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著書:  自由(意志の構造)上


                                      序章(混沌から)

 
はじめは、何もかも混沌としている。何事も最初は無意味であり、叡智は、まだ、暗い闇の中で眠っている。故に、はじめの認識は、常に直感によってなされる。最初は、わかるのではなく、ただ、漠然と感じるのである。あらゆる認識は、漠然とした不明瞭な、なにものかのカによって、対象を無条件に、無意識に受け入れていく事からはじまる。叡知は直感によって目覚め、自己と対象とのかかわり合いの中で、一定の過程を経過して後、一つの意味を見いだす。それが、叡知の誕生である。
 混淘した意識は、深い霧に包まれており、意識は、覚醒するにしたがって、雄大な大自然、神秘的な宇宙、荒涼たる原野、喧しい都会といった世界を目の当りに見いだす。そして、やがて又、意識は深い霧に覆われていく。ああ、この深い霧が幻なのか、さっきみた景色が幻なのか、それとも、この深い霧もさっき見た景色も共に幻なのか、それとも、真実なのか、ええい、ままよ、たとえ、いずれかが幻で、いずれかが真実だったとしても、私にとって、この眼前に広がる世界が、私の真実、私の世界、その中に、私の愛する人がおり、私の求める夢がある。だから、疑るのはよそう、迷うのはよそう。ただ、意志のおもむくままに生きるのだ。
 なぜ、あの人が好きなのだろう。そんな事などわかりはしない。人を好きになるのに理屈などありはしない。ただ、その人が好きだから好きなのだ。そういった生な感情まで否定してしまえば、何もかも意味を失ってしまう。それでは、生きている事自体、無意味になってしまう。
 愛は、漠然と好きだと感じた時からはじまり、時を経るにつれて、だんだんと、ある特別な意味を持つようになる。そして、やがて強い確信や情熱として、はっきりとその姿を現わしてくる。同様に、概念は、直感によって生じ、一定の過程を経て、ある意味を構成していくのである。
 元々、対象には、差別も区別も意味もなく、又、不完全な対象も、完全な対象も存在しない。差別も区別も意味も、又、完全であるか、否かの判断も、自己が対象を識別していく過程で、必然的に生じるものである。故に、価値は、自己の観念の側の問題であり、対象自体にあるのではない。価値は、対象を限定的にとらえる事によって生じる。故に、価値は、相対的である。人は、ある特定の人に恋をすると、その相手は、その人にとって、特別な意味を持つょうになる。
 本来、人間の肉体に美醜はなく、自然界に貴賎、貧富の差別はない。知的な部分だから美しく、排泄器官だから醜いなどという事はない。そう考える人がいたら、そう考える人の問題であり、対象の側の問題ではない。貧富、貴賎、美醜は、対象界が本来持っているものではなく、人間が生み出した観念の属性に過ぎない。やがて、人間は、その観念に支配されてしまうのであるが、しかし、自然は本質的に平等なままである。
 元々、対象には、位置も、運動も、関係もなく、意味もない。そのままでは、ただ漠然と対象をとらえ、ただ漠然と行動する以外にない。それでは単細胞動物のような受動的な生き方しか許されないし、又、過酷な自然環境の中で、脆弱な肉体しか持たない人間は、その種を保存する事すら不可能である。故に、人間は、対象と自己との問に任意の基準を設定し、位置、運動、関係、意味を見いだす事によって、対象界の背後に存在すると思われる法則を見いだそうと試みたのである。そこに、人間の思惟がはじまる。
 意味は、諸々の関係の中で生じる。真理は、対象と対象との背後に隠されている関係を見いだし、観念と概念の間にあるとぎれた脈絡を繋ぎ合わせる事によって、その全体像を現わす。個々の概念は、混沌の海に浮ぶ島であり、真理は、その混沌とした世界総体である。個々の概念をとって、それのみを真理だとする事はできない。しかし、一旦真理の本質を認識するや、真理は、全体でもなく、部分でもなく、その物自体である事に気がつくだろう。故に、人間の思索は、現象として現れる対象と対象との関係に限られており、その物自体の存在に対する認識は、直感によってなされる以外にない。その上で、諸々の法則を知り、その中に自己を位置づける事によってのみ、人間は、自己の価値観を形成し、主体的判断に基づく能動的な生き方を可能とするのである。
 個々の現象は、一回かぎりであり、故に、相対的である。しかし、その現象が起こった事実は絶対であり、その現象を引き起こした世界の存在、それを認識した自己の存在は絶対である。
 愛は、いろいろな姿で現れる。その一つをとって、これが愛のすべてだとはいえないし、又、だからといって、それが愛ではないともいえない。人が愛を知るのは、言葉ではなく、実際に、愛する人が限前に現われ、ああ、これが愛だと感じた時からである。そして、その愛が真実なのか、否かは、現実のかかわりあいの中でしか確かめられはしない。一つ一つの事実を言葉で積み上げていったとしても愛の真実を人に伝える事はできないが、人を愛すれば、愛の真実を我物とする事が可能となる。なぜなら、愛は現実であり、言葉は観念だからである。愛の実相は、その人その人が見いだすものであり、人を愛する事を知れば、それが、どのような姿をしていようとも、その人自身にとって愛のすべてなのである。百万言を尽くそうとも愛のすべてを言いつくす事はできない。しかし、人を愛する事を知れば、愛の真理を知る事ができる。それが、真実。そして、正しい認識。
 人間の生き様、死に様は千差万別である。しかし、人間が生まれ、死んでいく事実には変わりがない。
 意味のない対象、境界のない世界に、意味をもたせ、区別をもちこんだのだから、人間の思惟は、最初から矛盾している。故に、そこから人間の苦悩がはじまる。
 しかし、苦悩から逃れようとして、意味や区別を否定してしまう事は、自己の価値観をも否定する事になり、結果的に、自己の主体性を喪失させてしまう事にもなる。だから、たとえ、いかに自己の対象認識が矛盾に満ちていて頼りないものだとしても、この不確かな現実に対し、主体的な意志や信念をもって生きていく事を望むのならば、つまり、自由に生きていく事を望むのならば、我々は、やはり、その頼りない自己の観念に頼らざるを得ない。だから、人間が、苦悩から解放され、自由に生きていけるようになる手段は、観念によって生じる矛盾を恐れる事なく、自己と外界とのかかわり合いの中で、外界の在りようを辛抱強く観察する一方、自己の内面の在り方を謙虚に反省し正す事によりて、内面の現実と外界の事実を一致させる方向にもっていく忍耐カと勇気をもつ以外にないのである。
 大自然に生棲するすべての生き物は、皆、平等である。平等な世界は、自然本来の姿である。故に、人間が、平等な世界を実現する方向に向かって進む事は、自然への回帰に他ならない。しかし、それは、文明や科学を否定して原始的生活に逆戻りしていく事を意味するのではない。人間の進歩を否定する事は、自然が本来人間へ与えてくれた能力を否定する事であり不自然な事だ。真の平等は、自然を正しく認識し、現象の背後に隠れている自然界を支配する法則を見いだし、それと、調和していく事によって実現するものであり、文明や科学をやみくもに否定する事は、自然に名をかりて、その実、苦悩から逃避している事に過ぎない。
 問題なのは、いかに在るべきかであり、何を為すべきかではない。自己の在りようが定まれば、為すべき事は、自ずと決まる。つまり、自己の本性を見極めたその上で、この世界の中に自分を位置づけ、自分を取り囲む対象といかにかかわっていくかを決めるのである。己れを知らずして、なぜ、人について語れよう。自己の在りようが定まらなければ、自分の身の処しかたも定まるまい。故に、人間にとって、まず、考えなければならない事は、自己の在り方である。
 わからない。自分を知るという事は、これ程むずかしい事なのか。この混沌とした世界の中で、自分を知ろうとする事自体矛盾しているように思える。元来無意味な世界で、自己の意味を知る事自体、土台、無理な事ではないのか。知りえない事を知ろうとするのは、愚かな事だ。しかし、そういってしまえば身も蓋もない。確かに、それは、生きていない者にとって、愚問かもしれない。しかし、それは、生きている者にとって切ない問い掛けなのだ。何の為にという問い掛け程、空しい問い掛けもあるまい。だが、人間は、その空しい問い掛けを繰り返さずにはいられない。それが、人間なのだ。
 哲学の使命は、対象界を正しく認識する為の手段を見いだし、自己の正しい在り方を定める為の指針を与え、人間社会を建設する為の青写真を創造する事にある。
 自己の在り方も定まらず、対象界に対する認識も矛盾に満ちたものしか持たない人間達が寄り集まって社会を形成していく以上、その矛盾を解消し、人間一般に通じる共通性を見いだし、国民的合意を高めていく事は、哲学に与えられた重大な使命の一つである。 そこに、何等かの法があり、秩序がある以上、哲学の存在しない国家は、本来、存在しえない。だが、現代の日本は、自らが意志しえたような哲学によって、自分達の国家を建設しえたのだろうか。
 国家を建設する為には、それが少数者のものであれ多数者のものであれ、何等かの理想や思想が必要である。なぜなら、思想や理想は、その国家において国民が守るべき法と秩庁を建設する為の設計図であり、国家を運営していく上での指針だからである。そして、その思想や理想が、哲学や宗教を要求するのである。
 いくら時間や資材、費用、労力があったとしても、それだけでは、家は建たない。家を建てる為には、家を建てる目的、家を設計する為の設計思想、そう、夢が必要なのである。そういった目的、思想、夢があってはじめて家を建てる意志や情熱が生まれ、家が建つのである。しかも、その目的や思想や夢は、そこに住む人のものでなければ意味がない。
 同様に、国を建設する為には、その国を成立せしめる哲学が必要なのだ。しかも、それは、その国に住む人間達のものでなければならない。しかるに、現代の日本には、自分達の国家を絶えず再生し、新たにしていくに足る哲学や理想がない。あるのは、金権腐敗政治と官僚主義的な便宜主義、手前勝手な利己主義ばかりだ。果たしてこれで日本は、独立国家といえるであろうか。
 その国を成り立たせる為の理想や哲学は、その国の文化や伝統に深く根づいていなければならない。国民的合意は、短期間で得られるものではない。革命によって建設された政権も、その背後には、広範な人民の支持がなければできない。その国の文化や伝統をやみくもに破壊したり、無視する事は、その国の民衆の生活基盤を破壊し、国家を収拾のつかない分裂状態に導く原因となる。
 私は、何も過去の亡霊を呼び戻そうという気はない。むしろ、本質的な議論をさけ、やみくもに改憲を叫ぶ、安直な懐古主義者には反対である。ただ、急激な変化を求めるあまりに、我国の文化や伝統を旧弊の名の下にすべて廃していこうとする姿勢に疑問を感じるのである。憲法を論ずるならば、まず自分たちが何によって立つかを明らかにすべきである。その上で憲法の是非を論ずる必要がある。
 つまり、私が言いたいのは、我々が担うべき時代を、我々が、我々の意志と情熱のカで建設していかなければならないという事であり、その為に、我々は臆するところなく、自分達の理想や哲学を主張し、語り合っていくべきだという事である。ただ、この国の矛盾や悪いところにばかり目を向けるのではなく、この国の未来はどうあるべきかの具体的な夢や理想について、もっともっと、日常的に話し合い、その中で、自分の在りようを模索し、その上で、この国の矛盾や悪い所を正していくべきなのだ。次にくるべき時代の青写真も抱かないままに、やみくもに現実の矛盾や悪と戦ったとしても、それは不毛であり、後に残されるものは絶望と荒廃だけである。
 戦争に負けた事によって、なぜ、我々は、我国の文化や伝統まで否定しなければならないのか。戦時中に犯した過ちは、過ちとして深く反省しなければならない。しかし又、その過ちを正す意味においても、日本は、日本としての文化の再生に努力しなければならない。それは、すなわち、日本人が東洋において、東洋人としての自覚と誇りを持ち、東洋の文化と伝統を日本の中で再生する過程の中で西洋の文化や伝統を吸収・発展させていく事なのである。文化や伝統は決して過去の遣物ではなく、我々の生活の中に今も脈打っているものである。
 勝敗の勝ち負け、強弱、新旧老若は、是非善悪とは無関係である。正しい主張をした者が、必ず勝つとはかぎらないし、核兵器を持つ国が、持たぬ国より文化的にすぐれているとは思えない。古くてもいいものはいいし、新しくても駄目なものは駄目だ。本当の正義は、自分の心の中にあるものだ。だから、他人の行為は結果において評価されるが、自分の行為は動機によって評価されるものなのである。
 哲学を生業とする者は、時として現実の政治や経済・道徳に対し、冷やかに、批判的であろうとする。世俗的なものに対し、超然とし、睥睨(へいげい)とした態度をとる事によって、自らの優位を誇示するかのように。それが、いかに空しく、白々しいものであるのかを彼等は知っているのだろうか。自己の哲学は、外在する世界に現実として表現される表象によって実態化されてはじめて、その信憑性が立証されうる性格のものであるかぎり、現実の世界と無縁でいられるほずがなく、むしろ、それどころか、より強い自己表現の場として、より積極的に、彼等の言うところの世俗的で現実的な世界と深くかかわり合っていかなければならない。理想や哲学は、世俗的で、現実的な世界にしかないのだ。
 哲学とは、何も目新しいものを生み出していく事を目的としているのではない。日常的な、ごくありふれた現象の背後に隠された諸々の関係を発見しより洗練する事を本来の目的としている。我々が、気がついているかいないか、意識しているかいないかは別として、人間の行動の背後には、必ず何らかの価値観がある。人間がまがりなりにも生きていく為には、一つ一つの判断に対する尺度や基準・方針が必要である。その尺度・基準・方針がその人の価値観を構成しているのである。その価値観を論理的に体系化し成文化しょうとする学問が哲学である。たとえば、恋愛を一つとっても、そこには各人の人生観や恋愛観といった何等かの価値観があり、その背後には哲学的思考が隠されている。哲学とは本来そういうものだ。
 そういった哲学的思考は、その人の住む社会の規範、つまり文化によって知らず知らずのうちに育まれる。
 文化は、それ樫に日常生活の隅々まで浸透している。たとえば、自分達が日頃何気なく交わす会話やちょっとした仕草にも、その人間を取り囲む環境やその人間が所属する国家や社会の持つ文化を吸収し、知らず知らずのうちにその文化を反映し表現している。しかし、我々がことさらに生きているという事実を意識しなくとも生きていけるように、又、七面倒臭い文法を知らずとも日常会話に窮する事がないように、文化のもつ意義を知らずとも、文化に従って生きていく事ができる。丁度それは、物理学の法則を知らなくとも自動車を運転ができるのと同じ事。むしろ変な知識など持たぬ者の方が、上手に事を運転している。法則を知るという事と、法則に従い、法則を活用するという事は、次元を異にしている。法則など知らぬ人間の方が、かえって法則を活用するのが上手だったり、悪党の方がよく法律を知っていたりする場合の方が多い。それに、本に書かれた物理学上の法則などより、飛行機が空を飛んだり、船が水の上に浮んでいるのを見せられた方がずっと説得力がある。しかし、だからといって、そういった物理学の法則を無視したり、軽視していいという理由にはならない。
 近代科学は、リンゴが木から落ちるとか、ヤカンの蓋が蒸気で持ち上がるといった、ごくありきたりで平凡な現象の背後にあって、それらの現象を決定づける法則を見つけ出していく事を目的とした研究態度によってもたらされた。それは、日常的な思考の延長線上において、より洗練化していく努力の末の結果である。そして、その過程で近代工業を起こし、産業を発展させた。
しかし、そうした中で、我々は科学のもたらした果実にのみ目を奪われ、その本質を見失っているのではないだろうか。
 テレビのスイッチを入れれば、好きな番組を見る事ができるし、飛行機に乗れば、昔では考えられないような速度で好きな所に行ける。しかし、そうした便利さばかりに日を向け、自然界の調和を無視して、自分が利用したいようにそれを行使したならば、どんな結果になるのか。我々は、その事を反省すべき時期にきたのではないのだろうか。
 私は、物理学上の専門知識を持てとか、哲学者になれと言っているのではない。自動車が時として凶器となるという事実や、そのような文明の利器は幾多の先人達の血と汗の結晶である事を忘れ、自分の金で買ったのだからといった手前勝手な意識で、他人に迷惑さえかけなければといった自儘な論理で、無反省に使っていると、知らず知らずのうちに、人間にとって大切な何ものかを喪失してしまう事実を見逃さないで欲しいと思っているだけだ。少なくとも、人間はもっと自然の力や先人達の努力に畏敬心や敬意を持っていいのではないだろうか。
 私には、哲学のない教育や学問というものがわからない。無思想の思想とか、報道の中立という言葉は、どうにも無意味だ。ただ、それは無責任なだけに過ぎまい。確かに、哲学は独創的なものだ。哲学は、人間一人一人の経験や思索を人生観や価値観に集約したものであるからである。故に、哲学自体を教える事は、確かに難しい。しかし、それは、教育者や研究者が哲学を持たなくともいいという事にはなるまい。我々が何等かの対象を研究したり、伝達しようとしたとき、そこに何等かのその人なりの考えが入り込まざるを得ない。対象が複雑であれは、尚更の事である。さもなければ、教育は型にはまった知識の押しつけに過ぎず、学問はただ単なる解釈に終わってしまい、教育や学問にとって本来必要な創造性をむしろ圧殺してしまう結果になる。哲学は、独創的なものである。だから、特定の主義主張に盲従したり、狂信する事ではない。又、盲従や狂信を避けるためにも、それぞれが、それぞれの哲学を持たなければならない。そして、それぞれが、それぞれの哲学を持った時はじめて、相互の意思の疎通がうまくいくようになり、互いを理解し合う事が可能となるのである。
 魂のない肉体は、ただの屍にすぎない。同様に、理想のない国家、哲学のない教育はただの形骸に過ぎない。それは、ただ醜悪なだけだ。形骸化してしまった国家や教育は死んだものだ。それは、そこにいる人間を腐らせ、退廃させてしまう。教育者一人一人が理想的人間像を追求し、それを教育の場で実践していった時に、生徒一人一人に対する方針が定まり、そして、それが教え子の中に浸透し、教え子に人間としての誇りと自信を喚起する事ができるのである。理想は、情熱や希望を人々の間に生じさせる。それが、絶えまなく新たな発見や更新を繰り返させる原動力となるのである。そして、その情熱がその国の法や施策を生み出していくのである。故に、哲学のない教育は、何の役にも益にもならない知識や技術を選別の為に暗唱させるに過ぎず、かえって人間を卑屈にさせてしまう。又、理想のない国家は、それ自体なんら法も施策も生み出せない。それは、それ自体自己矛盾である。そうした国の国民が、一部の狂信者によって、あらぬ幻想を抱いた時、悲惨な歴史が又一つ増える事になる。
 本書の動機は原理の探求にある。本番の目的は、原因を見いだす事にある。原理や原因は、元々抽象的なものである。しかし、それは思弁的な意味での抽象性ではなく、個々の相対的な現象から一般性を抽出するという意味で抽象的なのである。科学は、抽象概念である。しかし、科学が現実の社会や実生活の中で活かされているのは、科学の概念が現実の現象を根拠としているからである。哲学が実社会に活かされていく為には、同様に、人間社会の現象の背後にある動機を探り当てなければならない。
 すべての思索や行為は、何等かの動機に根差している。故に、思索の結論や行為の結果は、その動機に拘束される。しかし、動機が結論や結果に拘束される事はない。又、動機は、思索や行動として表現された時認識される。故に、動機は、思索や行為によって実体化されるが、思索や行為が、動機を実体化するのではない。同様に、個々の現象は原理に拘束されるが、原理が、個々の現象に拘束される事はない。又、原理は現象によって実体化されるが、個々の現象が、必ずしも原理を実体化するわけではない。現象は、一回か限りであり、原理は普遍的なものなのである。
 日に見える世界は移ろい易く、普遍的な世界は目に見えない。しかし、我々は目に見える世界を探る事によってしか、普遍的な世界を知る事ができず、目に見えぬ普遍的世界を見る事はできない。
 現実の恋心は移ろい易い。しかし、愛は普遍的だ。現実の恋の中に愛は見いだせるが、普遍的な愛を、移ろい易い現実の恋と同一視する事はできない。
 自然の現象は変化していくが、自然の法則は変化しない。自然の法則は、自然の現象を通してしかわからないが、自然の現象が、自然の法則を変化させる事はできない。人間は移りゆく現象に目を奪われて、その背後にある普遍的な世界を忘れてはいないだろうか。人間が滅び、自分が死んだとしても、それですべてが終わるというわけではない。そこから又何かが始まるのである。
 私は、旅が好きだ。しかし、旅は、現実からの逃避でも、自分を忘れる為でもない。現実に立ち向かっていく勇気と、自分を直視する勇気を得る為にするのである。旅における目的地は、一つ一つの指標にすぎない。一つの旅の終わりは、新たな旅のはじまり。人生の旅も又同様、その窮極的目的地は混沌としている。人間個々の目的を統一する事など土台無理な話。死に至るまで繰り返される人生の旅において、目的地に到達する事のみ追い求めれば、無限に続く道程を知る事になる。旅は、旅を楽しむ事によって、人生は生きる事自体に喜びを見いだす事によってはじめて報われる。生きるという事は、生きるという事自体が目的であり、その他の目的は、その意味において二義的なもの。それ故に、ここでは生きる目的などについて語るのはよそう。個々の目的は、その時点その時点で明らかにすればいい。ここで語るのは、人生の羅針盤のようなものと思ってもらえば間違いない。
 これは、戦いなのだ。自分自身との戦いなのだ。私は、かつて、文章を擬らし、前後の長さ、構成といった技巧のみに気をとられていた。だが今は違う。文章を書くということ、すなわち、自分の考えを体系化するという事は、旧い自分と新たな自分との葛藤に他ならない。そのような戦いの中に体裁だの虚飾などはいり込む余地などない。あるのは赤裸々な自分の姿だけだ。文章の中にある迷い、逡巡、未練は、滅ぼされようとしている自己の旧い価値観の発する絶叫であり、新たな自己の苦悩である。それが、新たな決意を示す事であり、新たな行動を起こすという事である。
 自分の考えをまとめ、新たな行動を決意する時、かならず旧い自分への未練が残る。新しい自分に対する疑念と不安が渦巻く。そんな苦しみの中で自分の断ち切れない思いを断ち切るという事は、純粋に自分だけの考えや経験を醸造し、自己内部に潜む諸々の未練を一方において切り捨てていく事に他ならない。自分自身にとって、自分自身の内に自分自身を押し約(つづ)める事、それは次の跳躍に備える瞬間でもある。これは戦いなのだ。そして、自分の独善と周囲の偏見との戦いのはじまりでもある。そして、表書の目的は、その戦いの渦中に読者を引き込む事にある。
 今は、旅立ちの時だ。自らの内面の葛藤は旅立ちのエネルギーと化す。戦いは今始まろうとしている。この混沌とした世界を抜け出し、我々が求める祖国を見いだす為に、あの地平に向けて、渾身の力を込めて1歩1歩前進するのだ。飛翔。


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