐えられないのではない。自分の意志を持続するための緊張と集中力に耐えられないのである。
 人間は、創造的であるべきである。創造的で建設的でありさえすれば人類は、争い事を防ぎ、解決することができるのである。逆に創造や建設に対する情熱を人間が失えば全ての改革も変革も破壊の為の破壊になってしまうであろう。どの様な体制や宗教を支える思想でも、思想という思想は、結局、人間一人一人の観念の反射鏡に過ぎないのである。人間は、他者の思想を批判することを通して、自己を知り、より深化して自己の思想としていくのである。それ故に、哲学や思想をすることを教えることはできても、哲学や思想の本質を言葉だけで伝えることはできないのである。一般に思想や哲学は、自己の経験と観念によって形成されるものである。いかに他者の思想を批判したり、また逆に、傾倒したとしても、所詮、自分以外の思想や哲学を一旦受け入れるてしまえばその人自身のものとなり、自己の生きざまを反映したものに過ぎなくなるのである。だから、人の考えに腹を立てるのは、自分を理解できない相手に腹を立て、相手を理解できない自分の不甲斐なさに腹を立てているのと同じなのである。それは、論理的な対立ではなく、自分が何を自明なこととして信じているかの問題であり、非論理的なものである。それ故に、思想的対立は理性的なものではなく、感情的なものなのである。感情的な対立だからこそ解消するのが困難なのである。仮に、理性的な対立ならば、合理的に解決されるものである。それ故に、思想や宗教的な対立というのは厄介なのである。一見論理的な対立に思える宗教や哲学、思想の対立は、実は自我と自我の対立であり、非論理的なものである。しかもそれが、教条的で硬直的なものとなると妥協することがますますできなくなってしまうのである。また、宗教や思想の正当的な継承者として一つの教団を維持しようとする場合その傾向は高くなる。つまり、宗教や思想が世俗化するとその論点が皮相化し、陳腐化して現世利益的な即物的にものに変質してしまうからである。それ故に、絶対的な聖書や教典を持たず常に、それを批判し、現実の中で実証しながら磨き続けることが大切なのである。そのためには、常に創造的な精神を忘れてはならないのである。真の批判とは、自分にとっても相手にとっても有意義であり、建設的なものであるはずなのである。
 仮に、死後の世界や神が存在するからといって自分の生きざまにどれほどの影響があるというのだろう。それを知ることによって自分の生きざまが変わるとしたらそれまでの自分を否定することになってしまう。大切のは自分が常に最善を尽くすことである。その時その時に最善の生き方をしているものがなぜ死後や神を恐れる必要があるのであろう。神は、イエスの神がそうであるように慈悲深く人の過ちに寛容なものである。結局、死後の世界や神を恐れるのは自分の影におびえている事なのである。人生の岐路に立たされ自分の信念が試されているのに、信念に基づいた決断のできない最大の理由は、自分に対する恐れである。もし、人間にとって死が必定ならばなぜ人間は、自分の感情や信念に対し純粋になれないのであろう。もし自分が救われたいと思うのならば、自己の魂をその瞬間主観に純化していくことである。自分自身に徹すること、それが、真の救いである。そのためにはまず、自分自身に求めよ、自己が、全ての創造の源泉なのだからである。
 誰もが不可能だといっていることは、少なくとも挑戦するだけの価値があるであろう。多くの人々は科学に対して幻想をいだいている。近代以前の人間の誰が空を飛べると考えたであろう。誰が人間が月にいけるなどと考えたであろう。それは夢物語では信じたかもしれないが、本当に実現できるなんて誰も思ってはいなかっただろう。しかし、それを達成してしまえばそれは事実となり、陳腐化してしまう。万民が万民、不可能だといった。皆が皆できないと考えることに挑戦し、可能性を見いだすから冒険であり、挑戦なのである。何もかも全てが科学によって解明されていると・・・。それは、錯覚に過ぎない。科学を学ぶと解るが、探究すれば探究するほど、科学によって解明されたことの少なさに愕然とするのである。まだまだ宇宙は神秘に包まれ、生命は謎だらけなのである。矛盾を解決するのは、人間の努力に他ならないのである。新しい時代は未知な世界である。その未知なものを明らかにし、不可能を可能とした時、未来は開かれるのである。そして、未知な世界を明らかにし、不可能を可能とするのは、人間の夢である。人間の夢は、想像力から生まれる。即ち、想像力は、創造力の源泉なのである。
 生きるということは切ないことである。切ないが故に、人は夢を見るのである。創造を夢想するのである。夢は、創造の源泉である。しかも、夢は誰でも持てる。夢が創造につながるか否かは、勇気の問題である。夢にも二種類ある。出来もせぬ事を現実から逃避せんがために見る夢想家のみる夢と、未知なものに対する探究心や、自分の信念や理想に対する情熱に基づいて広大な構想を描く事業家のみる夢である。二つの夢はよくにているがまったく異質な夢である。それは、夢を見るものが勇気を持っているか否かの違いなのである。我々に必要なことはほんの少しの勇気である。人を信じる勇気、決断を下す勇気、人を愛し許す勇気、現実を直視する勇気、自分の過ちを認める勇気、孤独に耐える勇気、真実を主張する勇気、それだけの勇気があれば、自分を見失うことはないのである。そして、その勇気は、人に逆らったり、対立を引き起こしたりする勇気より、余程小さい勇気ですむのである。それなのに、人は、自分の見栄や意地で決断をするだけの勇気が持てず、かえって自分の身を危うくしてしまうのである。ほんの少しの勇気があれば、決断することができれば、必要以上に苦しまなくとも、また、臆病な為に払わされる代償や犠牲に比べて小さな代償や犠牲で済むのである。現代人は、欲望の為に命を捨てることはできても、正義の為に命を捨てることは愚かしいことだと思いはじめているようである。
現実と虚構。人は、自分の身の周りに起こっていることのみを、現実だと思っている。そして、現実は、普遍的なものだと錯覚している人が多い。この現実はいつまで続くと言うのだろう。そうぼやき続けている人が多くいる。若い人は、若さ故に時間のたつのを忘れてしまう。一寸先は、闇だ。時間は、残酷である。いつの間にか、年をとり衰えていく自分に気が付く。そして、その時は遅いのである。現実と虚構。それは、人によっては、正反対なものであり、ある日、突然、裏返ってしまう事がある。さなぎが蝶に変身するように、不幸な現実が幸福なものになることもあれば、エデンの園を追い出されたアダムとイブのように、幸福な現実が不幸なものになることもある。栄光と挫折は、紙一重の差に過ぎない。成功と失敗は、表裏一体のものである。
 人生は、創造の旅である。創造には、破壊がつきものである。禍福は、糾える縄のごとし。目まぐるしく、反転を続ける現実と虚構の中で、人は、生きているのである。生きている過程で、人は、多くのものを失い、捨て去り、忘れていくのである。人は、真実と嘘との間で葛藤し、相克を続け、自分の人生を創造していくのである。聖人と呼ばれる人々の言葉がそらぞらしくなり空疎なものになりがちなのは、その人達の言葉が完全無欠、完璧なものとなり、創造の過程が失われてしまうからである。創造は陣痛である。創造の背後にある真実を知ることによって我々は、表面に現れたことの正しい意味を知ることができるのである。
 人間、いかに生きるべきか・・・。人の一生も人の歴史も創造の旅である。それ故に、人の一生は、周囲との葛藤と自分との戦いの連続であり、人の歴史も破壊と諍いの連続である。人が生きると言うことは、自分の人生を命賭けて創造していくことである。歴史は創られるものであり、歴史が創造されることにともなって旧きものが破壊されていくのである。人は、老い死すべき宿命を追っている。若き肉体は、老いさらばえ、やがて死んでいく。生と死は、創造と破壊を象徴的に物語っている。人生は、絶え間なく、自らを研鑚し、新たな人生を創造していかないかぎり、ただ、老いと死を待つばかりなものにすぎないのである。幼年、思春期、青春は、若さ故に輝いている。しかし、年老いた者は、その身の内から輝く力を蓄えた者だけにしか、輝きは与えられないのである。人間いかに生きるべきか・・・。若者よ、疾く自らに問え。時は、残酷なものである。大切なものは、失ってから気が付いても遅い。しかし、失ってはじめて気が付くのも大切なものである。時は、過ぎ去り。力は、衰え。気力も続かなくなる。限りある人生の中で、選ぶことのできる時と事は限られている。ただ、黙って時が通り過ぎていくままに任せれば、得るものは少なく、失うものの方が大きい。忘却は、新鮮に記憶の素である。しかし、新しいものに朝鮮をしない限り、ただ記憶は失われていくだけである。無為に過ごした時は、取り返す事ができないのである。
 歴史は、絶え間ない破壊と荒廃の中から、蘇る。破壊を恐れては、創造はできない。しかし、創造のない破壊の行き着く先は、滅亡である。燃え盛る炎の中から蘇る不死鳥のように再生力がなければ、残されるものは、ただ灰のみなのである。
 子供の新鮮な想像力を奪い取るものは、大人達のつまらない確信である。全知全能の神のように、この世の全ての事を、知り尽くしているような、大人達の態度は、子供達の健全な好奇心を、著しく傷つけている。科学を生み育ててきたものは、子供のような純真な好奇心である。その事は、科学を発展させてきた著名な科学者ほど口にしていることである。自然の神秘に素直に感動をし、畏敬するような素直な感性が、科学を発展させてきたのである。俺は、何でも知っているといった奢り高ぶった気持ちからは、何も生まれはしない。創造において大切なのは、みずみずしい感性である。頑な硬直した心では、新しいものを創造することはできない。しなやかで素直な心が、創造力の源なのである。かといって、何でも疑ってかかれといった様な教条主義的な教え方は、かえって、素直な心を育てる阻害になる。想像力をかき立てるものは、子供が単純に抱いた、好奇心の成長する方向を正しく導くことなのである。
 人が、一生懸命生きているのを見ると、滑稽に見えるものだ。また、見ようによっては、悲劇にも喜劇にも見える。しかし、一生懸命に生きている人間にとって、人の一生は、滑稽でも、悲劇でも、喜劇でもない。人は、切ないものだ。人の生き方を滑稽だといってしまえばそれまでである。たとえ、滑稽に見えるようなことでも、一生懸命に生きているから救われるのである。また、一生懸命頑張るから、他人の切なさも理解できるのである。他人の切なさが解るから、理解し合うことができるのである。理解し合うことができれば、はじめて通じるのである。創造とは、そんな切ないことなのである。
 日本人は、哲学や経済を勉強しているというとすぐに、学者にでもなればという。元々、哲学や経済は、俗ぽいものである。大学や研究室という隔離された社会の中で独創的な哲学や経済学が、生まれると錯覚しているのは、日本人だけのように思える。その結果、常識の解らない経済学者や、先の読めない歴史学者、外交の解らない、または、思想のない政治学者、子供を知らない教育学者などを大量な生み出すことになるのである。科学や哲学を生み出すのは、新鮮な感動や好奇心、世の中の矛盾に対する義憤と言った感性である。その様な感動や好奇心は、最初から書物から得られるものではない。子供のような感性が文明や文化を生み出す源なのである。その様な感性は、決して狭い教室や研究室からは育ってこない。普段、子供が接している世界が、メディアによって作られた虚構の世界であれば子供達の感性も虚構となる。また、受験戦争のようにありとあらゆる情緒、情操を無視した環境からも生まれはしない。日常的に接している事柄の中にこそ、子供達の感性を育むものが、隠されているのである。現代社会は、観念が生み出した虚構の世界に取り囲まれている。その結果、事実が虚構となり、虚構が真実となる。それを増長させているのは、科学教の司祭達なのである。
 創造の本質は、俗っぽいものである。実践は、超俗的なものである。世俗的な概念を洗練することによって生み出された理論を実体化したり、実現しようとした場合、それは、超俗的な手段を用いる事が多い。それは、理念を実現しようとした場合、それまでの常識だけに頼っていたら実現が困難だからである。このように、創造的なものは、我々の日常生活の中で育まれる。しかし、それを世の中に実現しようとするば、革命的な手段を用いなければならないのである。結局、人間が志しを持つきっかけなんて、調べてみれば身近なつまらないことばかりである。但し、それを成就する為には、常人を越える努力が必要なのである。温故知新。創造と破壊が、常に、表裏を為すのは、世俗的なものと超俗的なものが、実は、このように、裏表の関係にあるのと関連しているのである。この世の事の出来事は、糾われる縄のようなものである。科学的な合理的精神も、実は、その根本は、神秘主義なのである。合理主義と神秘主義が絡み合って築き上げたのが近代科学なのである。神秘主義的な感性が動機となり、合理的な精神が、科学を育んだのである。
 近代科学は、人々から創造性を奪おうとしている。それは、近代科学が、その根本に持っている神秘性を、あたかも否定しているように、錯覚している人々が、多く存在しているからである。科学は、矛盾を常に内包している。科学は、本来、仮説の学である。つまり、仮説と仮説の葛藤の中からその信憑性を立証することによって成り立っているのである。故に、科学は、お互いに矛盾した仮説の存在を認めるところから出発しているのである。その意味で科学は、むしろ、矛盾の学だといっても差し支えないのである。その上に、科学は、もともと神秘の探究を目的としているのである。つまり、科学は、本質的に神秘的なものなのである。
 論理的な矛盾と科学的な矛盾とは違う。確かに、科学は、論理的無矛盾性を重視する。しかし、だからといって科学が無矛盾かというとそうではない。観念は意識の所産である。それ故に、科学は、相対的なものである。相対的な観念とは、相対立した概念や比較概念によって成り立っている。右があるから左があり、善があるから悪がある。左がない絶対的な右というものは存在せず。同様に絶対的な善も存在しない。この様な相対的な概念は、当然矛盾したものである。むしろ、矛盾することによって成立しているのである。故に、科学も矛盾しているのである。科学が論理的無矛盾性を追求するのは、もともと科学が矛盾したものだからである。論理的な無矛盾性によって仮説の信憑性を検証しようとしたのである。ところが、論理的な無矛盾性と科学の無矛盾性が混同されて、科学を無矛盾なものとして思い込み、その結果、科学絶対神話が生まれたのである。
 科学絶対神話が行き過ぎた時、科学の神秘性は失われた。そして、科学の神秘性が失われた時、科学は、人間から創造力を奪い去ってしまったのである。近代の芸術は、より観念的で抽象的なものとなり、合理性や機能性のみを追求することになる。都市計画は、あくまでも、鋭角的で無機質なものが追求され、合理と機能が全てに優先されたものになってしまっている。その無機的な合理主義近代哲学の根を枯らしてしまっている。近代文明は、不毛の砂漠のようになりつつある。近代文明を侵す芽は、自然科学が本来その根本としている自然そのものを破壊してしまっているのである。信者が、神を冒涜する、そのおきえない事態がいま現実のものとなっているのである。
 人間が科学を探究し始めた頃、人々は、夜空に広がる満天の星に自分達のロマンを求めていた。また、未知の世界に対する限りない冒険心があった。自然の神秘という言葉が、大自然に対する畏敬の念とともに語られてもいた。古代も考古学とともに神秘に満ちていた。そこから生まれた芸術は、生命の躍動、すなわち、エロスに漲っていた。科学絶対神話以前の神話は、このように、謎や夢に満ちていた。そして、探究心や冒険心が人にいろいろな夢を与えていたのである。科学絶対神話は、これらを虚しいものとし、また、未知なるものも既知なるものに見せかけ、神に代わって科学を全知全能、万能なものとしてしまった。しかも、この新しい神は、人間の新鮮な慣性や情緒をあざ笑っているのである。科学という神殿を護る司祭達は、論理的でないもの全てを退けようとしている。しかし、科学は、元来、神秘を探究することを、目的とした学問である。かつての宗教が教典や儀式を重んじて本尊である神をないがしろにしたように、科学は、その本尊である自然の神秘をないがしろにしようとしている。それは、神を否定する事が、信仰そのものを否定するのと同様、科学が、自然の神秘を否定することは、科学それ自体を否定することなのである。
 繁栄の蔭に危機は潜み、平和の裏に戦争は隠れている。しかし、繁栄に酔う時に人は、奢り。平和なときにはそれが当り前だと思い込む。人間の意識は、この世のものをバラバラに打ち砕いてしまった。意識によって打ち砕かれたものが一つにならない限り、この世に真の平和はこない。地球は、一つである。それをバラバラに打ち砕いたのは人間の意識である。全一なるものに、善も悪も生も死もない。国も宗教も民族もない。あるのは、ただ、今、存在しているものだけだ。そして、至上の愛と唯一の信仰である。自己がこの全一なるものと一体になった時、バラバラに打ち砕かれたこの世も、唯一なものとなり、真の安心立命の境地に達する。
 これは長い陣痛である。生まれるということは糞尿にまみれ、血の中からはい出る事なのである。人間が、全一なるものと一体となり、真の世界を生み出すための陣痛である。自己は、全一なるものと一体となった時、本当の意味で創造的になれる。意識が人を臆病にし、疑り深くしたとしても、その意識の底深いところに全一なるものは存在する。なぜなら、全一なるものと、自己とは、一体だからである。それ故に、どの様な意識の産物も、全一なるものを損なうことはできない。全一なるものと一体になるためには、あらゆるこだわりや執着心、よこしまなる思いを捨て、偏見や妄想にとらわれず、ただ、一心に、あるがままの自分を受け入れ、我を生かすものに感謝する心を失わないことである。自己の意識が全一なるものと一体になった時、人を分け隔てている意識は、霧散し、真実の目が開き、全き意識が完成する。完成された全き意識、無に等しい。その時、一切の執着心や偏見から開放され、人は、創造的な意志、創造的に人生を自分のものとすることができるのである。それは、博く愛する心から、一つの愛へと凝縮することでもあるのである。つまり、遍歴の旅か安住の地に落ち着くのである。神が約束された地とは、意識の奥底にある全一で普遍的な世界にあるのである。
 花薫春。眠気を誘う春の日差し。真夏の蝉時雨。息苦しくなるような夏草の草いきれ。花火。夏祭り。秋祭り。潮騒。潮風。秋の爽やかな風。秋を告げる虫の音。山を染める鮮やかな紅葉。雪の降る音。薪の燃える音。除夜の鐘の音。師走の足音。肌を指す冬の寒さ。微かな母の温もり。子供の頃の思い出は、人生における心の古里である。思い出には、本来、味も香りも音も温もりや肌触りすらある。そして、人の感性は、人間の六感に直結している。六感によって人の感性は育まれる。現代社会は、子供達から感性を育てる機会を奪っている。言葉と映像から作られた無味乾燥な世界から何が生まれると言うのだろう。親から子へ、子から孫へと話し伝えられた昔話には、非科学的であったとしても文化の芽がある。テレビや映画でみた世界には、味も香りもない。痛みも苦しさもない。どうやって人の哀しみや心の痛みを教えたらいいのだろう。機械仕掛の虫達には、生命の持つ躍動はない。愛玩動物には野生の持つ猛々しさはない。本当に子供達は、真実を知っているといえるだろうか。しかし、子供達は、世の中の全てを知っているつもりになってしまう。これでは、新鮮で若々しい感性が育まれるはずがない。結局、世の中をなめきって諦観してしまった小さな老人ばかりを生み出してしまっているのである。
 自分の人生を大切にしよう。人間にとって人生は、一筋の道なのである。一つしかない人生をいかに充実して生きていくかが肝心なのである。こんな人生とか、他人の人生を羨んだところで仕方がない。結局、人は、自分の人生を信じるいがいにないのである。確かに、言語を絶する境遇の中で育ち、生まれながらに恵まれない現実を背負っている人々が多くいる。しかし、だからといって神を呪ったとしても何にもならない。悲惨な状況を更に悲惨にしてしまうだけである。自分の一生は一つしかない。神が全一であるように自己も全一なのである。神を呪い、悪魔に魂を売ったところで、報われはしない。たった一つの人生なのだ。全宇宙と一体になって自由自在に生きていこう。

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