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著書:  自由(意志の構造)上


                  第2部第1章第4節  人間


 偉大なるかな人間。牛や熊のような力もなく。馬やカモシカの様に速く走れもしない。犬のような嗅覚や兎のような聴覚がある訳でもない。鷲や鷹のような目敏さもなく。魚やカワウソのように水中を自在に泳げもしなければ、もぐらの様に地中に潜れるのでもない。また、小鳥や蝶の様に自由に空を飛べる訳でもない。燕の様に大空を渡ったり、オットセイの様に大海原を泳ぎきる体力もなく。鼠や猫のような敏捷さもなく。獅子や虎、豹のように牙や爪を持つではなく。山羊や鹿のような角もない。象や鯨のように巨大でもなく。かと言って蟻や蚤の様に小さい訳でもない。亀や針鼠のように甲羅や針を持つ訳でもなく。蠍や蝮の様な猛毒を持ってもいない。蛙やカメレオンの様に姿を隠せる訳でもなく。猿や栗鼠の様に木々の間を走り回れるのでもなく。狐や羊のように毛皮で覆われているのでもない。裸の猿、人間。寒さにも暑さにも弱い脆弱でちっぽけな肉体と貧弱な力でいつの間にか、自由に空を飛び、水中を自在に往来し、地上を猛スピードで走り。山を崩し、海を埋め。砂漠や南極に住み。太陽のエネルギーを手に入れ。月にすら行けるようになってしまった。一体人間の何処にその様な力が秘められているのであろう。
 偉大なるかな人間。想像力を巡らしては、遠大な理想を描き。技術を開発しては、空想の世界を現実のものとする。価値なきものに価値を与え、意味なきものに意味を見いだす。逆境に神を見いだし。この世の神秘に感銘しては芸術や文化を生み出す。崇高な精神や人間の苦しみ、世の中の矛盾に接しては、哲学や思想に思いを巡らし。政治や経済の原則を定めては、国を造る。数学や科学の原理を探って自然の謎を解明し、目に見えない世界を明らかにする。夢の為ならば危険を顧みないで人跡未踏の秘境を旅しては、未知の世界に光を当てる。一度志しを抱けば、勉学によって知識を蓄え、過酷な修行によって自らの精神を鍛え、肉体を虐めることによって限界に挑戦しこれを克服する。人を愛しては、自由の為に命を賭、正義を知り、情けを感じる。友の為に涙を流し。家族の為に戦い。自分を犠牲にする事も厭わない。信念を持てば、荒波を乗り越え。原野を切り拓いて、街を築き。石を積み、木を組んでは家を建て。山を崩して路を拓き。運河を穿ち。堤防を築き。橋を掛け。トンネルを掘り。新たな歴史を創造する。人間とは一体なんなのだろう。一体何が人間にそうさせるのだろうか。
 人類はいまこれまで経験したことのない全く新しい世界、時代を迎えようとしている。原子力、生命化学、宇宙開発、海洋開発、情報機器、光ファイバー、超電導と言った新しい技術が次々に開発され、もの凄い勢いで進歩している。その反面で環境保護、食料問題、人口問題、経済格差、人種差別、貿易摩擦、道徳や性の退廃、東西問題、南北問題、資源問題、宗教戦争、国際犯罪組織と言った古くて新しい、つまり、原始的問題が益々深刻化している。こうした地球的規模の矛盾が未来に対する極端な二つの見解をもたらしている。即ち、人類が地球から飛び出し宇宙的規模で発展すると言う空想的未来像と、逆に人類は滅亡すると言う終末論的未来像の二つである。何れの説が正しいかはこれからの人類の歴史が明らかにするであろう。しかしそれにしても、一体なぜ何がこの様な事態を招いたのであろう。人間が生み出した世界とは一体何だったのか、どんな世界なのかここで考えていきたいと思う。
 人為的世界、つまり、人工的世界とは、人間が創り出した世界を指して言う。人為的対象、人工的対象とは何等かの形で人間が関与したことが明らかな対象を指して言う。人為、人工とは、人間が作り出した想像的、創造的なものを指して言う。勿論、人間が創り出したと言っても、自然の中にある素材や原料、材料を必要としている。その意味では、自然とかけ離れたところに、人為的、人工的世界は存在するのではない。むしろ人工的な世界は自然の延長線上で捉えなければならないのである。
 自然を支配すると言うにせよ、破壊すると言うにせよ、起を一にする考え方であり、人間の思い上がりである。人間はどうあがいたところで、自然の法則を自分の思い通りに変えることは出来ない。せいぜい出来ることは、現象を予知することぐらいであり、また自然の力を活用することの上手下手程度である。人間はどうしても自己中心的なものの見方しかできないらしい。自然の中で人間が思いどおりに出来る範囲なんて知れている。大宇宙の中で人間が到達できるのはやっと月世界までである。地球を林檎大だと想定すれば現在人間が地中で探索できるのは、皮の厚さほどに過ぎない。海底の謎で我々が解き明かすことの出来ないことがたくさんある。だのに人間はあたかも自分が知り得る範囲の事を自然の全てだと錯覚している。大体自然には、支配だの破壊だのと入った考えが入り込む余地などまったくない。景観用の自然保護や、愛玩動物用の動物保護など無意味である。自然の摂理を無視して本当に困るのは人間なのだからである。人工的世界は、結局自然の延長線上にあるものに過ぎないのである。  
 人間の思想にせよ、科学にしても、人間が生み出したものは、総て観念に基づいている。対象が存在しているか否かを議論するにしても、存在という概念そのものがそもそも観念的なものである。原対象にしても、一旦自己の観念内部に摂取されると、観念的なものに変換されていく。対象を説明しようとすればするほど対象は観念的なものとなる。そして、ピラミッドや、寺院のような壮麗な建造物にせよ、社会のように目に見えないものにせよ、その基礎となっているものが、思想や科学であればやはり、観念の所産といって差し支えあるまい。つまり、人間の夢が創り出したのである。
 無闇に、自然に戻ろうと叫ぶのは、人間の存在全般を否定することでもある。人間が存在するところには、必ず人為的なもの人工的世界が存在するからである。現代社会の矛盾を科学技術の発展の結果とし、自然と人為を対立的に捉えるのは勝手であるが、対立的に捉えることによって人間という存在そのものに対する認識を欠き、自然そのものの持つ本質を見失っていやしないだろうか。そして、そこから唯物論、唯心論といった馬鹿げた議論が生じるのである。それは、部分を取り上げて、それが総てだと言い立てているのに過ぎない。人為的なものは、相対的なものであって総てにはなり得ない。それは、対立によって対立を生み出すようなものである。人間の持つ不完全な部分や欠点に気が付いたからと言って人間の総体を否定するのは危険である。現代の人間に限界があるからこそ、我々はより完全なものを目指していくことが出来るのである。大体それは、それは自然を崇めているようでその実自然を否定することである。人間は自己の持つ不完全な部分を自覚した上で自己の最善の道を選択していくべきなのである。
 対象に貴賎を持たせるのは、観念である。つまり、認識における便宜上、対象に差別や対立を持たせるのである。対象自体に貴賎、差別、対立が存在するわけではない。だが人間は、それらを制度化することによって実在化させ様とする。しかしそれは、原対象を人為によって歪めることであり、制度そのものを破壊してしまう。尊敬できない人間を制度によって尊敬させることは出来ないのである。真実を人間の都合で歪めてはならない。真実は、人間の都合とは無関係に存在するのだからである。科学の偉大な成功は、自然の原理に従う事によって遂げられたのである。社会制度も自然の原理を無視しては成立しない。社会の評価制度は、人間の実力や適正、成長度合を公正に反映しなければならない。民主主義と言うのは、個人と個人の間にある斥力と引力を制度的に均衡させようとする考え方である。何事も、天理を無視して人為的世界は維持できないのである。
 観念とは部分である。人間の記憶とは対象を均質に捉えるのではなく、何等かの形で、部分を誇張したり、取り出したものである。それ故に、観念的な対象を理解しようとした場合、全体の中に一度還元しないと、正しい理解が得られない場合がある。また、対象の概念を人に伝えようとしたとき、全体を理解されずに、部分のみが強調されて伝わる危険性がある。観念とは不完全で相対的なものであるから、元々理解し難いものなのである。故に観念は一次元的に捉えるのではなく、観念の背後に存在する、実体を見いださなければならないのである。
 観念は、不完全なものである。原対象は、不完全とか、完全と言った概念を超越したところに実在するものである。観念の不完全性を原対象の不完全性と取り違えてはならない。完全、不完全と言った概念も、結局は観念の一種だからである。観念は、観念のもつ意味を理解して初めて有効なのである。観念のもつ意味を絶対視すると観念はかえって有害なものとなる。
 人間を哲学によって支配することは出来ない。人間の観念は人類全体を支配することは出来ない。人類を支配しているのは、現実であり、現実を打開し、新しい現実を創造するために観念の産物である夢や哲学が必要なのである。人間は、現実と戦いより良い現実を生み出していくことによって進歩するのである。世界制覇を企む陰謀の存在について聞く度に奇妙な思いになる。現代社会の現象の全てを理解し自由に扱うためには能力的にも時間的にも現代の人間の力を遥かに越えている。一体そんな人間の存在が信じられるであろうか。仮にそれほどの人間がいたら、私は喜んでその人に従おう。人間は好むと好まざるとにかかわらず、自分を超越した存在に支配されているのだから。
 観念は部分の連合として現れる。それ故に、ここの部分を取り上げて、是か否か論ずるのは愚かなことである。ここの部分は全体の体系の中に位置づけられて、初めて、用を為すのである。また、概念のもつ意味を正確に知ることによってのみ、観念を正当に評価することが可能となるのである。知識は、他の知識と連合して用を為すのであり、知識が他の知識と結び付かずに孤立して存在する場合は、唯知っているのに過ぎない。意味のない知識でも、思惟の構造に潜在的に影響を及ぼし、判断を誤らせる原因となる場合がある。故に唯知っているだけの知識はかえって弊害になる場合の方が多いのである。観念や知識は、それを成立させている体系を理解しないと正しく理解できないのである。観念や知識がかえって対象の本質を見失わせる原因はその点にある。しかし、人間の価値基準は観念を体系化したものであることも紛れもない事実である。
 人為と自然を対立的に捉えるのは、人間の創造力、想像力を一方的に否定することにもなりかねない。観念の不完全性は、時として思いもよらない弊害を、人為的世界に持ち込むことがあるが、その弊害は、観念を完成させていく過程でしか克服できない。人為とは、自然法則を活用して、自然の潜在能力を充分に引き出そうとする、積極的精神の現れである。人為が、自然を否定する形で現れてくると言うのは、むしろ、自然の力を充分に活用するのを妨げる考え方である。人間の世界は、自然界の一部分に過ぎない。つまり、自然に逆らえば逆らう程、人間は無力になっていくのである。自然の流れを上手に活用したとき、人間の想像力は最大限に発揮されるのである。そして、自然の力を積極的に活用しようとするのが、文明であり、科学技術なのである。
 芸術とは、表現である。何等かの概念を表現したものである。その概念を美と特定できるものではない。そしてまた、概念は部分である。概念を表現する目的は、伝えようとする概念を受け取り手側に喚起せしめることである。例えば怒りを表現した場合、これは怒りを表現したものだと言う意味を了解させるのではなく、表現者と同じ怒りを受け取り手に起こさせれば成功なのである。況やそれを美しいと感じたならばそれは本来の意味を錯覚している。醜悪なものを表現した場合、それを見たものが気持ち悪く感じれば良いのである。芸術を美術と勘違いしていたならば芸術の持つ意味は理解できない。無論、表現者は、自分が何を表現しているのか自覚していなければならない。概念は部分であり、相対的なものである。善の対極には悪が存在し。美の一方には醜が前提とされているのある。故に悪を悪としてのみ表現していたらその概念の本質を理解させることはできないのである。現実の矛盾を表現するとき、その矛盾を克服していこうとする姿勢が要求される。社会を改革していくためには理想を持たなければならない。絶望的な状況を表現するとき、相手に希望を持たせるように努めなければならない。部分に捕らわれて、全体を見失えば出口のない思いに閉じ込められてしまう。芸術とは、唯対象を模写するためのものではない。対象の背後に潜む概念を、自己を通して実体化したものなのである。芸術家は原対象、対象のあるがままの姿に近づこうとするが、芸術ほど人間らしいものはないのである。芸術家が無為自然なものに近付こうとすればするほど芸術家の人間性が出てしまうのは皮肉なことである。しかし、其れが人間の宿命である。
 人間は常に有限な世界に住んでいる。一人の人間に与えられているものには、自ずから例外なく限界がある。それに対し対象は無限である。その限りあるものを活用し無限な対象から無限に新しいものを生み出すのは、人間の創造力、想像力である。そのためには、自分に与えられたものをよく熟知し大切に活かしていかなければならない。さもなければ、人間は自分を活かす事も出来ないのである。創造力、想像力は、人間を自由にするものである。人間の創造力とは、与えられたものを自己内部で連合していこうとする自己の力である。自分に与えられているものを何も活用せずにまた何も失う事なく、自分に与えられていないものだけで自己の欲求を満たそうとしても、人間は何も生み出すことは出来ない。自己の観念に最初から出来上がっているものはなく、総て自分で創り出していかなければならない。他人が創作したものであっても、例えば、思想や科学といったものでも、それを修得することは、自分がそれを創作したことと同様の意味がある。言い替えれば、自分が追体験的に創作したものである。翻っていえば、修得したものは、原本とは違うものである。出来上がったものとして、対象を無批判に受け入れていけば、或は、完全に修得したとして見直しをしなければ我々は対象の本質を見失い変質させてしまうだろう。自己にとってあらゆる観念は不完全なものであり、未完成なものである。  
 生きるとは、創造である。人間は決して未来を保証されているわけではない。故に人間の一生とは、何ものかを不断に創造し続けていくことによってのみ維持されるのである。そこに生産されたものを土台にして、人間は、はじめて、前進することが可能なのである。人間が生きていくためには、栄養を摂取しなければならないように、思惟の構造は、常に知識を欲している。また、肉体を維持するためには、運動が必要なように、思惟の構造を維持するためには、創造が必要なのである。それは、丁度食物を運動に転換していくように、知識を想像に転換していくことなのである。肉体が運動によって鍛えられるように、創造は思惟の構造を鍛える。怠惰な生活は、人間の肉体を弱めるように、創造のない生活は、人間の知性を疲弊させる。運動不足は、暴力を誘うものだが、生産性の伴わない議論は、破壊を伴う。歓びのない労働は、意欲を奪うように、創造のない思索は、精神を荒廃させる。栄養にならない食物は、かえって人体に有害であるように、建設的でない知識は、思惟の構造にむしろ害を与える。欲望の赴くままに行動すれば健康を損なうように、快楽のみを追い求めれば価値観も退廃的になる。目的のない行動は自己の自制心を奪うように、問題点が明らかでない思考は、自己の方向性を見失わせる。理想のない行動は、自己の発展性をなくすように、信念のない思索は、自己を成長させない。運動の成果を摂取できるのは自分意外にないように、創造に対する真の評価は、自分以外に求めてはならない。人間の一生とは、不断の努力と創造の内にこそある。
人間は、食べる為のみに生きているのではない。生きる為に食べるのである。生きていく為には食べることのみを心配していても駄目である。生きるということは、諸々の要素を絡み合わせながら、自己を総合的に発展させることである。部分に執着すればその部分すら維持発展させることは難しい。人間に要求されるのは均衡のとれた成長である。つまり、いろいろな部分要素を自己内部で統合していくことである。人間の創造力は自己内部にあり、外的な枠組みだけでは捉えきれない。種を叩いても芽は出ず。根を引っ張っても伸びはしない。同様に、人間の成長は自己内部の要素が伸び伸びと均衡のとれた発展をすることによって維持されるのである。人為とはそうした、自己の主体的な意志の発展したものである。人工的な世界を自然と対比して一意的に否定することは、人間の創造性や意志を同時に否定することである。生きることそのものを否定することでもある。自然を畏敬することは大切であるが、自然を重んじるあまりに、人間の存在自体を否定するのは明らかに行き過ぎである。人間も動物であり、自然の一部であることに変わりはないのである。人工的なものを否定するのも行き過ぎてしまえば自然を否定することにつながるのである。
 全体は一つであっても、その全体はいくつかの部分が連合して成立していることを忘れてはならない。故に、全体を表現するためには、個々の要素を羅列しながら、個々の要素間の関係を明らかにしていかなければならない。ここの部分部分を比べると矛盾して見えるかも知れないが全体の中に部分を位置づけてみれば、全体が調和していることが解る。部分だけを取り上げて、是か否かを論ずることほど不毛な議論はない。問題なのは、自己の内的世界に、個々の概念をどの様に配列、配置しどう位置付るかである。右か左かは視点が定まっていえることであり、原対象には右も左もない。一体何を基準にしているのかによって対象の捉え方が変わるのである。ある視点からみれば正しいことも視点を変えれば間違いになる。唯物的であるか唯心的であるか、性悪か性善かの議論は故に無意味である。
 創造の歓びは創造自体に求めるものである。行動の正しさは、行動によって示されるのであり、言葉で表現するものではない。なぜならば、創造の起源も行動の動機も自己に根ざしているからである。創造は自己実現の手段であり、行動は自己表現の結果である。創造の歓びを知らぬ者、行動の正しさを信じられない者は人生を味わうことは出来ない。そして、創造とは反面破壊である。新たなものを創造しようとしたとき、我々は知らず知らずのうちに何ものかを破壊しているのである。自分の行動を創造的とするか、破壊的とするかは、その人の内面の動機によって決まるのである。故に人類が自分たちの行動を創造的なものとするか否かは人類の考え方一つで決まるのである。人為的世界が良いか悪いか、それは人類の在りようの問題であり、人間の社会が如何に住み難くても人間は人間の社会の中でしか生きられない事を忘れてはならない。
 出来合の思想や理論を理解するのは、丁度、市販のプラスチック模型を組み立てるのと似ている。個々の概念を設計図や指示にし違って組み立てていくのである。当然同じ模型であっても、作り手によっては全く違うものになってしまう事がある。作り手の個性が、何等かの形でどうしても入り込んでしまうからである。それはある意味で新しい創造である。つまり、学習というのは、唯筋道を追って為されるものではなく、個々の概念を連合していく過程に他ならないのである。それ故に、思想や理論は、部分部分の羅列や関係付をきっちとしなければならないのである。また、同様に文学は、場面場面の累積として表現される。この様に学習とは、創造的、想像的なものであり、創造力や、想像力を抑圧するような教育は、それ自体自己矛盾なのである。思想や理論に絶対的解釈というのはない。なぜならば、思想や理論自体が相対的なものだからである。
 我々が、議論するときに注意しなければならないのは、その時々に現れてくるのは部分であって全体ではないと言うことである。平たくいえば、人の意見は最後まで聞かなければ理解できないと言うことである。例えば人間は生きるためには食べ物を食べていかなければならないというのと、人間は食べるために生きているのではないと言うのは、決して矛盾していない。私は、ロックが好きだということは、ロックだけを好きだということを必ずしも意味しているわけではないし、私は、象に比べたら小さいというのと、蟻に比べれば大きいというのは対立慨念ではない。要は、その時点時点に語られている言葉や概念が何を意味し、何処に位置づけられるかなのである。また、相手の立場や視点を理解しなければ、相手の主張を理解することも出来ない。右からみればまん中も左。しかし、我々は、一見この当り前に見えるこのことを忘れ、噛み合うはずのない議論をしている場合が多い。左翼的であるか、右翼的であるかなんて人間として如何に生きるべきかと言うことに比べればさして重要なことではない。観念や夢が悪いのではなくそれに捕らわれて、現実を直視しない人間が悪いのである。次元の違う問題をお互いが相手の論点を理解せずに語り合うことは出来ない。そこで繰り広げられる議論は、感情論に過ぎない。感情論は不毛である。結論を出しえない。ところがその馬鹿げた事を国家間で繰り広げ、挙げ句のはてに、戦争に至る。人間とは愚かである。愚かしさを越えて狂気の沙汰である。人間が自らを万物の霊長というのならばもっと理性的に責任をもって振舞うべきである。
人間の社会とは、人為的な世界である。つまり、人間の力ではどうする事も出来ない世界とは違う。自分たちで決め築き上げていく世界であり、自分達で改善変化させていくことの出来る世界である。即ち、人為的法則に基づいて構築していく世界である。それ故に、人間の社会は、観念の所産である。観念の世界が制度化されることによって社会は実在化されるのである。そのために、実在化された社会は、観念のもつ、不完全性や未完成な部分を必ず含んでいる。故に、社会は常に変革を必要としている。社会は完結した、完全な世界ではないのである。観念と観念が実体化された社会を媒介にして葛藤しより完全な世界へと発展させていくのが人間の歴史である。しかし、それはよりよい方に変化しているとは限らない。故に常に自分達の社会が進んでいこうとする方向が正しいか否か点検し、間違っていた場合は修正可能な体制を維持しなければならない。そのために言論の自由、集会、結社の自由は保証されなければならないのである。また、権力を過度に集中させることも危険なことでである。
 人間の社会は最も人為的な世界である。人間の意志の集積と葛藤が社会を生成発展させてきたのである。それだけに人間の社会ほど人間の意志が尊重されなければならない世界もない。人間の自由な意志こそ、社会の礎でありまた創造力の核でもある。そして、人間の自由は精神の自律によって支えられ、経済的自立によって保証される。私的所有を認めるのは、この経済的自立を実体あるものにするためであり、私的所有が否定されるのは、過度に富が集中し、他の人間の経済的自立を脅かした場合である。私的所有を全面的に否定してしまうのは、かえって人間の精神的自律を危うくし、自由を阻害することに通じる。人間が生きていく為に必要な最低限の財産の所有は保証されなければならない。極端な禁欲主義者が人間の欲望を全面的に否定することによって理想は実現すると解くが、人間社会の発展の原動力は、欲望と意志との葛藤によって生み出されるものである。欲望は、原始力と同じ様なものであり、それを制御することが出来れば、大変に便利なものであるが、一度暴走すれば人間の手に負えなくなり、人類を滅亡に導く危険性がある。欲望を社会の発展に利用するか、しないかは人間のあり方の根幹に関わる問題である。そして、人間の存在そのものが常にその様な危険性を孕んでいるのである。
 社会制度は、凡人を基準に作られなければならない。千年や百年に一度現れるか現れないかと言った聖人や天才を基準にしたり、狂人や異常者を尺度にしてはならない。普通の人間が安心して生活できる社会それが理想的な社会なのである。超人的な世界は、小説や空想の世界ならば面白いかも知れないが、大多数の人間は平凡な存在であり、その悩みは平凡なものである。そして、平凡な人間だから環境によって悪くも善くもなるのである。それ故に、全ての人間が聖人であるかの制度や極悪人であるかの法は危険なものである。恋は女性を良い女にも厭な女にもする。人間は煩悩多き動物なのであり、観念で人間を美化しても、それを基に法を定めるのは愚かである。人間を信じることと人間が犯した過ちを知ることとは違う。人間は自分の犯した過ちを自覚するから正せるのであり、過ちを正すことが出来るから人間を信じることが出来るのである。聖人にせよ、極悪人にせよ何れを基準にしてもそれを基準にすればそれは過酷な法や制度になるであろう。人間の世界を形成するのは、大部分が凡人なのである。
 人間が社会を建設していく時注意する必要があるのは、人間の観念は相対的であると言うことである。それは、民主主義における社会と宗教との関係について最も重要な原則の根拠となるのである。対象を観る視点を変えるとそこから生み出される観念は全く違うものになる。地球を人間の視点でみれば観測しきれないほど巨大なものであるが、銀河系宇宙からみれば質点に過ぎない。しかし、だからと言って地球に違いがあるわけではない。人間の観念は対象を変化させることは出来ない。神に対する視点や考え方に差があったとしても神の本質が変わるわけではない。それ故に、自分が信じている以外の宗教を自分が信じていると神と違うと言う理由だけで一方的に否定することは出来ない。只、それが人間の観念の所産である社会内部において両立できなくなった場合においてのみ問題となるのである。しかし、観念が神を支配することは出来ない。神を権力者が社会を支配するために利用したり、聖書や組織によって神を独占したり解釈することは許されない。また、反対に、絶対なるものへの信仰は人間に与えられた、本質的な権利であり、何人もこれを侵してはならない。神は絶対であり、人間の観念は、相対的だからである。故に、思想信条の自由は、人間社会において、それを信奉する者とそうでない者が共存できないような内容を含まない限り保証されなければならない。
 万物万民への愛を説く神がなぜ自分を信じない者のみを否定するであろうか。神の慈悲が普遍的であるのならば、その愛はむしろ神を信じないものにこそ必要なのだ。救いようのない闇に住むものにこそ神の光明が必要なのである。神をどう解釈するかが問題なのではない。神を信じるか否かが問題なのだ。神を利用しようとする者は、人間であり。神を恐れぬ者達だ。それ故に、神の力を権力が悪用しようとしたとき、泥沼のような憎しみと争いが生じる。神を冒涜する者は人間である。科学が科学と全く無縁な所で権力に利用されたように、教団と権力が神とは、全く無縁な所で神を利用すれば、その時、人間の歴史は呪われたものになる。観念によってなぜ神を支配することが出来るであろう。それは、権力と結託した権力の追従者の為せる業である。故に国家権力は国民の安全を護る時以外は、宗教から自立した存在でなければならない。
 言葉は、行動によって裏付けられる。人間の社会に於て大切なのは、実体化されたものである。その社会が平等であるか否かは論理によって証明されるのではなく、実体化した法や制度によって証明されるのである。平等という言葉の意味するところは、論理によって定義されるのではなく。制度によって定義されるのである。具体的にされない限り、人間は平等の意味を理解することは出来ない。また、絶対的平等とは、原存在にしか存在しない。故に観念的な平等とは、何に基づいているかを明らかにしない限り意味を為さない。つまり、人間の社会における平等とは、視点を変えると不平等、差別になることもあるのである。大切なのは、観念ではなく、実体である。真実は実体化された形態が如実に語るものである。原対象というのは料理をする前の野菜や肉のようなものであり、それを観念によって料理するのである。思想や哲学と言った人間の観念の所産に対する解釈を巡って争うことは、聖人や先駆者の糞尿をどうするかで罵り合っているのと同じ事である。健康状態を知るために排泄物を調べるのは正しいが、それを有りがたがっているのは愚の骨頂である。観念は素材を美味しくするために必要なのであり、観念について議論をするのは、料理が旨いかまずいか程度の事である。社会現象は人間の観念が生み出すものであるが、現象そのものは観念ではない。故に、現象をどう解釈するかは、現象自体を分析する事によって解明されるのであり。観念にとらわれている限り正しい理解は得られない。経済や政治現象はそれを発生させている社会制度や法律、文化を明らかにしない限り、理解することは出来ない。一つ一つの事例を社会全体の中に位置づけ確認しながら社会の矛盾を解決していかなければ平等の本当の意味は理解できないのである。
 人間の創造には必ず破壊が伴う。故に創造的であるか否かはその行為の動機にある。また、創造的なものとするか否かは、行為の後の処置によって決まる。革命を礼讃するのも否定するのも同じ事である。だから、そこに理想や哲学、夢が必要なのである。革命的であるか否かは、受取手側の問題である。また、結果に過ぎない。革命は、時代の変化の中で必然的に生じるものである。その変化を前向きなものとしてみるか、否定的なものとしてみるかによって人々の解釈の仕方が違ってくるのである。元々対立せんが為に対立するようなものではない。また、対立があって革命が起こるわけでもない。対立は理論や哲学、神が起こすのではなく人間が起こすのである。革命即闘争と考えるのは間違いである。革命における対立とは、飽くまでも、結果であり、原因ではない。矛盾は変革の原因となるが、矛盾が対立を引き起こすとは限らない。矛盾が対立に発展するのは、その矛盾を解決できないか、その矛盾に気が付かない人間がいるからである。そして、その人間が権力者であった場合革命が起こる。革命に幻想を持ち、只体制に反抗し、闘争することのみを革命だと錯覚する者は、革命の持つ意味を理解できない。対立自体が人為的なものであり、変革を制度的に保証できるような仕組みを作れば平和的手段によって円滑に移行できる。その仕組みの一つが議会制民主主義であり、選挙制度である。しかし、変革を具体的に実行する際は、一つの方向に統一されなければならない。また、ある一定期間一貫性がなければならない。故に、権力の集中と分散の均衡が重要になるのである。三権分立は、その均衡上から派生した制度である。理想的にいえば、常にこれらの体制が維持されることが望ましいことであるが、必ずしも、この均衡を維持できる条件が揃っているとは限らない。故に、国家制度や体制は、これが絶対だと言うものはなく、その国の国情に合わせて選択されなければならない。そして、その選択は、その国の国民に委ねられるべきであり、内政不干渉の原則がそこに成立する。しかし、人類の抱える問題が地球的規模に拡大した現代、一国の事情だけで問題を処理することが困難になってきた。そこで今日、要求されているのが、国家が国家として守らなければならない最低限の条件と国家間の問題を処理するための原則と制度を明らかにしていく事である。国家制度と世界体制との機能分担を明らかにしない限り、人類は国家紛争から逃れられない。
大切なのは真実であり、事実である。何を是とし、何を否とするのか、それは自己の判断である。これを是とし、それを否とするのも、結局自己の観念の領域に属しているものだからである。そこに、否定仕様のない現実がある場合、それを自分が是とするのか、否とするのかが問題なのである。それが間違いだと思えばそれを正していくことが要求される出あろうし、逆にそれが正しいと思うならば、護っていかなければならない。先ず自分がその対象をどう判断するかであり其れにどう対処していくかである。自分で其れを間違いだと思っても其れを正そうとしないのは勇気がないからであり、其れが正しいと信じていながら護ろうとしないのは、卑怯なだけである。神は、生きることの意味を自覚させるために、死という現実を与えたのである。いくら、自分の行為を正当化しようと死は必ず訪れる。故に人間は自己にとって最善の生き方をしない限り、自己の生を全うできないのである。世の中の矛盾に目をつぶり、護るべき者を護ろうと努力しないことは、自己の存在そのものを否定するのと同じ事である。況や、何等自己の意志で判断できないとしたら、其れは自己の存在そのものを否定してしまうことである。人間は内面の衝動と戦い、世の中の矛盾に立ち向かっていくことによってのみ自己を生かし、社会をより良くしていくことが可能なのである。
観念の産物は実在化しない限り空想に過ぎない。例えどの様に立派な考えであっても実現しなければ空論である。むしろ、優れていればいるほど空しいものである。時間は停滞を嫌う。例え結論が出たとしても其れを行動として現せないと時を失う。そうした空想はやがて風化し形骸化する。形骸化した論理は、形式化し、思弁化していく。思考から行動への転移は一種の飛躍である。只ひたすらに信じる以外にない。その結論の大多数が未知なるものである。何事にも誰にでも初めてがある。その初めての事を自分の意志でするかしないかが重要なのである。初めて恋をし自分の気持ちを相手に打ち明けるのも、親元を離れ自分の力で生きていくのも経験のない人間にとっては大変な挑戦である。人間が意を決し、行動を起こすのに必要なのは、信念と気違いじみた勇気である。自分の出した結論をひたすらに信じ、結果を恐れずに立ち向かっていくのは、正に狂気である。
 観念は、実在化し得なければ只の幻想に過ぎない。逆にいったん実在された観念は、原対象と化し、新たな観念を生み出す根拠となる。そして、観念の世界をダイナミックに発展させる。科学は観念を実験において実証化し、工業の発展に結び付けることによって実体化することによってその地位を確立した。人文科学と自然科学との決定的な差はここにある。人文科学が観察だけに依存したり、自説に拘泥している限り、科学とはなり得ない。人文科学が真の科学となるためには、制度や体制といったものによって実体化し、政策のようなものによって実証されなければならないのである。科学は観察と立証が伴って成立するものである。科学とは、観念を実在化しようとする最初の試みである。つまり、科学を成立させているのは人間の観念であり、その意味で、正に科学は思想的なものなのである。
 人間は、夢を持つべきである。そして、そのために働くのである。人の一生は、夢を創造し、そして、それを実現する為の努力によって報われるのである。だから、誰でもどんなに小さくても人間は夢を持つべききなのである。さもないと、一生が惨めで希望の持てないものになってしまう。人生とは、人間の夢を実現していくための過程に過ぎない。なぜなら人生が行き着く先は死だからである。夢を観ることも出来なくなってしまうことは、死んでいるのと同じである。パンをよこせと迫ったのと同じ人間が祖国の為に、理想の為にと死んでいくのは、その人にとって祖国や理想の持つ意味が変わるからである。夢は人間の生き方を変える。それだけに間違った夢は人間を狂わせるものだが逆に崇高な理想は人間の人生を有意義なものにする。理想を根拠ある実現可能なものにするのは現実である。いくらそれが誰しもが望む理想であったとしても実現不可能なものであっては仕方がない。死にたくないといくら思っても人間には避けられない定めがある。幸せになりたいと誰しもが願っている。しかし、この世の人間全てが自分の夢を実現できるわけではないのである。寧ろ夢が実現できる人の方が僅かなくらいである。現実は厳しいものである。故に現実と理想との葛藤を通して、人間はより崇高な世界を築き上げることが出来るのである。
 言葉は行動によって現実となる。思想や哲学は、制度化されることによって実体化する。計画は実務化されることによって実在化される。理論は、実証されることによって実体化するのである。言動の正しさは、行動に結び付くことによって立証され、実績として信頼に跳ね返る。どの様な思想も、その結論が制度上に反映できなければ、その実効性を持たない。どんなに優れた計画も実務上の問題を克服されなければ机上の空論である。理論は、実験や証明によって立証されなければ、公式に認められることはない。観念は、実在化されなければ結局空しいものなのである。   
 麗々しい言辞を連ねながら、卑怯な行動をとる者を、我々は、信じるであろうか。自分の態度を改め様ともせず、自分の行動を正当化せんが為に、思想を自分の都合の良いように勝手に解釈しているものの言葉を我々は認めるであろうか。只、他人を非難する事だけに汲々とし、自己を省みる事のない人間を我々は善とするであろうか。信念に殉じていこうとする者を嘲弄する事が出来るであろうか。人間に取って大切なのは、自己の正しさを他者と引き比べることではない。自己の正しさを実在化していこうとする意志である。そして、その意志とは、自己の信念を行動によって結実させていこうとする強い志向である。自己の言動の正しさを行動によって立証できないものは、つまり、決断力や自制心の弱いものは、自己の正しさを実在化できないが故に、自己の精神を荒廃させるのである。理想や信念を実在化させ様とする努力によって人間は人間たりうるのである。そして、人間が本当に誇れるものは、長所や欠点ではなく。況や、権威権力、貧富貴賎、家柄学歴などでは更々無く、自己善を実現していこうとする努力だけなのである。
 自由、平等、博愛という思想は、何も近年に生まれたものではない。遠くは、仏教、キリスト教、イスラム教、墨子等にも見いだす事が出来る。、それ故に、仏教にせよ、キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、その初期の段階では、時の権力と戦わざるをえなかったのである。しかし、その理想を実在化し得なかったが故に、結局は、権力に迎合せざるをえなかったのである。自由、平等、博愛を実現する為には、それらの観念を実体化せしめる制度を創り出さなければならない。個人の変革を目指すものであっても、人間の成長が社会と深く関わりあっている以上、社会の変革へと結び付かない限り欺慢に過ぎないのである。思想を実体化するとは、現実の社会制度の中にその思想を実現していくことであり、思想とは、社会制度を構築する為の法則を導き出したり、社会の中での行動指針をあたえるものに他ならないのである。実用性のない哲学は、有害である場合が多く。実証できない観念は、妄想と成り易いものである。
 人間が世の中から必然的に要求されるのは、事を為す事である。事を為すとは、自己の労働を社会に還元し、社会の中に自己実現をしていくことである。そして、それが事業である。どの様に優れた計画や理想、構想も、それが実務的次元まで発展しない限り、事業とは成り得ない。革命もまた事業である。如何に勇猛無双の働きをしても、事を成し遂げられなければ只の一揆に過ぎない。人を倒しても、制度を変えなければ、結局元の木阿弥である。実務は、計画を実行していく上の手立てであり。事業とは、創造もしくは生産を意味する。革命とは、創造や生産の過程で生じるもので只闇雲に、相手を倒し過去を破壊していく事を意味するのではない。実務を語り理解することの出来ない者は、結局、事を成し遂げることは出来ないのである。実行の伴わない契約、守つもりのない約束ほど不誠実なものはない。観念は、世に現れて事実となる。
合理合理と言うが、合理主義とは、理論の枠内に現実を押し込める様な事を指して言うのではない。むしろ、合理的精神とは、理論を自己と対象との間に位置づける事によって、はじめて成立するものである。理論は、観念の産物である以上不完全なものである。しかし、対象を体系的に観察したり、自己の行動の一貫性を保つためには不可欠なものである。故に、合理的精神とは、理論の不完全性を熟知する事によってのみ有効なものなのである。逆に理論を絶対視した時、合理主義は危険なものとなる。それ故に、合理的な思想とは、本来的に立証性実証性を重んじるものなのである。つまり、合理主義には、常にどこか満たされない部分があり、その満たされない部分を、実験や観察、実践などを通じてみたしていこうとする強い志向によって支えられている。そこに存在するのは、主観的理論や観念に対する強い懐疑心であり、理論を絶対視する姿勢に対する強い反省である。そして、その既成の理論によって満たされないと言う部分が合理主義の持つ限界を打ち破り力強く近代を発展させたのである。
 人間は暗闇を恐れるように空白を恐れる。特に、観念の空白部分は、人間に強迫観念を抱かせる。観念上の空白は、知覚していながら意識できない部分だからである。観念の空白は暗闇のようなものである。そこに何かが潜んでいるような錯覚を起こさせる。それでありながら、我々が知覚し得るのは、只の空白か闇である。しかも、そこには、依存すべき何物もない。頼るべきものが存在しない世界に、唯一人放り出されると、人間は、自己認識の依り所を喪失し、自己の存在感を失い、自己の存在に対し不安を抱きいい知れない恐怖感に襲われるのである。それ故に人間は空白に対峙する時極度の緊張を強いられるのである。そして、人間は、空白を何とか埋めたいと考えるようになる。しかし、観念の空白には埋めようのない部分が必ず生じる。そこで真の合理主義的精神とは埋め様のない部分を無理に埋め様とはせず、解らない事は解らないと言う前提の上に、論理を解るところから積み上げていこうとする精神を指して言うのである。空白に、自己が打ち勝つ事によってのみ、人間は空白に対する強迫観念から開放されるのである。それが空白や暗闇に対する探究心を呼び起こし、理念を発展させていく原動力となるのである。
 観念は実在化されなければ実効力はない。逆に、実在化された観念は、減退消化され新たな観念を生み出す上の前提となり観念の世界を発展させる基盤となる。観念に依って生み出される人間の社会はこの様に実体化された観念が重層化される事に依って発展するのである。制度は思想を盛る器のようなものである。故に、実在する制度は、思想をその制度のうちに押し込めてしまう危険性もある。かつて、権力による迫害と戦いながら発展した宗教が制度的に保護されるようになると今度は権力を擁護するものに変質してしまった例にもみられるように観念は実体かすると逆に外の観念を支配したり拘束するようになる。差別や貧富は実在化されなければ矛盾とはならない。だが一度差別や貧富が階級制度や門閥といった形で実在化されると、此の格差は、どうし様もなく拡大し、やがて階級闘争や権力闘争に発展する。階級や差別が制度化されている社会は、倫理観ですら体制に合わせて変質させてしまうほどの力を発揮する。我々が注意深く観察しなければならないのは、実体として現れた形態や制度である。権力者が語っている言葉に惑わされると事実を見失うことがある。如何にそこで語られている言葉が綺麗であり、正しくても行動や制度、施策がそれに反していれば全てが欺瞞である。国民に取って大切なのは現実の生活であり、権力者の夢や観念ではない。自由や平等、博愛は法や制度に依って実現され維持される。我々が本当の意味で自由、平等、博愛を実現しようと思うならば、社会の中にそれを実現維持するような制度的裏付けを必要としている。そして、その制度の中で、新しい倫理観を培養していくことこそ肝心なのである。
 制度はある程度柔軟で状況の変化に対応できるものでなければならない。また、制度や組織が変化するための意志決定や手続きが明確でなければならない。制度は人為的なものであり、人間に依って構成されているものである以上、各部分が生きている。また、人間の社会は流動的なものであり、社会は成長するものである。それ故に、制度が硬直化し、社会の成長に合わせて変化できなくなると、個人の権利や成長を不当に抑圧したり、健全な発育を保証出来なくなる。それが高じると体制と個人の利害が対立するようになり、暴力的な手段でしか状況を打開できなくなる。また、人間一人一人の個性をなくし性情を画一化することに依ってしか統制がとれなくなる。つまり、人間を制度に合わせ様とするようになるのである。それが独裁や全体主義を発生させる根本的原因なのである。それは着物に人間を合わせて産むと言う発想と同じであり土台無茶なのである。本来制度は、人間に合わせて作るべきなのである。それ故に、硬直した制度は、人間を着物に合わせるのと同様、人間本来のあり方を歪める原因となるのである。
 勿論、状況を無視して制度を考えることは出来ない。成長段階を考慮せずにいきなり完成された制度を考えること自体無謀である。だからと言って段階的不平等だの権力機構などと言うのは詭弁である。原理、原則は常に護られなければならない。自由は常に法と制度によって成立し維持される。制度は法によって成立する。法を成立させるための原理原則は堅いものでなければならない。制度が柔軟で変化に対応できるものであるためには、法は明確で解り易く普遍的なものでなければならない。制度を柔軟にすると言っても骨格はしっかりしたものでなければならない。そうした骨格を作るのが法である。肝心なのは、原理原則を変えずに制度を変換するための手続きである。そうした手続きや原理原則、制度の基本を定めるのが憲法である。それ故に民主主義においては手続きは重要な意味があるのである。また、立法、司法、行政と言った権力の分散は相互牽制装置として不可欠なのである。
革命的エネルギーとは、土俗的なものである。つまり、変革や創造に要するエネルギーは洗練された手練手管の様なものに依って増幅されるのではなく。もっと荒々しく猛々しい力に依って増幅されるのである。創造には必ず未知なものに対する憧れ、冒険心、挑戦と言ったものを必要とする。その様な力は、気取った洗練さやきらびやかな知識から生み出されるものではない。どちらかと言えば、素朴な猛々しさや純朴な情熱に依って生み出されるものである。また、創造や変革には必ず破壊が付きものである。破壊を破壊のままで終らせるか創造に転化するか、そこに革命や変革の成否がある。
社会の精神風土は、伝統に依って培われる。伝統は、その民族や国家が長い歴史の中で熟成したものである。そして、精神風土が洗練されて文化が生じる。伝統は、制度に依って一時的に歪められ足り、中断されることはあっても、その底流に流れている本質は急激に変化したりはしない。その土地に育ったものは、その土地の風俗習慣を吸収し、その土地の言葉に依ってその人間の考えや価値観、行動規範として血肉化していく。故にそこから派生する思想や哲学、芸術の本質は一つである。広く言えば人間の生み出すものはそれが観念的であろうとなかろうと人間の本質から離れることは出来ない。人間の本質は究極的には一つなのである。人間の歴史は対立と抗争の歴史だとも言える。そして、現代は国家の建国精神や哲学の差に依って人々は分裂している。しかし、それは、人類の本質は只一つという実体を見失っているからに過ぎない。結局、一見対立しているように見える思想であっても人間という本質から離れられないことを忘れてはならない。
 人為、人工とは創造である。人間はの創造は常に、与えられたものを組み立てているのに過ぎない。発明の根幹には、発見がなければならない。人間が生み出すものは、自然の中にある者や法則を応用したものに過ぎないのである。現代人は、あたかも自然を征服し思うがままに扱っているように思い上がっているが、自然の法則に従い自然の恩恵を受けない限り人類の未来が開けないことに変わりはないのである。旧きを温めて新しきを知る。自然対する畏敬心を持ち、自らの過去を反省し改善することが真の創造なのである。現在を絶対視しそれまで積み重ねてきたものを無視すれば明日の発展はない。人類の進歩は不断の反省と感謝、努力に依って支えられているのである。どの様な過程を経て今日が成立したのかを知り、世界の中に自分を位置付る事こそその後の発展の糸口を与えるものなのである。今の自分に奢り高ぶり、自分以外のものを認めず自然を無視し自らを省みることがなくなった時人類の荒廃は始まる。そして、それは人類の滅亡の始まりをも意味するのである。
 人間にとって最も人間らしい事は創造である。そして、創造とは、自然界の掟法則を知り、自然界のものを素材にし、それを他の素材と組み合わせ、連合していくことである。故に、大切なのは、神から与えられたものを如何に、またどの様に自己の内部で再生していくかなのである。人類の英知は今試されようとしている。人間の歴史は、地球や他の生物の歴史よりもずっと短く僅かなものである。人間が蔑み馬鹿にしている生物が生存したよりも短い期間で人類が滅亡したならばなぜ万物の霊長などと自慢できるであろう。人間以外の生物は厳しい自然の戒律の中で生活している。繁殖期間や食糧も限られた範囲の中で間に合っている。目的もなく、唯快楽の為にのみ殺生や性交を行うことはない。一体人間の理性とはなんなのか。動物達は、法や戒律に依って拘束されなくても自分達の行動を律している。人間の文明は確かに豊かな生活を実現した。しかし、同時に核兵器や環境汚染といった人類のみならず地球上の生物の存在にかかわるような問題も引きおこしているのである。文明は滅亡と繁栄の両刃の剣である。新しい時代を創造していくのは、私達一人一人である。次の世紀を絶望と荒廃の時代とするか希望と繁栄の時代とするかは私達の意志に依って決まるのである。人間同士が争う時代は終らせなければならない。今こそ人類は人間としての原点に返り、謙虚にそして、真摯に人類の未来について考え直すときなのである。
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