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著書:  自由(意志の構造)上


                  第1部第2章第5節 誇りと恥

 日本人は、欲望だの怨念だのといった薄汚いものが好きなようだ。私は、日本が敗戦国である事を痛感する。欲望も怨念も、それを生み出す矛盾に対する怒りがあるから直視できる。悪は悪だ。悪を善として肯定する事はできない。悪に対する激しい怒りがなければ、善を善とする事はできない。戦争に負けたのは、物質的に負けただけでなく、精神的にも負けた。すべてに、すべてが負けたのだ。戦争中に、いとも簡単に転向し、戦争に負けて又いとも簡単に転向した。その方が重大な敗北だ。
 日本人は、いつから、自分自身の手で自分自身を律する事ができなくなったのか。自らが自らを罰し、自らの姿勢を自らのカで正す。それが人間としての誇りだ。
 負け犬根性こそ悪だ。惨めさやみっともなさを、それが現実なのさと、自嘲ぎみに諦観する。そして、人を穿った見かたしかできなくなる。物事に真剣に取り組む人間を、どうせ負けるのさといって嘲笑する。君は若いね甘いよと大人になれば、どうせ穢くなるさととでもいいたげに批判する。侮辱されても、ヘラヘラ笑ってばかりいる。相手の誇りを傷つけても何も感じない。人間的感覚が麻痺してしまっている。自分が正しいと思った事だって、堂々と主張できない。そればかりか、堂々と生きていく事すらできない。妥協も挫折も、あらかじめ予定されていた事のごとく、しかたがないさと肯定する。唯々大勢に阿るばかり。それでは、先の見えた議論しかできまい。他人に裁かれ、それが他人事であっても、納得もせずに唯々諾々と肯定するのは恥知らずだ。人間は、恥を知らなければならない。それは、人間だからだ。
 恥知らずは、精神的に敗れたからだ。たとえ、物質的に敗れても、精神的に敗れてはいけない。負け犬の考える事は、いかにして他の人間の足をひっぱり蹴落とすかばかりだ。そこには、友情もなければ愛情もない。形ばかりのつきあいと、憎悪だけだ。そこに存在するのは、精神的荒廃だ。故に、他の人問にとって負け犬は悪だ。
 人間は、プライドを持つべきだ。又、恥を知るべきだ。それが生きているという事だ。どのよぅな状況においても、毅然たる態度で起立する事、それが、人間の冷静さと平静を保つ重大な要因である。状況に対して毅然たる態度で臨む為には、誇りを持ち恥を知る事である。

  A 誇り

 職人の誇りは、自分が納得のいく仕事をする事と、自分のした仕事が活かされる事である。スポーツマンの誇りは、自分が納得のいくプレー、つまり、フェアプレーができた時に感じる。自分が、その人間を信じ、共に事にあたった事が正しかったと確信しえた時、妻は夫に、夫は妻に対して誇りを持つようになる。
 誇りは、自己の意志に対する強い信念である。自分が、その対象に対して充分に納得し、満足をした時に生じる感情である。つまり、自己の存在に対する確信が得られた時に、与えられる感情である。又、誇りは、自分に対して忠実でありたいという意識の現われでもある。
 誇りは、自慢とは違う。自慢は、当初の目的を顧みる事なく、その結果のみを顔示する事である。故に、自慢には、必ずしも正当な評価が伴うとはかぎらない。誇りは、自己のあり方に対する信念に基づいたものである。故に、誇りには、必ずその結果に対する正当な評価が伴う。誇りは、むしろ、謙虚なものである。結果に拘泥する者は、誇りを失う。
 誇りは、自分に対して忠実でありたいという意識の現われであるから、自己の善や美を遵守しょうとする意志が存在しなければならない。故に、むやみに自分の行動を肯定したり、容認せずに、自己の力で自己を制御し、律しようとする意識が強く働く。誇りは、他人の功績を横取りするような事からは生じないし、現実への安易な妥協を許しはしない。誇りはあくまでも、他力本願的なものではなくて自律的なものである。皆がやったからといった情けないものではない。善とは、自分が正しいと信じた事であり、行動を決するのは、自分以外の誰でもない。納得がいかないのに、それを是認するような老を、誇りのある者とは言わないだろう。
 誇りは、自己の自律性を重んずる感情であるから、独立不羈(ふき)の精神を養うものである。強い責任感を誇りは自己に自覚させる。誇りは、自己を純化する。誇りは、自己への回帰を促す。誇りには、自己の意志や信念を、より確実なものとして擁護し、自己の精神を浄化する作用がある。それは、自己の実像をより正確に知ろうとする意志の現われでもある。自己の実像を正確に知ろうとする意志は、たとえどのような結果を得られようとも、他人がどのように評価しようとも、自分が納得のいかない事を、容易に認めようとする気持ちを起こさせない。そういう気持ちは、常に、自分の姿勢を正しい方向に、美しい方向に向ける。ある行為に対して、その行為が正しいものであるという確証を得た時、その行為に対して誇りを感じるようになる。惨めさやみっともない事を忌避する意識が誇りには付き纏う。誇りは、卑怯、卑劣なる行動を嫌い、常に、潔く堂々たる態度に対する憧憬を持つ。目的の為には手段を選ばず式の考え方から程遠いものである。誇り高い者は、過ちを自らが正す事を欲し、他人に裁かれる事を潔しとはしない。そこに誇りの重要性がある。向日奨のように、自己の目を、常に、自己の善や実の方に向ける態度を養い、向上心を育て、善や芙への憧れをもたらし、やがては、自己の意志を、善や美の成就に対する激しい情熱へと昇華させるカが誇りである。
 誇りは、他人に裁かれる事を激しとはしない。しかし、誇りは独善的なものではない。他人に裁かれる事を潔しとはしない精神は、自己自身に対する強い信念であるから、むしろ、自己の善を他者に強要したりはしない。又、自己の過ちを過ちとして認めない卑屈な態度を潔しとはしない。自己の意志で非を非として、是は是として認め、意味もなく、自説に拘泥する事をしない。又、納得もいかないのに他人の説に従う事をしない。誇りは、自分の意志で物事の決着をつけようと欲する感情だ。それ故に、誇りのある老を、我々は信用し、又道に、誇りのない者を信用しないのである。
 誇りは、自己の存在を強く意識させる。自己の存在を強く意識する事によって、自己自身が目的化される。その時点、その時点の自己の在り方を尊重しようとする気持ちの現われなのである。つまり、自尊心の現われである。自尊心は、自己が常に最善を尽くす事を自己に要求する。それは、自己の善の明確を促す。自己の内面的な善が明確化される事によって、その善に対する責任感が生まれる。責任感は自己の行動を自己の善によって律していこうとする強い意志をもたらす。それは、自己の行動を納得のいくものにする事によって、その行動を充実したものにしたいという願望の現われである。仕事を充実したものにしたいと願うのならば、その仕事に誇りを持つ事である。又、その仕事に誇りを持てるように振舞うべきだ。
 誇りある者は、その行為の結果生じる報酬よりも、その行為の正しさを高く評価する。報酬は、必ずしもその行為の正しさに支払われるものではない。その行為の結果に支払われるものだ。自分が正しいと信じて行なった行為を、報酬によって評価された場合、行為の結果のみが重視されて、その動機や目的、又、その行為の正当さが評価されなくなってしまう。その為に、結果が自己の善に背かせてしまう事すら生じる。又、行為が即物的な傾向をおびる事になる。報酬を求める事は、必ずしも悪ではない。しかし、その報酬の為に自己の善に背くのは背徳行為である。自己の行為を、これみよがしに他人にひけらかすのは、物欲しげで誇り高い行為とはいいかねる。奉仕活動に、有形にせよ無形にせよ、その報酬を求めるのは、むしろ、卑しい。誇りはその行為自体に感じるものである。
 その人間の思想は、本質的には、その人間の行動が現わす。その人間が生み出した理論ではない。理論の正当さは、作者の行動とは無関係である。たとえ、その人間が挫折したり屈服したとしても、それは、その人間の弱さ故であり、理論の正否には関係ない。しかし、その人間に対する評価は、その人間の行動から測られる。その際、理論は重要な資料になる事は確かだ。誇りの高さは、その人間の行為によって測られる。その人間の言動によってではない。
 誇りは、自己の善の核心を作り出すものである。故に、他者の誇りを傷つける事は、これを極力回避しなければならない。柏手の主体性を喪失させる危険性があるからである。思想の変化に伴う危険性で一番恐ろしいのは、思想の急激な変化によって誇りを失う事である。自分の過ちを認める事を恐れるのは、過ちを認める事によって、自分の誇りが傷つけられたょうに錯覚するからである。その為に、片意地をはったり、頑固になったりする。誇りは、心の要である。誇りを失う事は、自分自身を見失わせてしまう。戦後の日本人を襲ったのは、この虚脱感である。だが、誇りは、本来自分自身の態度、姿勢に向けられるものであり、自説に拘泥したり、他者を蔑視するような態度を激しとはしない。誇りは、常に自己尊重、他者尊重の精神に貰かれたものである。
 戦後の日本人に欠けていて、必要とされているものが、誇りである。日本の敗戦は、日本の精神文化をも破壊した。日本人としての誇りを失ったのである。日本人は誇り高い民族であった。それは、国家としての長い伝統と歴史に裏づけられていたからである。又、日本は、建国以来、国家の独立を守り通したからである。私は、民族主義者ではない。しかし、国家が、国家として存立する為には、その思想において敗れても、その国民的誇りを失ってはならない。国家の復興は、その形式的な復興ではなく、文化的復興に基づいて為されなければならない。文化的破産は、社会そのものの破産へと導く。文化は、その民族の精神的基盤である。文化は、その民族の精神的故里である。民族として共同体意識の現われである。共産主義にしろ、国粋主義にしろ、その国家の文化によって培養される。つまり、諸々の主義主張は、共同体意識の現われであり、社会をよりよいものへしようとする意志の現われである。それは、最も文化的な意識である。民族意識は、国境によって生まれるのではなく、文化的意識によって生まれるものである。つまり、日本人であるという意識は、日本に住む事によって生じるのではなく、日本人だと意識した時に生ずるものである。日本人である事を意識し、日本人である事に誇りを感じる時、日本を誇りのもてる国家にしようとする意志が生じる。日本人である事を意識できなくなり、日本人である事の誇りを失った時、日本の文化は破綻するのである。文化を失う事は、その民族の持つ共有の意識、精神を失う事である。それは、その社会の伝統的合意、歴史的合意を失う事でもある。その結果、その国家の共通の常識(コモンセンス)を失う事である。それは、民族としての共同体意識を失う事である。共同体意識を失うという事は、共同体としての人間と人間の結びつきを断つものである。そ こに、存在するのはエゴだ。その社会の人間の、人間としての、人間同志の繋がりをなくし、人間的な感情を喪失してしまう。人間が、社会的な動物である事を忘れてしまうからだ。
 愛国心は、その国の政府や制度に向けられるのではない。その国の土地に向けられるものである。つまり、その国の文化風土にだ。日本が戦争をしたのも、天皇や国家に対する忠誠心よりも日本文化風土を愛したからだ。フランス革命を起こしたのは、フランス人だからだ。戦争中に犯した罪の頃罪も、日本人としての誇りがあってはじめて可能だ。その国の政治や制度が、その国の文化を辱しめるものであるのならば、その政府や制度を容認するのではなく、倒してでも改善するべきだ。文化には、その国を浄化する機能がある。
 経済的破綻は、必ずしも文化的破綻には結びつかない。しかし、文化的破綻は、社会そのものの破綻に結びつく。文化的破綻は、その社会の浄化横能を破壊するからである。経済的復興は、必ずしも文化的復興をもたらさない。だが、文化的復興は、経済的復興を促す。経済は結果であり、文化は動機だからだ。日本人を、日本人として意識させるのは、経済ではなく、その国の文化である。
 高校生売春が問題になっている。売春する方にも問題はあるが、それよりも、買う方にもっと問題があると私は思う。私は、人間を売買の対象として見る事自体、少なからず抵抗を感ずる。労働者は、労働を売るという考え方にも賛成できない。人間の尊厳を傷つける事は、自己の人間としての誇りを傷つける事だ。自分の娘や柿妹が売春していると聞けば、どういう気持ちになるだろう。自分が売買の対象にされているというのは、あまり気色のいいものではあるまい。これは生理的欲求の為の人間、これは遊ぶ為の人間、これは家事賄いの為の人間という風に、人間は割り切れるものではない。人間は、もっと切ないものだ。第一、それは人間を差別している事になる。男と女は違うというのも充分勝手な言い分だ。自分が恥と感じる事を相手に強いるのは、恥知らずだ。好きでやっているのだからというのも弁解じみている。人間を自己の快楽の対象、生理的欲求の捌け口にしか見られないのでは、自分自身の人間性を失ってしまう。人間を人間として扱う事、それが人間としての誇りを養い、ひいては、人間間の無用な摩擦をなくす事になる。人間と人間との交際の中で、性行為がもたれるのは不自然な事ではない。しかし、それは、相互に相手に対する強い信頼と尊重があってはじめて可能だ。複数の人間と性交渉を持つ事が、いかに困難な事かわかる。
 人間を金銭に換算する事は、人間を結果的なものにしてしまう。それほ、人間を結果的なものに、一様に押し並べてしまう事だ。人間に対する評価が、動機や原因といったものを無視し、結果的なもの、地位とか富といったものによって測られる。それは、人間の在り方とか信念といったものを軽視する精神風土を生み出し、人間の尊厳に対する不信感をもたらす。利潤さえ上がれば、公害を起こそうが、粗悪品を売ろうが、平気である。戦争に勝てさえすれば、核兵器を使用しょうが、大量虐殺をしようが、構わない。女などという者は犯してしまえばこっちのものだ。相手が傷つこうがどうしようが知った事ではない。そんな考え方がまかり通る社会になる。学問も労働も神様ですら、一つの商品的価値の対象としてしか測られなくなる。大学に入るのも投機の対象としての価値、つまり、卒業証書の商品価値によって測られる。金さえ払えば天国も地獄も思いのまま。労働そのもののもつ喜びも、真理の探究心のもつ崇高な精神も失われ、労働や学問に対する情熱ももてなくなる。つまり、人間のもつ一切の人間らしい感情も失っていく。確かに、結果は大切なものには違いないが、結果によって動機や原因が歪められてしまうのならば、それは行き過ぎである。
 誇りは、自己の内在的価値観、つまり、善に基づくものである。ただ、善を意識しているかいないかは別として。自由とは、なにをしてもいいという事を意味しているのではない。逆に、なにをしてもいいという事は、なにも許されていないという事を意味する。それは、意思決定の為の価値基準が存在しない事を意味するからである。自己の行動は、内在的価値観と外界からの要請によって決定され評価される。内在的価値観と外界からの要請が食い違った場合、双方を充分に吟味した上に、そのいずれかを選択しなければならない。内在的価値観に誇りは基づくものであるから、内在的価値観による決定を捨て、外界からの要請に従う事は、本質的には誇りを喪失させる行為である。しかし、人間は、必ずしも内在的価値観を明確に知っているわけではない。常に、内在的価値観を模索している。自分が、今、信じている価値観が、其の内在的価値観であるとは限らない。其の内在的価値観は、行動によって表われる。行動の背後には、何等かの価値観が存在する。行動を吟味する事によって、その背後に存在する価値観を見いだす事ができる。現象を調べる事によって、その背後の法則を知る事ができるように、結果の中に原因は含まれている。行動の中に含まれる、誇りのもてる動機、それを採し出す事である。
 内在的価値観を意識する事によって、内在的価値観を是正する事が可能となる。つまり誤りを正す事ができる。内在的価値観を意識しえない場合、直感的なもの、つまり勘に頼らざるをえない。我々は、その場合、自分の誤りを正せずに、強引に正当化してしまう事が多い。
 ありえないという事と、あってはならない事とは違う。ありえない事は、現象の問題であり、あってはならない事は、意志の問題である。この世に、ありえないという事はなくても、あってはならない事はある。人間は自分が守らなければならない事を知るべきだ。そして、他人が守っているものを尊重すべきだ。
 自己を意識する為には、何らかの自己の行動なり、自己と対象との関係が存在しなければなちない。自分が、ある対象に対して誇りを感じるとしても、その対象と自分との間に何らかの関係が存在しなければならない。自己の行為や対象との関係がないところに自己の存在を意識するとしたら、それは、自意識の過剰である。
 誇りの向けられる対象は、常に、自己である。我々が、何らかの対象に対して誇りを感ずるとしても、その対象に対して自己は何らかの関係を有している。そして、その関係をつきつめたところに存在するのは、結局は自己である。我々が、何らかの対象に誇りを感ずるというのは、その対象に自己の内在的価値観が具現化された場合、つまり、自己の誇りを喚起させられた時に感ずるものである。
 自分は、誇り高くありたいと思う。そして友達に、誇りを感じさせる事のできる人間でありたいと思う。誇りを持たない者は、何をしでかすかわからない。自分で自分の善を守ろうという意志を有さないからである。つまり、人間としての節操がない。人間は、商品ではない。人間は、物ではない。人間は、金銭で測れるものではない。人間は人間なのだ。人間の行動は、打算によつて測れるものではない。今ほど、人間とは何か、自分とは何かと問われる時代はあるまい。現代は、一律に人間の在り方、自己の在り方が規定されているのではなく、自己が自己の在り方を規定していかなければならないからである。つまり、倫理観が私的なものとなり、学問や教育が補助的な役割に席を譲ったからである。それは、倫理観が喪失したのではなく、倫理観が身近なものとしてより明確に意識される事を意味する。それ故に、個人主義社会においては、自己の自律、つまり自己の意志に基づく行動と、自己の行動に対する強い責任感を要求される。日本は、戦争に敗れた時、同じ過ちを二度と繰り返さないと誓ったはずだ。それを守る事それ自体が、新しい日本の精神の誇りを育てるのだ。このように、自己の体験が、自己の内在的価値観にフィードバックされて、自己の内在的価値観に形成されていく。自己の内在的価値観は、やがて自己の倫理観へと昇華されていく。個人主義社会ほ、このような各個人の倫理観に信を置く事によって成立するのである。それ故に、誇りある行動というものが以前よりも要求され、又、やりやすくなっているのである。個人主義社会においてその信を裏切る場合には、それ相応の覚悟が必要である。つまり、そのような行為は、社会全体への挑戦として受け取られるからである。それ故に、個人としての倫理観を有していない、もしくは、完成していないと見傲されるものは、社会全体の庇護下に置かれ監視される事になる。そして、逆に、個人の倫理観に干渉する事を極力さけ、保護し、又、干渉せずに済む社会を構成する事を、個人主義は、その目的とするのである。個人主義社会において、個人が倫理観を失う事は、すなわち、個人主義社会の堕落であり、敗北である。それは、又、強権的で強圧的な国家の出現を許す原因となる。信なき国家は、展望なき国家であり、国家としての成立条件を失うからである。自己の倫理観を守ろうとする意志は誇りを生み、又、逆に誇りは、自己の倫理観に対する強い信念をもたらし、勇気を与える。自由を守るという事は、自己の倫理観を守るという事である。それ故に、人間は誇りを持たなければならないのである。人間として、日本人として、男として、女として、そして、自分は、自分として誇りを持つべきだ。

 B 恥

 人間にとって一番大切なのは、生きるという事だ。つまりは生き方だ。人は、パンの為に生きるのではない。生きる為にパンを食べるのだ。人間にとって重要なのは、自己の生き様を知る事だ。生き様を知る為には、まず自己が生きているという事実を認める事だ。そして、生きるといぅ意味を知る事だ。生きるという事は、生きているという事実を前提としている。生きるという事は、刹那的なものではなく、連続したものである。人間の生き様は、生きている過程において現われるものであって、それ自体が完結したものではない。それ故に、意志や誇り、又、払が生じるのである。人間は、自己の生き様が連続したものである事を知っている。知っているから人間は、将来自分が生きられるように呪在を立ち振舞うのである。そこに、自制心の必然性があるのである。
 車を運転していると、信号を無視し、他の事の運行や外的状況を無視して運転したいという衝動にかられる。しかし、我々はその結果を予測できる。予測できる故に、我々は衝動を抑制するのである。自由について我々は思い違いをしている。自由とは、そのような衝動に従って行動するのではなく、そのような衝動から解放される事を意味する。
 衝動を一概に悪だと決めつけるのは間違いだ。衝動は、未知なる部分に対する判断である。それまで自分が未経験であったり、知識を持っていなかった事柄に対する判断、もしくは動機となるものだ。それ故に、そこに現われた行動の真の原因や動機は、曖昧であり不明瞭である場合が多い。また、それ故に、そこで下される判断が必ずしも自己の真の欲求と合致するとはかぎらない。自己の抑圧された部分が、まったく違った局面に露呈する場合がそれである。動機や原因は、行動主たる自己において把握しにくい。自分にも説明がつかない行動が多い。衝動的な行動の動機や原因を、ひどく単純にとらえようとするのは、その為である。つまり、動機や原因を知った所で、それは結果によって押し流されてしまうからだ。やってしまった以上、その動梯や原因など考えたところで無意味ではないかという考えが、その背景で働く。しかし、衝動的行動は、実は複雑な内容を含んでいる場合が多い。又、その為に、動機や原因をつかみにくい。動機や原因が不明瞭である故に、その行動を制御するのは非常に困難である。しかし、衝動は、自己の未経験な部分、未知な分野に対する挑戦の動機となるもの、つまり冒険心の現われでもある。自己の限界を目の前にして行動を決定していく際、又、不確実な事柄に対する判断を下す際、人間は、そのほとんどが測りしれない部分、常軌を逸した部分で行動している場合が多い。衝動は、より新たなもの、向上心に結びつくものでもある。衝動とは、意識せざる部分における思考の判断でもある。創造とは、この意識せざる部分の判断に負う所が多い。人間にとって衝動は、破壊と創造の両刃の剣である。それ故に、衝動の持つカと意味、そして構造を知る必要がある。衝動の持つ力と意味、そして構造を知る事によって、それをより創造的な方向へ向ける事が可能となるのである。
 土一揆は、革命にはなりえない。破壊にともなう青写真、構想がないからだ。革命を計画的に引き起こす事はできない。土一揆も革命も、状況によって引き起こされる。そうしなければならない状況が存在する。時代が要求しなければ、英雄は現われない。自己ができるのは、革命や土一揆のエネルギーを民衆の問に充填し、革命的状況を創る事ぐらいだ。しかし、それも又、必然の問題だ。戦争と革命の決定的相違がそこにある。
 一旦、行動を起こした場合、我々は、それまでにあたえられている経験や知識に基づいて判断を下していかなければならない。しかも、判断というものは、瞬間的になされるものである。決断の時は、常に、一瞬に来たり一瞬に去る。又、真に決定を要する事柄は、実際には不確実な要素を多分に含んでいる場合が多い。決断を下さなければならない状況において、未経験、未知なものを補充する事は、ほとんど不可鰭な事だと思った方がいい。あまりにも不確実な要素が多すぎると、適切な判断が下せなくなる。場合によっては決断不能状態に陥る。状況を予測し、その予測に基づいて知識を貯え、経験を積む事によってのみ、その時点において適切な判断を下す事が可能となる。
 ある状況を想定し、それをモデル化する事によって、決定に至る過程を構造化し回路として固定するのである。自分がそのような回路を意識するにせよ、しないにせよ、我々は、そのような回路を無数に持っている。
 確かに、そこで構成されたモデルは、実際にそれが起こった場合とは、明らかにちがう。そのモデルが現実に通用するかどうかは、実際にその状況になってみなければわからない。だが、その事を知る事によって我々は、自己の体験を逆に、そのモデルに還元し、モデルをより現実的なものとする事ができる。又、そのような構造、モデルがなければ、体験を整理し活かす事はできない。なる程、理論は必ずしも完全なものばかりとはいえない。しかし、理論がある事によって、過去の経験を未来の状況に活かす事ができるのである。そこに、理論の必然性がある。理論は、伝達の手段としてのみ存在するのではない。
 民衆は生きている。自分達の意志で動いている。たかだか一人の人間の力で、この民衆を操作しようなど考えるのは愚かな事だ。はじめはうまくいっても、やがては民衆は自分達の意志で動きだし、民衆をあやつろうとした人間に復讐をする。民衆の中にあってはじめて、民衆と共に生きる事ができる。
 衝動的行動というものは、状況によって引き起こされる。革命にせよ、土一揆にせょ、衝動的行動が一時に噴出した状況をさす。そのような状況に際し、その状況そのものを把握していなければ、自分自身も、又、民衆もよりよい方向に誘導する事はできない。又、そのような状況に際し、冷静にその状況を分析できる人間でいなければ、又、人間がいなければ、自己として、民衆としての自律性を失い、暴走、暴発に終わってしまう。我々にできるのは、どれだけの人間を、そういった状況に際して冷静にさせる事ができるのか、冷静でいられる人間を確保・育成する事ができるのかと、絶望や諦めによって自分達の持つ限界を越えようとしていく努力を怠るような精神的風土を、常に、自分達をよりよい方向に向けて越えていこうとする激しいエネルギーを秘めた精神的風土に変える事ぐらいなのだ。
 どうしようもなく絶望的な状況の中で、どうしようもなく利己的で、すべてに懐疑的になっていく。だのに、この激しいカは、なんなのだろう。繰り返し起こる失意と絶望の中で、それを撥ね除けていこうとする激しい力、そして、その力は自己をして自己の限界をすら越えさせてしまう。そのような激しさは、いったいどこに起因するのだろうか。そのような激しさこそ、生命なのだと私は感じる。人間の強さは、そのような激しさの中に求められるものだと私は思う。
 アダムとイブが最初に罪を犯し、最初に感じたのは払である。恥は、罪によって生じる。罪と恥とは表裏をなすものである。だからといって、恥を感じなければ罪も存在しないと考えるのは、愚かな事だ。痛みが感じられなければ、傷も存在しないというのと同じ事だ。それは、ただ感覚が麻痺したに過ぎない。痛みを感じる事によって傷の位置を知る事ができるように、我々は、払を感じる事によって自分の犯した罪を知る事ができるのである。麻薬によって自分の感覚を麻痺させたところで、傷が癒えるわけではない。むしろ、自分の傷を忘れさせてしまうだけだ。
 罪とは、自己の善に対する裏切りである。自己に対する背信行為、それが、払を生じさせるのである。
 自己の存在に対する認識は、経験的なものである。ある行為を通す事によってのみ、自己の存在を認識する事ができる。払はかくものである。又、恥は、かいて知るものである。私をかく事を恐れてはならない。自分が正しいと思った行為を、経験する前に諦めるのは充分恥知らずな事だ。
 内在的価値観は、体験を通して意識の上に現われてくる。内在的価値観は、外面的価値判断、つまり、意思決定と同値なものとは限らない。自己の内在的価値観は、多分に構造的である。人間存在固有(注)の諸特性、たとえば二足直立歩行とか、言語を有するとか、又、男女の別がある等といった事が、何々をすべきであるといった倫理観を、しなければならないといった状況から生じさせるのだ。内在的価値観は、あらかじめ規定されていたり、意識されているのではない。人間存在固有の諸特性の構造によって、外的状況からの外的要請を反映した形で構成されていくものである。故に、内在的価値観は、構造的にあらかじめ用意されたものといえる。人間の価値観は、自分が生まれる以前に、具体的にこうせねばならないと決められているのではなく、構造的に、こうしなければならない状況と、自己の持つ形態によって決定されていくものである。
 思考とは、かなり構造的なものである。外的な要請や状況は、かなり明確にかつ具体的に把捉する事ができる。それに対し、自己生来の構造というものを、自分自身が完全に意識できるとはかぎらない。病気になっても自覚症状が現われるまで当人は気がつかない場合が多い。それも、他人に指摘されてはじめて気がつくものだ。情けない話である。思考において我々が意識できるものは、思考が停滞したり、理解できなかったり、解答がいくつもでてしまったりした所、つまり、ひっかかりのある所だ。疑う余地のない事柄など疑問点が提示でもされなければ、素通りしてしまう。動機からいきなり結論が導き出されるのである。文字通り、動機と結論が表裏一体をなしているのである。つまり、迷いがないのである。
 思考の過程などというものは、なまなかの事で意識できるものではない。又、そんな事を一々意識していたら大変な事だ。階段を駆け上がる時、我々は、自分の脚力、走る速度、階段の高さなどを厳密に計算している。だが我々は、そのような計算などを意識する事などほとんどない。意識していないから、我々は階段を駆け上がる事ができる。思惟の構造は、それを活用している次元では潜在的なものとなる。いざ、ある一連の行為を実施する段には、自分が活用している構造を意識しているわけにはいかない。一々、個々の要因を吟味している時間がないからである。現存の構造の中に個々の経験を記憶させ、それは事の終了後に、それを分析する事ぐらいである。試合中にルールを作ったり、修正する事はできない。試合中は、決められたルールに従って行動するしかない。ルールを新しく作ったり訂正できるのは、試合の終了後の事である。
 思惟の構造は電気回路のようなものだと考えてもらえば、わかりやすいだろう。私は、質量、つまりバランスの問題だと考えているが、ここでは、回路といってもさしつかえないだろう。思考の過程には、ブラックボックスのような所があって、その内部構造は、まだよくわかっていない。それでも、通常の活動内部では、それは、さしたる問題にはならないのだが、その回路を修繕したり、再構成、又、新たに創造しなければならないという段になると、はなはだ不都合な事が生じてしまう。TVを使う側にしてみれば、なにも高度な電気工学の知識など必要はない。スイッチをひねって、ダイヤルをまわすぐらいの事を知っていれば充分である。だが、TVを発明したり、設計したり、修繕したりする人間は、それでは困る。程度の差はあれ、何等かの知識を持っていなければならない。
 TVのような電気器具は、その回路構造と構造内部を流れる電流とによってはじめて始動する。人間の思考も同様なものと、私は考える。つまり、その静態的構造と動態的エネルギーとによって為されている。ただ、電気器具と生物との決定的相違は、構造にせよエネルギーにせよ、機械は外在的なものに全面的に依存しているのに、生物は自家自製的な存在であるという点である。人間は自分で目的を設定し、自分の力で食料を作り出す事ができる。しかも、自己増殖的である。つまり、自己の主体性を有するのである。それに対して、機械は目的にせよエネルギーにせよ、人間によってあたえられる。
 静態的構造を静困、動態的エネルギーを動因と以後呼ぶ事にする。
 動因とは、すなわち生命である。静困は自己が生まれた当初に与えられた構造に基づいて、自己の学習によって形成される。そのほとんどが経験的なものである。だから、経験重視、理論蔑視の風潮が生まれるのだろうけれども、自分の行動を相手に説明しなければならないという場合、はなはだ困る。動機と結論ばかりで、中の論証が欠けてしまうからだ。過去の日本のように、向こう三軒両隣程度のつきあいですむ世界ならそれでもいいのだが、もっと大きな世界に住むとなると、それでは、はなはだ都合が悪い。
 人間が自己の内部構造について意識できうる範囲は、限定されている。それは、氷山の一角に過ぎない。車を運転する時、たとえば街角をまがろうとした場合、手はハンドルを操作し、目はまがる方向を見ながら周囲の状況に気を配り、足はブレーキ、クラッチ、アクセルを操作するといった具合に、一連の動作が、同時に進行する。しかし、そういった動作の中で自分が意識している範囲というものは微々たるものである。そのほとんどの動作が無意識になされている。一瞬の問に複数の判断が同時になされているのである。確かに、車の教習を受けている時には、我々はいちいちそれを意識しているのかもしれないが、それではミスが多い。その時点では、やはり免許はとれない。教習を受けながら頭の中に一連の動作を連合し、回路を作りあげていくのである。頭の中に回路が完全にできあがってしまうと、その回路自体に誤りがない限り、重大なミスをせずに、一連の動作の手順を、さして意識せずとも、なんとかこなす事ができるようになる。人間は、一連の動作を構造化する事によって、多様な行動様式をとる事が可能となるのである。
 回路を作りあげていく創意と、それを活用していく工夫によって、思惟の構造は形成されていく。又、多くの回路を持ち、それを併用していく事によって、人間の行動は選択能力、つまり自由度を拡充し、飛躍的にその半径を広げる事が可能となるのである。
 学習は、多分に実践的なものである。知識は学習を補助するものであり、知識を得る事だけが学習ではない。知識は、情報の一形態に過ぎない。学習とは、自己に与えられた情報を基にして、一連の動作を連合し、それを構造化する事である。知識は、記憶されると意識から消えていく。我々は、母国語を学習するのに、文法から教わるのではない。経験的、直観的なものだ。日常会話をする時に、一々、文法や言葉の意味を厳密な形で意識しているわけではない。それでも、別に不便を感じるわけではないし、逆に、一々そんな事を意識していたら失語症になってしまう。言葉などというものは、使う事によって覚えるのであって、いくら文法を教え、単語を暗記させたところで、活用の場所がないのならば、覚えられるはずがない。
 外界からの情報というものは、総合的な様式をもって人間に対して与えられる。その情報を連合する事によって、思惟の構造は形成される。そして、連合する力が動因である。情報が明確な意味をもっている事は、概して少ない。だいたいにおいて、五官を通じて直観的に受け入れていくのである。それ故に、思惟の構造は、意識されている部分と意識されていない部分にわかれる。
 対象認識は、総合的な観点からなされる。対象認識は全身をもってなされる。同様に、自己表現も、総合的な観点から、全身をもってなされる。必ずしも、自分が表現している事の意味を意識しているわけではない。たとえ同じ事を言ったとしても、その状況や言った人間の差によって、受け取りかたが微妙に違ってくるし、同じ事を表現しようとしても、その日の気分や状況によって微妙に変化してくる。時代劇など見ていると、そのしぐさによって、あっ誰かを襲おうとしているなと、説明されなくてもわかる。恋人どうしは、気配や、しぐさでそれとなくわかる。我々は、そういった形で与えられてくる情報を総合的に受け取め、内在的価値観や思惟の構造を形成していくのである。
 思考は、全身をもってなされる。故に、思考は、ある描像を懐く事によってはじまる。意志の伝達は、同じ描像を相手に懐かせる事によって終了するのである。又、自己表現とは、この描像を描写する事である。
 理性とは、意識された部分で自己を律していこうとする動因であり、感情とは、意識されざる部分で自己を律していこうとする動因である。それ故に、理性は、自己内部からの要求、もしくは精神的要求を反映したもの、感情は、外的状況からの要請、もしくは内体的要求の反映とみてもいいだろう。
 理性と感情はしばしば対立するが、元々は対立的なものではなく、むしろ相補的なものである。理性にせよ、感情にせよ、どちらか一方が正常に機能しえない場合、いま一方も正常に機能する事はできない。理性を失えば感情を制御する事ができなくなる。感情を失えば、逆に、理性を制御できなくなる。理性、感情、そのどちらか一方を失ったとしても、人間は自律性を失う。その行動は行き過ぎてしまう。行きつくところは、残虐、残酷、すなわち破壊である。
 理性と感情を一致させる事によって、人間の行動は円滑に行なわれるようになる。理性は善による判断であり、感情は美による判断である。つまり、理性と感情の一致は、すなわち、善と美の一致である。善と美を一致させる事によって、自己内部の矛盾を解消する事ができる。それが真理に結びつくと迷いが解消され、あらゆる束縛から解放されて自由になるのである。つまり、自分が正しいと信じて行なった行動がそのまま、美しく、そして、対外的にも認められていく、それが自由である。理性と感情を対立的にとらえるのは、むしろ自己内部の矛盾を恒久化させ、人間の解放を、はなはだしく阻害するものである。
 感情は、元来が無意識に機能する力であるから、その動機や原因はとらえにくい。なぜ自分が腹をたてているのか、その真の原因は意識の埼外のでき事であるだけに、本質的には意識できない。だが、それでは困る。困るから、感情の起こる構造というものを、意識次元でとらえておかなければならない。だが、困った事に、何等かの形で問題が設定されなければ、感情の背後に存在する構造に照明をあてる事はできない。状況において、それ程、差し迫った問題がなければ、あえて自己の内部構造を探索しようなどという気持ちは起こらないものである。
 感情を意識次元でとらえるというのは、つまり、感情を理性的なものに一旦還元しようという事である。又、理性を働かせる構造、つまり倫理観は、必ずしも統一されているとはかぎらず、いくつかの概念の島を作っている場合がある。自己内部において自分の倫理観が不統一な場合、自分の行動に自信がもてなくなり、無気力になる。行動に自信がもてなければ、当然、行動によってひき起こされる心の振幅である感情作用も弱くなる。故に、自己内部の倫理観を統一する必要がある。その為には、自己の価値観を点検し、とぎれた脈絡を結びつけ、漠然としていた個々の要素を明確にする事である。
 ここに、恥の概念がある。自己が倫理観を持つ事によって、つまり自分が本来守らなければならない事を知る事によって、その倫理観と、自己の現実の行動との差を感じるようになる。自己の倫理観に反する行動に対して、人間は恥を感じる。自分が正しいと思わない事柄でも、正しいと教えられてきた事柄にそむく行動をするのは、いくばくかのうしろめたさを感じるものである。そのうしろめたさが高じたところに払がある。人間は自己の倫理観と現実の行動を合致させようと努める。だが、現実にはそううまくはいかない。現実は、自己の倫理観以前に、妥協的な行動を強いるものである。その時、人間は、現実と倫理観双方に疑問を持つ。その疑問は現安の行動に対する恥ずかしさと、その恥ずかしさに対する反発を生む。現実の行動と恥との相剋によって、自己の内在的価値観は意識次元で止揚されるのである。
 恥には、行動がつきまとう。行動によって恥を喚起するのである。恥は、行動に自律性をあたえる。すなわち、恥には行動の調整作用がある。行き過ぎた場合には、自己の行動を抑制し、行動に対して情熱を失ったら自己の行動を奮起させる。それが、恥の果たす役割である。逆に、恥を知らなければ、それだけ行動も自律性を失う。破廉払という言葉が流行った事がある。駈を感じなくなる事によって、生な自己の欲求に触れょうというのだが、生な自己の欲求を解放する事が、自己を自由にするという考え方は、矛盾している。自由は、自己の行動の自律性が前提とされてはじめて成立する。逆に、経験によって恥を知る事によって、自己は自由になる事が可能になるのである。
 人間は、欲望か利害損得でしか行動しないという偏見が蔓延してきた。近代人は、疲れている。疲れているからこそ、そんな投げ遣りな考え方を許すのである。それは、人間としての誇りを失う事である。最も利己的な考え方でもある。
 私は、自己の倫理観を再認識させるものである。自己の行動に対して、常に問題を投げかけてくる。恥は、思惟の構造における神経系統のような役割を果たす。思惟の構造の所在を知らしめるものである。過敏になれば、時には肺捧させる事もあるが、痛みを感じなくなるのは困る。思惟の構造を知る事によって、行動の指針を持つ事ができる。行動の指針を失う事は、自己の行動が虚無化する事であり、虚無主義的傾向を生む原因となる。自己の行動を無意味化する事であり、行動に対する一切の情熱を失う事である。同じ虚無主義でも、理想と現実との隔たりに対して絶望し、激しい行動に駆りたてていく行動的な虚無主義とは違い、自己の無力感からくる虚脱状態であり、行動に対する意欲、将来に対する希望を喪失した、疲れた虚無主義である。その為に、行動は刹那的、退廃的なものとなり、判断基準は自己の倫理観に替わって、自己の利益がその中心に位置するようになる。それが、利己主義である。
 自己の行動のよりどころを、恥は教える。恥を知る事によって自己を調整し、律する事が可能となる。恥は、自己を変革する。又、恥に対する反発は、自己を行動へと駆り立て自己の倫理観の再検討を迫る。今しか見えぬ人間に真実はない。今しか信じられぬ人間に真理はない。科学は成長しているのであり、完結したのではない。倫理観は、自己の過去の経験を集積整理したものだ。大火傷をせずとも火が熱い事を知っている。痛みを知る事によって、大怪我をしないように将来に備える事ができる。それが、人間の英智だ。恥をかく事を恐れてはならない。恥を知る事によって、将来、大きな過ちをしないように備える事ができるようになる。痛さは、痛い目にあゎなければわからない。限界は、限界にいたってはじめて知る事ができる。
 ファッションは、流行がどうのこうの、高価、安価という以前に、自己のセンス、つまり情緒が問題なのだ。流行を追う追わないという以前に、自己のセンスによって自己の内部に消化できればそれでいいのだ。要は自己のセンスである。事は、人間がいなければ動かない。しかし、人間一人のカでは、事を使用した場合と同量の仕事はできない。人間は申の運転方法を覚え、諸々の法規を記憶して、実際に事を活用する際の思考回路を作る。事は、人間のなしえない仕事を可能とする形態を有している。そして、運転中は人間と車は一体となって行動するのである。
 人間は、形態的構造と内部構造の両面を有している。生命は、肉体を通して表現され、肉体は、生命によって動かされる。自己は、肉体と生命を媒介するものである。肉体と生命は、自己によって統一される。思惟の構造は、自己の行動を通じて身体の構造によって表現され、身体の構造は、自己の経験を通して思惟の構造に反映される。思惟の構造も身体の構造も互いに独立しており、干渉しあう事はなく、自己の行動が双方に同時に作用を及ぼす事によって両者を結びつける。又、自己の行動は、何等かの作用を双方にあたえる。故に、身体を鍛える事は、自己の行動によって思惟の構造を同時に鍛える事でもある。身体、つまりは形態的構造を強化する事によって、心、つまり動因の活動半径を拡張し、活発にする。それだけ、自己が選択できる余地が増し、つまりは自由になっていくのである。逆に、自己の体力を弱らせるような退廃的行動は、思惟の構造も疲れさせ、崩壊させる。行動を律する事ができないのでは、やがては、両構造を、つまり身心を疲弊させ、破滅へと導く。健全な肉体に健全な精神が宿るのである。身心は一如である。
 動因は、自己内部のカであって、外部からそれを刺激する事はできても、直接それを自己以外の存在が動かす事はできない。結局のところ、最後は自己の意志である。自己の生活を正そうとする気持ちが存在しなければ、自己の生活を正す事はできない。教育は、その人間の好奇心を刺激して、学習に意欲をもたせる事しかできない。無理強いをすれば、むしろ逆効果なだけだ。木の実は、熟すまで待たねばならない。機械のように、木の実を直接作り出す事はできない。水をやり、肥料をやり、害虫を除いてやるといった一見関係がないような仕事を地道に続けるだけだ。それが農耕民族の伝統だ。狩猟民族のように直接的ではない。人間は、本来、支配できない存在である。無理強いをすれば、結局は手を抜く。権力は、常に悪だ。意欲がなければ、結局は、誇りを失い、主体性を喪失する。人間すべてが、恥を知る事をただ待つのみだ。
 恥の対象となるものが、おぼろげながらもわかると思う。それは、つまり自己の主体性と独立、そして、生命の尊厳にである。同時に、自己を反映する対象としての他者、つまり人間の主体性と、個人の独立、そして生命への畏敬心である。それが、抽象的ではあるが、自己の守るべきものを生み出す源泉である。
 日本の神は、護る神であり、支配する神ではない。日本人は、聖職者を除いて、厳しい戒律を遵守するように神から要求された事がない。それは、日本の精神風土に重大な影響を及ぼしている。日本には自我意識がないと一般にされているが、それは逆だ。日本人程、自我意識が強い民族はないだろう。日本には英雄というものが存在しない。つまり、絶対者を生み出さない。英雄として自己を規定したり、絶対者が、自己を絶対者として規定する事が皆無といってよいからだ。そういった観念が生じるのは、明治以後、西洋文化との交流がはじまってからだ。日本の精神風土は曖昧さにある。日本は、思想を必要としない民族である。重要な事は、ただ単に、あらかじめ前提とされていると考えるか、曖昧としておく事が、つまり、いらぬ詮索をしない事が、一種の日本人の処世術であり、倫理観でもある。永い問、他国との交渉を断ち、しかも、幕藩体制という小国連合体制のもとに、閉ざされた社会に住んでいた日本人にとって、それが、最も無難な道だった。そこで培われた倫理観は、より現実的なものであり、現世利益的なものである。たとえば、義理人情のように。つまり、日本人は、神や思想によって規制された単一な倫理覿というものを強制される事なく、かなり自由に選択する事ができたのである。それは、逆に、他者の倫理観に対しても寛容な態度というものをもたらした。その替わりに、自己の倫理観に対する厳しさというものを植えつけたのである。日本人は、自律性が高い。日本人の責任感は、神に対する責任感ではなく、自己に対する責任感である。それが、切腹という極端な行為を日本人に行なわせる。日本人の畏れというものは、神に対する畏れではなく、自己の倫理観に対する畏れである。日本人の忠誠心というものは、とくに江戸時代に儒教的なものが混じる事によって、自己の倫理観に対する対象、つまり君主ほ、忠誠心の対象として象徴化されるのである。このように、自己の倫理観に対する強い畏れを抱く日本人は、当然、恥というものを極端に嫌う。又、それが、日本の精神風土の一大特徴でもある。日本人が恥を失う事、それは、日本人が日本人でなくなる時だ。我々が過去に犯した罪を償うためには、日本人としての誇りをとりもどさなければならない。
 贅沢に慣れる事は誇りではない。貧しい事は恥ではない。真に恥ずかしい事は、自己の行動の自律心を失う事だ。極限状態において、自己がどこまで耐えうるか、どこまでなしとげられるかである。敗北や堕落は、行動の自律性を喪失した時に訪れる。自律性を保っているかぎり敗北も堕落もない。喜びのともなわない快楽は、思惟の構造における無意識な部分に作用する事によって、思惟の構造をもろくし、自制心を失わせる原因となる。生活の乱れが、身心に対して影響を及ぼさないはずがない。又、過度の禁欲も、自己の内的要求を低く評価するものであり、その行動を歪めるものである。自己は、身心のバランスによって保たれているのであり、いずれにせよ、極端な思いこみは行動の自律性を失わせるものである。
 行動を抑圧されると人間は、不自由さを感じる。意思決定と行動は一連の流れであり、不可分な関係にある。行動なき意思決定はなく、意思決定なき行動はない。これら一連の流れが円滑にいく時、我々は自由を感じる。
 悪とは、思惟の構造の内部に入りこむ事によって、又は、構造の外部から力を加える事によって、思惟の構造を不当に歪めるものをいう。つまり、自由を抑圧するものである。悪に対する怒りを持たぬものに自由はない。
 自己は、行動の中に立ち現われてくる。行動は、錯綜する価値観、矛盾の中で自己という統一体によって表現される。意思決定は、自己との闘い、外界との闘いを通して下されていく。行動によって示された行為は、すべて真実となる。行動による結果は、すべてかそれとも無かだ。悪は悪だ。故に、自分が、なんらかの行動を起こす時、我々は、すべてが無に帰す事を覚悟しなければならない。そして同時に、すべてが始まる事を期待しなければならない。未練は、悪だ。絶望か、希望か。創造か、破壊か。それを選ぶのは、自己の意志だ。我々は、行動の中に自己を純化しなければならない。行動によって自己を磨かなければならない。あらゆる未練を断ち、すべての虚飾を捨て、そして、恥を知り、誇りをもって叫ばうではないか。これが、私の歩むべき道だ。
 行動とは、時間だ。時々刻々、外界も内的状況も変化しっづけている。行動は、この時間との闘いである。

 (注)固有のという意味には、特有のという意味と、生来のという二つの意味があるが、ここでは 生来のという意味で用いる。

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