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著書:  自由(意志の構造)上


                                       第1部 自己

 
海に思う。人間は、海を汚したと言う。しかし、海は海だ。人間は、自分達の住む世界を住みにくくしたにすぎない。自然は、人間にのみ都合よくできているわけでも、又、人間の為にのみ存在しているわけでもない。人間が、自然を正しく認識し、自分達の居場所をしっかり維持していかなければ、人間は自然界に居場所を失い、滅亡する事になるだろう。しかし、だからといって、自然を恨むのは筋が違う。それは自然界が悪いのではなく、人間自体の問題なのだ。それは、対象の問題ではなく、自分自身の問題だ。結局、人間は海を汚したのではなく、自分自身を汚したのにすぎないのである。
 自然は人間に保護されるものでもなく、人間を保護するものでもない。自然は、ただ、あるがままに存在しているにすぎない。たとえ人類が滅んだとしても、自然の法則にどれ程の影響があるというのだろうか。ありはしない。自然は、人間が存在するずっと以前から、自身の法則で存在しづけている。だから、自然を保護するなど、人間の思いあがった発想にすぎない。我々は、自然界の中で生息する一つの種にすぎず、我々が生存しづける為には、自然を保護するといった思い上がった発想を捨て、自分達が生存していく為に必要な環境を自分達の努力で維持していかなければならないのである。
 雑踏に思う。人の世は修羅だ。この身を動かすたびに、くもの糸のように衆生の義理や情けが、この身にまとわりついてはなれない。人の世の均衡は、綱渡りのようにあやうく、人の情けは、時の流れの前に、かなしい程はかないものである。
 人間が人間として生きていこうとする時、まず、自分が自分であらねばならぬ。はりつめた緊張の中で、人間の精神は、時として耐えられなくなる。我が内なる狂気との戦い。それ故に、人は、助け合い、信じ合わずにはいられない。いられないのがわかっていながら、繰り返し訪れる孤独感と焦燥感に、人は、人を嫉み疑る。三日、人を信じ続ける事の難しさよ。悲しい事だ。弱いものだ。しかし、その弱さを認めてしまえば、狂気に身をゆだねる事になる。人は、自分と孤独との戦いの中で、人を信じ、助け合っていかなければならない。
 寄せては返す波の音を聞くにつけ、闇に消えていく雑踏を見るにつけ、思う事は、所詮、すべては自分の在りように帰結するという事だ。
 人の一生は、確かに誤謬に満ちている。振りかえってみれば、恥ずかしさに身がすくむ。それは、人の一生が確かめようのない時間の流れの中に過ぎ去ってしまうからだ。しかも未来はまだ未知に包まれている。わからない事ばかりだ。だから今、それが過ちであったのか否かも確かめようもない。しかし、それは許されない事だろうか。許されないのは、その行為ではなく、その心のありようだ。他人を許すのは、確かに難しい。しかし、それ以上に難しいのは、自分を許すことだ。大切なのは結果ではなく、自分がそれを信じていたか否かではないのだろうか。その為には、まず自分をみつめ、自分を知り、自分を正し、自分を信じ、自分を許す事が必要なのである。
 自分とはなんなのか。それは、永遠のテーマである。
 燈台下暗し。自分の事は、自分が一番知っているつもりで、実際には一番知らないのかもしれない。自分を客観的に見るという事は、たいそう難しい。自分の思惑や都合などが微妙に作用するからだ。第一、自分の顔は、鏡を通してしか見る事ができない。
 他人に適切な指示を与える人間が、自分の事となると、どうもおかしい。よくある話である。
無理をしすぎて過労で倒れたり、ついつい甘えて我が儘になったりする。節制するにしろ、自儘にするにしろ、なかなか自分の事となると思うようにならない。度を過ごしたり、臆病になったりする。他人の欠点によく気がつくくせに、自分の欠点がわからない。本当の適不向きほ、当人が一番気がつきにくい。自分は、画が好きだからきっと画家に向いているのだと、手前味噌に思い込んだりする。ちょっと有名になると天下をとったょうな気になる。傍目からみると笑止千万な事だろう。
 自分を知るというのは、なかなかむずかしい。それでいながら、自分を知っているつもりになって、我をはり失敗をする。御し難きは自己なり。自分で自分の事を知ろうと思うのなら、他人の意見を聞くのが賢明だ。時には、相手の意見に素直に従う事も必要である。聞く耳を持たぬ者は、成長しない。
 自己は、すべての基礎である。まず、為さなければならない事は、自己を知る事である。自己を明らかにするという事は、あらゆる対象に対する自己の分析や考察に根拠を与え、新たな社会に対する構想を形作る為に、不可欠な事である。ひいては、それが自分の論点を明らかにする。
 仮に、分析が分析のための分析であるならば、自己を知る必要はないであろう。又、研究が自分の見栄や名誉欲を満たす為にのみ存在するのならば、それも又、然りである。
 しかし、分析も研究も自己満足の手段として存在するのではない。現実の苦悩や矛盾を発許かでもやわらげ、解消する手段として存在するのである。分析の為の分析、自己満足の為の研究をする者は、好きな女を前に、自慰に耽る男のようなものだ。それは、欺瞞である。
 我々が対象に取り組む時、常に、自己の視点、その時点における自己の目的を確認しなければならない。
 思いやりは、相手が思いやりなんだと感じた時、成立する。これが思いやりなんだという、思いやりはない。どちらも、自己本来の目的を見失った事からくる錯覚にすぎない。
 自己の視点をそのつど確認していくためには、自己の目的や視点に、全体に通ずる一貰性がなければならない。隣接した行為、連続した判断上になんらかの一貫性がなければ、事実上、判断不能状態に陥る。その人の価値体系内部に矛盾が存在する事を意味するからである。自己の目的や視点に一貫性をもたせるためには、すなわち、自己を明らかにしなければならない。
 自己は、哲学上における基本原理の一つである。それでありながら、自己は、哲学上における一つの盲点であったように思われる。それは、自己が主体的存在であり、常に主観の影響下におかれている事に原因している。しかし自己の問題は、現代社会において最も基幹的な原理の一つであり、それだけに、自己の定義があいまいなままでは、現代社会で進行している諸々の矛盾は解決されない。
 人間の思惟は、常に私的領域の内で為される。故に、思惟は主観的なものである。客観的思惟というものは存在しない。対象を認識するにしても、つまりは、自分がするのであって、他人が自分に代わって認識してくれるのではない。同様に、すべての行動は自分の判断に委ねられている。自己を知るという事は、すなわち、すべての認識や行為の原因を知る事である。価値観だの、動機だのといったものは、すべて、自己に帰困している。
 対象の意味は、対象自体が有しているのではなく、認識君者側の都合、つまり自己の便宜上から生ずる。ある対象を木製家具と呼ぼうが机と呼ぽうが、デスクと呼ばうが、それは、人間の必要性から生じるものであって、対象自体には、なんら関係ない。
 あらゆる対象に対する認識や判断は、自己の領域内にある。故に、自己をいかに把握するかという事は、自己の対象に対する処し方、つまり、その人間のその後の在り方、生き方を運命づける事になる。
 自己中心の思想は、利己主義と個人主義に大別できる。利己主義と個人主義の錯誤が個人主義社会における混乱の原因である。利己主義と個人主義は本質的に違う。このことは、明記しておかなければならない。
 利己主義と個人主義の差は、自己をどのように位置づけるかによって生じる。つまり、自己の視点をどこに定めるかである。利己主義は、自己認識上における自己倒錯によって生じる。
 自己を認識する際に注意しなければならないのは、身勝手な形で自己をとらえずに、自己の実像になるべく接近しようと努力する事である。
 身勝手に、又、自分の都合を先行させた形で自己をとらえる事、つまり、自分の醜さ脆さを無視したり、自分の気にいる事にばかり目を向けて、気に入らないからといって、存在にする事は、すなわち利己的である。
 自己を知るというのは、自己と対象との間の関係を知るという事である。故に、自己と対象との間のやりとりが、そこには常に存在しなければならない。手前勝手で、一方的に自己をとらえようとする事は、無意味である。
 自分にのみ都合よく対象をとらえようとする利己的な自己のとらえ方は、自己の実像から自分を遠ざける。その意味において、利己的なものの考え方は、自分にとっても対象にとっても、たいそう危険な考え方である。相手を理解しようという努力をしないで、相手を理解したつもりになるのは、相手を理解しない事よりももっと残酷な事だ。況や、それ以上に、これが自分の事ならば、尚、残酷だ。利己主義とは、そんな残酷な思想である。
第一部は、自己を定義すると同時に、自己とのかかわりあいを通して、個人主義と利己主義を区別する目的で書かれた。第一章「自己」は、自己を定義する。第二章「意志の構造」は、自己の定義に基づいて、自己から派生する諾々な問題に対する説明、および個人主義と利己主義の区分を挙げて明らかにする。第三章「自由」は、自由の定義および構造を明らかにする。 学者や研究者が自己主張してはならないというのは、大きな間違いだ。学習や研究の成果は、主観的思惟の産物である。むしろ、学者や研究者は、大いに自己主張すべきである。自己主張をする故に、それが、客観的な研究対象になりうるのである。主観的でない、客観的研究という事自体背理であり、問題の焦点をばかす原因となる。自分の研究に対して自信のない老がいう世迷い言である。
 思惟の大部分は創作である。読書にせよ、研究・学問にせょ、そのほとんどが創作である。つまり、自己主張である。
 対象をいかに受け入れていくかは、対象自体よりも受け入れ側の問題の方が大きい。すなわち、いかにそれを受け入れるかは、受け入れ側の創作である部分が大きい。本を読むという事は、本から知識を得る事よりも、本によって考えさせられるといった方が重大なのである。最終的には、自分で考え、選択をし、判断を下している。
 ただ、自己主張が対象を無視してなされるのならば問題だ。率直にいえば、対象を認識する事によって自己主張がなされるのであり、対象を無視してしまえば、ただ単なる我我が儘である。いかに利己的にならず自己を主張するか、それは、その人の姿勢によるのである。
 回転する宇宙。鏡に映る姿。生まれるもの、消えるもの。時間、時間、時間・・・。
 一方に死を対置し、生を思う。それは、自分を見つめる為には、有効な手段である。死は、人間から虚飾をはぎとり、鮮烈にさせる。死という事実から、人間は逃れえない。死は、人間を透明にし、自分自身に対して正直にさせる。死は絶望と同時に、赤裸々に自分を自分に回帰させ、生命を感じさせる。死を知る事、それは、自分が生きている事を知る事である。それ故に、自分を知ろうと欲する時、死を直視する事、それは、自分を知るための有効な手段である。


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