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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第3章第7節  

 力。力とは、何か。多くの人々は、力の意味を知っているつもりでいる。しかし、あらためて力とは、何かと問われてみると、存外、その本性を知っている人は少ない。
 自由主義の世界は、実力の世界だという。自由主義社会では、実力さえあれば、自分の願いはなんでもかなうはずなのである。逆に、実力のない人間は、誰も認めてはくれない。それ故に、自由主義世界に住む人は、心のどこかで力を欲している。力さえあればなんでもできる。力のない人間の言うことなど誰も聞いてくれない、そう心の何処かで思っている。
 しかし、自由主義社会に住む人達に、「それでは実力とは何か」問いかけてみると、千差万別、人それぞれその答えはまちまちなのである。ある人は、学歴だといい、別の人は、実績だといい、かと思えば金の力だというものもいる。また、男は度胸だという人すらいる。それでもとにかくいずれにせよ、自由主義世界では、力を重んじている事に間違いないのである。
 元々、人は、古来より、目に見えない、得体の知れない、何者かの力によって支配されていると信じてきた。それが、神や天、自然の力だという人間もいれば、もっと世俗的な権力だと言う人間もいる。ただ、人間の社会は、何等かの力によって支配されてきたことは確かな事のようである。
 力に対する人々の考え方の相違は、時代や社会、体制の変化によって力に対する認識や力の根源が変化してきた事にも原因があるようである。
 あの人には、力がある。何をやるにも力が必要だ。力がなければ駄目だ。だから今は、力を蓄えよう。力がない奴は、惨めだ。この様に、人は、力の必要性を痛感している。火事場の馬鹿力。追い詰められると、人は、思わぬ力を発揮する。あいつは、何か秘めた力を持っている。こんなふうに、人は、事ある毎に、力、力と言う。しかし、それでは力とは何かと問いかけると多くの人は、当惑する。自然界には、神秘的で、巨大な力が隠されている。この世には、人の力では、どうにもならないものがある。目に見えない力によって自分達が支配されていることを多くの人は感じ、恐れてもいる。運命の力には、かなわない。時代の力には、逆らえない。この様に、誰もが力のもたらす結果については、当り前な事のように話している。ところが、力の本質に質問を向けるととなると、途端に誰も明解な答えをできなくなる。自然の猛威の前に、人間は何と非力なことか、巨大な力に打ちのめされた時、人は、そう呟く。自分達の生活や人生にとって力が重要な役割を果していると思っていながら、結局、人は、自分を支配する力が一体なんなのか、漠然と感じているに過ぎない場合が多いのである。
 この世の全てを動かしているのは、力である。人間の歴史は、その目に見えない力との葛藤の歴史でもある。戦争や革命は、その典型である。力と力のせめぎあいの中から、文明が生まれ、時代が創り出されてきたのである。偉大な力に出会うと、人間は、一方でそれを畏敬しつつ、一方で、それに抵抗しつづけてきたのである。そして、神秘的な力に対する畏敬心が宗教を生み出し、自然の力に対する探究心が科学を生み出してきたのである。
 今日、力といった場合、物理学的な力と、それ以外の力とに大別できる。物理学的な力の概念は、力学として確立され、近代科学の礎となっている。ところが、力学的な力以外の概念に関しては、いまだに明確な定義がされているわけではない。ただ、力学的な力の概念とそれ以外の力の概念も、根本的には、物の動きや働きの背後で作用するものという点では、共通している。そこで力学的な力の概念と関連させながら、力の概念を定義していきたいと思う。
 力とは、物体に運動を与えるもの、または、物体の運動を支えるものである。つまり、物体の背後にあって物体を動かしている得体の知れないものを力と言うのである。ものを動かすもの、それが力である。つまり、力は、運動に関係した概念である。言い替えると、力とは、勢いそのものか、または、勢いを与えるものである。また、運動は、働きであり、運動の成果は仕事である。故に、物体の働きの根源は、力であり、また、力とは、仕事の根本でもある。この様な力は、直接的認識対象である。
 力学的な力以外の力の概念も、運動や働きを司るものという点は同じである。ただ、違うことは、運動や働きの主体が物ではなく、人間、ないし、生物である点である。無機的な動きと、有機的な動きとの大きな違いは、有機的な動きが自律的な動きである事である。自律的な動きとは、他からの強制的な力による他律的な動きではなく、自己の内的な力による意志的な動きである。
 人の活動の源が命だとすれば、生命も、力の一種である。人の心を動かすのは、感動である。故に、感動は力である。人の行動の根源に愛情や意志、欲望がある。故に、愛情や意志、欲望もまた、力である。人の信仰心や情熱は、しばしば考えられないような力を発揮する。人間の能力に対する可能性は、計り知れないものがまだまだある。
 近代物理学は、物体の運動を解明することに端を発している。それが、古典力学として集大成されることによって、近代科学の礎を築いたのである。近代物理学の基礎となった古典力学は、現象や運動の背後にある法則を方程式化する事によって、実証主義的な理論を構築する事に成功したのである。そして、物理学が、実証主義的な世界観によって理論を発展させる過程で、付随的に技術革新が促進され、近代産業が発展してきたのである。しかし、この様にして築き上げられた力学的力の概念は、我々が日常で普段使っている力の概念とは、少し異質な感じを受けるものである。それは、我々が、一般的に使っている力の概念は、もっと人間臭さを感じさせるものである。
 物理学的な力の概念いがいに、軍事力、権力、財力といった社会学的な意味での力の概念や精神力、忍耐力、努力、または、学力、知力、能力といった心理学的、人間学的な意味での力の概念もよく用いる。特に、政治や国際社会においては、人間関係や国際関係を土台にした力関係がもっとも重大な要素として数えられている。つまり、力学的な力以外の力のが念は、もっとも人間臭い概念の一つなのである。
 力学的な力の概念に対し、人間的な力の概念とは、自己的、ないし、自律的、自力的な力の概念である。自己的、自律的な力の概念は、自己概念を導入することによって得られる。つまり、主体存在は、他に働きかける力を内部に有しているのである。この様な主体的な力を対象化すると、自律的な力の概念が形成されるのである。人間の社会を空間として人間の行動を考察する場合、力学的な力の概念ではなく、この自律的な力の概念を用いる必要があるのである。即ち、自己的な力に於て最も重要な要素は、自己の内部に秘められた力をどの様にして発揮し、または、制御するかである。ただ、自律的な力の概念も、この主体的作用を除くと、基本的な概念は、力学的力の概念とほぼ同じである。故に、力学的な力の概念を下敷にしながら、この自律的な力の概念を述べたいと思う。
 力は、運動に関係した概念である。それでは、運動とは何か・・・。運動とは、変化と働きの関数である。また、運動とは、ある任意の空間や座標、物に対する対象の変化である。運動も、もともと対象の変化を認識する過程で生じた概念である。この様な運動は、当然、相対的なものである。また、運動の背景となる空間も相対的なものである。故に、力の概念も相対的なものである。この様な相対的な運動や空間を前提として考えた場合、運動の前提となる空間や座標系の取り方によって運動の法則も変わってくる。この点を考慮すると、力とは、与えられた基準系の中で運動を変化させるものと言い替えることもできるのである。そして、運動のみではなく、対象の働きの背後にある位置や関係を、司っているのも、力だと言えるのである。
 自律的な力によって発揮される運動は、行動である。自律的な力がもたらす行動に対する認識や判断は、その主体が存在する空間や位置によって変化する。また、それだけでなく、その主体の意識や意志によっても変化する。この様に、自律的な力の概念は、客観的な側面と主観的な側面とがある。しかも、社会は、自律的な力の概念によって形成されるものである。それ故に、その社会の背景となる力の概念によっても自律的な力は、影響を受ける。例えば、政治的な力は、その時代の政治体制や権力構造といって自己を取り囲む空間の力、その時代背景となっている思想や宗教的な力、政治家や有権者固有の力といった力が錯綜して、一つの政治的力関係を形成しているのである。これらの力一つ一つを分析することによってはじめて、政治を科学的に解明することが可能となるのである。そして、政治を科学的に解明することによってえられた政治原理を基に権力構造を築き上げる事が、合理的な政治制度を確立するために不可欠なことなのである。
 力学的な力の概念は、相対的なものであるが、それ以上に自律的な力の概念は、相対的なものである。第一に、力に対する認識そのものが主観的なものである。そのうえ、自己が間接的な認識対象であることから、自己の力に対する認識も何等かの外的な対象を媒介しなければならない。つまり、主体的な力に対する認識は、内的な力を行動によって実体化した上で、実体化された行動から力を認識するのである。それ故に、自己の力に対する認識は、その人を取り囲む外的な環境や状況に表現していく段階だけでなく、それを自己の意識の内に取り込んでいく時にも、相対的な変化をするのである。それ故に、自律的な力に対する認識は、二重に相対的なものとなり、相対性が倍加されるのである。
 自律的な力の概念は、自分の視点、即ち、自分の置かれている立場、言い替えると位置によって変化する。また、時代や社会環境によっても考え方が違ってくる。例えば、職業によって力に対する考え方が違ってくる。商売人は、貨幣価値を基準にして物事を考えるであろうし、軍人は、軍事力に基礎を置くであろう。技術者は開発能力や技術力に重きを置く。政治家は、政治権力によって人を支配しようとする。神を信じるか、否か、また、神を信じるにしても、信じる神によって、力に対する考え方は全然違うものになる。
 その上、力の概念は主観的なものである。この事によって更に、力に対する考え方は、多様になる。力仕事をするものは、腕力を評価するであろうし、知的な仕事をするものは、知力を重んじるであろう。人それぞれ自分が重視している力によって世界観も違ってくる。また、人々がどんな力を重視するかによって社会構造も変化するのである。それ故に、力に対する概念は、社会的背景や時代背景によっても変化するのである。
自律的な力を発揮する場合の判断は、主観的な意識の支配下にあるのである。即ち、自律的な力は、意志的な力でもある。この様な、意志的な力は、自己の内面に対する働きかけでもある。つまり、外に向かって発揚される力は、自己の内面を発育する力でもあるのである。自己の行動は、自己の外に向かって発揮されると同時に、自己の内部に向かって働きかけてもいるのである。人間の行動は、その働きと認識という二つの作用を持つのである。認識を内的に働きだとすれば、行動は、外的な働きと内的な働きを同時に行っている事になる。つまり、外的な働きと内的な働きは、反対方向の作用である。故に、この様な、行動の働きを認識における作用反作用という。
 力の存在も直接的認識対象であり、現象を通して直感的に認識しなければならない対象である。力は、対象の存在と同様、直感的にしか認識することはできない。人間は、力の本質を直感によってしか理解できない。しかも、物自体に対する認識が、主に、視覚的なものであるのに対し、力に対する認識は、触覚的なものである。つまり、力は、目に見えないものである。故に、力は、どちらかというと触覚的な概念である。
 人は、力を目で見る事はできない。目で見る事ができないだけに、力は、より神秘的であやふやな存在に捉えられてしまうのである。また、力の概念を混乱させ、力を得体の知れないものにしてしまっている原因も、力が、目に見えないことによるのである。近代物理学は、この様な触覚的な力の概念を、運動や現象を実験や観察を通じて数学化、即ち、方程式に置き換える事によって成立したのである。
 対象の存在は、自己の意識の中に対象の存在を認識することによって成立する。自己の意識が対象をどう受け入れるか、また、どの様な認識手段によって対象を識別するかによって対象の持つ意味は、変化するのである。それが認識の相対性の原因である。力の概念は、力を直接目でみることができない対象であることによって、更に、より観念的なものにしている。
 力の存在を視覚的に認識するためには、現象を観察して、その背後に、どの様な力が働いているかを分析し、方程式化をすることか、または、何等かの計測機械によって数値化したり、映像化(グラフや表、メーター等)するいがいに手だてはないのである。ただし、視覚いがいの感覚によって力を知覚することは、可能である。つまり、力を肌で感じることは可能なのである。この様に、力は、どちらかといえば触覚的な概念である。
 力学的な力の概念は、力を数学的に表現したものである。しかし、日常生活の中で我々が感じている力は、数学的なものではなく、感覚的なものである。社会的な意味や心理学的な意味での力の概念は、必ずしも数値化できるものではない。つまり、力学的な力の概念は、定量的な性格が強く、自律的な力の概念は、定性的な性格が強いのである。この様な自律的な力の働きは、数学的にだけ捉えていては理解できない。
 力の表現には、量的なものと質的なものがある。また、力を示し方には、方向と量がある。そして、力には、物体に作用する力と空間を占める力がある。また、力の伝達の仕方によって近傍的な力と遠隔的な力とがある。
 力の性格にもいろいろなものがある。磁力のように、特定な物質にしか働かない力とか、電力のように、物質によって伝播に差があるものという具合いにである。この様な力の質的な差は、力対する異質な概念を多く発生させ、力の概念を多様なものにしているのである。また、力の作用には、力の働く方向と力の強さの二つの側面がある。故に、力を示す際には、方向と強さを示す量との二つが示されなければならない。また、力には、物体に直接働いている力と空間に働く、もしくは、空間に満ちている力の二つがある。力の作用が物質に直接働いているのが明かな場合を除いて、力が物質に直接働いているのか、空間に働いているのかが不明瞭な場合がある。これらの場合の多くは、力に対する認識の差、即ち、力の分析の仕方によって違ってくる場合が多いのである。そして、力の伝達も直接対象に働きかける力と遠隔的に対象に働きかける力がある。この事によって近傍的な力と遠隔的な力の二つがあることが解る。なぜ、この様な差が生じるかについては、まだ明らかにされていない。力の相対性は、力の作用の相対性も意味する。つまり、力が空間に作用するのか、物体に作用するのかは、現象をどの様に分析するかによって違ってくる場合もあるのである。この様に、一口に力といってもいろいろな概念を包含していることを常に念頭においておく必要があるのである。
 力の性質の差は、ただ単に、力に対する認識の差とのみ片付けることはできない。つまり、力の本質的な差としても考えられるのである。この事が、力をただ一つの概念によって定義することを、困難しているのである。特に、自律的な力に関しては、その観念が生み出す空間や場によって力の性格が変わる。それ故に、空間や場を特定する時、同時に、意識的に力の概念も特定する必要があるのである。
 人間が、力の概念を問題にするのは、力を制御する事によって物体の運動を管理することが可能だからである。つまり、運動を管理する、即ち、変化を管理することによって未来の変化を予測するだけでなく、自分達の意志によってよりよい方向に変化を方向付けることが可能となるのである。変化を自分の意志の方向に向けると言うことは、創造を意味しているのである。つまり、運動を管理するとは、創造を意味するのである。
 人間の進歩は、力を管理する技術を発展させることによって促進された。例えば、人間は、火を管理する事によって文明を築き上げた。つまり、火力を制御することによって人間は、新しい文明を創造する事が可能になったのである。近代物理学は、古典力学にその出発点を求めることができる。つまり、近代科学は、力を解明することによってその基礎を築き上げてきたのである。そして、近代文明は、近代科学の発展の副産物として、諸々の力を管理する技術を発展させてきたのである。蒸気を管理することによって機関車を生み出し、電力を管理することによっていろいろな電気製品や通信設備を発展させてきた。この様に、力を管理することは、即ち、人間の可能性を拡大することなのである。
 人間は、自分達の可能性を飛躍的に拡大させるために、力の制御を研究してきたのである。ただ、近代科学は、力学的な力にその重きを置き、自律的な力に関しては、それを解明する手段を持たなかったのである。しかし、人間の社会において人間の社会を成立させているのは、自律的な力である。それ故に、我々は、自律的な力の意味を正しく把握する必要があるのである。
 力を直接制御することはできない。力を制御するためには、何等かの装置が必要である。火を、直接つかんだり、また、加工することはできない。火を利用するためには、火を起こす装置や制御する装置が必要である。火だけではなく、ガスも電気も原子力もそのエネルギーを活用しようとした場合、なんらかの装置が必要なのである。この様に、力は、何等かの仕組みや装置を用いないかぎり、制御することはできない。力学的な力だけでなく、自律的な力を制御するためにも、何等かの仕組みが必要である。その仕組みが、法や組織といった社会制度である。
 エネルギーは、使い方さえ誤らなければ、非常に有用なものである。人間の内面の力も同様である。人間の魂の内部に潜む力は莫大なものである。しかし、この様な内面の力も、一歩間違えば、憎しみや怨念となって人々の間に長い間、害を為すことになりかねないのである。この様な、人間の自律的な力を引き出し、制御するのが、諸々の社会の仕組みや制度である。そこに、社会制度の持つ重大な意義があるのである。社会制度を科学的なものとし、自律的な力を正しく、そして、有効に引き出すためには、人間の力を正しく知り、それを制御する為の仕組みを、明らかにしなければならないのである。
 物体の背後にあって物体を動かすものを力と言うのならば、人間の背後にあって人間を動かすのも力である。ただ、人間を動かす力は、物体を動かす力と違って、自律的な力である。自律的な力の概念は、観念的なものである。そして、この自律的な力の概念こそが、国家権力の基礎を形成する概念なのである。
 人間が善に向かおうとする力こそ意志である。故に、国家を形成する力の本質は、意志的なものであるべきである。しかし、人を動かす力は、意志ばかりとはかぎらない。むしろ、意志以上に人は、欲望に動かされてしまう。また、善は、本質的に自己善である。それ故に、それ自体では、一般化することはできない。それ故に、自己善を実体化し、一般化した、社会正義を中核にして社会は、形成されるのである。この様な社会正義も自己善と矛盾なく一致する事は困難である。結局、人間は、社会正義と自己善との葛藤の中から社会制度を築き上げていくしかないのである。人の世は、質の違う多くの力の坩堝である。この様な力を制御し、有効に活用するための仕組みが社会制度なのである。
 命も、魂も、心も、霊も、人を動かす力は目に見えない。人は、理性によって判断し、感情で行動する。人は、情念によって動かされているのである。人間の観念は、最初から論理的なものではない。むしろ、観念は極めて情緒的なものである。そして、この情緒的な原始的観念が人間の行動を司る素になっているのである。つまり、人間の背後にあって人間を動かしている力とは、最初は、理性的な力ではなく、感情的な力なのである。感情によって左右される人間の行動を理性によって抑制するのであるが、この理性も、結局、相対的なものなのである。感情はアクセルであり、理性はブレーキなのである。この様に、人間は、目に見えない意識や情念によって動かされているのである。それ故に、この人間の力を制御するためには、内的な倫理観や社会的な仕組みがどうしても必要となるのである。
 これら、人間を動かす力をいかに制御し、それを、正しい方向に導き出すかを研究するのが社会科学である。近代科学が、力学的な力をど、の様に、また、どの様な装置を用いて制御するのかを、研究することによって成立したように、社会科学は、自律的な力を、どの様に、そして、どの様な装置を用いて制御すべきかを研究することが、本来の目的なのである。
 自律的な力は、観念的なものである。つまり、自律的な力によって形成される人間の社会は、観念的なものであり、自律的な力を制御する社会制度も観念的なものである。この様な観念的な社会制度を生み出し、成立させているのは、その社会を支配している力の概念である。つまり、社会を形成し、支配する力として、何を正当的なものとして承認するかによって社会体制は、社会体制は変わるのである。この様な、社会を支配する上で正当的な力の根源が社会正義である。
 人間の社会は、社会正義を基盤にして形成される。社会正義が権力を成立させるのである。社会的正義の裏付けのない権力は、長続きしない。そして、社会正義は、自己善の延長線上に成立している。そして、自己善は、経験や学習によって培われる。つまり、自己善を培うのは社会環境である。社会環境は、その社会の風俗や慣習、教育、宗教といった文化の歴史的な集積によって形成される。この様にして歴史的に正当として承認された社会正義が、権力の成立基盤となるのである。つまり、文化的な空間によって形成される場の力が権力構造を、成立させているのである。
 国家体制は、権力のあり方によって決定づけられる。そして、国家権力は、権力の背景としてどの様なものを想定するかによってその性格が決まる。例えば、権力の背景として軍事力や武力を持ってすれば、強権的な体制となる。権力の背景として神意や天意をおけば、宗教的な体制となる。権力は、神によって授けられるという考え方が王権神授説である。権力の背景として個人のカリスマ性や英雄的な行動におけば独裁的な体制となり、正統的な血筋、血統におけば封建的世襲制度なる。主権在民、つまり、権力の背景として正統的な力は、市民各自にあるというのが、近代民主主義体制の大前提でである。それ故に、今日、国家体制を考えるとき、力の概念をどう定義するかがもっとも重要な鍵となるのである。
 人を動かす力には、色々とある。例えば、恐怖や憎しみ、執念、復讐心である。また、信仰心や情熱、愛情や信念、利害や欲望によっても人は、動かされる。人間を動かす力は、人間の思い、思念に比例して強くなる。人間を動かす力の本質は何か、それによって人の世は、決まるのである。故に、人間の世の中を作り上げるのは、人の思いである。では、一体どの様なものに、人を動かす力として、その正当性を見いだすべきなのか・・・。つまり、権力の正当的な根源を何におくべきなのか、それが問題なのである。
 ここで重要なことは、人間の存在のあり方そのものを歪めてしまうような力は、否定されなければならないことである。では、人間の存在のあり方を否定してしまう力とは何か、それは、動機そのものより、人間の行動を制御できなくさせてしまうようなものである。確かに、恐怖は、人間の理性を失わせ人を狂わせてしまう。しかし、同様に、盲目的な愛情も人の理性を失わせてしまうのである。つまり、人間の力の根源は、自己にあり、その自己を客体化した個人にいがいに権力の根源の正当性はないのである。肝心なのは、人間存在から発生する本源的な人間の力とは何かを見極めることである。人間の主体的なあり方を失わせないためには、人間の力は、どうあるべきなのかを明らかにする必要があるのである。また、それ以前に、人間の力の正当性の根拠を自己以外のものに設定してはならないのである。
 人間が主体的な存在であり、人間の認識が相対的なものである以上、人間を支配することのできる正当的な力は、人間の内部にある自律的な力いがいにない。つまり、自己の力が人間の正当的な力であり、自己を客体化した個人を基本の単位とした社会制度、即ち、個人主義体制しか、人間を支配することのできる正当的な力を持つことはできないのである。そして、個人を基本単位とした社会を想定すれば、必然的に、個人主義体制は、構造的なものに、ならざるをえないのである。
 個人が持つ固有の力が、その人の能力である。個人に与えられた基本的な力いがいに、人それぞれ特有の力を持っている。これらの力を正当に評価し、各々の能力に応じて社会の中に、位置づけることができる社会を個人主義社会と言うのである。個人を基本単位としない社会においては、人間一人一人の人間性が封じ込められて、圧殺されてしまう。権力者個人もその例外ではなく、人間性を否定されてしまう結果になる場合が多い。つまり、人間の主体的な意志を前提とすることのできない社会は、人間の自律的な力を有効に活用することができないのである。人間の能力や価値観を一律的に捉えることは、一見社会を統制するため有効であるように錯覚する。しかし、人間、本来、主体的な生き物なのである。しかも、人間の能力は多様であり、個性も豊である。この様な人間を支配する事のできる力は、人間に内在した力なのである。
 神は、公平なものである。誰に対しても可能性を与えている。、ただ一つの力だけで人間の価値を決めるのではなく、人各々にいろいろな力を与え、人生を多様なものにしている。人の世こそ不公平である。その時代、社会、そして、時の権力者のありよう一つで、人の力のありようも変えられてしまう。
 人の持つ力にも、いろいろなものがあるが、大別すると精神的な力と物理的な力の二つになる。精神的な力とは、意志的、つまり、観念的な力である。そして、精神的な力が人間の社会や文明を築き上げる原動力なのである。人間の社会においてこの様な精神的な力を裏付けているのが物理的な力である。そして、人間の物理的な力を体現するのが肉体である。人間の肉体の個体差は、人間の能力の個体差ともなる。人間の社会が複雑になるに従って肉体的な差以上に、精神的な力の差が問題となってきた。人間の行動を支配する力は、肉体的な力から、精神的な力へと移行してきたのである。そして、個人の権利を基本単位とした個人主義社会に於てその傾向はいよいよ顕著なものになってきたのである。すなわち、個人主義社会において人間の社会を安定させる為には、精神的な力を制御することが不可欠な条件になるのである。この事は、力の分散と均衡がもっとも重大な課題となり、そのために、社会はより構造的なものにならざるをえないのである。
 観念的な力である精神的な力を発揮する最も有力な道具は、言葉である。人間の内的な意識は、論理化されることによって明瞭な観念となる。自律的な意識は、明瞭な観念として体系化されると統一された力として発揮される。同時に、自立した対象を結び付けていくのは情報である。そして、情報を伝達する道具として持っても頻繁に用いられるのが言葉である。故に、言葉には、力があるのである。
 精神的な力には、意志や欲望がある。欲望は、基本的には、悪である。しかし、欲望を制御することができれば、それを有効なものに変化させることができる。それは、丁度、原子力のようなものである。使い方しだいで有用なものにもなれば、また、極めて有害なものにもなるのである。但し、基本的に原子力同様、欲望は、制御が困難で危険なものであるという認識をなくしてはならない。欲望は、力である。人間の社会に活力を与えているのは欲望である。間接的認識対象である自己の力を刺激するには、欲望は最も効果的なのである。それ故に、欲望は、使い方一つで向上心にも創造力にもなる。しかし、欲望を制御することがなければ、それは、邪悪な力、暴力となって自分のみならず自分を取り囲む世界をも破滅させてしまうのである。
 主体的存在でありながら間接的認識対象である自己を根源とする意志的な力には、自己と対象の両面に対して同時に働く作用がある。そして、その作用の働きの方向は逆方向で同価なものである。つまり、意志的な力は、自己の内面と外面という逆方向で同価の力を同時に働かせているのである。外的な働きは、行動として現され、内的な作用は、情動として現れる。この様に、自己の内的な世界は、行動や情動といった物心両面に対する運動によって深化されるのである。
 自己の内的な力は、自律的で観念的な力である。この様な内的な力は、自己の観念の支配下にあり、内的な価値観を形成する原動力であると同時に、形成された価値観によって強い影響を受け、最終的には、その支配下におかれるのである。その結果、力による内的な作用は、内的な心理や価値観に還元されるのである。内的な観念も、一旦外部に発現されることによって再認識される。再認識される過程で一つの体系として形成されていくのである。この際においてもっとも重要な役割を果たすのが言語である。それ故に、人間の観念を発展させるためには、言語体系は大きな力を持っているのである。この様な自己の力は、自己を客体化した個人の基本的な力の働きを概念づけるものである。
 自己の力には、権利と義務、権利と責任がある。この権利と義務、権限と責任は、自己の外部と内面に働く力を、個人の概念に、置き換えることによって客体化した概念である。それ故に、権利と義務、権限と責任は、必ず表裏を為す概念でなければならず、その行使と負担は、等価なものでなければならないのである。個人主義社会は、個人が持つ力の一般的な概念を確立することによって成立している。つまり、個人主義は、個人の力の概念である権利と義務、権限と責任を土台にして築き上げられた社会なのである。
 この様な、個人の力を土台にして社会体制を築くためには、力の均衡が不可欠である。権力構造の重心が複数あれば、権力構造は、事実上分裂しており、その社会体制は、絶えず流動的なものとなる。かといって、権力構造の重心は、悪魔でも構造上の重心であり、特定の個人や基幹に権力を集中させることを意味するのではない。つまり、構造の重心が安定するとは、構造を構成する個人の力が、均衡した状態にある事を意味するのである。そのためには、個人の力が均衡するように、権利と義務、権限と責任の概念を設定しなければならない。
 権利には、必ず、それに、相当する義務が、同様に、権限には、責任が働かないと個人主義社会においては、社会的な力は均衡しない。権利と義務は、いうなれば、作用反作用の関係にある。個人主義社会体制の構築は、この権利と義務、権限と責任という相反する力を、どう構造的に均衡させるように社会体制を、設計するかが基本思想となるのである。そのために、基本設計において分権的な構造を土台とする必要があるのである。権利と義務、権限と責任といった関係は、力学的な力関係と類似している。しかし、基本的に違う点は、力学的な力が、定量的なものであるのに対し、社会学的な力は、定性的なものである点である。
 物理学的な構造における力の均衡は、純粋に数学的な問題として捉えることができる。ところが、意志的な力は、定性的な力であり、そのために、価値の評価を量的に表現することが困難なのである。それ故、意志的に力は、価値を数量的に評価するのではなく、観念的に評価するのである。そのために、力の均衡をどう測るかが重要な問題なのである。量的に測れないだけに、どうしても観念的に測るしかなく、力が均衡しているか、否かも証明することが非常に難しいのである。つまり、観念的である故に、その概念が諮意的なものとなり易い傾向があるのである。そのために、力の持つ妥当性や正当性が曖昧なものになり易いのである。その結果、今日の個人主義社会は、不安定な社会体制になっているのである。
 力学的な対象が作り出す空間や構造と自律的な対象が作り出す空間や構造の決定的な差は、自律的な対象は、対象に働きかける外的な力の作用のみではなく、個々の対象が働きかける内的な力の作用によっても対象の位置や運動、関係が決められていくという点である。つまり、自律的な力によって生み出された空間や構造は、内的な力の働きによって作り出された法則によっても、支配されているのである。そして、自律的な運動にとって重要な役割を果たすのが情報である。情報は、運動だけでなく、対象の位置や法則にも影響を与え、空間や構造を発展させていくのである。故に、自律的な力を制御する為の形勢は、情報を基にして形成されていくのである。
 自律的な対象を発展させていくために、重要な役割を果たすのが情報である。情報の伝達の最大の道具は、言語的手段である。また、人間の行動規範を司っているのは、言葉による体系である。それ故に、論理として一つの体系にまとめあげられた法は、自律的な構造、即ち、社会を形成するのに決定的役割を果しているのである。
 自律的な対象は、内的な力の働きが重大な影響を持っていることが明らかな以上、自律的な力が引き起こす現象を分析するためには、内的な力関係や運動も研究しなければならないのである。内的な意識や構造が生み出す力が、他の対象や要素に対して、引力や斥力となって、外的な構造や空間を構成していく原動力なる。また、個々の要素間の関係、例えば人間関係の基礎を作り上げるのも、内的な意識である。
 内的な力に重大な影響を及ぼすのは意識である。意識には、顕在化した意識と潜在的な意識がある。どちらも人間の行動や意志決定に、重要な役割を持っている。ただ、人間が社会的契約や法的な制度を組み立てるのは、顕在化した意識の上である。そして、顕在的な意識を基礎を構成しているのは言語体系である。それ故に、人間の内的な力を制御するためには、内的な価値体系を問題にしなければならない。但し、その場合でも、人間の意志に於て、顕在化している部分は、氷山の一角に過ぎないことを忘れてはならないのである。また、人間の意識が作り上げる空間や構造にも顕在的、つまり、公式的な部分と、潜在的、即ち、非公式な部分とに分かれているのである。
 人の意識は、集団に帰属したときに変化する。自律的な存在は、集団を構成すると公的な意識を持つ傾向がある。そして、個々独立した内的な意識は、集団に所属すると、学習や経験によってこの公的意識に帰属する傾向がある。この様な公的な意識が社会空間を形成するのである。内的意識の公的な意識への帰属傾向は、生物学的に生まれた時から組み込まれていることもある。公的意識にも潜在的なものと顕在的なものがある。そして、公的意識を形成する時に、決定的な役割を果たすのが情報である。この様な情報の伝達は、必ずしも言語によるものではなく、物質や信号を利用して伝達されるものもある。
 人間の社会は、自律的な力によって作り上げられる。つまり、人間の意識が社会の下地となる空間や構造を生み出したとき、人間の社会は形成されるのである。社会の下地を成立させる人間の意識は、時間の経過とともに、集団の意識を形成していく。この様な集団の意識が文化である。集団の意識は公的な意識に昇華され、個人の内的な意識を変化させる。集団の意識は、公的な意識に変化することによって個人の意識を標準化する。公的意識は歴史的過程を経ることによって体系化されていく。つまり、世代が進むにつれて、内的意識の公式化傾向は強くなり、個人の意志を集団の意識に隷属させるようになる。
 集団の意識は、集団としての規範を生み出し、それが慣習化され、更に、成文化される事によって掟化される。掟化された集団の規範は、個人の行動規範を強く拘束するようになる。そして、掟が、より高度な観念として、一定の体系に昇華されることによって、法や制度は、形成されていくのである。今度は、法や制度が、空間や構造を生み出し、高度な社会体系に発展する。そして、それは、やがて国家へと成長していくのである。この様な国家体制は、その下地になる集団の意識によって当然異なったものとなる。
 権力は、国家や組織の力の中心である。社会の中心に位置する力は、集団の公的意識を支配する。それ故に、権力のあり方は、人間の内的な意識を間接的に支配するのである。それ故に、国家の主権は、その国の国民の人間主体の現れである。つまり、国家権力のあり方は、国民の生き方の根源を変えてしまうのである。国家権力には、国民の価値観も変えてしまう力があるのである。国家が、個人の主権を奪うとき、人間は、人間としての主体性の根幹を奪われるのである。人間主体の根本は、自己にある。それ故に、国家の主権は、自己を客体化した個人にあるのである。それ故に、主権在民は必然的な帰結なのである。
 この様に社会構造は、集団の意識を土台にして形成される。つまり、掟や慣習として、更には、それらが発展して形成される体制や法も集団の意識という目に見えないものが母体となっているのである。そして、その集団の意識が生み出した空間も空間を占める力も目に見えないものである。この様に、人間の集団を動かしたり、人間の社会体制を支えている力は、目に見えない意識、情念によって生み出されているのである。
 集団は、集団の意識が生み出す空間や構造によって社会化される。この様にして形成された社会空間は、いくつかの働きを異にする次元を持つようになる。この様に、社会空間は、多層な空間である。社会化されると、社会が生み出す空間に力が生じる。社会空間を形成する力は、一つではなく、幾つかの性格の異なる力によって複合的に形成されている。そして、各々の力が、各々独自の場を形成し、その事によって社会空間は、幾つかの性質を異にする次元を持つ事になるのである。
 例えば、経済的な空間には、経済的な力が生じ、また、政治的空間においては、政治的な力が生じ、軍事的な空間には軍事的な力が生じる。そして、各々独立した制度や法、構造を作り出すのである。人間の社会は、この様な社会空間における力関係によって成り立っているのである。そして、社会空間のもつ力の基本性格を決定づけるのが、文化である。つまり、集団の意識が作り出す空間は、他の空間の母体となるのである。それ故、文化的な相違は、他の空間や構造の相違を決定づける事になるのである。そして、この差は、制度や法を統一してもなかなか克服することが困難なのである。
 構造上における力の均衡を考える場合、作用反作用いがいに、引力と斥力、求心力と遠心力の二つの力の均衡も充分に考慮する必要がある。この様に、作用反作用、求心力と遠心力、引力と斥力と言うように、方向が反対の力の均衡という概念は、自己が主体的存在であると同時、間接的な認識対象であることに起因していると思われる。また、人間の認識が相対的であることも関係していると思う。しかし、いずれにせよ、この様な逆方向の力の概念によって人間は、現象を捉えているのが現実なのである。
 物体の運動を司るのが力である。運動の形には、発散運動と収束運動と周期運動のみっが基本的な運動である。その基本運動のなかの周期運動のなかでも代表的な運動が回転運動である。波動運動は、回転運動の一種と見なすこともできる。そして、有機的な構造物にとって特に、この回転運動重要な意味を持つのである。
 人間が生命を維持するためには、血液の循環が必要である。この様な循環運動は一種の回転運動である。また、呼吸や鼓動は、循環運動がもたらした波動運動である。特に、経済活動は、回転運動や循環運動、及び、それから派生する波動運動、周期運動を基調としている。波動とは、振動でもある。経済活動は、回転することによってその構造を維持している。この様に、有機的な構造物が、構造を維持するためには、回転運動が必要である。そして、回転運動があるところには、必ず、求心力と遠心力が働いている。また、回転運動は、波動運動を随伴的に生み出す。人間の生理的、または、心理的運動や社会の歴史的、または、経済的運動は、回転運動や周期運動がその基調としてあるのである。即ち、回転運動や波動運動、周期運動は、有機的な構造物の基調運動なのである。
 有機的な構造物には、中心があり、その中心に向かう力と、中心から離れていこうとする力の均衡によって維持されている。中心に向かって働く力を求心力といい、中心から遠ざかっていこうとする力を遠心力という。そして、この様な求心力と遠心力は、観念的な構造物にも働いている。特に、人間の組織や集団にとって組織や集団を維持する力としての統率力に、この求心力が決定的な役割を果たし、組織の抑止力、制御力として、遠心力が重大な役割を果している。
 組織や国家を成立させている集団の意識は、目に見えないものである。それ以前に力そのものも、目に見えないものである。しかも、国家権力は、人間の観念が生み出すものである。観念的な力である国家権力は、物理的な力以上に目に見えない、しかも、得体の知れないものである。この様な目に見えない力によって維持されている国家や組織は、求心的な力を、必要としているのである。つまり、集団の力を結集し、統制をとるためには、集団の中心に力を集中させるような働きが不可欠なのである。集団に求心的な力を持たせるためには、集団への帰属意識を高め、集団を構成する構成員の意識を統一し、力が向けられるべき目標を与えることが必要なのである。それが国家意識と象徴なのである。
 この様な国家権力に対する求心力の裏には、必ず遠心力が働いている事を忘れてはならない。遠心力と求心力は、作用反作用の関係にあり、求心力としての統制力が強まることは、その反作用として遠心力が同様に働いている事を見逃してはならない。仮に、どちらか一方の力の方が強くなり、力の均衡が失われると国家権力は、崩壊の方向に向かう。例えば、国家の統制を強めることは、他国に対して攻撃的な力となって向けられることが多い。さもないと、国家内の敵対勢力を抑えられなくなる。その結果、統制力の強い国家は戦争や内乱を引き起こし易いのである。
 国家権力を維持するためには、国民を統率するための求心力が必要なのである。それ故に、権力者は、力の中心を象徴化しようとするのである。力の中心を象徴化し、それを誇示する事によって自分の権力の基盤を磐石な者にしようと努めるのである。そのために多大な労力を費やすことになる。玉座や宮殿は国王の力を象徴する。権力者は、金字塔、記念塔を残す。歴史的遺物を見る時、同時に、人間の力に対する信奉を見て取る事もできる。ところが、その歴史的遺物によって権力者達の多くは、権力の座を追われているのである。
 求心的な力と遠心的な力は、丁度、組織の中心に対する引力と斥力である。この様な求心力や遠心力いがいにも、対象に働く引力と斥力は存在する。個々の対象間に働く引力と斥力は、その代表的なものである。
 人間の社会は、個人が生み出す働きによって形成された色々な関係が、絡み合って形作られている。人間の世界は、色々な思い、感情、信条が錯綜している。そういった、思いや感情、信条は相対的なものであり、お互いに惹き付けあう思いや反発する感情が混ざりあったものである。そういった相反する思いや感情が社会に適度の緊張を持たせ、均衡を保っているのである。単一な信条に偏った社会はむしろ危険なものである。人間の意識や認識は相対的なものである。それ故に、人間の内面に働きかける力も相対的なものとなる。そして、その反作用として外に向けられる力も相対的なものとなるのである。人間の社会は、義理と人情、愛と憎しみというように自己を取り囲むしがらみによって成り立っているのである。この様な諸々の力関係を解明していかない限り、人間の社会の根底に働いている力を理解することはできないのである。
 構造を構成する個々の要素が安定するのは、個々の要素間に働く引力と斥力が均衡するからである。特に、自律的な働きを持つ構成要素は、それ自体が独自の運動をするため、力学的な対象と違って要素間に働く引力と斥力の均衡が要素の機能を性格づけている。それ故に、どの様な働きが、引力となり、また、斥力となって働いているかを正確に見極める必要があるのである。
 自律的な力は、引力と斥力を生み出す。そして、その引力と斥力が自律的な対象の関係、例えば、人間関係を築き上げるのである。人間の内面には、愛情のように、お互いを引き付ける力と、憎悪のように、お互いを退けあう力とがある。そして、愛情や憎悪は、人間の意識の根底に働いて、人間の社会を形成していく原動力となるのである。つまり、人間の社会を創造していく力は、愛憎、欲望、利害、信念といったドロドロとした思いや感情が、激しく混ざりあい反応しあう事によって、生み出されていくのである。この様な、ドロドロとしたエネルギーに一定の方向を与え、有効な力として制御するためには、形と勢いを整えなければならないのである。
 自律的な力を制御する上でもっとも考慮すべき要素は、形と勢い、即ち、形勢である。そして、その形や勢いの背後にあって形や勢いを支えている法である。形や勢い、法を制御する事は、言い替えれば位置と運動と関係を制御する事である。世の中には、勢いと形がある。勢いは、人と人の間に働く、愛憎、即ち、引力と斥力が生み出す。この様にして発生した世の中の勢いを貯めて、それを一つの力として一定の方向や目的に向かって放出するのは形である。そうした世の中の形を作り上げるのは、各人の社会的な位置づけであり、役割である。また、勢いに方向を与えるのは、各人の意識である。そして、人間一人一人の位置や行動のあり方を規制するのが法である。この三つの要素が整った時、はじめて人の世は、均衡するのである。故に、組織は、意識と形態と法の三つの要素から成り立っており、この三つの機能が均衡した時、組織は、その効力を発揮するのである。
 現代の国際世界は、民族的空間、宗教的空間、言語的空間、国家的空間、思想的空間、地理的空間、歴史的空間の分裂による対立といった空間的な分裂、また、経済体制、政治体制の分裂と相克と言った構造的な分裂というように階層的で構造的な分裂によってバラバラになっているのが実状である。そして、この様な状況は、物理的な空間や構造より、精神的な空間や構造において甚だしいのが現代の特徴である。これは、今日、人類の意識が不統一で整合性が持てないことに原因がある。そして、精神的な空間や構造が分裂していることによって力関係に整合性がもてず、力と力が不合理で、かつ、不条理な衝突を繰り返しているのが今日の最大の問題なのである。つまり、世界は、極めて微妙な力関係の上に成立している。綱渡りの状態なのである。この様な状態を繰り返せば、人類の抱える問題は解決することが不可能となり、滅亡の危機に陥ることも充分にありうるのである。
 この様に民族や思想信条、体制の違いによって世界が分断される原因は、人間の本源の力が人間存在に根ざしていないからである。人間の存在そのものは、民族や思想信条、体制の違いに左右されるものではない。その本源的な人間存在をきちんと理解し、それに基づいた個人の権利を明確に定義することが肝要なのである。即ち、世界を一つの体制に統一するために、力の定義を明確にし、個人主義の理念を完成するいがいにないのである。
 人の一生は、力によって左右される。力は、自由の根源である。人の持つ力は、人それぞれ違う。力に対する考え方も人それぞれ違う。自分の持つ力を上手に活用したものは、人生の勝者となり、間違えれば敗者となる。力の活用しだいで人の一生は、大きく変わってしまう。また、時の権力のあり方一つで、国民の生き方も変わってしまう。多くの人々を幸せにできるか否かも権力のあり方で決まってしまう。権力のあり方が悪ければ、国家を滅亡させてしまうことすらある。それ故に、権力に従うだけが、生き方ではない。人の一生にとってこれほど大切な力の本質とはなんなのだろうか・・・。
 力の根源は、神である。存在の本質は、神である。それ故に、存在するものを支配する力の本質も神である。うつろい易いこの世の存在をこの世のものが支配する力を持つ事はできない。故に、この世に存在する力の根源は、神である。存在の絶対性は、測定結果に左右されることはない。左右されるのは、人間の認識であり、その結果が矛盾したものであったとしても、それによって存在の絶対性がが変化するわけではない。同様に、力をいろいろな手段で測定したとしても、それが力の本質を左右するのではない。この様に、存在も力も人間の認識を超越したところにその本質がある。その事を前提とする事によって、科学は、仮定や仮説を打ち立てることが可能となるのである。即ち、認識を成立させているのが存在の絶対性である。そして、存在の絶対性を裏付けているのが神である。故に、力の根源は神なのである。
 この地に動めくものよ。この世に潜むものよ。いったい、この得たいの知れない、それでいて体中の血を騒がせ、この胸をかきむしるような力の源は、何なのだ。人並の幸せに背を向かせ、この身にまとわりつくしがらみや古い因習に背かせ、人を行動に駆り立てようとする力は何なのだ。人の心の奥底に潜み、人の思いを揺り動かす力の本質は何なのだ。不幸な人を見ると、自分の非力を思い知らされる。身の破滅をもかえりみずに、たとえ命までも投げ出してさえ、そんな思いにひとをかりたてる力とは・・・。この世を破壊し尽くし、人類を滅亡に追いやるのも力ならば、この世の平和を護り、人類の繁栄を約束するのもまた力だ。力は、その使い方一つで、法や正義を護る正義の力にもなり、また逆に、邪悪な目的で平和な生活をかき乱す暴力ともなる。抑えきれぬ欲望に身を委ね、暴力をふるって人を傷つけたとき、おのが弱さが身に沁みる。力は、人間の生活に秩序を持たせると同時に罪も生み出す。まことの力を得て、弱い自分を強くしたい。人を欲望によって駆り立て、狂乱させるのも力ならば、おのれを抑え、正しい方向に導くのも力である。一体、真の強さとは何なのだ。
 人を生かす力。人を動かす力。その力の源にあるのは、自己と万物への愛である。そして、その源こそ神の愛なのである。生きとし生きる者よ。我々は、神の力によって生かされているのである。生きている真実こそ神の愛の証である。
 神よ。自然よ。人の業をあざ笑うがごとく、大地を揺るがし、或は、洪水によって村落を押し流し、また、大地を吹き抜け無惨に木々をなぎ倒す。この世のなにもかも破壊し尽くしても、まだ、余りあるような大自然の力は、一体どこに秘められているのか。夜のしじまに散ばめられた星達よ。この恒大無辺の宇宙の一体どこに、星々を配置し、天体の運行を司る力が宿っているのか。自然災害が起こる度に、自然の力を前に、人間の力の無力さをつくづくと思い知らされるのである。人間は、神の力によって生かされているのである。
 魔力。念力。超能力。人間の計り知れない力が、まだまだ、どこかに秘められている予感がする。あの人には、神通力がある。計り知れない洞察力だ。法力でよこしまな陰謀を封じ込めてやる。我々は、日常的に何の不思議もなくこんな会話を繰り返している。人知を越えた力、人間は昔から、人間の未知な世界や力に憧れそれが人間の文明を発展させる原動力となり、また、人間の文明の暴走を抑える抑止力ともなってきたのである。深い森の中には、我々の知らない世界があり、海や川を汚せば必ずその報いがある。人は、自分達の力の限界を認め、神や妖精、そして、自然と共存してきたのである。人間の存在や力を越えたところに偉大な力や法がある。そう信じる事によって、人間は、自らを律し、自然の恵みに感謝をしてきたのである。ところが、現在、人類は、全ての謎を解明したか、それとも解明できるのは、時間の問題だと思い上がり、果ては、人間の観念が過去や歴史までも変えうるのだとのぼせ上がってしまっている。それが、人間の文明や文化を荒廃させ、更に、暴走させる原因となっているのである。その結果、人間は、自然に対する畏敬心を失い、欲望の赴くままに自然の恵みを枯らしているのである。海や川を見るがいい、豊かな生物の宝庫だった海や川も、どす黒く汚染され、生き物の棲息できない河川や海域が拡大している。山や森は、荒廃し、多くの種が絶滅に瀕している。大地は、砂漠と化し、生命を感じさせもしない。森林資源は失われ、自然の災害は、猛威を発揮している。
 人は、力を正しく認識しなければならない。人は、力を正しく活用しなければならない。なぜならば、力の根源は神であり、神の恵みは、力によってもたらされるからである。自然の恵みは自然界の力によって、人生の恵みは自分の力によって、国家の恵みは国民の力によってもたらされるのである。それ故に、自然の力の活用を、自分の力の用い方を、国家権力のありようを間違えれば我々は、神の恩恵に浴する事はできない。恩恵に浴するどころか、神の力によって滅ぼされるのである。決してこの事を人間は忘れてはならない。


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