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著書:  自由(意志の構造)上


                                  第1部第1章 自己

 
 自由であるか否かは、自己が行為によって表わす内面の動機と、自己がその行為を表わす場としての外界とのかかわりあい方によって問われる問題である。つまり、行為として表わされた動機が、外界の諸条件に、どこまで許容されていくかの限度によって、人間の自由度は判断される。そして、自己は、行為として表現される内面の動機の究極的な原因であるから、我々が自由について語ろうとした場合、まず、自己の定義をしなければならない。そこで、本章においては、自己の定義をする事にする。
 自己とは、第一に、あらゆる行為の主体である。第二に、自己は認識主体である。第三に、自己は存在前提であり、認識前提である。第四に、自己は間接的認識対象である。第五に、自己は観念的、精神的存在である。
 自己は存在である。肉体は、媒体に過ぎない。自己と肉体とを混同してはならない。
 自己は、あらゆる行為の主体である。つまり、すべての行為の発動困でありかつ、主動体、主現体である。又、あらゆる対象に対する認識主体であり、そして、地上における唯一の主体である。
 すべての行為の発動因とは、あらゆる行為の終極的原因である事を意味し、又、主動体とは、あらゆる行為の決定主、行動主を意味する。決定主、行動主とは、自己が、その存在を自己の肉体の運動を通して、外界へ表現していく際、その運動を実行し、制御していく内的実体を意味し、又、主現体とは、自己の存在を体現できる、つまり自己の存在を自己の肉体を通して、外的対象が認知できるように体現化、実体化していく事の可能な存在を意味する。又、認識主体とは、対象認識上において、最終的に対象を認知、識別する内的実体を意味する。そして、このような主体的存在は、自己以外に存在しない。
 それが、いかなる外的要因に誘発、触発されたものでも、行為を直接発動させるのは、自己である。外的対象や現象を認知、識別するのは、他ならぬ自己だからである。
 人に出会い、恋をし、愛に目ざめ、愛を知り、その想いを告白し、表現する。そのすべては、誰でもない自分自身が、自分自身でやらなければならない。他人がいくら食事をしようと、自分の腹が一杯になるわけではないし、又、人がいかにすすめたところで、いやなものはいやだ。親がいくら気に入ろうとも、周囲の人間がいくら褒めようと、愛せない人もいれば、逆に周囲の人にいくら反対されても、好きでたまらない人もいる。そうした行為や想いは、他の人に代わってもらうわけにはいかない。周囲の目を気にしているうちは、本当の愛などわかるはずがない。結婚という形式が、愛を保証してくれるわけではない。やむにやまれぬ情が、自分をしてそうせしむるのである。好きになるという事は、身も蓋もなくなる事なのである。そして、自分の幸福は、自分の努力によって、自分の手で掴むものなのである。なぜなら、人間の行為が、すべて自己に根ざしており、自己は本来、主体存在だからである。
 対象を認識し、最終的に識別するのは自己である。認識主体とは、対象を知覚、認識、識別し、これを記憶する究極的な内的実体である。ただし、自己は、知識や価値観、記憶した内容を意味するのではなく、そういったものを実際に形成したり、実行していく実体をさすものである。この点、混同しないよう注意してもらいたい。
 対象認識は、常に自己を基本単位としてなされる。故に、公式的な価値観や認識は自己の価値観の総和にすぎず、常に、相対的なものである。なぜなら、対象認識は、認識主体の相対的位置によって変化するものであり、それを絶対的位置に置きかえる事が不可能だからである。
 つまり、ある任意な対象を認識する際、一定の視点から対象の総体を認識する事はできず、どうしても視点をずらさなければならない。固定した視点によって対象を識別できるといった絶対的な位置がない以上、認識は相対的なものとならざるをえない。そして、認識が相対的である以上、それから派生する価値観も相対的なものとなる。それ故に、人間の生み出した科学は、相対的なものである。
 ただし、対象が相対的だというのではなく認識が相対的だといっているのであり、誤解しないで欲しい。この事は、後に、くわしく述べたいと思う。
 すべての行為の根底には、自己が存在する。そして、すべての行弟は、自己の存在を証明する。考える為に、自己が存在するのではなく、考える故に、自己が存在するのである。食べる為に、自己が存在するのではなく、自己が存在するから食べるのである。自己の存在は、存在それ自体が自明なのであり、他の目的の為に、存在自体が意味づけられるわけではない。行為は、その存在を証明するにすぎない。行為が、自己の存在自体を定義づける事はない。
 すべての行為は、自明な自己を前提として主体的に為されるものであり、すべての対象認識は、自己を前提としたものである。そして、あらゆる目的や目標は、自己の存在を前提として、自己の内的動機より発せられ、行為によって実現される。それ故に、自己はあらゆる存在に優先され、行為は自己の存在を立証する。
 いかなる価値判断や意思決定も、判断や決定の主体、主人である決定主を前提とし、行動における主体、主人である行動主を前提とする。自己を表現しうるのは、自己をおいて他には存在しない。このような自己の存在は、死後の世界の有無とはかかわりあいなく、死という現実をもっても否定できない。
 自由とは、このような自己の主体性に依拠した概念であり、そして、自由の重大性は、自由の喪失が、すなわち、自己の喪失に繋がるからに他ならない。故に、自由を確立するとは、自己の主体性を確立維持する事であり、生命を賭けてまで由由の為に戦うのは、それが、生きる事の唯一の証だからである。
 望む、望まないは別にして、自己の行為は、自己の判断に行きつく。自分が行なった事は、たとえ人の指示、命令に従った事であっても、結局、自分の判断にもとづく。脅迫や圧力に屈し、本意ならざる事をしたとしても、それによっても、だからといって自己の行為を正当化するわけにはいかない。自己の意志に背いた場合、人は、その負い目に一生、悩まされつづけるだろう。そして、その苦しみから逃れる唯一の手段は、自由をとりもどす以外にはない。なぜなら、死という現実ですら、自己の存在を否定できないからである。
 自己は、認識主体であると同時に、間接的認識対象である。
 主体存在である自己は、そのままでは客観的認識対象、もしくは直接的認識対象とはなりえな自己の対象認知は、必ずしも、なんらかの媒介を必要とするとはかぎらないが、自己認知は、なんらかの媒介物を必要とする。
 自分の顔を、自分の目で直接見る事はできない。自分の顔を鏡に映して、一旦、自分の顔を対象化しなければならない。このような自己と媒介物との関係を鏡像関係という。
 自己を認識するとは、認識するという主体作用と、認識されるという対象作用を、同一の存在が行なう事を意味する。このように、するという主体作用と、されるという対象作用が、同一の存在において、同時におこる現象を、認識における作用反作用という。
 自己は、観念的、精神的存在であって、物質的実体をもたない。肉体と自己は別のものであって、同一視してはならない。故に、自己認知において、肉体も、一つの媒介物にすぎないのである。又、同様に、価値観や知識のようなものも、自己と同一視してはならない。
 自己とは、あくまでも自己の存在そのもののみをさすのであって、自己の存在から附帯的に派生する価値観や知識、肉体とは区別しておかなければならない。それ故に、自己は時間の経過とは無関係に、そして、外界から独立して存在する事が可能なのであり、絶対的な存在なのである。
 価値観や知識、肉体は、確かに時間とともに変化する。それ故に、相対的なのである。 しかし、自己の存在は、価値観や知識、肉体が変化しょうとも変わらない。人間は死ぬまで生きているのであり、死後、自己が喪失するか否かは証明するすべもなく、今、現に、自己が存在する以上、それを問題にするのは無意味だ。
 自己は、今、存在するのであり、過去は、自己の軌跡にすぎず、未来は、不確実な推測の域を脱しはしない。生きている人間は、まだ死んではいないのである。
 人間は今、確実な事実にもとづいて、もっともよいあり方を考えるべきだ。あいまいな事柄に論拠を置けば、確実な事まで、あいまいにしてしまう。自己の軌跡である過去にとらわれて、現実の自己を見失ってはいけないし、不確かな未来におびえて、自己の信念をまげてはいけない。我々に、今、確かな事は、自分が生きているという事実であり、過去も、未来も、今、自分がいかなる姿であるべきかを知るうえでのみ必要なのである。そして、そこには生もなく死もなく、善悪もなく、過去も現在もない。唯一で、絶対なるものが存在するのみである。
 このような自己存在の絶対性は、存在の絶対認識を生む。しかし、存在の絶対認識だけでは対象を識別できない。故に、自己は任意の体系を選定し、存在を相対化する事によって対象化し、対象を識別する。そして、一旦、存在を相対化すると、絶対認識は認識の前提となり、潜在化し、やがて忘れられていく。そして、人間の思考は任意の体系による識別と、論理の組み立てが主となり、自己と存在の絶対性は、その体系から失われていく。又、自己は、主体である故に生命とか魂や霊といったもののように、客体化、物質化しうるものでもなく、又、一般化もできない。自己存在はあくまでも、観念的で特定されるものでなくてはならない。故に、肉体のように客体化されたものの有無や、相対化された体系によって否定されたり、干渉されたりするものではない。自己存在は、存在自体で完結しているのである。


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