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著書:  自由(意志の構造)上


                  第1部第2章第6節 喜びと苦悩

 喜び、それは、生命が濃縮されて送り出た瞬間。自己の存在感が最高まで高められた時である。
 喜びを求めて、人々は苦しみ悩む。そして、それは自己の存在をも否定し、自分を破滅させかねない程強い欲求にすらなる。
 徹底した絶望や徹底した人間不信は、人間を行動に駆りたてる。絶望は、人間からあらゆる形の執着心を奪い、人間不信は、無用な期待感をいだかせない。それ故に、結果を考えずに行動ができるからだ。しかし、そのような虚無主義から喜びを得る事はできない。徹底した絶望にしても、徹底した人間不信にしても、行きつくところは死だ。死への恐怖から逃げ出す為には、徹底した絶望を闇雲な行動に置きかえ忘れる以外にない。誰一人信じる事ができなくなったら、自分の存在意義すら信じられなくなってしまい、それは確かに明るく楽しそうにみえる。しかし、それは、死を覚悟した老の底抜けの陽気さなのだ。その陽気さは、刹那的な行動や自滅的な行動、残忍な仕打ちの誘因となる。
 現代を支配する空虚感や無力感は何なのか。人類を幸福にするはずの科学が、人類を滅亡させる原因を作っているというのは、何とも象徴的ではないか。
 真の喜びは、本当の意味での希望や人間を信じる事によってしかもたらされはしない。快楽は、喜びにともなうものだが、快楽と喜びとは違う。快楽を求める事によって、生きる喜びを見失ってしまう事がある事を、我々は忘れてはならない。
 我々は、古代人の夢を、近代人の理想を、過去の幻想と侮る事が果たしてできるであろうか。我々は、新しいものが常に正しいのだと錯覚していはしないだろうか。
 私は、懐古主義で言っているのではない。過去の悲惨さも充分知っている。ただ、この世界を支配する絶望感をどう説明すべきなのだろう。少なくとも、彼等は何かを信じていた、求めていた。そして、何かを、子孫の為に伝え、残そうとしてきた。その一切合切を否定してしまっていいのだろうか。
 神話や伝承の背後にある真実を、見損っているのではないだろうか。
 科学や技術の重要性は、私も理解できる。科学や技術では解決解明できない事はいくらでもある。
 しかし、自然に対する畏敬心や人生に対する洞察のない科学至上主義や合理主義は、道に、人間の生き様を刹那主義的なもの、快楽主義的なものに追い遣り、自分勝手な行動を増長させてきたのではないだろうか。
 事の正否善悪は、新旧老若とは無関係である。
 我々の先祖は、我々より劣っていると言いきれるだろうか。彼等は、少なくとも、人生の目的を快楽ではなく、生きる事においていた。つまり、生命の尊さを信じていた。物質的な繁栄よりも、精神的な豊かさを求めていた。その為に、自分を抑える事を知っていた。そして、それを信じ守ろうとしてきた。
 科学や合理主義は、確かに、人間の要求を満たしてくれたかもしれない。しかし、それによって人間は、真の喜びを得る事ができたであろうか。快楽は、人間に真の喜びを与えたであろうか。苦悩は、深まるばかりだ。
 科学至上主義や合理主義は、人間から信じる喜び、守る喜びを奪い、生命の重みをいくばくかの貨幣の重みで計るようにしてしまったのではないだろうか。
 満たされているはずなのに、この空疎さ、この荒涼さは何なのだろうか。我々は、真の喜びについて考え直さなければならない時機にさしかかったと私は思う。

 A 喜び

 喜びについて語ろう。
 確かに、喜びに快楽はつきものだ。しかし、喜びと快楽は違う。快楽は、生理的欲求が満たされた時に得られる感覚である。それに対し、喜びは、真善美が一体となった時にもたらされる感情である。
 即ち、真とは、客観的規範をいい、善とは、倫理的規範、美とは、情緒的規範をいう。
 故に、肉体的快楽のみを追求する事は、自己の一体感を失う事になり、真の喜びは得られない。
 快楽は、強い刺激によって、一時的に忘我の状況にするかもしれない。しかし、それが自己の本然の情や善に反し、自己の意志に背いた場合、真の喜びは得られない。喜びのない快楽は、刹那的で空しいが、一度味わえば忘れられなくなる。それは丁度麻薬のように……。
 自己が媒介する構造は、三つある。あらかじめ与えられている構造、すなわち、物質構造。意識的に創造していく構造、すなわち表層構造。無意識に形成していく構造、すなわち深層構造。これら三つの構造は、お互いに独立しており、直接他の構造に干渉する事はない。これら三つの構造を結びつけるのが、自己である。つまり、人間の行動は、物質構造から感覚作用を、表層構造から理性作用を、深層構造から感情作用を、自己が受ける事によって制御され、決定されていくのである。これら三つの構造を自己の構造と呼ぶ。自己の動きは、自己の構造全体に対し、同時に影響を及ばす。感情によって動かされた自己は、同時に、物質構造にも表層構造にも作用を及ばす。生活の乱れは、感情や理性にも乱れを生じさせる。嘘は、知らず知らずのうちに感情や感覚作用を錬んでいく。このように、自己の構造は、自己を媒介にして不可分に結びついている。自己の構造は、通常、意識されていない。意識されるのは思考と呼ばれる自己の軌跡である。
 喜びは、この三つの構造から自己に及ばす作用が一致した時にもたらされる。喜びは自己の構造全体の調和によってもたらされる。それ故に、喜びは持続されるものである。つまり、構造の保存力が働くからである。三つの構造が一致した場合、その行動に対し、自己の力を集中する事ができる。集中する事によって、人間は自己の能力を最大限に発揮する事が可能となるのである。心技体、気力体の一致と呼ばれるのが、これである。その時、人間は恍惚とした状態になり、外部から圧力が加えられない限り、その状態が持続する。唄を歌っている時、踊りを踊っている時、スポーツに熱中している時が、それである。
 喜びは、自己を矯正する作用がある。自己の構造を保存しようとするカが働くからである。自己の分裂を避ける為に、自己の構造から自己に加えられる作用を一致させる必要性がある。喜びは、自己の構造の一致点を示す感情であるから、喜びを感じる事によって、自己の行動の指針を定める事が可能となる。意思決定上の姿勢を安定させ、自己の構造の中軸を定める事になる。喜びを得た時、人間は自己の矯正力を自己内部に持つ事になる。それ故に、喜びは自己を安定した方向に向け、少なくとも個人レベルでの意思決定上の誤差を少なくし、行動の軌道修正をする。
多少の苦痛や苦労は、喜びによって解消される。
 自己と外界が互いに及ばし合う力は、常に作用反作用の関係にある。教えるという事は、同時に教わるという事であり、教わるという事は、逆に、教えるという事である。つまり、教えるという行動を通して、自己の構造に教えている内容がフィードバックされ、又、教わるという行為によって、教わった内容を自己の行動に転化し、柏手に示していく。そういったフィードバック作用がないところには、本来、教育というものは成り立たない。すべては教師であり、又、弟子である。このように、ある働きかけには、必ず逆方向の働きかけが存在する。
 自己が外界に対して働きかけていこうとするカと、自己内部に働きかけていく力のバランスによって、自己の構造は保存されている。もし、このバランスがくずれると、自己の構造は、内側にか、外側にかに向かって瓦解する。内側にくずれた場合、自己の硬直化や盲信を生み、外側にくずれた場合、無責任や無気力な態度の原因になる。自己の内面への働きかけは、同時に、外界に向かっての働きかけを求める。自己内部への求心力によって、自己の構造を保存しょうとするカが働く。自己の喜びは、その求心力の目標つまり要を与えるのである。求心力は、その反作用として遠心力を生み、自己の構造を発展させる原動力になるのである。
 自己の構造が、自己に一致した行動を求めた時、自己の能力を集中的に発揮する事ができる。しかし、能力の過度の集中は、自己の構造の硬直化の辟困となる。自己の構造は、元来、流動的なものであり、自己の硬直化は行動の柔軟性を失わせ、状況への適合性をなくさせる。状況への適合性のない行動は、危険性が高い。それ故に、状況に合わせて、適度にカを分散させる必要がある。集中と分散、緊張と緩和は、波状的に繰り返され、その集中と分散の周期的な練り返しによって、自己の構造は形成されていく。
 人間は膨大な記憶因子を持っており、それらを最初から意識的に整理するという事は不可能である。集中と分散を鼓動のように繰り返している内に、意識の核ができ上がり、その核を中心にして、槻念は構成されていく。しかし、集中にせょ分散にせよ、中心が定まらないと、散漫なものになり、円満な成長は望めない。一意専心、ある一点に力を集中した時、自分の能力を最大に活用する事が可能となり、自己の構造の順調な成長を約束する事が可能となる。又、一心不乱に事にあたった時、自分の情緒は安定し、行動に充足感を感じ、大きな喜びを得る事ができるのである。
 人間、一人のカでできる事は微々たるものだ。一人で何でもできるのならば、社会などいらない。一人で行なっているような仕事であっても、実際には、有形無形の協力が、その背後に隠されている。人間一人で、すべてを知る事はできない。自分のカを多方面に活用するよりも、自分の活動範囲を限定し、その範囲内に自分のカを集中させた方が、我々は労働自体に喜びを感じる事ができる。もちろん、活動範囲を極端に制限したり、局部的な部分だけに限定するというのやはなく、又、強制的というのでもない。少なくとも、喜びを感じる事のできる範囲内においてという意味においてだ。人間は総合的なものであり、部分によって象徴されるような存在ではないという事を忘れてはならない。ただ、行動は一つだ。同時に多くの事はできない。せいぜいできて二つか三つだ。それも、同じ場所でしかできない。行動の対象は一つに絞った方がいい。その為に、自分の注意をそらしたり、自分の身分に対して不安を感じさせる体制を改め、自分の仕事に熱中できる制度というものを考えていかなければならない。
 一点に自分の力を集中させる事は、逆に自分の行動半径を拡げる事にもなる。集中させる事によって、対象に対する糸口を与え、かつ、それまで雑然としていた知識を整理する基準を与えろからだ。目標を定める事によって照準もつけ易くなるし、さまざまな角度から対象に接近する塞ができる。いろいろな手段を講じる事も可能となる。目標は、具体的であればある程、焦点も締られ、集中度が高くなり、それだけ熱中もできる。
 表層構造は、対象を明確にとらえる。それ故に、意思決定上の主導権を握る。目的を設定すろ事は、自己の構造を集中させるのには有効な手段である。意識次元で、集中点を固定できるからである。ただ、それだけに、その影響力は強く、時には、目的によって自己が拘束される事が上くある。拘束されるだけならばまだいいのだが、逆に、目的が自己を振り回す事がある。これでは本末転倒である。目的は、状況に応じて生み出されるものである。状況に適合しなくなった目的は、速やかに変更しなければならない。それ故に、目的を絶対視せず、絶えず目的の検討を繰り返すべきである。又、目的は、自己が設定するものでなければならない。まず第一に、自己が設定した目的でない場合、目的の内容を熟知しているとは限らず、目的の評価検討が困難だという事、それに、目的は強制できない。常に、最終的判断は、自己の意思によって決定されるものであり、目的は、自己の意思決定を左右する重大な事柄だからである。
 諸個人の目的が、より具体的であればある程、複数の人間が目的を一致させる事はむずかしい。目的を共有する人間、つまり、その社会の構成員が増えれば増えただけ、その目的の抽象度は高くなる。目的には許容量があり、その容量を越えた場合、一次元抽象度の高い目的を掲げなければ、各人の要求に応える事ができなくなる。目的の抽象度が高くなると、その目的に対する集中度が低くなり、分散する傾向が生じる。国家のように莫大な人間によって構成される社会では、目的は、ほとんど象徴化される。それ故に、群衆を結束させる為には、公共の問題を実務次元でとらえ、目的を段階的に具体化する事によって、群衆を各目的ごとに細分化し、それぞれの小グループを機能的、かつ主体的に行動できる体制をつくる事である。
 喜びの対象は、あくまでも純粋にとらえられなければならない。対象の持つ意味が単一でなく、いろいろな要素が複雑に入り組んでいると、真の喜びの対象を見失う恐れがあるからだ。ゲ−ムには、ゲーム本来の面白味がある。野球や将棋は、金を賭けなくとも熱中できる。だが、一旦、賭け事を始めると、何かを賭けなければ気がすまなくなる。果ては、報酬に目がくらんで、勝つために汚い手段も講ずるようになる。結局それが争いのもとになる。古代オリンピックが破綻した原因も、その辺にある。
 不平等な社会は、仕事に貴賎を与える。その為に、仕事の評価に気をとられて、仕事の持つ本質を見失わせてしまう。仕事を選択するのは、報酬の多寡によってではない。向き不向きによってだ。学問の喜びは、いい点をとる事ではない、学問の真髄を極める事にある。労働の喜びは、労働の中に見いだすべきである。報酬の多寡によって労働意欲は沸くという神話を崩さなければならない。平等社会が存在した事がないのに、平等にすれば労働意欲が低下するというのはおかしい。労働は、報酬によって計るべきではない。労働は、仕事の内容によって計るべきである。
 近代人は、労働のもつ積極的な側面を忘れているのではないだろうか。労働は、ただ生活の程を得る為にのみ必要なのだと考えるのは間違いだ。確かに、労働は生きていく為に必要なものである。しかし、同時に、労働は生き甲斐でもある。近年、労働のもつ否定的側面ばかりが強調されているが、本来、労働は自己実現の為の有力な手段でもあるのだ。故に、報酬は、労働の成果を正しく反映したものでなければならない。
 確かに、報酬は労働の喜びを強めてくれはするが、それは、二義的なものに過ぎない。労働の喜びは、自己の善、仕事への窒息識、社会的評価が一体となって得られる。大切なのはバランスだ。不足しても過剰であっても、喜びは歪められる。報酬は、社会的評価の一つに過ぎない。
 人生を心から楽しむことだ。労働は生きる喜び、人間から労働を奪えば、その存在感も薄れてしまう。
 喜びは、強要できない。それは、目的を強要できないのと同じように、喜びが自己内部に根差したものだからである。逆に、喜びを求めようとしない老は、喜びを得る事はできない。労働に喜びを見いだそうとしない者は、労働に喜びを感じる事はない。どのように労働条件を良くしたところで、労働に喜びを見いだす事はない。その人間にとって、労働は常に苦痛である。労働条件の改善は、労働に専念する為に行なうのであり、ただ楽をする為に行なうのではない。我々は、労働を考える時、労働に対して主体的にかかわっているかいないか、労働に対して誇りを感じられるような体制を生み出すょうに努力しているかいないかについて、注意して考えなければならない。学問が嫌いになるような教育は、むしろ逆効果である。労働や学問に対する意欲や喜びは、強要すればする程、逆に、後退するものである。成長は、直接その種子に働きかけるのではなく、その種子を取り囲む環境に働きかけるのである。飛躍や短絡は、決していい結果をもたらさない。喜びは、自分が感ずるものである。
 喜びを感じる事ができるかできないかは、半分は状況に、半分は自分に負うものである。状況がどのように整っていても、自分が喜びを受け止めるだけの素地がなければ、喜びを得る事はできない。状況によって自己の構造が歪められていたら、どのように望んでも喜びを得る事はできない。喜びを求めないのは、喜びを知らないからである。
 非を非として認める事ができるのは、面子よりも、実を重じるからである。人間にとって、仕事に情熱が持てるのは、仕事に対して誇りや喜びを感じるからである。地位や名誉によってではない。誇りや喜びを仕事に感じた時、仕事を充実させ、納得のいくものにしようと努めるようになる。そして、面子にとらわれる事なく、仕事に熱中する事ができるようになる。腕のある職人は、報酬よりも、自分の仕事を認め活かしてくれる老の為に仕事をしたという。喜びは、自己の自己願示欲を満たすょうなものではない。真の喜びを得る為には、喜びを錯覚させる諸々の誘惑を拒絶するだけの勇気を持たなければならない。
 労働に対して喜びを感じられなくなった時、労働以外のものに、その代償を求めるようになる。だが、労働に対して喜びを感じられずに、他のものに、その代償を得られるというのは、いかにも不自然だ。人間にとって喜びは、総合的な調和によってもたらされる。部分的な充足感ではない。人間の一生は、ある一定の時間我慢すれば、他の時間は満足できるといった器用なものではない。生きるという事は不断の努力によってのみ充足されるものである。喜びは、その時々に感じるものだ。何事に対しても喜びを見いだそうとする態度、何事に対しても喜びを見いだせる体制、それらを創り出そうと努力する事、それが大切なのである。労働は、人間生活の重要な部分をしめるものである。労働時間が苦痛であるのならば、どうして余暇を楽しむ事ができるであろうか。人間は、物事をそんなに単純に割りきる事のできない、もっと切ない存在である。
 人間には核心がある。つまり、喜びを感じる所、行動を生み出す所がそれである。核心に触れると、人間はフツフツと沸き上がるように喜びを感じる。真の感動とは、そんなものだ。核心は人間、生まれながらに備わっている。そして、核心は、人間の経験を通して成長する。つまり、その人間の適性である。人間の肉体の特徴は、生まれながらに備わっている。それが、年とともにより明確になり、ある程度の年齢に達すると、完成された形で現われる。核心も同様である。もちろん、核心は、人間のこのような肉体をも内包するものである。それ故に、核心は、個人個人まったく別のものである。その人間にとって喜びを感じうる対象、たとえば、核心に触れるとは、自分にとって、この仕事以外にない、自分にとって、この人しかいないと感じた時なのかもしれない。つまり、核心とは人間にとって何をするのにも、自分の中心となるものである。それ故に、自己を核心の内に定める事によって、核心は、自己の構造の中心であるから、自己の構造は安定する。その時あらゆる行動の道はひらけ、統一される。行動は充実し、完成の方向に向かう。核心を知らなければ、その人間の行動は矛盾に満ちている。一つ一つの行動を結びつける媒介を失うからである。
 核心は存在するが、核心を知るのはむずかしい。核心を知る為には、核心の誘因となる対象が存在しなければならない。つまり、核心に基づく行動を誘発する対象が存在しなければ、我々は核心の所在を知る事はできない。自己は、間接的認識対象である。自己の核心も例外ではない。対象によって誘発された核心は、行動によって表現される。行動を通して我々は、核心に迫る事ができるのである。
 人間は、無感覚になる事を恐れるべきだ。感覚は、常に、自己の所在を知らしめるものだ。何をやったっていいと、妙に寛大になるのはおかしい。ブッダにせよ、イエスにせよ、他人の行動や罪に寛大であっても、自分の行動や罪に寛大であったろうか。犯罪者を許したからといって、犯罪者を許した人間が犯罪を犯したであろうか。又、犯罪を許したであろうか。罪や悪に対して無感覚になったのならば、同じように、喜びや善に対しても無感覚になる。感動のない人生など生きるに価しない。
 我々は、信じる事を、真剣になる事を、戦後忘れてしまったのではないだろうか。又、信じる事や真剣になる事は、危険な事だと教えられてきたような気がする。それは、明らかに敗北根性だ。民主重苦は、理想を捨てる事ではない。誰しもが理想を持つ事が、許される社会だ。夢を持つ事が保障される制度だ。いつしか真剣になる事が、気駈ずかしく、理想を語る事が後ろめたく感じるようになってしまった。信じる事によって、能動的に行動する事ができるようになる。闘う前に、敗北感を感じる必要はない。何ものかを信じる事、真剣になる事は、喜びには不可欠なのだから。行動をしていない人間の言葉は、自己弁護に過ぎない。信じる事や真剣になる事に気恥ずかしさや後ろめたさを感じるようになったら、喜びなど得られるはずがない。

 B 苦悩

 苦悩は、避けて通っても解決する事はできない。病患は、鎮痛剤を打っても治癒しないのと同じょうに。苦しみの原因を知らなければ苦悩は克服できない。ただ感覚を麻痺させただけでは一時しのぎをしたにすぎないのである。現実の矛盾から目を背けても、現実の矛盾から救われるわけではない。自分の欠点を隠す事が、欠点をなくす事ではない。失敗を忘れる事が、失敗を活かす事ではない。苦しみを苦しみと感じ、非を非として認める事以外に、苦悩を克服する道はないのである。現実の矛盾を直視した時にのみ、その矛盾を正そうとする気持ちが起こる。その気持ちが、現笑の中で、現実の矛盾を越えさせるのである。自覚症状がなければ、自分の病患にも気がつかない。苦悩は、自己内部に根差した問題だから、結局、自分でそれを正そうとする気持ちがなければどうにもならないのである。
 苦悩は、自己の構造の亀裂によって生じるものである。自己の構造に亀裂が生じる事によって、自己の行動を集中する事ができなくなり、自己を統制する事に困難さを感じた時、人間は苦悩する。自己の核心が曖昧となり、何をしても熱中できない。自己の行動の焦点が絞りにくくなり、的確な判断が下せなくなる。自分自身で、なにをしていいのかわからない。そして、自分自身が信じられなくなる。それらが苦悩している人間の典型的な状況である。
 自己の構造に、なぜ、亀裂が生じるのか、原因は、自己外部、内部、両面から自己を歪めようとするカが働くからである。苦悩は、自己の問題だけに限定されたものでもなく、又、社会の問題として片付ける事のできる問題でもない。精神論のごときをもって、現笑の矛盾を隠蔽する事はできない。又、物質の繁栄によってのみ、人間の精神を救済する事はできない。大切なのは、自己自省的な精神と社会変革への意欲である。
 我々は核心を知るべきだ。相手と話をしている時でも、相手が何を言わんとしているのかを、逸早く知るべきだ。一体何が苦しいのかについて、その原因の核心を知るべきだ。たとえば、大学の問題にしたところで、ただ漠然と矛盾を感じ、漠然と行動したところで、何も生み出しはしない。かといって出来合いの思想を持って釆て、自分達の問題に当て侯めたところで、必ずしも通用するとは限らない。矛盾とは、もっと構造的なものであり、根本的なものである。構造的なもので、根本的なものであるのならば、まず自分達が大学を創り出そうという観点から取り組まなければ、原因などわかるはずがない。ただ破壊しただけでは、解決はできない。部分的な問題として処理したのでは、一時しのぎである。原因の解決とは、もっと建設的なものであり、全体的なものである。核心を知るとは、そういう事だ。
 自己の構造を歪める典型的な例は、自己の構造の核心と社会構造の問にずれが生じた場合であり、又、深層、表層、肉体の三つの構造の核心の問にずれが生じた場合である。このような場合、自己は、自己の構造の重心、もしくは力の平衡点に位置する。自己の安定は、カの平衡によって保たれる。しかし、各構造次元から考えると、自己は構造の核心の位置から離れており、自己の位置は不安定である。又、それだけ意思決定も不確実な部分を含み、行動に対する意欲も弱くなる。判断内容も、妥協的かつ中途半端なものになる。それ故に、核心を統一し、自己を安定させる為に、構造の変革をはかる事になる。しかし、自己の構造を発展させるべき各構造の核心がバラバラなのでは、自己の構造の強度がもろく、構造の保全すら覚束無い。自己の所在が定まらないと、自己が核心の問をいったりきたりして、なかなか自己の構造も安定しない。その為に、意思決定が不連続なものになり、行動に統一性がなくなる。それでは構造の変革など思いもよらない。それ故に、自己の所在を固定した方がいい。もちろん相対的にである。
 問題は、どこに自己を固定するかである。たとえば、ある構造の核心に自己を位置づけた場合、その構造の性格を、自己は色濃く反映する事になる。その為に、偏りが生じ易い。偏りをなくすためには、他の構造と葛藤する以外にない。社会構造の核心に自己を位置づけた場合、社会が直接認識対象であるから、より強く自己の意欲を発揮する事ができる。その代わり、自己の内的欲求が抑圧される場合が多い。故に、自己と自己の内的欲求との葛藤を通して、自己の構造は形成されていく。この場合、対立は必然的なものであり、自己の構造、社会構造双方が完成されなければ対立は解消されない。
 自己を、目標・目的に位置づける方法がある。目標・目的に自己を位置づけた場合、自己の向上心に結びつき、より厳格な発展を約束するものである。しかし、時には、目標や目的に対する無批判な態度を生む原因となり、目標や目的に甚だしく自己を拘束されたりする。たとえば、人間の在り方の理想型を他者の中に見いだし、その人間を目標とする事によって自己の構造を形成していく方法がある。現実性もあり、人間の全的発展を促すものだが、目標とする人間によって随分違ったものになってしまう。その結果、目標とする人間を神格化したりする。
 結局、どの方法にも一長一短がある。故に状況に応じて自己に適切だと思える方法をとればいい。ただ大切なのは、他者の批判を尊重せよという事だ。自分の事は、自分だけではわからない。自己を反映する対象というものを、常に、必要としている。他者の批判を率直にうけとめ、自己の内部に反映する事ができたのならば、どのような方法をとっても、最終的には同じ構造にいたるものである。
 人間は、対象を自己の延長線上でとらえていこうとする。認識作用は、自己を起点として循環している。自己の行動は、行動と同量の自己認識をもたらす。自己のあらゆる行為は保存される。つまり、人間は自己の限界を越える事はない。故に、人間の行動は自己を中心に同心円的に拡大していく。認識は、常に自己中心になされる。いい意味においても悪い意味においても、人間は自己中心的な存在である。それ故に、自己の行動半径の狭さは、自己を利己主義的な世界へ閉じこめる危険性を常に孕んでいる。
 自分の頭上に雨が降れば、世界中どこでも雨が降っている。確かに、これは極端な例だけれども、よく考えてみると、これに似た考え方を誰しもがしている。常識の類は、みんな、得てしてこんなものなのかもしれない。人間は、すべてを知って生まれてくるわけではない。結局、人間は対象を自己の延長線上でしかとらえられない。これは、事実だからしかたがない。その事笑を踏まえて、自分の事を考えていかなければならない。
 たとえば、自己の認識能力は、自己の行動範囲内に限定されている。もちろん、読書も行動の一様式と考える。それ故に、自己の行動半径の拡張が、自己の認識髄カの拡充にも通じるのである。どのような学問も、自己の延長線上で対象をとらえる事が困難ならば、それを正確に受け入れる事はむずかしい。我々が学習を行なう場合、対象と自己との接点を求める事が重要なのである。相手の気持ちを完全に理解する事は、本質的に不可能である。大切なのは、相手の気持ちを理解しょぅと努力する事である。対立点や欠点をあげつらっても、お互いに理解し合う事はない。自己と対象との接点を求める事によって、対象の核心に迫る事ができるのである。
 自分とのかかわり合いの中で、対象をとらえていく。それが、対象認識の重大な要点である。自分にとって対象がどのような意味をなすのかを考える事。それは、必ずしも自分の都合のいい事ばかりとはかぎらない。教育は、教育を受ける側において、自分達が教わろうとしている対象が、自分達にとってどのような意味を持っているかを知る事ができるかどうかが、一番重大な問題なのである。仕事にしても学問にしても、自己との接点を見失った場合、それらは全く無力なものとなり、延いては仕事や学問に対する情熱を失わせる原因となる。対象に対する主体的なかかわり、それは、何よりもまして大切な事なのである。情熱を持てない仕事や学問、それは、苦痛に過ぎない。
 人間の認識作用は、自己を中心に絶えず循環している。丁度、自己は認識作用上における心臓のようなものである。深層構造におこった情動は、表層構造において明確な意図を与えられ、行動に転化される。行動は、深層構造に作用し、表層構造にフィードバックされて、新たな行動に転化される。自己のこのダイナミックな回転運動によって、自己の構造は発展成長するのである。この回転運動が空転したり、不完全であったりした場合、たとえば、どこかの構造が欠落していたりした場合、活動の一切が効率よく自己の発展に結びつかず、エネルギーの浪費となる。これは焦燥の原因となり、自己の構造の窮壊にもつながる。
 目的や計画を持つ事は、空転や不完全な回転を防ぐ有効な手段である。自己を回転させるものは自己の意志以外にない。他人に回転させられる自己は叡である。それ故に、人間は自己内部から目的や計画を生み出そうとするのである。自己内部から目的や計画を生み出す事が保証された時、人間は従順になるのである。
 喜びは全体のバランスが重大であり、局部的偏向は喜びを破綻させる原因となる。しかし、快楽は存在感の高揚によってもたらされるものであり、局部的な刺激によっても、もたらされるものであるから、全体性とは無関係である。
 核心のズレは、構造間のズレと見なす事もできる。なぜ構造間のズレが生じるのかについて、考えていってみよう。
 快楽は、喜びがなくても、局部的な刺激によって感じる事ができる。しかし、そのような快楽は、実体のない快楽である。時々、何かの拍子に誉められる事がある。誉められて有項天になる。だが、それが自分に対して正当な評価だと錯覚するのは危険だ。本当に嬉しいのは、正当な評価に結びついていると感じた時だけだ。一寸誉められたからといっていい気になったら台無しだ。快楽とは、そんなものである。快楽が喜びに結びつかなければ、むしろ危険だ。
 喜びの無い快楽は麻薬のようなもので、より強い刺激を求めるようになる。しかも、中毒性を有する。それは、刺激を加えられると、構造が構造内部にその刺激を消化し、それに対応する作用を弱める機能を有しているから、同じ刺激では快楽を感じにくくなる。しかし、一旦、自己の存在感を高揚させられると、自己の存在感を喪失する事は、自己の存在自体を喪失したように錯覚し、より強い刺激を追い求めるようになるからである。しかも、喜びという自律性がないだけに、刺激がないといられない一種の禁断症状を呈するようになる。
 自律心もないうちに、あるいは年をとって自制心を失ってから華やかな世界に入って脚光を浴びるようになると、その世界に眩惑されてしまい、富や権力、名声に快楽を感じるようになってしまう。自己が間接的認識対象であるかぎり、群衆の中で自己の自律心を保つという事は、大変、困難な事である。その世界が華やかであればある程、自分に対する厳しさを要求される事になる。
 喜びは、構造全体の調和がもたらすものであるから、継続的なものである。故に、快楽も持続的に感じられる。喜びの無い快楽は、一時的な刺激によってもたらされるものであるから、刹那的なものである。又、刺激が自己の構造を変化させるために、刺激を慢性的に求めるようになる。その上に、自己の構造の矯正は、自己に自律心がなければ、自己の力によってはなかなかできない。喜びのない快楽によって生じる歪みは、各構造問の断層を深める結果になる。
 喜びのない快楽は、自己の構造を虚像化してしまう。そして、虚像化された自己の構造によって、自己が踊らされる。醜怪な自分の影に怯え、やがて自分とは、まるで掛け離れた世界で、自分が操られてしまう。我々が本当に恐れなければならないのは、そういった快楽の持つ魔性である。自由という言葉の真の意味を忘れ、野放図に快楽のみを解放してしまう。求めるべきなのは、喜びである。快楽ではない。自己に厳格たりうるのは、自己以外にないのであるから、自由が実現するのは、一人一人の自己が信じられるようになった時だけだ。
 苦悩の結果として生じる自己の構造の分裂とは、どのようなものなのか。
 まず、ある部分の欠落、たとえば深層構造を欠落する事によって人間的感情の一切を失う。表層構造を欠落する事によって、自制心、自律心を喪失する。意思決定機関の欠落によって思惟の結果を行動へ転化する事を抑制し、行動力、決断力、責任感の甚だしい欠如を招く。又、ある事柄に対する認識を欠落する事によって、思惟の盲点を作る。
 次に、自己の構造の分断、たとえば、ある事柄にだけしか考慮する事ができず、他との関連がつかめない。各要素を連合する事ができず、総合的判断が下せない。一つ一つの要素を点と線で結びつけるような考え方しかできない。その結果として、狭視野、極端な飛躍、対象認識上における著しい歪曲、出所不明の結論、御都合主義的判断、行動における一貫性の欠如といった形で現われる。
 そして、自己の構造全体に対する信頼の欠如、部分に対する執着、たとえば他人に対して信頼する事ができず、不寛容になっていく。信念が欠如する事によって、劣等感や優越感によってしか自己を測れなくなる。そして、無責任、無気力、無関心の原因となる。思考における傾向によって、ある事柄に対する執着、自説への執着、物質への執着を引き起こし、盲信や欲望の原因となる。
 これらは、明らかに精神異常である。しかし、我々は、何らかの形で異常性を自己の構造の中にもっている。では、精神異常とはなにか。それは、信じられる対象を失った者、真剣になれない者、罪の意識を感じられなくなった者、畏敬心を失った者である。何ものかを信じる事ができなければ、決断を下す事はできない。真剣になれなければ、責任を感ずる事はできない。罪を感じられなければ、自分の非を正す事はできない。畏敬心を失えば、自分を抑制する事はできない。決断する事なく行動をする。結果に対して責任を感ずる事もないし、自分の行ないに対して反省もしない。畏れを知らずに、自分を制御できない。これは、狂人である。
 だが、我々は自分の意志で判断を下しているであろうか。たとえば学校を選ぶ時、仕事を選ぶ時、なんとなくとか、他にいいところがなかったからという理由ではなく、その学問、その学校が好きだから、その仕事に対して情熱がもてるからという積極的な気持ちで選んでいるであろうか。決断を下さず行動をする。これは異常である。自分を信じるから、他人を信じる事ができる。人間を信じるから、将来に希望がもてるのである。命を貴ぶから、生きていく事ができるのである。自分を信じ、人間を信じ、命を貴ぶ事によって、人間は苦悩や妄執から救われるのである。人間は理想を追い求めるべきだ。そして又、理想を追い求めるから人間なのだ。
 疎外感とは、どのようなものなのか。対象に対する自己の働き掛けが集中できずに、自己と対象との関係が散漫となり、やがて自己と対象が分離する。私は、ここに疎外の一典型を見る。学習や労働を強制される事によって、学習や労働に対する自己とのかかわり合いを見失う。自己と対象とのかかわり合いを見失う事によって、学習や労働が生活の為の手段と化していき、情熱を失っていく。学習や労働が生きんが為の手段となり、生きている事の表貌でなくなってしまう。その為に学習や労働に対して喜びを見いだせなくなり、学習や労働に対する意欲を失い、学習の結果や労働の報酬に、その代償を求めるようになる。これは、疎外の一典型である。つまり疎外とは、自己と対象とのかかわり合いを見失う事によって、自己にとっての対象の意味を失っていく一方で、自己と対象との関係は従来通りに存在しつづける。存在しつづける事によって自己の行動が無意味化され、やがて自己の存在自体も無意味化してしまう事である。
 人間は、今、自分達の目標とすべき対象を失っているのではないだろうか。対外的には自分が尊敬できる人間、又は崇高な存在、信じられる対象、自己内部には、信念や理想、我々は、そういった諸々の自分が目指すべき対象を見失っているのではないだろうか。疎外の根本的な原因は、そこにある。疎外の解消は、第一には、自分達でそれを作り出していく事、第二には、それを受け入れていく社会、つまり強制される事なく自分の望む事を受け入れていく事のできる社会を建設していく以外にはない。人間は、もっと生きる事に積極的になるべきだ。
 過去の聖人は、このように述べた。自己の存在感を喪失する事を恐れてはならない。否、むしろ自己の存在感を積極的に捨てよと。一旦、自己の存在感をうると、自己の存在感を求めるようになり、身を危うくする。それ故に、自己の存在は存在感なくしても存在するのであるから、自己の存在感を捨てる事によって自己の存在を空しゅうし、外界の意志に合一せよと。その為に、存在感を感じさせるような刺激から身をさけ、快楽からその身を遠ざけよと。だが、私は違う。自己の存在感を拒絶する事は、つまり自己の生体としての存在を妄筋に否定する事になる。又、いかに俗世間を逃れたとしても、自己は生体としての存在から解放されない。一旦、人間として生を受けた以上、人間として生きるべきだ。人間としての喜びを甘受すべきだ。自己一人がたとえ解脱し得たとしても、それは、人間である事を否定したに過ぎない。人間の苦しみを看過して解脱はない。おのれの解脱とは、すなわち、すべての解脱に他ならない。自己の内部から湧き上がる感動、すなわち生命の躍動を甘受せずして、何で生命の尊さを感じうるであろうか。感動のない人生など、果たして生きるに価するであろうか。身を震え上がらせ、自然に涙が溢れ出るような感動に襲われた時、人間は、生命を身近に感じ、生命の歓喜に触れる事ができるのだ。

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