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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第3章第10節  構造

 いま、人類は、かつてない危機の前に立たされている。多くの予言書が予言するように人類は、その存亡を問われているのである。現代という時代を支えてきた二つの柱の一つである社会主義国は、崩壊寸前であり、もう一方の柱である資本主義体制も磐石とはいいがたい。皮肉なことに、相対立していた二つの体制の一方が崩壊の危機にさらされることによって、いま一方の体制の崩壊も早まりそうな気配すらあるのである。しかも、この二つの体制が同時に崩壊したとき、それに変わるべき第三の道は未だに示されていないのである。この様な政治的な危機の根底には、経済的な危機がひそんでいる。経済的危機は、国家の枠組みを変え民族の大移動すら引き起こしかねない事態にすら至っているのである。そのうえ、環境破壊や終末的な兵器の拡散という重大な問題が更に、問題を複雑にしているのである。また、南北問題、東西問題、難民問題、民族問題、宗教対立、資源エネルギー問題、原子力問題、人口問題、食糧問題、麻薬問題、国際犯罪や国際テロと地球的な規模の問題が一挙に噴き出し、その収拾の仕方を誤れば、人類は、二度と立ち直ることのできないほどの痛手を被る事になる事が多くの識者達によって予測されているのである。この様な深刻な危機がどの様にして訪れたのか。また、その危機は如何なるものなのか、それを正しく理解しないかぎり、現代の危機は乗り越えることはできないのである。
 現代は、構造の時代である。近代社会は、封建制度の崩壊、産業革命という地殻変動による構造的変化に始まり、そしてさらに、電子計算機の発達や電気通信施設、情報連絡網、交通機関の発達よって新たな構造的変化をもたらそうとしているのである。民主主義の発達にともなう政治体制の変化や科学技術の発達による産業を基盤とした経済機構の構造的な変化によって近代の基礎的な構造が築かれ、そして、これらの構造が母体となって電気通信網や情報網、交通網のような新た構造を生み出しているのである。まさに、現代社会は、構造が構造を産み、社会全体が構造に呑込まれそうな勢いなのである。
 この様な変化は、世界の国々を否応なく巻き込み、相互に関連づけずにはおかないのである。それは、世界が何等かの仕組みによって関連づけられた事で、一国の危機は、危機の連鎖となって他国に波及するからである。同じように、いろいろな事が結び付けられたことによって、一つの問題は、他の問題と相互に関連し、より複雑な問題に発展してしまうのである。この様に、現代は、多くの問題が、複合化して一つの状況を生み出している、構造的な社会なのである。つまり、現代社会は、構造的な社会であり、そこで派生している問題も構造的なものなのである。それ故に、現代社会の問題を解決しようとした場合、問題の背後にある構造を明らかにする必要があるのである。
 構造的な問題と言うのは、多元的、空間的、立体的、複合的、階層的な問題である。現在、世界各地で多発している地域問題に例をとると、その多くが、民族問題、宗教問題、人種問題、思想的対立、経済や資源エネルギー問題、環境問題、南北問題や東西問題といった具合いにいくつかの問題が複雑に絡み合いながら、しかも多層的に問題を形成している。経済摩擦にしても、各国の経済機構、商慣習の違い、貨幣金融制度の違い、産業構造の違い、文化的な相違と言った複数の要素が錯綜し、問題の抜本的な解決を困難にしているのである。また、問題の多くが、経済的次元、政治的な次元、民族的な次元、宗教的な次元、言語や文化的な次元、人種的な次元、階級的な次元と複数の次元が重なりあって多層的な構造になっている。しかも、そこに地域的な問題や地理的な問題、環境的な問題が絡み、単純に一国の問題として処理することができないようになってきているのである。
 ある国の原子力発電所の事故は、その周辺国に重大な影響を及ぼし、いくつかの国を横切る河川の汚染は、下流の国の国民生活に多大な被害をもたらす。一つの国の経済破綻は、世界経済の破綻の引金になり。一人の独裁者によって国際社会は、多大な脅威を常にもたざるをえない。麻薬問題、国際犯罪組織のような国際犯罪は、国内の問題として処理することが不可能であり、国際テロの横行は、国家間に深刻な緊張をもたらす。為替や石油価格の変動は、国内の物価に多大な影響を及ぼし、そのために、主要各国の金融政策の整合性が求められている。この様に一つの問題が及ぼす影響の範囲は拡大する一方であり、国家と国際社会との緊張は、いやがうえでも高まってきているのである。その結果、国際法と国内法の整合性の問題、世界正義と内政問題というように、現在、引き起こされている問題の多くが、国際問題と国内問題との板挟みによって解決できないままに放置されているのである。
 確かに、近代以前にも構造物は存在した。しかし、その構造物は、現代の構造物に比べてずっと単純で簡潔、自己完結的なものであったし、また、その基礎的な理念もずっと曖昧なものであった。それに対し現代社会の構造は、異質なものである。たとえて言えば、近代医学と近代以前の医学がいい例である。近代医学は、解剖学によって人体の構造を明らかにすることに端を発している。そして、人体の構造を前提として、病気を構成する要素を分析し、その結果に基づいて診断を下すことが基本である。つまり、人体の構造や病気の構造を予め明らかにしたうえで、いくつかの検査によって構造的に診察をして患者の病気を構造的に解明し、その診断に基づいていくつかの治療法を組み合わせて治療していくのが近代医学である。それに対し、近代以前の医学は、経験をもとにした対症療法的なものが主流であり、中には、まじないや祈りと言った呪術的なものも多く含まれていたのである。この様に、近代医学とそれ以前の医学とが明らかに一線を画せられているのである。同様に、現代社会は、表面に現れた現象を問題にするだけではなく、その背後にある空間や構造を明らかにすることが不可欠なのである。また、現代社会の問題を抜本的に解決しようとした場合、対症療法的なやり方では、解決する事は不可能であり、問題の根底にある構造を良くしないかぎり解決できない事が判明してきたのである。そのためには、人間は、どの様な社会構造を構築すべきか、その原理を理解する必要があるのである。
 構造には、有形なものと無形なものとがある。例えば、電子計算機の機械、建築物、人体は、有形の構造であり、電子計算機のプログラム、言語体系、国家制度などは、無形な構造である。有形の構造は、目で見たり、直接、操作することができるが、無形の構造は、目で見ることはできない。目で見る時は、文字や記号に置き換える必要があるのである。そのために、無形の構造物は、構造そのものを実感として理解することが困難になってきているのである。建築物や機械といった有形の構造物から、無形の構造物へと、現代は、その比重を移しつつあるのである。そして、それが現代の構造の概念を更に解りにくいものにしているのである。
 どんなものにも構造はある。原子にも、分子にも構造はある。古代の社会にも、会社や役所の組織にも構造はある。無論、人間の体や動物の体にも構造はある。小説や絵画のような芸術にも、構造ある。言語や数学にも構造がある。ただ、現代においてなぜこれほど構造が問題となっているのかは、現代社会が、それまでの社会と違って構造的に形成されてきたことである。つまり、近代以前の社会や構造物は、その一部を除いて、構造を支えている法則を明確に確立して、築き上げられたのではなく、実証的な裏付けのない漠然とした観念を土台にして築かれてきたのである。それ故に、問題の捉え方もまた解決の仕方も因果関係を明らかにしないまま、迷信や偏見、経験や勘に基づいて為されてきたのである。現代科学は、現象の背後にあって現象を支配している法則を明らかにすることによって、近代技術を発展させてきたのである。現代医学は、人間の肉体の構造を明らかにすることによって、病気の原因を解明し、その治療法を発見してきたのである。この様に、近代社会は、現象の背後にある構造や構造を支配している法則を明らかにすることによって成り立っているのである。確かに、現代社会は、構造的にはなってきたが、肝心の社会構造についての基礎的な理念は、確立されていないのである。また、構造そのものの概念も確立されていないのである。しかも、社会が構造的になればなるほど、更に社会を構成している個々の要素の構造化も、促進されるのである。つまり、基礎工事をしない上に立てた建物の上に、更に、建増しをしているようなものである。この事が、現代社会の問題をより複雑にしている原因なののである。
 構造の根本理念を解明し、確立するする目的には、二つある。一つは、現象の背後にある構造や法則を明らかにする事によって、その現象を引き起こしている原因を知る事である。いま一つは、構造や法則を明らかにする事によって新しい技術や制度を開発する事である。そして、この二つの目的の延長線上において、民主主義の基礎的な理念を確立し、また、産業構造を合理的なものに再構築する事によって、より安定し、かつ、効率の良い経済体制を確立する事が最終的な目的なのである。
 現在の経済機構は、牧畜や農耕が発展する以前の状態にたとえることができる。つまり、狩猟を中心とした状態に似ているのである。この様な状態では、結局、成行きまかせでお天気まかせな経済機構では、その日暮しの生活しか送れないのである。つまり、近代医学が発展する以前の状態と同じで、経済の背後にある社会構造や産業構造を解剖学的に解明し、診断を下しているわけではなく、対症療法的にしか対応できないでいるのである。また、経済や政治は、生き物である。無機質な構造とは違い有機質な構造である。それ故に、物理的な構造物を構築するのと違い、生物学的な取り組みをしなければならないのである。しかし、それでいて生物のように自然に自分の成長の結果が決められているのではなく、意志的に自分の未来を選んでいかなければならないのである。虎となるか、人間となるかは、国民が自分達の意志で決めなければならないのである。その鍵を握るのが、どの様な社会構造を選択するかである。その故に、経済を構造化することによって、より高度な文明社会を築くことが、人類の恒久的発展の礎を築くためには、不可欠なことなのである。
 それでは、基礎理念も確立されていないのに何が、現代のような構造的な社会を築き上げてきたのだろうか。現代社会を構成する基礎的な構造を象徴しているのが、近代科学、近代会計学、民主主義、近代スポーツの四つである。これら四つの事に共通していることは、一つの全体といくつかの部分で構成されている集合体である事、相対的である事、体系化された一定の法則に基づいている事、数学的である事、形式的である事、合理的である事、多元的、空間的、立体的である事、段階的である事、階層的である事、何等かの機能的な仕組み、機構、組織を有している事、実際的、実証主義的である事、観念的、精神的なものではなく実存的、現実的なものに重きを於ている、即ち、形而上的ではなく形而下的である事である。そして、近代科学、近代会計学、民主主義、近代スポーツの四つのものが発展する過程で近代社会は、形成されてきたのであり、四つのものが満たしているこれらの条件こそが、近代社会の基礎を構成している構造の基本的な条件なのでもある。しかし、残念ながら、この四つの要素の根本理念は、何れも未だに確立されてはいないのである。そして、それが原因となって近代を支える政治制度、経済制度の整合性がとれず、そのために、世界の秩序は混乱しているのである。それ故に、現代の国際社会の混乱を収拾するためには、近代を成立させ、発展させてきた構造の根本理念を確立する必要があるのである。
 構造の理念について話を始める前にいくつか、具体的に構造とその要素をあげてみたい。
 言語体系の構造の基本的な要素をあげると、次のようになる。第一に、文法。第二に構文。第三に、言語圏や社会といった人間空間。文化や歴史といった背景となる場。第四に、文脈。第五に、言葉。語句。及び、その言葉や語句の指し示す対象。第六に、文節。第七に行動主体及び主体的意志。または、主体的価値観、及び、論理。第八に、前提条件や環境。または、設定条件や状況。第九に、話、及び、補助的な手段や道具、動作。第十に、認識主体と意味。または、客観的な判断基準。人の言語構造は、展開されている会話からだけで判断されるべきものではない。当事者間の人間関係、いきさつも重要なポイントであり、その会話や言語体系の背景となっている社会や風俗、伝統、慣習といった歴史的な背景も考慮しなければならない。話の前提となっている環境や状況、その場の雰囲気や話相手の考え方や価値観の相違も重要な鍵である。また、会話そのものも、ただ言葉の羅列ではなく、一定の文法に従って配列され、受取手側もそれを文法や状況に基づいて解読するのである。しかも、身振り手振りといった補助的な仕草や動作、儀式や作法といった補助的な手段、贈物や武器といった補助的な道具という具合いに体全体で表現されているものを総合的に解釈しなければ、正しい意味は、理解できないのである。そのために、文学においては、ただ会話の羅列ではなく、その場の情景をいかに描写するかが重要な要素となるのである。また、個々の民族や宗教固有の礼儀や作法は、その様式の中に何等かの意図がある。この様な様式化された行為の背後に、潜んでいるある種の潜在的な意味を理解しないと、相手の話の文脈を理解することができないのである。宗教的様式は、民族の潜在的な意志である。宗教的な様式が理解できないために生じた誤解は、民族や宗教的対立を生み出し、それを更に、妥協のできない、また、越えることのできない民族間、宗教間の溝に発展させ、何世代にも、時には、何世紀にもわたる憎しみや怨みを生み出す原因となり、それが今日収拾することのできない争いを形成する根本的原因となっているのである。この事からも解るように、単純に相手の話を、特に、民族や宗教が違う場合、鵜呑みにするだけでは、相手の真意を理解することはできない。それ故、相手の話を理解するためには、意識界だけでなく、無意識な世界に潜むものも含め構造的に捉えなければならないのである。この様に、構造は、単純に要素の集合や塊としてだけ考えていると理解できないのである。つまり、構造という概念は、概念自体が構造的なものなのである。
 人為的に形成された構造の具体的な構成要素を、スポーツに例をとって述べると次のようになる。第一に、ルール。第二に、ルールを制定、改廃し、管理するコミッショナー。第三に、ルールが、生み出すフィールド。第四に、ポジション。第五に、プレイヤー。第五に、チーム。第六に、リーグ。第七に、監督とコーチ。第八に、フロント。第九に、チームワーク。第十に、審判。この様な要素を土台にして、各々のチームカラーや特性が発揮されるのである。日本人は、スポーツを形而上的な要素で解釈しようとする傾向がある。即ち、精神力至上主義である。スポーツは、勝負である以上、一つ一つの勝負を左右する要素として、選手一人一人の精神力や人間性が重要であることは確かである。しかし、精神力によってスポーツは成立しているわけではない。スポーツを成立させている基礎は、先に述べたように、形而下の要素なのである。この様に、自然発生的に構成された構造と明確な意志によって構築された構造との間には、若干の差があるのである。しかし、この差が構造の基本的な性格の差となって現れてくるのである。そこで、自然発生的な構造を分析しながらどの様にして、意志的に構築された構造を構築していくのかを徐々に明らかにしていきたいと考えるのである。
 構造とは、一つの全体と複数の部分からなる集合体である。また、一つの構造はそれ自体が、他の構造の一つの部分となることもある。個々の部分は、基本的には、独立した要素を構成し、他の部分に関連づけられている。例えば、一つの細胞は、それ自体が、一つの独立した構造を有している。そして、同時に、細胞は、人体や生物の部分にもなるのである。そして、細胞の集合からなる人間は、他の人間と集合して、一つの社会を形成していくのである。この様に、構造は、全体にも部分にもなるのである。そして、それを決定付ているのが構造を成立させている前提条件である。構造を分析する場合は、構造全体を解析すると同時に、部分を分析する必要がある。構造を構築する場合は、部品を作っておいて全体の設計図や青写真をもとに組み合わせていくのである。この様に構造は、一つの全体といくつかの部分からなっているのである。
 構造を構成する要素、部分には、全体に従属したものと、独立したものとがある。全体に従属している要素や部分は、構造が解体した時、その機能を喪失するが、独立している要素や部分は、他の構造に組み込まれたり、また、一個の構造として機能し続けることが可能なのである。
 設定された条件によって全体にも、部分にもなる構造は、相対的なものである。構造も、認識の過程から生じるものであり、設定された条件によって、その機能や役割も変化してくるのである。つまり、設定された条件によって同じ対象の構造でも、それ自体が独立していると見なされる場合もあり、また、他の構造と関連付られる事によって成立していると見なされる場合もあるのである。そしてまた、設定される条件によっては、構造は、閉じられた構造なったり、開かれた構造なったりもするのである。しかもまた、構造の中には、構造がおかれている状況や環境によって、閉じたり、開いたりする構造もあるのである。一人の人間を、国民、もしくは、社会人としてみた場合、その人は、国家や社会との関連の中で社会を構成する一つの要素として捉えられるが、他方に於て主体的意志をもった一個の人格としてみなした場合、一個の独立した個人と見なされるのである。つまり、人間は、社会人という側面と、独立した人格という側面の二つの面を持っているのである。また、経済という次元と政治という次元、一個人としての次元といった具合いにそれぞれをいくつかの独立した次元で分割して設定した場合、各々の次元において独立した部分を担うことになるのである。また、人は、家庭人としての私的な一面と、社会人としての公的な一面を誰もが持っているともいえる。そして、私的なものとして尊重されるべきものと、公的な部分として公開されている部分とを現代人は、持っているのである。しかも、普段公開されない、また、基本的には、公開してはならない情報でも場合によっては、強制的に公開されることもあるのである。また、人間には、公開されているかいないかにかかわらず、外から伺い知れない内面と、歴然とした外面とがあり、それぞれ、独立をした構造を持っていることが多いのである。この様に、構造は、設定された次元や条件によって違った意味を持つ、即ち、相対的なものなのである。
 構造は、全体と部分からなる集合体である。ただ、集合であるだけでなく構造は、構造を構成している要素が、一定の法則によって位置と運動と関係を決められているのである。構造を決定づけている法則は、お互いが独立し、かつ矛盾してはならないのが条件である。位置と運動と関係が与えられるということは、構造は、空間的であることを意味する。
 スポーツは、ルールを与えられることによってそのルールが有効な空間、フィールドが同時に設定される。そして、チーム、構造は、そのフィールド内においてのみ機能することができるのである。この様な空間は、物理的な空間のみではなく、精神的な空間や観念的な空間をも含めている。
 人工的に、整合的な構造を作り出そうとした場合、人間は、お互いに矛盾せず、独立した命題からなる法体系を作らなければならないのである。そして、体系づけられた法体系が、お互いに矛盾していないことを、論理的に証明することが条件付られている。しかも、論理的に実証する場合は、その論理の根拠を明確にしなければならないのである。特に、数学のように無形な構造は、その根拠を論理的な命題として確立しておかなければならない。数学と同様、民主主義は、無形で、人工的な構造の典型である。それ故に、民主主義は、数学的公理主義と論理実証主義を基礎的なものとしてもっていなければならないのである。数学的体系は、物理学や化学のように実験的に実証する実体を持っている。しかし、それに対し民主主義のように、人間の観念にその論理的根拠をおいているような体系は、法体系の矛盾を判断する手段として人間の価値観によらなければならない。そのためには、常に、法の根拠となっている価値の正当性を立証し続ける必要が生じるのである。そして、その価値の正当性は法体系の無矛盾性を法源となる価値体系から導き出すのである。その法源となる公理的体系が、憲法である。
 数学の法則は、数学的空間を生み出し、物理学的な法則は、物理的な空間を前提とする。国家の法は、国家としての空間を成立させ、スポーツのルールは、スポーツのフィールドを生み出す。この様に、法則は、空間を生み出す。故に、構造の存在は、構造を成立させている法則を前提としている以上、法則によって生み出されている空間の存在が、必然的に構造を成立させる前提とされているのである。
 構造が、構造を成立させている空間を前提としている事実を鑑みれば、構造は、必然的に多元的、立体的なものである事が解る。つまり、多元的な空間を前提とするというのは、構造も空間的なものである事を意味するからである。構造が、空間的であるということは、同時に、構造が、単元的ではなく、多元的な対象であることを意味する。即ち、構造を構成する要素は、複数あり、各々が独立しているのである。そのこと自体から考えても構造は、多元的なものである。しかも、構造を構成している要素のいくつかは、独自の独立した次元を持っているものがある。例えば、物理的空間や時間である。多元的な対象を単元的な座標軸に写像する事は可能である。しかし、それは、現象を解析する上で有効な手段であって、多元的な構造を単元的なものとして人為的に構造を再構築することは不可能である。つまり、構造や空間を単元的に再構築することには、限界があるのである。
 無形で人工的な構造の典型は、計画である。ただ、一般に計画と言えば単純に時系列的なものを指す場合が多い。しかし、本来、計画とは、多元的なものであり、時系列な構造は、その中の一つの要素にすぎない。計画には、時系列的なもの以外に人的(組織)な構造、作業的(実務、業務、仕事)な構造、情報(事務)の構造、物理的(機械、建物、道具)構造、経済的(予算)な構造、計画を取り囲む外的環境と複数の次元によって構成される立体的なものなのである。しかも、時系列的な構造も、作業の同時的な進行、または、組織的な進行を考えるあわせると、単純に直線的なものではなく、並列的なものになるのである。計画のように、構造的なものを直列的、単元的なものとして捉えた場合、構造そのものの自律性が失われ、構造そのものを破壊する結果を招くのである。
 計画が一元的なものでないばかりでなく、政治も経済も一元的なものではない。計画経済と言うものを、単純に、時系列的な枠組みの中に押し込んでしまうと、経済の自律性は、喪失され、経済構造そのものを破壊してしまう。また、権力構造も多元的なものであり、単元的な行動規範によって支配しようとする全体主義的、独裁主義的な権力構造は、組織の自律的な機能を弱らせる。そのために、この様な権力機構は、長期的な視点にたって考えると、極めて脆弱な構造と言わざるを得ないのである。経済も政治も、本来、多元的かつ立体的なものである。三権分立の様に、民主主義が、権力構造を多元的なものに発展させてきたのは、権力の自律的な機能を維持していくための必然的な帰結だといえる。また、経済も、産業をより構造的なものに組み変えていく必要があるのは、経済の自律的な制御能力を高め、より効率的で安定した社会を築くために不可欠な事なのである。
 法則によって一定の空間を与えられた構造を構成する要素は、各々空間内部に位置を与えられるのである。位置を与えられることによって要素は、空間を支配している法則によって相互に関係付られ、運動を与えられるのである。また、空間内部には、法則を維持するための力が働いているのである。そして、構造内部の要素間には、空間内部の力の他に、個々の要素の位置や運動、関係を保護、保存しようとする力が作用しているのである。そして、この力が構造を構成している要素間に、引力と斥力として作用するのである。構造内部でこれらの力が、均衡している時、構造は維持されるのである。
 構造を成立させている空間は、多層的なものである。故に、構造は、階層的なものとなる。つまり、個々の次元や場によって構造の特性が変化し、この事によって必然的な構造は階層的なものになるのである。また、更にそれを時空間的なものにまで拡大して考えると、構造は段階的なものとなるのである。
 現在の国際社会に生起する問題を分析すると、民族的な場、宗教的な場、地理的な場、人種的な場、経済的な場、政治権力が作り出す場、経済制度が作り出す場、思想的な場、歴史的な場、文化的な場といくつかの場が重層的に重なりあってその問題の背景となる空間を成立させている。そして、その一つ一つの場に応じて構造は、各々の構造や特性を持っている場合が多い。そのために、そこで生起する問題は、当然、重層的な場によって形成された空間を前提とし、必然的に階層的な構造を有することになるのである。この様な問題を解決するためには、対症療法的なものでは不可能であり、どうしても、構造的な解決方法を用いなければならないのである。
 構造は、構造に蓄積されている力が臨界点を越えると構造的変化を起こす。例えば、物質は、物質に加えられる熱量に応じて気体、液体、固体の変化を繰り返すのである。また、成長は、この様な構造変化の連鎖と見なすことができる。そして、成長や変化に対する記憶は、あらかじめ構造的に組み込まれていると考えられるのである。生物は、構造的に組み込まれた記憶に基づいて学習をし、成長をしていくのである。つまり、成長や変化は、段階的なものであり、その段階における特性は、個々の段階における断面の構造によって決定づけられているのである。この様な考えを発展させると思考も構造変化の連鎖の一つとして見なすことができる。つまり、論理的な一対一対応は、構造的な一対一を意味しているのである。そして、人間の思惟の軌跡は、個々の段階を形成する構造の重心を繋合わせたものと見なすことができるのである。
 成長や変化は、段階的なものである。この事は、特に、人為的に構造物を構築しようとした場合、絶対に留意しておかなければならない。例えば、建物を造ろうとした場合、自ずと手順がある。基礎工事もせずにいきなり空中から建物を立てることはできない、設計図も書かずに工事にかかるのは無謀である。基本的な手順を無視しては、建物は立てられないのである。そして、各段階に応じて、組織も、状況も変化する、即ち、段階によって構造も空間もそこに働いている力も変化するのである。この段階性は、無形なものも同様である。むしろ、無形な構造、例えば、国家や経済と言った構造を構築しようとした場合、この段階性は重要な意味を持つのである。民主主義体制の導入や経済制度の建て直しを計画した時、引き起こされる混乱、ひどいものは、流血の惨事は、この段階を無視することに原因があることが多いのである。
 民主主義は、人類史上もっとも構造的な体制と言える。構造的な体制である民主主義体制は、段階や状況に応じて、構造を変化させることが可能なのである。政治体制が発展していくためには、段階や状況に応じて体制を変換していくことが重要な鍵を握っているのである。それ故に、権力構造の問題は、分権的な体制がいいか、それとも集権的な体制がいいかという問題ではなく、状況や環境に適合した体制、構造を選択し、体制を変化させる機能や手続きを持っているか、いないかが問題なのである。状況や環境に適合できるように、制度を変化させていくことができない体制は、硬直的なものであり、周囲の変化に適合できなくなって滅んでいくのである。民主主義体制と言うのは、国民の権利に基づく立法機関を設けることによって、体制内部に体制や構造そのものを変換させる機能が組み込んである体制なのである。その様な機能を持つことによって民主主義体制は、体制を柔軟にし、高度な構造に発展させることが可能なのである。
 また、政治体制の段階的発展は、他の構造、たとえば、経済体制の段階的発展と歩調があっていなければならない。つまり、政治体制のみが構造化されても、他の構造が不安定な状態にあると政治体制も不安定なままになるのである。それは、政治体制だけで、国家の政治構造が成り立っているのではなく、勢力構造によっても政治は、左右されることを意味している。そして、政治勢力の力の根源に経済的な構造が強く影響しているからである。表面に顕在化している政治体制だけでは、潜在的な政治の勢力構造を変化させるのは困難である。それ故に、経済の構造の変化も、政治の段階的な発展に、連動して行われなければならないのである。これが、民主主義体制の成立を極めて困難なものにしているのである。
 成長や発展を考えた場合、段階に応じて、その構造を変化させていく仕組みを持っているか、いないかが重要なのである。その様に構造を状況に応じて変化させる役割を持っている因子を変換子という。また、変換をした後、どの様な構造にするかを記憶している因子を記憶子という。変換子と記憶子は、外部から与えられた情報に基づいて、構造を変化させる。そして、変化した後の構造は、また、構造的に次の構造を記憶しているのである。また、構造を他の構造と結び付けたり切り離したりする機能を持っている因子を接続子という。発展的な構造は、記憶子、変換子、接続子といった要素を含んでいる場合が多い。
 構造内部の運動は、基本的には、波動運動、即ち、回転運動である。波動運動も回転運動の一種である。つまり、運動の基本は、回転運動であり、特に構造内部の運動や働きの基本は、波動、即ち、回転運動である。肉体を循環する血液は、回転運動であり、血液を送り出す搏動は波動運動である。人間の思惟の構造も段階的で循環的なものと見なすことができる。
 自律的な構造物には、劣化と衰退はつきものである。劣化や衰退は、構造を維持するために失われる力によって引き起こされる。それ故に、構造物に取っては劣化や衰退は、不可避な現象なのである。この様な劣化や衰退がある構造物を維持するためには、循環運動や波動運動が必要となるのである。
 対象を認識し、それを解析して問題化し、問題を論理的に解明する。その解答に基づいて決断をして行動をする。行動の結果を解析して、再度、問題化する。この様に、人間思考は、回転している。それが、考えるばかりで決断が、つかない状態を空回りと言うように、対象を認識して行動に移し、それを反省するという大循環ではなく、途中から同じところをどうどう巡りしている小循環に陥っているのである。構造物は、循環運動によって保たれている。血液が循環しなくなった部分は壊死してしまうように、循環運動から取り残された部分は構造を維持できなくなる。人間の思考は、一定の過程を維持することによって成立している。それが、中途半端な過程を循環したり、途中を短絡すると途端に人間の行動は破綻してしまうのである。この様に、構造物を維持するために不可欠な大循環は、一定の過程を維持しないと破綻してしまう性格を持っている。将棋の千日手は勝負そのものを成立させなくしてしまうのが良い例である。
 人間の歴史や経済も何らかの波動運動をしているともみられる。それは、人間の歴史や経済が構造的なものであることの証拠である。同時に、人間の歴史や経済は、その波動運動や循環運動を正しく見極め、それを成長の軌道へと絶えず修正する必要があるのである。
 構造的にもっとも安定したものが結晶である。社会構造をより安定させる為には、社会構造の結晶体を仮定することである。
 人間の社会は、構造的なものである。そして、制度や機構は、その社会の未来を構造的に記憶しているのである。制度そのものには、時間が陰に作用しており、制度や機構だけで、その社会の未来は、確定されるものではない。しかし、基本的な制度の骨格は、その社会制度が形成された時に、確立されるものであり、その骨格を基礎にして、社会の成長発展は決定づけられるのである。つまり、社会の成長や発展は、それが成立した時点の理念や制度によって拘束されているといっても過言ではないのである。もし、国家の根本的な改造を目指すならば、その根本的な構造を変える事が不可欠なことなのである。将棋は、駒の動かし方やルールは、あらかじめ決っているがゲームの展開までは、こうしなければならないという決まりはない。しかし、ある程度、経験を積めば、駒組の定石を覚え、終盤のおおよその形も読めるようになる。この様に、将棋の展開は、ある程度の形があり、それを覚えないと勝負にはならないのである。人の一生は一人一人違うが、生まれてから死んでいくまでの成長の過程は、大差がないのである。人間、死に方は、千差万別であっても、死という現実は、一定なのである。いかに科学が発達した現代でも、人間は、生病老死という宿命からのがれることはできないのである。人間は、生まれた時から死ぬことは運命づけられているのである。個体差や環境の差が人間を変えることはあっても、母親から成人男子がいきなり産まれて話だすわけではない。また、馬から人間が生まれることもない。同様に、制度や機構を見れば、その社会がどの様な運命を持っているか、までは予測できないが、ある程度は、その社会の能力や限界、成長段階は予測することができるのである。野球の結果は解らないが、そのルールに定められた範囲の展開は、予測できる。つまり、制度や体制は、その社会の発展段階を構造的に記憶しているのである。その様な基礎的な構造を土台にして、その上に、個性が形成されていくのである。歴史は、繰り返されるのである。そして、繰り返しながら螺旋状に成長していくのである。我々は、個性と言うと、人と変わった点ばかり目を向ける傾向があるが、実際には、大半は、共通点なのである。その様な共通点から個性は、発展することを忘れてはならない。人は、人であり、人であることを前提にして考えを発展させない限り、意味がないのである。
 自律的な構造は、構造の置かれている状況や環境によって有機的に変化をする。この様な変化によって環境に適合していくのである。また、変化にも法則があり、法則に基づいて変化をしていくのである。そして、この様な有機的な構造は、変化の法則を構造的に記憶し、最終的に、普遍的で安定した構造に到達するように、成長を管理しているのである。人間の社会を取り囲む環境や状況は、絶えず変化をしている。この様な外界の変化に対応できるのは、状況や環境に応じて構造を返られる有機的な構造である。裏返して言えば、構造の最終的な形態は、初期の構造に記憶されているのである。歴史は、それが形成され始めた初期の構造を継承するのである。それ故に、例えば国家の盛衰は、国家の体制の中に組み込まれたいると言っても過言ではない。それ故に、国家制度や法のような社会構造の基礎は、実際的、実体的なものでなければならないのである。
 また、人工的な構造の多くは、何等かの仕組みや、装置、機関を持っており、個々の要素は、機能的なものである。それ故に、また、実体的、実際的な働きをするのである。政治制度や経済制度は、機能的でなければならない。働きのない制度や実際的でない文言が入ってくると、制度そのものの整合性や厳密性が薄れ、全体の働きや機能を低下させることになり、また場合によっては、構造そのものの統一性や機能を失わせ、構造を破壊してしまう事になりかねないのである。つまり、法や制度が有名無実化してしまうのである。
 政治制度や経済制度のような社会的な構造は、実際的なものでなければならない。社会的な構造は、公理主義的なものと、実証主義的なものの上に立てられた、合理的なものであるべきだからである。観念的、抽象的な構造は、その構造の正当性を立証する手段を持たないからである。計画や制度は、それが実施されてはじめて構造としての意味を持つのである。構造としての意味をもった時、その正当性が立証されるのである。いくら優れた計画にせよ、制度にせよ、それが机上のものである限りは、意味がないのである。そして、制度や計画の成否は、成果が手で初めて評価される。しかも、制度や計画が実体的である事は、その基本となる要素も実際的で実務的なものでなければならない。実際的で、実務的であるためには、それにかかわる誰もがそれを理解し、かつ共通の認識に立たなければならないのである。つまり、勝手に誰もが解釈できるようなものではなく、解釈するための何等かの実体的な基準や構造をもっていなければならないのである。
 科学は、対象を構造的に捉えることによって発達してきた。そして、その内的な構造を支えているのが数学である。数学が、世界の共通の言語となる過程で科学も、国際的に統一された体系を築き上げることに成功したのである。また、数学がこの様に世界に共通の論理的体系として承認された要素は、その視覚性と、操作性とによるところがおおきい。なぜならば、数式や図形の視覚性と操作性によって多くの人間が一つの問題を解明することが可能となったからである。
 この様な科学の国際性は、スポーツの国際性にも通じるものがある。スポーツの国際性を内部で支えている構造は、ルール体系である。国際的なルールの確立によってオリンピックの様に、体制や思想、信条の異なる国や民族が一つの競技を同じ条件によって競い合うことが可能となったのである。
 近代会計学は、会計原則と複式簿記によって経済に世界共通の基盤を与えようとしている。近代会計学の確立は、企業の多国籍化や国際貿易を活発にしたのである。しかし、確かに、近代会計学によって経済の基盤は提供されたが、経済構造を形成する産業構造を構築する体系は、未だに、確立されてはいないのである。しかも、民族や国家、体制、思想、宗教といった要因が、商慣習や経済制度に微妙に影響を及ぼし、経済が一つの体制に統合されるには、程遠い状況なのである。そのために、世界経済は、未だに一つの体系に基づいて構築されてはいないのである。
 独裁体制が、組織の自律的機能を失わせるように、計画経済や管理経済は、経済の自律性を失わせる。それに対し、自由経済は、市場の制御能力に限界があり、経済を失速させたり、暴走させたりする。経済を安定させるためには、産業を設計図に基づいて構造化させると、同時に、市場の中に制御能力を機構的に組み込む必要があるのである。そのためには、近代会計学の様な経済の論理構造だけでなく、産業や市場、財政や金融制度といった制度的構造や機構的構造、組織構造の原理を明らかにする必要があるのである。
産業を構成する一単位である一事業体ですら多くの工程を持っている。一つの産業ですら、これらの事業体を数多く組み立てていくことによって成立する。また、産業には、産業固有の特性、例えば、労働特性、地域特性、商品特性、市場特性といった産業特性を持っている。市場の機能と言っても単一なものではなく、各々の産業や流通機構によって相違するのである。一つの商品が原材料から製造され、消費されるまでの過程でも多くの部分から成り立っている。個々の部分を部品化して、産業を一つの効率的な機構として築き上げるのが構造経済である。今日の自由主義経済下での経済制度は、この様な、制度や機構、組織の成立を成行きにまかせている。そのために、経済の自律的な機能が発揮されないでいるのである。逆に、計画経済は、計画そのものの状況に対する適合性がなく、経済の自律的機能そのものが欠落しているのである。この様な今日の経済制度の欠陥を補い、更に、効率的な機構に組み替えていくことが、世界経済を安定させる為には絶対的な条件なのである。また、経済構造の構築を成行きまかせにした結果、利益第一主義が横行し、貨幣価値が統べての価値に優先されるような社会風土を築き上げてしまっている。環境の保全や資源保護といった新しい課題を解決するためには、産業の持つ特性を充分に計算して、法的、または、制度的な規制を持たせるか、産業、または、市場そのものに制御、管理できる機構を組み込んでおく必要があるのである。この様に、経済の構造化は、経済を安定し、管理するために、不可欠なことであるが、そのための基礎として、近代会計学によって論理的な構造は、確立されているが、産業を構築するための公理的な原則は、確立されていないのである。
 そして、産業構造を築き上げていくためには、公理的な原則を確立する事と並行して、その産業の歴史的な背景や産業が成立したいきさつなどを考慮し、そのうえで、段階的にあるべき姿に近付けなければならない。なぜならば、産業の発展や成長は、不連続なものではなく、歴史的必然性を充分に配慮していかなければならないからである。
 この様に、経済制度は、制度や機構、組織面は不備でも論理的構造の基礎的な部分は、近代会計学によって不十分ではあるが整備されつつある。それに対し、政治制度においては、民主主義の概念はあっても、それを内部から支える論理的構造すら確立されておらず、そのために、民主主義化された国家と言うのは、世界の中でもごく限られた国に限定されているのが実状である。しかも、その中の多くの国家が理念や概念的なものであって実体は、民主主義からかなりかけ離れているのが実状である。平和な世で豊かな世界を築くものの根源は、政治と経済である。その根源である政治経済が一つの体系のもとに築かれない限り、世界に恒久的な平和は、訪れないのである。そして、環境や資源は、人類共通の財産であり、人類は、心を一つにしてこれらの問題に取り組まなければならないのである。地球は一つであり、人類は、本来一つであるべきなのである。事実、科学やスポーツは、国境や民族、宗教を乗り越えることができたのである。その根本は、科学もスポーツも一つの体系を共有しているからである。それ故に、人類が一つになるためには、科学やスポーツの様に一つの体系のもとに、政治や経済を世界構造を築き上げていく必要があるのである。世界は一つという言葉を、科学やスポーツは先取りをしている。しかし、一番、人間の未来に関係が深く、そして、人々の一生を左右している政治や経済は、未だに一つの体系によって統一されていは、いないのである。人類の不幸の根源の原因は、そこにあるのである。
 政治や経済と言った構造を統一するためには、その根本にある価値体系を統一する必要がある。民主主義以前の世界は、血族や姻戚関係を中心にした氏姓制度や大家族主義的なものであった。そして、道徳や倫理観は、この血族や姻戚関係による秩序を維持する為のものであった。この様な自然発生的な人間関係を基盤とした社会は、結局、階級制度や封建制度のような構造の下敷になったのである。そして、それは、今日でも民族や人種の対立の根底を形作っているのである。つまり、合理的な理念や倫理観が先にあったのではなく、人間関係が先にあった事になるのである。民主主義は、この様な自然発生的に形成された人間関係ではなく、合理的な精神による人為的な構造によって制度を再構築しようとする試みなのである。しかし、今日、問題になってきたのは、環境問題が示唆するように、自然な状態を無視して人間の都合ばかりを押し付けても結局うまくいかないように、自然の人間関係を無視して論理的な制度を押し付けても有効に機能しない事が明らかになってきたことである。そこに、現存する構造の持つ意味を正しく理解する事と新しい構造を構築する事の両立が求められているのである。
 十善に如かず。世界が一つの原理に基づいて体制を築くためには、人間のあり方を決定づけている価値体系の統合というもっとも厄介な問題がある。しかし、よく考えてみると、世界の倫理の基本ある原理には、大差がないのである。つまり、国家体制の根幹にある個々人の価値体系は、決して複雑で難解なものではなく、万国に共通したものである。しかも、その数は、少ないもので三つ、せいぜい十程度のものなのである。即ち、十善に如かずなのである。つまり、価値体系の公理的な原則は、キリスト教やユダヤ教で言うモーゼの十戒、仏教で言う十善なのである。しかも、その基幹となる部分は、殆ど共通なのである。そして、神の前の平等を説く事によって、それは、自然発生的に成立した人間関係からも開放されたのである。ただ、その根本の原則を実体化しようとした時、その国の文化や民族の慣習、宗教の戒律や教義によって多様に変化するのである。しかし、考えようによっては、それは枝葉末節な事であって本質は同じなのかもしれないのである。神こそが信仰の本尊であった戒律や教義があって神が存在するのではなく、その意味からいえば、神の前の平等こそが信仰の本質なのである。そして、この事によって道徳や価値は、普遍的な意味をもちうるのである。この事は、世界の価値体系の公理的な部分を確定する事の可能性を示唆するものである。人間が護らなければならない最低限の事柄は、小異を捨てて、大同に就けば、案外単純な事柄なのかも知れないのである。結局、人間の道徳の根本は、人を殺してはならないとか、人のものを盗んではならないとか、嘘をついてはならないといった、単純で当り前なことなのである。そして、しかもその本義は、神の前において等しく正しいことなのである。
 道徳や価値の根本にある原理は、単純で数少ないものであるが、それが、外的環境や、状況によって多様に変化する。しかも、状況によっては、お互いが矛盾する場合が生じることもあるのである。これが、物理的構造や数学的構造と違う点であり、社会の整合的な構造を構築するための障害となっているのである。そして、そこに生きることの難しさがあるのである。
 また、更に行動規範となると、行儀作法、冠婚葬祭、祭礼、儀式、言葉遣い、挨拶、席順といった礼儀、禁忌といった風習や慣行と更に構造的に多様なものとなる。また、言語体系や歴史的背景などからもこの様な行動規範は、多様化する。そして、この様な行動規範の根源は、宗教である。行動規範は、人間存在の本源に根ざしているものであり、そのために、自己を超越した神聖な存在、即ち、神に源を発しているのである。つまり、行動規範の根源は、論理的なものではなく、感覚的なものであり、批判が許されない神聖でかつ絶対的な価値基準なのである。例えば、食べてはならないとされる、食物に対する考え方は、宗教や民族によって異なっており、それは、理屈いかんにかかわらず、それを信じている者にとって神聖不可侵な事柄なのである。仮に、それを変えられる者がいるとしたら、それは、自己か、神に準じる存在以外にはないのである。そのために、細目的な基準や体系まで人類の価値基準を一つにまとめあげることは不可能な事である。この様に価値基準は、自己の存在そのものにかかわるものとして捉えられ、命がけで護ろうという意志を働かせてしまう。それ故に、もし仮に、それ以外の者が、強圧的な形で、これらの体系を変えようとした場合、何世代にもわたって怨恨を残す結果になる危険性すらあるのである。
 この様な価値や行動規範の多様性に対処するためには、自己概念を客体化し、社会を構成する一つの要素として、その機能的を実体化する事によって社会を構造化する以外にはないのである。そして、民主主義は、価値の根本を自己善に置き、自己を客体化した個人という概念に、社会における基本的な機能、要素を持たせる事によって、社会を一つの構造に統一していこうとする思想なのである。
 宗教や倫理、価値観と言うのは、極めて構造なものである場合が多い。ただ、宗教や倫理の構造は、意図的なものではなく、無意識に構成されてきたものが大半である。曼陀羅がその典型であり、仁義礼智忠信孝悌という八徳、五徳といった徳を中心に儒教も構造的なものである。なぜ、宗教や倫理、価値観が構造的なのかといえば、多様に変化する現実の世界に対応するためには、原則論的な観念では不可能であり、状況に多様に対応できるような構造を必要としているからである。特に、儒教は、構造的にものである。そして、近代以前の国家や社会体制は、この様な世俗的な価値体系と、宗教的な教義が結び付いて、現実の社会制度や行動規範を構成してきたのである。宗教的な教義をその根底に持つことによって道徳の神秘性と神聖さを保持したのである。それ故に、近代的な意味での合理性を前近代的な倫理体系は、持ち得なかったのである。
 それに対し、民主主義は、合理的な理念を実体的な制度に置き換えたものである。それによって価値の多様性や多様に変化する社会情勢に対応できるようにしたのである。民主主義の根本理念は、自由、平等、博愛であり、それを実体的な解釈するのが民主主義の憲法である。そして、基本的に、民主主義の正義は、基本的人権を核とした、自由、平等、博愛なのである。つまり、自由、平等、博愛が民主主義における正義であり、それを制度化したものが民主主義体制なのである。自由とは何か、平等とは何か、博愛とは何かを、法や制度によって実体的なものに転化したものが、民主主義なのである。つまり、自由や平等、博愛を制度的に、法的に解釈したものが民主主義なのである。この様に、民主主義は、それまでの価値概念とは違い、制度的、また、法的に価値基準を体系化したものである。同時に、民主主義は、基本的な理念の上に常識的価値観、つまり、従前的な基本的倫理観を乗せ、それを公理的な原則として法体系を構築しているのである。そして、この様な法体系を制定、改廃するための基幹としての立法機関と法を管理するための司法機関、行政を執行するための行政機関といった機構を築いているのである。しかも、各々が独自の機構を有して機能的に働いて国家を成立させているのである。それ故に、民主主義体制は、他の体制に比べて、機能的、かつ機構的な要素の高いものとなったのである。
 人間の内面の構造と外的な構造の葛藤は、世界が複雑になるにつれて多岐にわたり、複雑化している。内的な世界は、常に、外的な世界からの脅威にさらされているのである。自己の内的な世界は、自己の存在が間接的な認識対象である事により、やはり、間接的な認識対象である。それに対し、外的な世界や構造は、直接的な認識対象となる。つまり、自己の価値観や倫理観は、外の世界に投影することによって知覚されるのである。この事によって、自己の価値観は、外的な状況や環境を通じて確立されていくのである。その時に、外的な世界が、歪んでいたり、バラバラであったりすると、人間の価値体系は、分裂し、自己の主体性を破壊することにもなりかねないのである。哲学や倫理観は、その様な人間主体の統一を保つために必要なのである。
 人間の善意識は、自己善が基本であるであると、自己の章で述べた。多元的な自己の意識を統合し、その同一性を保っているのがこの自己善である。しかし、この自己善は、絶えず外部からの圧力にさらされているのである。正しいとそれまで教えられ、信じていたことが、強い外部からの圧力によって否定されたり、結果的にその過ちが証明されたり、他の価値観と矛盾し、対立してしまうことは、往々にしてある。孝ならんとすれば忠ならずと嘆いた武将は多くいる。恋愛と仕事との板挟みで苦しんでいる恋人達は、後をたたない。太平洋戦争が終った後、教科書の一部を黒く塗りつぶさせられたのは、半世紀前の出来事である。何もない時に、人を殺せば、人殺しになるのに、戦場で人を殺せば、英雄になる。何も悪い事をしていない者でも、うっかりとした不注意による事故が加害者にしてしまう。恩ある人を、仕事の為に、結果的に裏切ることになったり、正しいと思って忠告した事で友達から恨まれたりする。悪いことをして金をもうけている人間が栄え、いくら間違ったことをしなくとも、才覚がなければ落ちぶれていく。だました男に貢ぐ女。人が善いからだまされる。だまされたほうが悪いとうそぶく世間。その度に人は、自らの道徳、つまり、自己善を問われることになるのである。何が正しくて、何が間違っているのか、人は悩み苦しみ続ける。そこから、善悪という価値を捨て、因果律や利害損得、優勝劣敗、弱肉強食といった価値を採用する者も出てくるのである。そして、そこから宗教や哲学が生まれるのである。
 また現代人は、社会の価値が多様性になるにしたがい状況や環境の変化に対応して、価値観を使い分けせざるをえないような状況にもなっているのである。職場においては、激烈な競争を生き抜く為に優勝劣敗、弱肉強食的な価値基準に従い、仕事場を離れると平等や和といったまったく別の基準に従う、そして、家に帰れば善良なパパを装うと言う具合いにである。また、学生時代に信じていた思想を捨て、生活や仕事の為に、正反対の価値観を持った人間に変貌してしまう。多少の疑問や嫌悪は持っても、周囲の環境や社会に迎合してしまう。世代や年代による価値観の相違を統一できないままに共存している社会、それが現代社会である。どうしてもつきあう人間ごとに価値観を使い分けざるを得ない状況が発生するのである。そして、段々にこの様な価値観の使い分けは、自己の人格を分裂させ、疎外感やアイデンティティの喪失へと発展するのである。
 科学者の倫理がよく問われる。原子爆弾をはじめ、最近、爆弾や科学兵器の開発は、科学者の協力がなければ不可能なことだった。科学者は、結果として人類に対し重大な犯罪を侵したのではないだろうか。この様に、科学者個人の人格や思想の問題とは別に、国家権力や国益といった問題がからむと、科学者は、自分の研究の成果の何処まで責任を持たなければならないのかが大変に微妙になるのである。この種の問題は、科学者のような特別な人間ではなく庶民的な次元でも問題になる場合がよくある。その典型は、徴兵問題である。戦争は悪いことだ。しかし、では、無法者に、自分達の家族や同胞の運命を委ねても善いのだろうか。国を守るために、戦争にいくことは、殺人を禁じた日常的な倫理観や法に反する行動を強いられることを意味する。この様な、公共の正義と個人の正義との矛盾は、戦争だけでなく、人間は、一生のうち一度や二度は遭遇するものである。
 価値観や倫理観のように人間の内面から人間の行動を律している構造と法や制度のように人間の行動を外部から律している構造との相克は、時に、人間の主体性をも破壊してしまう。また、外部から自己に干渉してくる価値は、多様であって、自己の置かれている環境や社会、状況によって変化するのである。しかも、ただ、それが法と価値観と言うだけでなく、法と法、価値と価値が矛盾を起こして葛藤する事さえある。例えば、世俗の法と軍法とはまったく異質なものである。つまり、法体系にせよ価値体系にせよ、その成立する前提条件によって構造的な変化や変質を起こすことがあるからである。また、家庭における人間関係と、仕事場における人間関係と質の違う複数の人間関係が常に存在し、そこから生じる緊張関係によって現代人は、日常的に、かつ、無意識に、重大な異質の決定を迫られ、そのつど価値体系を起用に使い分けているのである。この様に、古くからいえば義理と人情の相克や葛藤といった一つの人格の中で二つ以上の価値が葛藤すると言うのは、多くの文学の題材にもなっているありふれた出来事なのである。しかし、この対立は、心中物の例を見ても解るように、自己の存在そのものを脅かすような脅威に発展する可能性を常に秘めているのである。
 現代社会は、構造の時代である。構造は、昔から存在した、なのに、なぜ、現代が構造の時代かといえば、近代以後の構造物は、より複雑に、また、より巨大に、そして、より広範囲にわたって進化したものだからである。この様な構造の進化によって構造が構造を産み、更に、その中心の構造をより深く深化し、周辺の関連した事柄の構造化を促進してきたのである。構造は、自己増殖をし、周辺の構造を呑込み、際限なく拡大を続けてきたのである。それ故に、現代は、構造の時代なのである。そして、いま、構造は、進化の過程で弱肉強食、優勝劣敗の時代を迎えようとしているのである。つまり、肥大化した構造は、巨大化すればするほど、いくつかの構造に吸収統合されつつあるのである。その結果、生き残った構造どうしの対立が激化し、生存競争の時代を迎えつつあるのである。そのために、最後の生き残りを賭けて構造と構造が対立し、より深刻な事態を引き起こしつつあるのである。その事は、宗教や、民族的対立、国家間の対立をより深刻なものにしているのである。そして、構造と構造の対立が深化するにつれ、そこで生起する問題の図式も構造化してくるのである。
 世界は、千々に分裂を繰り返し、対立を激化している。対立の形式も多岐に渡っている。民族問題は、民族間の風習や文化的構造に根ざし、宗教的対立は、歴史的、教義的な構造に根ざし、思想的対立は、政治体制や経済体制の構造に根ざしている。多民族国家は、国内に、民族的な対立を内包し、移民国家は、人種的な対立を内包している。国家間の対立が国内の対立を引き起こしたり、国内の対立が国際紛争の原因になったりしているのである。そして、しかも、対立の図式も二国間の対立とか、東西二つの体制の争いといった単純な図式から、多面的、多局的な争いに発展してきているのである。たとえば、政治的に協力できても経済的には対立していたり、逆に、経済的には利害が一致しているのに政治的に対立したり、同じ民族でありながら、思想的な対立をしているといった具合いに、いろいろな要素が複雑に絡み合って一つの問題を構成しているのである。しかも、対立は、国家と国家と言う枠組みを越え、同じ国の人間が、また、極端な場合、親子が思想的に争ったり、宗教的に対立したり、逆に、一つの民族、一つの家族が国境線によって幾つもに分断されたりと、あらゆる局面あらゆる地域の隅々にまで浸透してしまったのである。この事によって構造的な対立は、あらゆる社会に重大な亀裂を入れ、あらゆる人間関係をズタズタに引き裂きつつあるのである。この様に、現代は、構造と構造の対立の時代である。そして、その結果、構造と構造との対立は、人類の生存を支えている世界体制の構造に重大な亀裂を入れ、人類の存在そのものをすら危うくしかねないまでに発展しているのである。
 先にも述べたように、構造と構造の対立は、一つの人格、国家、世界といった体系を分裂させ破壊させるところまできているのである。この様な状況が更に進むと、世の中の関係という関係すべてが連鎖反応的に破壊され、その結果、世界全体が無秩序で無政府的な状況になり、混乱と荒廃によって、地球的な規模での破局へと導く可能性が高いのである。
 社会構造の歪みは、階級制度、貧富の格差、富の遍在、特権階級の発生、独裁体制、人種差別といった不条理の原因となる。そして、それが社会の淀みとなり、その淀みから利権が生まれ、社会全体を腐敗させていってしまうのである。社会は、常に鮮烈なものを必要としている。それは、社会の新鮮さを保ち、淀みをなくすために不可欠なのである。そして、鮮烈なものは、淀みを生まない構造によって生み出されるのである。
 現代は、意志の時代でもある。即ち、構造と構造の対立の時代でもあり、そして、意志の時代である。それと言うのも、構造と構造の対立を克服するためには、意志的な構造によって、構造間にある溝を埋めていかなければならないからである。つまり、無秩序に、無計画に構成それてきた世界構造を、計画的に再構築してく事いがいに、現代社会で生起している諸々の問題を解決する事が、できないのである。資源や環境が無限なものではなく、有限なものであることが、明らかになってきた今日、資源の保護や環境保護は、決して成行きまかせにしていてはならないのである。創造は、常に破壊を伴う。無秩序な乱開発は、環境の壊滅的な破壊をもたらす。開発を創造的なものとするか、破壊的なものにするのかを決するのは人間の意志である。新たな世界を創造していく為には、人間の強靭な意志と信念が必要とされているのである。それ故に、どの様な社会を創造していくべきなのか。根本的な問題は、その構想である。新しい酒は、新しい皮袋に・・・。人間の強い意志が、世の中の淀みを打ち壊し、新しい器を創り出すのである。つまり、意志の時代は、創造の時代でもあるべきなのである。人間の意志があってはじめて創造的な世紀は、生み出されていくのである。


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