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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第3章第1節  自明

 生と死を見つめて・・・。私達は、自分の死を当然の事として受け止めている。しかし、動物達はどうであろう。我々には、判らない。また、いつごろから、死を当然なことと思うようになったのであろう。それも定かではない。神を信じない者はいる。しかし、自分の将来の死について疑る者は少ない。しかも、生きている者は、誰一人死を経験した者はいないのにである。なぜであろう。同様に、自分が、親から生まれた事を疑る者もいない。自分の真の親が誰かを知らない者は結構多くいる。それでなくとも、自分が生まれた時の記憶を持っている者はいまい。それでありながら、自分が人間の親から生まれ、いつかは死に逝く者だということを、自明な定めとして受け入れている。
 この世に確かなものはあるのか・・・。この世の出来事は、うつろい易く、不確かなものばかりである。人の心はあやふであり、人の運命などなおさらである。栄華を極めたものが、今日は敗者となり、強健なる者も明日は、野辺に眠る。夕べの友は、今日の敵となり、今まで争っていた者が、明日は睦びあう。哀しみは、喜びに変じ、喜びは哀しみの種となる。所行無常、万物は流転するのである。人類の定めとて明かではない。突き詰めてみれば、確かなのは、自分の確信だけである。
 物事を決定論的に捉えるか、非決定論的に捉えるかについては色々と異論がある。しかし、全ての物事が予め決定されているか、否かという議論は、極端な議論である。決定的であるか、否かも相対的な問題だと考える。大切なことは、何が決定的なことであり、また何がまだ決定的でないかを正しく見極めることである。また、それを見極めるのは自己の認識であり、任意な意思である。そして、決定的な事として前提とすることが自明なことなのである。
 近代社会は、自明とした前提に対し、矛盾していない命題を真理とすることによって成り立っている。ただ、矛盾していないというのにもいくつかある。その中で、近代社会においては、論理的な無矛盾、意味論的無矛盾、形式的無矛盾の三点に該当していなければならないのである。つまり、近代という時代は、無矛盾性によって自明なものの上に築かれた社会なのである。
 それ自身が、目的や前提となるものを、自明なものとする。自明とは、それ自身がそれ自身の存在を明らかにする存在である。自分が生きていると言うことや目の前の対象が存在すると言うことは、それ自身が目的となり前提となるものである。生きていると言うことは生きていること自体が生きていることを証明するものである。対象の存在は対象の存在自体が対象の存在を証明する。それ故に、自己の生存や対象の存在は自明なものである。自明なものはあらゆる行為や全ての現象に先行して存在し、それらの前提となる。つまり、自明とは、疑る余地のないものを言うのである。
 原対象や原世界は、直感によって認識するいがいにないものである。最初の対象認識は、本性直感すなわち対象を直接認識することにはじまるのである。故に、認識をたどっていくと必ず直感的な認識にたどり着く。つまり、自明とは、認識の根なのである。そして、このような直接的な認識対象はほんらい、無規定、かつ、無意味なものである。自明なこととは、対象の認識における端緒的な事項である。これが、自明な事柄である。また、無規定で無意味な対象は定義することができない。故に、この自明な事柄は無定義な事象なのである。
 法則や原理を自明なものと考えている者がいるが、法則や原理は本来は自明なものではない。法則や原理の根拠となる自己の生存や現象、対象の存在が自明なのである。この辺の錯覚が科学に対する奇妙な神話を生み出して原因らしい。つまり、一部の人間は、科学とは絶対的法則を前提として成立していると思い込んでいるのである。そして、その絶対性に基づいて科学と名がつけばどんな事でも可能だという錯覚があるようである。例えば過去に遡ったり、無機的なものに人間的な命を吹き込んだりといったことである。その反面非科学的というレッテルが貼られると全てが否定されてしまうのである。これは、彼らが科学は何を基礎にして構築されているのかを理解していないことに原因があるのである。人間が直接知覚できるのは、表面に現れた表象だけである。法則や原理を直接知覚しているわけではないのである。法則や原理は表面に現れた表象を通して類推や推測によって導き出しているのである。この様な表象に直接結び付いた事象を自明な事というのである。そして、科学はこのような自明な事を土台にして成立しているのであり、科学的な法則や原理は、自明なものから推論や仮定、仮説に基づいてそれを論理的に発展させることによって導きだした命題にすぎないのである。即ち、人間の認識は、自明な事柄を根として、対象の表面を網の目のように覆っているのに過ぎないのである。そして、論理の信頼性は網の目の粗さによって決められるのである。故に、法則や原理は原対象に投げかける事によって絶えず検証する必要があるのである。
 数学的な公理が証明可能性に依拠しているならば、自明は、了解可能性に依拠している。対象をあるがままに受け入れていくこと、それが科学的な認識の前提である。対象を素直に受け入れ、認めていく姿勢がなければ、自明な事はなくなるのである。つまり、自分の目の前の世界や対象の存在まで否定されてしまえば自明な事というのは、存在しえなくなってしまう。それでは、科学は成立しようがないのである。すなわち、自明な事は絶対的なものではないのである。自明といえどもそれが観念的なものである以上相対的なものである。また、同時に自明な事というのは、任意なことである。その好例が進化論と聖書の論争である。人間は猿から進化したという主張と神が創りたもうた者であるという論争が示すように結局どちらの側に立つかによって自明な事というのは、まったく正反対なことになってしまい、両者の言い分も平行線をたどってしまうのである。厳密にいえば科学的に自明といっているのはそれを自明だと了解しいる人間の絶対数が多いということである。仮に、他の認識の前提として絶対的なことを自明な事と定義するならば自明なのは、認識前提である自己の存在と原対象のみだといえる。しかし、人間は対象の属性から対象の存在を直感する。つまり、原対象も間接的認識対象なのである。また、自己の存在や原対象の存在ですら、それを観念化すれば、相対的なものとなるのである。故に、自己の存在や原対象の存在を観念化した命題も、自明なこととは言い切れないのである。故に、自明な事といえども常に現象に還元しなければならないのである。これが科学の実証主義の根拠である。
 自明なものとは、自己が自ずから明らかなものと信じている対象である。この様な自明な対象は、我々の中に潜在的に存在する。自明なものは全ての認識の前提であり、その意味で全ての行為、現象の前提となる。即ち、全ての認識の前提となる認識である。そのために自明なことは認識上における前提であることによって意識の表面に現れてくる対象の陰で潜在化していくのである。直感的に存在認識、認識了解するとすぐに忘れられてしまうのである。自明な事と言うのは自分達が日常生活で当然だと思って忘れている事の中に多く含まれているのである。ことさらに考えることもなく、疑問も持たず、あたまから自分が信じきっている事柄が自明な事なのである。
 自明なものとは、自らにとって、即ち、自分(自己)にとって明らかなものという意味もある。つまり、自明とは、認識了解を前提とした対象であり、任意な事象である。我々は、自明な事と言うとその自明性を対象に求めがちであるが、自明とは本来自己の認識上の問題なのである。全ての認識対象の存在の前提であり、また、認識主体である自己の存在を前提としているかぎり、自己の存在のみが自明なことである。しかし、現実には我々が自明なものとしてとらえている事柄は自己が自明な事として信じている事柄である。この様な事を前提とするとたとえ自明な事として信じている事柄でも本来自己の主観から逃れられるものではない。故に、あくまでも自明な事柄といっても仮定の域を出ないのである。今日では、自明とは一つの体系や論理を成立させるための前提としてとらえられているのである。
 任意な事柄とは、自己の意志が働いている事柄である。自己の意志が働いているにしても、作為的にでは直感的に働かせている事柄なのである。ただ、それは単純に無作為というのではない。無作為と言うと自分以外の第三者の意志や何等かの仕組みの働きのある事象をも含まれるが、任意とはあくまでも自己の意志の働きがなければならないのである。そして、自明とはあくまでも任意なことである。対象は、無規定かつ無意味な存在である。この様な対象に何等かの規定や意味を与えるためには、そこに何等かの意図が働く。その様な意図によって対象を特定したり、意味を与えることが任意なのである。任意な対象という概念は科学にとって重要な概念である。しかし、任意な意志というものは、科学に対し果している役割のわりに軽視されており、それが科学の基礎概念を曖昧なものにしてしまっているのである。
 任意に決められる自明な対象は、自己の環境の変化に影響され時代や地域、思想信条によって変化する。すなわち、自明な事柄は、存在了解、認識了解によって公式になるのである。我々は紙幣をあたかも自明なものとして捉えているが日本に紙幣が定着したのは明治時代以降であり、江戸時代以前の通貨制度は全く異質なものであったのである。戦後生まれの子供達はテレビや電話の存在を当り前なこととして受け止めそれを不思議がらない。それは子供達が生まれたときからそういった機械があったからである。江戸時代の人間がテレビや電話わみたら魔法か妖術の類と錯覚するであろう。現に江戸時代の人間は写真に撮られると魂が吸い取られると信じ込んでいたのである。日本人は子供でも日本語を使用しているが外人からみると大学を卒業して博士号を持っている様な人でも日本語を難解な言葉だと感じるそうである。この様に我々が当り前なことと信じ込んでいることの多くは個人的なものなのである。自明というのはそれを自明なことだと考えている人達の間でのみ自明なのである。
 どの様な理念もたとえそれが暗黙であろうとなかろうと一定の合意を前提として構築されているのである。故に、その理念が一般大衆にどの位広範囲に渡って普及するかは、その論旨の根底をなす合意事項の信憑性、説得力によって決まる。ある人物を絶対的な聖人としている集団にとってはその人物を全く信じていない人間が聞いた時どんなに荒唐無稽な話に思える事でもその人物が正しいと言えば絶対的な真実として受け入れられる可能性が高いのである。また、ある思想や書物を絶対視し神聖視している団体ではその思想や書物に書かれていることは他の人間がみて矛盾していると感じることでも絶対不可侵なものである場合が多い。なぜこの様な差が生じるのか、なにがその原因なのかと言えばそれは、その人達が何を自明なこととしてよりどころとしているのかによるのである。たとえば、ある神を信じる者にとって神の存在そのものは自明なことであり、聖典に書かれていることは疑る余地のない、即ち、これもまた自明なものなのである。またある人物を生き神様だと思い込んでいる人達にとってその人物の全てから発すること全てが真理でありかつその人物の存在そのものによってその事は自明なことなのである。同様に思想や理念を絶対視し教条的に信じ込んでいる者にとってその中で述べられていることは自明なことなのである。つまり、自明なものと言うのは個人的なものなのである。いまだに聖書に出てくる天地創造論を信じるものにとって進化論はたやすく受け入れることが出来ないのは、当然の事である。彼らにとって科学的な真実より、精神的な真実の方がより確かな事なのであり、科学技術の発展より精神的な救済の方がより切実な問題なのである。科学的なものの見方をしていると自負している人間はすぐにそれ以外の考え方を一方的に非科学的な迷信と決めつけてしまうが、その人間が何を自明なものとし何を根拠にそれを自明としているのかを確認しないかぎり簡単には決めつけられないのである。例えば針灸漢方薬に代表される東洋医学を科学的な裏付けがないからと言って一方的に迷信と決めつけられないようなものである。
 何を信じるか、それが問題なのである。何がその人にとって信じられるのか。その人が信じたものによってその人の一生は決まるのである。科学的思考とは、人間が一番受け入れ易いことにその根拠を求めるのである。つまり、日常的な出来事で繰り返して起こること、反復して起こる事、再現できることに根拠を置いているのである。そして誰でもが認めざるを得ないような当然なことの上に論理的な展開をして一つの法則を導き出すのが科学なのである。しかし、自明なことと言ってもあくまでも各人の合意の上に成立するものであることにかわりはない。そのために厳密な論証や実験を繰り返すのである。それは、その根拠の信憑性を高め、了解の可能性を増すためである。そしてその論理的整合性、無矛盾性は数学によって裏付けられて更に精密なものとなるのである。故に、科学的合理化は、計数化、数量化、方程式化と同義語的に考えられているのである。しかし、総ての科学は約束事と合意事項に基づいているのであり、如何なる論理もその約束事や合意事項の上に展開されているものである事を忘れてはならない。つまり、科学は仮説の学問である。故に、如何に数学的に裏付けられたとしても科学の基盤は考えられているほど堅牢なものではなく以外に脆いものなのである。そのために常に科学はその根拠を確認し、証明しなければならないことが運命づけられているのである。自明なことと言うのはこれらの事を考慮に入れないかぎり真の意味を理解することは出来ない。了解を求めてあらゆる角度から、疑る余地がないと言う合意に到達したとき、自明なことは成立するのである。
 多くの科学者達は、神が存在しないとか、天国や地獄といった死後の世界は幻想に過ぎないなどと決めつけているわけではないのである。逆に多くの著名な科学者達は大変な関心を示し、実際に研究をしたりしてもいるのである。ただ、そういった曖昧なことを論拠としていないだけである。科学者と言うとどうも得たいの知れない、凡人には理解のしかたい摩訶不思議なことを研究していると言う印象が一般にはあるようだが実際には日常的な出来事を洗練しているのに過ぎない。寧ろ、過去において科学者が哲学者や芸術家、聖職者に抱いてきた劣等感は、死後の世界や神について科学は解答を出せないという点であった。この様に科学は、不器用で素朴な学問である。科学とは、誰もが日常的であたりまえすぎるほどあたりまえだということを前提にして成立しているのである。科学者はその事を決して忘れてはならない。
 万人が万人、なんだそんな事かあたりまえなことではないかと言えば、それが真理であり自明なことなのである。また、あたりまえだと受け止める人間が多ければ多いほど自明性は高まるのである。つまり、科学は魔法ではなく手品のようなものである。種を明かせばつまらないことである。面妖な事ではない。超自然現象が有り得ないとか真実ではないと断定することは出来ない。ただ合意がとり難い事であり、科学的それを証明するためには根拠が希薄なだけである。だからといってそれを全面的に否定するほどの力は今の科学にはない。ただ、科学的にとりあげるにはあまりに特異な現象と言うだけである。ほんらい日常的であたりまえな事をいかにして多くの人に納得させるかそれが科学者の仕事なのである。そのために、あたりまえだと考えていることの一つ一つを検証し根拠を明らかにすることが必要となるのである。だからこそ、科学の身上とするところは、解り易さと根気なのである。
 自分の事を知り、相手の意見を尊重するためには、自分が一体何を自明なものとしているかを知ることである。自分が何を根拠に自分の考えを発展させているのか、それを自覚せずに他人の意見を尊重することは出来ない。況や何の根拠もなく他人の言動を批判したりする事は許されないことである。先ず自分の考え方の根底にあるものを充分自覚することが大切であり、そのために人間はお互いの意見を交換し自分と相手の立場や価値観を知るのである。ただ相手の意見に反対し建設性のない批判を繰り返すことは愚劣である。何等未来に対する展望もなく、構想もなく反社会的な行動をすることは社会を破滅させるだけである。代替案もなく対策もないままただ自分の正当性のみを主張して相手の非のみをあげへつらい相手を中傷し名誉を傷つける様な論法はただ単に冷静を欠いた感情論であり非理性的なものである。如何にそれが著名な理論や崇高な理想に基づいていても、それを観念的にしか捉えずその思想や理想を現実化できないまま非現実的なものを根拠としている限り、いくら科学的で人道的なものだと主張してもそれは非科学的であり非人道的なことである。反対することは簡単である。なにもかも否定的に考えることは一時は気が休まるかもしれない。反対しておけば結果がいくら悪くても言い訳が出来る責任が逃れられるように思うかも知れない。しかし、それは錯覚に過ぎない。悪い結果が出れば結果によって全員が責任をとらされるのである。この世の全てを否定してしまえば自分の罪が消えると思っているのならばそれは間違いである。賛成したり支持することの方が余程難しいのである。世の中を肯定的に捉えこの世の矛盾や苦難に立ち向かっていくことの方がずっと難しいのである。むろん、人の意見に賛成しそれを支持するとはただ体制に迎合しおもねる事を意味するのではない。自分の信念を明らかにし、迫害や圧力を恐れず堂々とそれを世に向かって主張することである。故に如何なる反対意見にもその根底には自己の考えの根拠に対する肯定と信念がなければならないのである。だからこそ賛成したり、支持したり肯定することの方が勇気がいるのである。人の意見を闇雲に否定するばかりで自分の考えを明らかにせず世中を甘くみて人を侮蔑する生き方は卑怯であり臆病なだけである。大切なのは可能性を追求することである。夢を持ち持たせることである。人を挫折させ絶望させることではない。破壊することよりも創造することの方が難しいのである。本来否定的な側面よりも、肯定的な側面の方が多いのである。だからこそ確かに否定的な面を誇張し、強固に反対すれば目立つかも知れない。それでは何もかも破壊し自滅するだけである。我々に求められているのは、自分を目立たせることではなく、いかにして自分の信念に否定的な側面を克服して事を成就するかである。どんな人間でも優れたところはあるどんな人間でも未来に可能性がある。自分の人生を肯定し、可能性を追求するそれは即ち人類を肯定し人類の未来の可能性を追求することでもあるのである。相手を打ちのめして全てを諦めさせることではない。戦争に反対するのならばいかにして戦争を起こさせないかを考えそれを実行することであって自棄になって暴力的で無軌道な行動に訴えることではない。そのためには自分の志しのありどころを確認しなければならないのである。そして、それは一体何を自分が自明なものとし、また仲間が何を自明なものとして合意しているかを明らかにすることなのである。それは自分が何者であるかを知り、自分の真の味方を自覚することでもある。
 人間の価値観はじゃんけんの様なものである。価値観が相対的なものであり、絶対的なものが存在しない以上、必ず価値観には長所欠点があるものである。暴力は人の恨みを買うが愛情だけでは人は動かない。かといって利益で人を誘えば際限がなくなる。正義や名誉は人の生き方を決定づける重要な要素ではあるが正義や名誉だけでは生活が出来ないと言った具合いに人間の価値観はその前提や条件によって人に与える影響度が変わってくるのである。集権制度は、指導者に恵まれれば平和と安定をもたらすが、常に指導者個人の性格に左右される。一度指導者が独裁者や暴君となれば人民や国家は圧迫され疲弊する。代表制度、代議制度は指導者の気まぐれを抑制するが寡頭政治や派閥、群雄割拠を招き易い。民主主義は、国民の権利を保障しその意見を政治に反映するが国民が堕落し利己主義的になると衆愚政治に変質する。強力な指導者による改革や統治は独裁政治を招く危険性があり、代表制度は分裂を招く危険性がある。極端な分権主義は無政府主義や無秩序に陥る危険性がある。それぞれの体制の長所は他の体制の欠点となり、また逆に一つの体制の欠点は他の体制の長所となるという具合いに価値観や構想はじゃんけんの様な関係にある。故に、自分が出したものが自分が置かれている環境や条件に対し相手の出したものより有利に働くか、また正当的、妥当なものかを正しく判断しなければならないのである。自分の信念や依って立つものを正しく知りそれに基づいて自分が世の中にどう進退するかが肝心なのである。その為には自分が何を自明なこととしているかに依って大きな差が生じるのである。
 自分の主義を主張し、また相手の考えを問いただす場合何よりも先ず自分の主張や質問の意味を充分把握しておく必要がある。なぜと言う質問は、原理や目的、つまり根本的根拠や原因に明らかにする為の問い掛けである。即ち自明なことに対してはそれを自明だと信じている人間にとって意味を為さないか問い掛け自体にその答えが含まれているのである。なぜならば自明な事とはその人にとって自ずから明らかなことであり、それ自身が目的であり前提だからである。又なんの為にと言う質問は、対象間や自己と対象間との関係や係わり合いを解明するために問い掛けられる質問である。自明な事とはそれを自明なものと信じている者にとって質問の余地のない問題なのである。なぜ生きているのだろうと言う疑問は、それに疑問を抱かない人間にとって答えられない問題であり、余り問い詰めると当惑するか、不愉快になって敵意を抱かれる危険性すらある。生きていると言うことは彼らにとって当り前なことであり、なぜ貴方は生きているのですか等と質問すればその質問自体がその人の存在そのものを否定されたように錯覚するからである。彼らにとってそれは直観的に前提としているものなのである。つまり、自明な事とはそれを無条件に信じられか、否かが問題なのである。直截的直感的に疑問を抱き質問をしてくる子供達が絶えず大人達になぜと問い掛けるのは、子供達にとってそれだけ自明な事が少ないことを意味しているのである。そして、子供の質問に大人が苛立ちを感じるのはそれが答えられないことだからである。自明な事は人間の価値観や観念の骨格を形成するものであり、自明なものに対する確信が強ければ強いほど価値観やそれに伴う意志や信念は強固になる反面、硬直的で頑固な傾向を持つことになる。逆に自明な事への確信が弱いと柔軟な考え方が出来る反面意志が薄弱となり優柔不断で自信を持った行動がとれず軟弱になり易い傾向を持つことになる。故に自明な事に対する確信を持つと同時に絶えず自明だと信じていることを確認し反問し自分の意見や考えと違う人や出来事に出会ったならば相手や自分が自明としていることを再確認する必要があるのである。
 人間や社会の進歩、変革とは自分達が望んでするものではない場合が多い。多くの場合はどうしてもそうしなければならないから否応なくさせられるのである。なぜならば進歩や変革はそれまで自明な事と信じていたことが揺らぐからである。しかし、人間を取り囲む環境は絶え間なく変わりその環境に適応できなければ人間は生き残ることが出来ないのである。人間が生き残るためには人間は絶えず自分達を変革し続けなければならない。進歩や変革に順応するためには、自明な事と信じていることを見直す必要があるのである。
 科学的に言えば自明な存在は厳密に言えば、自己の生存と対象界の存在である。そして、自己の生存と対象の存在が体現、実現されたものが自己であれば行為であり、対象であれば現象なのである。行為や現象は、自己や対象が実在することによって必然的に生じるものである。故に、科学的見地に立てば現象や行為は自明なものに準じるものとして、自明なものと同等に扱うのである。この行為や現象を分析して、自己の生存基盤、対象の存在基盤を推理、推測して規定したのが原理や法則である。即ち、原理や法則はあくまでも仮定、仮説であり、必然の産物なのである。ただ、我々は、原理をより発展させ、体系的な理論を組み立てていく必要性から暗黙裡に原理を自明なものと同等なものとして扱うのである。それを前提として一定の約束や規則が生まれるのである。その約束や規則の性格によってその後に展開される理論の性格が必然的に決まり、その約束や規則の信憑性によって理論の信憑性が測られるのである。
 人間は善や道徳律を絶対的なものとして考えがちである。なぜならば善や道徳律は自己を源泉としかつ主観的なものであるからである。そのために自分が信じている善や道徳律を否定されると自己の存在基盤そのものを否定されているのと等しいと錯覚するからである。つまり、人間は自己の道徳律の大半を自明なものと信じそれに基づいて自己の行動を律しているのである。しかも自己を源泉とするものは自己の存在が全ての認識の前提として潜在化している為にその根拠が掴めず直観的に信じているのである。なぜ正しいのかではなく正しいと信じているが故に正しいのであり、正しくなければ自分がどうしていいのかが解らなくなるが故に正しいのである。戦争や争い、虐殺や弾圧といった人間の悲惨な歴史の中で宗教や思想が重要な役割を果しているのは、自己の信じている価値観を絶対視しそれを普遍化しようとするからである。思想信条の自由とはこの様な争いをなくすために各人の思想信条が個人的なものであり、それを前提として人類が共存していくために考え出された人類の知恵なのである。
 科学は行為や現象を分析することによってその行為や現象の背後でその行為や現象を生起させている力や法則を解明しようとする試みである。その様な力や法則はほとんどの人の目には見えず知覚し得ない、もしくは、気が付き難いものである。大体その様な力や法則など存在しないものなのかも知れないのである。それ故に、その現象や行為が生起したのと同じ条件や前提を整えて現象や行為を再現してみせ、そういった力や法則の存在を立証する必要があるのである。それが実験と観察である。しかし、力や法則は目で見たり鼻でかぐ事の出来るものではない。そういった実験や観察によって立証された力や法則であっても間接的なものであり直接知覚し得ないものである以上、たとえ実験が成功したとしても絶対的なものではない。所詮科学理論は、仮説の域を出ないのである。
 科学的な意味では国家は決して自明なものではない。国家は人為的なもの歴史的必然性の上に作られたものである。社会は、必然の産物であり、自明なものではない。勿論資本主義体制も自明なものではない。ただ、我々はそれをあたかも自明なものとして前提としているのである。しかし、国家のも津意味を正しく定義しているわけではなく、民主主義や資本主義社会と言うものも厳密な意味で法則化されてはいない。このことがいわゆる社会科学を一つの統一ある体系として統合することを阻んでいるのである。ある人は計量化、数量化することを科学だと思い込んでいる。ある人は直観的に法則化することを科学だと錯覚している。しかし、科学とは基本的な要素を満たさない限り成立しないのである。社会科学が真の科学となるためには、社会や社会現象を成立させている必然性を解明し、その条件と前提を明らかにして社会の仕組みを知り、その上で社会を成立させている法則を解明してそれに基づいて国家を設計しその正当性を立証しなければならないのである。
 自己の生存は、行為の前提として自明なことである。あらゆる行為は、自己の生存を前提としているのである。自己の行為に対する正しい認識は、自己の生存を意識の表層においてとらえることによって可能だがほとんどの人は、自己の生存の意識が潜在化している場合が多い。自己の生存の意識が潜在化することによって自己の行為の成立基盤を見失って、自意識のみが過剰となり、自我を生み出すのである。自分を意識し、その後に対象を意識することによってはじめて正しい認識が生まれるのである。自分の行動を律し、他人の行動の意味を正しく理解するためには、自己に対する認識を明確に持たなければならない。さもないと訳もなくお互いの優劣を競うだけになり、人間関係を破壊するだけに終る危険性が多分にある。価値観や行動規範を形成する大部分が潜在的な部分である以上自己の価値観を解明しないと自己の行動の意味を理解することも出来ない。訳の解らないところで行動し、訳の解らないところで裁かれるのである。これでは自分の行動に責任が持てるはずがない。自分は何もしていないのになぜうまくいかないのだ。絶えずそんな思いに悩まされることになるであろう。自分の事を正しく知るためには、常に自分の行為を反省し自己の行為と他人の行為を比較し、お互いの置かれている立場や状況を分析しお互いの行為の背後に隠されている価値観や行動規範を解明することである。劣等感も、優越感も自己意識が潜在化することによって生じる逆転現象である。人間の価値観や行動規範は論理な体系とは限らない。寧ろ潜在的意識の部分で人間の価値観や行動規範を形成している場合が多い。故に、相手の言動だけを捉えてその価値観を判断すると重大な齟齬をきたすことがある。無意識にしている行為の中にこそ相手の心理、真意を解く鍵が隠されている。相手の行為の真意を知り、相手を正しく理解するためには、行為として現れたことの背後にある価値観や行動規範を解読しなければならないのである。所詮自己の行為の根拠を知らなければ、自己の行為や他人の行動のの真の意味を理解することは出来ないのである。
人間は、表面に現れた行為や現象によって、その背後で行為や現象を引き起こしている力や法則、体系の成立条件を推測する。表面に現れた行為全体からその人の物の考え方を推理する。しかし、推理した動機が正しいと言う確証はその当人を含め誰にもないのである。自分自身の行為も同様である。自分で願っていることでも自分の思い通りにならない事がたくさんある。自己紹介をしろと言われて当惑したときが一度や二度誰にでもあるのではないか。なぜと聞かれて自分のした事で説明が出来ずに立ち往生、困惑した経験のある人も多いと思う。どうしてこの様なずれが生じるのか。それは意識の表層に現れてくる表象は実は自分の観念の全体ではないからである。行為という形に現れた意志表示の内容を分析することによって隠された思考部分を明らかにしないかぎり自己の観念の全体像を知ることは出来ないのである。
 大部分の人間は死を自明なことだと受け止めている。人間の死は必然である。しかし、人間はいつか自分は死ぬべき運命にある事を知っている。人間は自分の死を直視したとき、自分の生の真実を知ることが出来る。死は万人に共通しており、万人に平等である。死はこの世にあるあらゆる約束事や思惑、希望を無惨に打ち壊してしまう。死の前にはどの様な功績も栄光も名声も地位も富も色褪せ無意味なものとなってしまう。これが人間の運命であり、人生である。しかし、それ故に、人間の本質や人生の意義について考えさせられ有意義にしていこうとするのである。人はなぜ自分の運命を素直に受け入れることを拒もうとするのであろうか。自分の一生が自分の預かり知らぬところで決められていると言うことが苦痛なのだろうか。たとえ死ぬべき運命にあったとしてもこの世に生を受け生きていると言う真実を否定することは出来ない。死は、人間が無意識のうちにしまいこんでいる生きることの意義を思い起こしてくれるのである。死は、人間をおびえさせ、絶望させるものであるが、同時に生きる為の情熱を沸き上がらせ、困難に立ち向かう勇気を、人々に与えるのである。恋心を燃え上がらせるものは、死への恐怖である。新たなる記録、未知の世界に挑戦し自分を向上させようという意志をもたらせるのは、生きているうちに、何かその証を作りたいと思うからである。快楽や酒、麻薬によって死という現実から逃れ、それを自分の潜在意識の奥にしまいこみ、その日その日をただ無為に暮らすことが、人生なのだと考えている人間がいるが、それは、ただ自分の人生を呪っているのに過ぎない。ただ、人生は楽しければ善いのだと考えている者が居るとしたら、それは、あさはかである。神を無慈悲だと罵ったところで、死という現実から、逃れられるわけでもない。死によって自分の全てが、無に帰すと思い込んで、自分の一生を呪い、神を否定する者がいるとしたら、それは、狭量である。自分に与えられたものを素直に享受しそれを上手に活用し、自分の人生を実り豊かにするために努力することこそ、生きることの真実なのである。自分の死を認め見つめたとき、自分が、神から与えられたものの全てを知ることが出来るであろう。自分が真に所有できるものの全てを知ることが出来るであろう。そして、自己の世界は、自己の内面にしかないことを知ることが出来るであろう。人間は死の前に平等なのである。人間は、自分の影におびえる必要はない。死は生の影なのである。本来、人間は、言葉によって傷つけられたり、傷ついたりはしない。人間の魂は、ダイヤモンドより硬いものである。しかし、人間の心が言葉によって傷つくのは、人間が自己の弱さによって内側から傷つけてしまうからである。それは、自分の運命を素直に享受できないことに原因がある。
 現実を在るがままの姿で受け入れる。そこから、現実の在りように対する否定も肯定も始まる。我々が、最初に認識するのは対象の存在である。しかも、それはあくまでも直観的なものである。対象を最初に認識した時点で是非善悪の判断は出来ない。また、対象は可視的なものとは限らない。単なる表象の場合もある。それ故に、最初の対象は、映像ばかりでなく表象や香り、感触等を含んだ描像である。対象は現象として現れ、人の観念は行為として現れる。我々は現象や行為を通してその背後に存在する対象や自己の存在を直観するのである。対象の存在、自己の生存は絶対的なものである。しかし、観念の表象として捉えた現象や行為は相対的なものである。つまり、現象や行為をどう判断するかは相対的な観念によるのである。一度自己の内的世界に観念の表象として捉えられた現象や行為は相対的なものであり絶対的な存在ではない。科学的な意味で厳密に言えば自明なのはその生存と存在であって表象として捉えた相対的な現象や行為は自明なことではない。しかし、一般的に自明と言うのは、自分が当り前だと考えていることを指すのである。熱湯が熱いと言うのは自明な事だと大概の人は考えている。同様に、雪が冷たいと言うのも、自明な事だと普通の生活をしている人達は、信じている。故に、自明とは、必然的に自覚的、直観的な認識によることにならざるを得ないのである。自分の人生を肯定的に捉えるか、否定的に、捉えるかは、その人その人の考え方生き方の違いによって決まるものであり、絶対的なものはない。しかし、我々が今現在を生きているという真実は、誰にも否定できない絶対的なものである。自分の人生を肯定的考えるにせよ、否定的に考えるにせよ、この事実を前提としてしか成立しないのである。生きていると言う真実を、積極的に受け入れるにせよ、否定的に受け止めるにせよ、先ず、自分が生きているという自覚がなければ無意味なことである。自明とは、人生をどう考えるかではなく、この生きていると言うその事のみを指して言うのである。そして、自分の命や魂は、自覚や直観によってしか捉えられないことなのである。
 現実を在るがままに受け入れていく事が、科学的ないきかたであるとすれば、科学やそれを支えている哲学は、ありふれた、何処にでもある、日常的な考え方を、基礎としたものでなければならない。哲学や科学は非凡なものであってはならない。平凡でごく日常的、当り前なことでなければならないのである。我々が守るべき行動規範、価値観は、誰にでも守れるものでなければならない。大多数の人間は、聖人君子でも、意志強固な者でもない。最初から守れるはずのない戒律によって人間を拘束する事は、人間の本然のあり方を、歪める事にもなりかねないのである。それは、人間が、自分の人生に失望し、かえって堕落したり、投げやりな生き方に追いやることにもなる。自分だけでなく、自分の周囲の人々を含め、人間として、ごく普通の幸せを、追求するのに、最低守らなければならない戒律こそ、民主主義の原点であり、個人主義の本質なのである。人間は、誰でも過ちや欠点多き者である。無論、それは、過ちや欠点は、当り前なのだと開き直ることではなく、そういった、人間を直視し、自分のあり方を反省し、悔い改める一方で、お互いをいたわりあい、慈しみあい、助け合いながら、人間としての平凡な幸せを、追求し、生きていく事こそ、民主主義的な生き方なのである。
 科学が、人間を支配したり、自然を滅ぼしたりすることはない。科学は、人間が生み出したものである。科学技術を使って、人間を、支配したり、自然環境を破壊するのは、人間である。科学に対する神話も、また、偏見も、元をただせば人間が生み出したものであり、科学とは、無関係なところで作られたものである。科学は、魔法ではない。技術である。天井や屋根から家を作るのではなく、土台、基礎から作り上げていくものである。その一歩はありふれていて目立たない所から始まるのである。信じ難い事柄を捨てて、目前の極々当り前な事柄から、一歩一歩進めていくのが、科学的なやり方なのである。先ず、目前の出来事を信じることである。否定的なことばかり考えていたら、創造的な生き方は出来ない。人を批判ばかりしていても、自分の信念が固まるわけではない。先ず、信念を持つことである。人間の一生とは、その時、開けてくるのである。
 目前に危機が迫り、自分が、判断を下さなければならない局面に遭遇した時、泣いたり叫んだりしても何にもならない。自分の不幸を嘆き呪ったところで、運が開けるわけではない。目をつぶったところで危機が、遠ざかるわけではない。大切なことは事実である。個人の都合ではない。判断に後悔や迷いは役に立たない。どんな事実を前提とし、どの様な覚悟を持って事に当たるかが、重要なのである。それが、創造的な生き方の第一歩である。なぜ、目をつぶろうとするのか。なぜ、逃げだそうとするのか。なぜ、諦めてしまうのか。人間は、自分の力で生きていかなければならない、それが、現実である。現実を生きていく時、人間は未来を信じ、自分の可能性を信じる事によってはじめて人生は、前向きなものとなるのである。それは、現実を直視することによってのみ可能な事である。ありもしない幻想を追い求め、現実に目をつぶってしまえば、決して、その人の一生は満たされることはない。問題なのは現実である。正しく事実を見極めることである。真理とは、言い古され流行遅れでくだらない古くさい陳腐なものなのかも知れない。しかし、流行遅れで古くさいから悪いと決めつけることが出来るであろうか。是非善悪と新旧老若は無関係なものである。現実から遊離したところに真理も理想も成立し得ないのである。
 考えてみれば理想とは、平凡なものである。日常性と非日常性の間には、僅かな隔たりしかない。人間は、ごく当り前の事が出来ないから苦しむのである。より小さな成果によって、より大きな歓びを得られるのは、幸せなことである。それが、真の幸福であることを忘れてはならない。天才と凡人との間は紙一重である。天才が世界的な仕事を成就しなければ気が済まないのに、凡人はほんの僅かな成果にも感激ができる。それは、小さな志しに安住せよというのではなく、常に、自分の一つ上の限界に挑戦し続けていくことによって、凡人は、絶えず新鮮な感激を味わい続けられることを、意味するのである。そして、その様な努力によって、多くの無名な人々は、天才ですら成し遂げられなかった、歴史に残るような偉大な事業を成し遂げてきたのである。天才が易々と出来ることでも、不器用な人間は苦しみながらそれを克服していく。限界は、それを乗り越えた人間にとってなんでもない事に見えても、それに、これから挑戦していこうという人間にとっては、大変なことなのである。人間には、なんでも、はじめ始まりがある。挫折は、重苦しく人間の意志や志気にのしかかる。一体なぜ人間これほどまでに耐え努力を続けなければならないのか。しかし、その絶え間ない努力こそ、人間をより人間らしく成長させるのである。仕事を楽しみ、妻を愛し、子供を慈しみ、親を大切にして、朋友を信じる。これほどの幸せがあるであろうか。そう言う一生を全うすることが平凡過ぎるほど平凡である故に、理想的であることを忘れてはならないのである。ところが人間は現実にはその様な平凡な生き方が出来ない。出来ないが故に苦しむのである。
 本来、国家は、人間一人一人の平凡な生き方や生活を守り実現する為にこそ存在する。それを、小市民的と侮蔑する者もいるが、そういった個人の平凡な生き方が、国家、人生の基本にあることを忘れるべきではない。近代人は、あまりに思想的でありすぎる。思想や信条は観念の所産であり、思想や信条は自明なものではない。人間の真実は、正に、人々の生活の中にある。自分達が、信じている思想を自明なことのように思い込み、それが理解できないからと言って大衆を無知と決めつけ、自分達を前衛と定めるのは、増長である。大多数の人々は革命の為に生きているわけではない。高邁な理想を理解していないからと言って生きるに値しないと決めつけるのは思い上がりである。世の中は、平均的な人間がその大部分を構成しているのである。そういった人々は、自分達のでき得る範囲で精一杯生きているのである。革命とは、個人の基本的な生活が意味もなく、不当に圧迫され侵された時に、必然的に発生するものである。それは、平凡な人間が平凡な生き方を許されなくなるからである。あらゆる悲惨、あらゆる悲劇は、決して観念的なものではなく、現実的なものである。度重なる悲劇を乗り越え、真に、恒久的な幸せを築くためには、この現実を直視し、それに、立ち向かわなければならないのである。そして、この平凡な生き方を尊重しそれを実現する機会を万人に保障するために、あらゆる差別や不平等と戦うのである。それが民主主義であり民主主義の理想なのである。
 何を信じているのかによってその人の生き方は決まる。人は誰でも何かを信じ、何かを認め、何かを決めなければ、主体的に物事を考えたり行動することは出来ない。自分の一生を自分の意志によって決めていきたいのならば自分が何を信じ、何を認め何を決めているかを知らなければならない。自分が何を信じ、何を認め、何を決めたのかを知らなければ自分が何をしているのかすらわからない。自分の事すら解らないものに他人の生き方を批判することなど無理である。他人が何を信じているかは二義的な事である。また本来自分の権利や生活が侵されないかぎり干渉すべき事ではない。誰が誰に恋をしようと大きな御世話である。自明な事は、自分が恋をしていることである。肝心なのは我々の生きざまであり、信念である。我々が肝に銘じなければならないのは、自分達の生き方を守りながら如何に周囲の人間と共存していくかである。そのためには自明な事とは何かを正しく知ることなのである。
 運命は自明ではない。自明なのは生きていることである。人間の一生は暗闇の中に包まれている。明日の事は誰にも解らない。だからこそ人間は自分の存在を確かめ自分の足元を固め確実に前進していかなければならないのである。先の解らないことにおびえ今の生を否定してしまうのは愚かなことだ。いまと言う時を精一杯生きていくからこそ明日を信じることが出来るのである。科学的な生き方とは確実なことを一つ一つ積み重ねていくことである。確かに近代科学は多くの巨人を輩出したかに見える。しかし、アインシュタインが述べたように彼らの多くは巨人の肩に乗ったのに過ぎない。そしてその巨人とは他でもない多くの無名な科学者達の地道な努力と見果てぬ夢なのである。


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