経済と陰陽五行(実践編)


前   提


 前提が間違っているのである。
 規制のない競争はない。規制がなければ競争は成り立たないのである。規制の内容の良し悪しはあるが、規制そのものが悪いと決め付け、規制をなくすか、極力少なくしてしまえと言うのは乱暴な話しである。
 規制を撤廃してしまうのは、スポーツをただの喧嘩にしてしまう様なものである。規制が悪いと言うより前提の問題なのである。

 空港や有料道路が、大赤字になり、需要予測の制度が問題になっている。元々、前提が間違っている上に、前提そのものが政治的目的によって歪められているのだから、話にならないのである。需要予測をするための方程式の是非を論ずる以前に、需要予測を建てる意味に対して問い直す必要があるのである。

 男は、男であり、女は、女である。男と女は、違う。それが前提である。その上での、男女平等、男女同権である。男と女の違いも識別できないのでは、いかにして、男女平等、男女同権を実現すべきかを論じることもできなくなる。第一、性別差別そのものが存在しなくなってしまう。男は男、女は女、それが前提なのである。

 事ほど左様に前提というものは大事なのである。

 しかも、前提は、了解を前提としている。つまり、前提の前提は了解可能性なのである。更に、了解可能性というのは、暗黙の了解を前提としている場合が多い。多くの人は、相手の了解を得ずにいきなり一つの合意に対していることを前提として話し始める。特に、日本人には、その傾向が高い。
 例えば、規制は、悪いという決めつけである。又、規制は、競争を阻害するという断定である。需要予測のように最初に結論ありきでは、前提の意味が違ってくる。つまり、空港を作るという結論が前提なのである。それは需要予測とは言わない。強いて言えば裏付け調査である。
 そして、故意に前提をねじ曲げてしまうから、結果に対して最初から責任が持てなくなるのである。失敗すると言う事が、事前に解っていてやらされれば、責任のとりようがなくなるからである。収益が上がらないならば、収益が上がらないことを最初から前提とすべきなのである。問題はそれでも空港を作る必要があるか、ないかであり、そこに政治的な判断が求められるのである。
 無神論者は、いきなり神の存在を否定したところから話を始める。これでは信心深い人と会話は成り立たない。
 先ず前提の確認から始めるべきなのである。特に、是非善悪が絡む問題は、慎重に行うべきである。

 如何なる前提も合意に基づく。科学的前提も合意に基づく仮定に過ぎない。この点を忘れてはならない。つまり、前提を設定する以前の目的や意図が大事なのである。

 故に、全ての前提の根源的な前提が重要となる。

 そして、全ての大前提は、存在にある。つまり、存在確認こそが全ての意識の始まりである。

 前提は、自己の存在である。そして、自己の存在を存在たらしめている存在である。即ち、超越的存在である。

 考える故に、我、在りは、自己の存在証明である。考えるという部分は、自己を知覚できる行為なら何でも良い。見るでも、聞くでも、歩くでも、食べるでも、良い。特に、痛みや感情は、自己を認識させる。ただ肝腎なのは、我は在るである。その我、在りの前提は、他者の存在である。

 自己の存在に対する自覚は、他者の存在を意識させる。他者を意識することは、他者の存在を認めることである。つまり、自己の存在に対する自覚は、他者の存在に対する認識を生むのである。故に、自己の存在は、全ての認識の前提である。他者の存在は、自己の存在の前提となる。自己は他者の存在の前提となり、自己は他者の存在なくして成り立たない。人間に意識が芽生えた時から人間は社会的動物とならざるをえないのである。それが人間社会の前提である。

 人間の社会は、観念を土台にして形成されている。観念は、意識によって成立している。意識は認識によって形成される。認識は相対的なものであり、幾つかの前提を基に形成されている。そして、人間の社会の前提は、合意によって成り立っている。故に、人間の社会は、合意による前提を基礎としている。
 まず、その前提の確認から始める必要がある。

 人間は、生物であることが前提である。故に、人間は、生きる為の活動をしなければならないことを前提とする。生きる為の活動とは、先ず、食べる事である。次ぎに、寝ることである。それから、熱さ、寒さといった環境や外敵から身を護ることである。そして、子孫を残すことである。つまり、衣食住に関わる問題と生殖に関わる問題、出産、育児、婚姻である。それが経済の基本である。

 経済とは生きる為の活動を言う。生きる為の活動とは、生活である。故に、経済は、生活の延長にある。生きる為には、生き物としての活動が前提となり、人間としての活動が前提となる。次ぎに物質的な活動が前提となる。主となるのは、生き物として、人間としての活動であり、物質的な活動は従となる。貨幣的活動は、人的、物的活動から副次的に発生したものである。

 経済とは、生きる為の活動である。
 故に、経済を考えると言う事は、金を儲けることを考える事ではない。
 経済を考えると言う事は、人生を、そして、生きる事を考える事なのである。

 もう一つの前提は、人間は社会的動物だと言う事である。つまり、人間は、一人では生きられないと言うことである。
 そして、国家が発達した今日、人間は、いずれかの国家に所属していることも前提となる。

 現在、地球上に存在する国家も経済も思想の産物である。これが一つの前提である。

 国家も経済も放置しておけば自然に成る物ではない。人間の意志によって構築された構築物である。故に、経済現象、特に、市場の出来事に対する責任は人間にある。神にあるわけではない。経済現象は、人間が統治すべき現象である。貧困も戦争も人間の為せる技であり、神を呪うのは、恥知らずな行為である。

 物理的現象に対する合意は、観察と実験によって実証することが可能である。人為的合意は、任意の手続によって承認される。

 故に、国家や経済の仕組みや法則について明らかにするのは、この世界に存在する全ての存在に対する人間の責務である。

 思想は、複数の前提の上に成り立っている。任意であるか、暗黙であるかは別として国家や経済を成り立たせている前提は、合意によって成立している。なぜならば、国家も経済空間も人間の作為に基づく空間だからである。

 少なくとも法治国家においては、法に従うことは暗黙の合意として前提とされている。そして、法による合意に反した行為をした者は、犯罪者として罰せられる。なぜならば、法治国家は、法を前提として成り立ち、法を前提として体制が維持されているからであり。国民が法を守る事に対する合意を前提としなければ国民国家は、成立しえないからである。
 これが、国民国家における前提である。

 如何なる法治国家も合意に基づく法を前提とし、強制力を持って法を守らせようとする。法治国家は、法による合意を前提として強制権を行使する。即ち、近代的法治国家は、法による強制力を前提としている。そして、強制力を発揮することによって結果的に合意の形成が促される。この強制力が国家権力である。

 近代国家は、法と制度から成り立っている。法や制度は、人為である。人間の認知能力は、相対的な認識を前提としており、相対的認識とは、不完全な認識を前提としている。法や制度は、人間の意識によって形成され、人間の意識は、認識の上に成り立っている。限界がある。人間の意識の所産である法や制度には、自ずと限界がある。

 法や制度に限界があるという事は、法や制度には、その効力が及ぶ範囲に限界があることを意味し、その効力の及ぶ範囲において、一定の閉ざされた空間を形成する。その効力の及ぶ範囲を境にして境界線が生じる。

 合意に基づく法を前提とした国民国家においては、法の根本理念を周知することを前提としている。国民に法の理念が、周知されていないと、法の正当性が保たれないからである。それが教育の義務化の前提であり、目的である。

 国民国家が国民の合意を前提として成り立っている以上、反体制的国家というのは存在し得ない。なぜならば、それは、国民を否定する事であり、国家の自己否定を意味するからである。
 故に、公の立場で反体制的教育も容認されない。個人的に反体制的な思想を持つことと、公の場で反体制的な教育をすることとは違うのである。

 経済が人的、社会的活動を前提として成り立っているという事は、経済は、文化活動の一種である事を意味する。経済とは文化なのである。

 現代の日本人は、この点を理解できていない。それは、日本の民主主義が敗戦よってもたらされたことに起因していると思われる。国民国家という存在は、国民の合意の基に成立する。そして、建国というのは、きわめて思想的な行為である。
 この点を理解していないために、現代の日本国民の多くが現行の国家や経済を所与の法則、与件のように思い込む傾向がある。しかし、国家体制も経済体制も国民の意志によって保たれるものである。誰も守ろうとしない国の主権も独立も護りきれるものではない。国民が守ろうとする意志を放棄した時、その国の主権も独立も失われる。

 経済は、人間の営みである事が前提である。生きることの活動という定義で言えば、経済の意味を広義に捉えれば、生き物全てに経済があるとも言える。しかし、一般に経済問題として扱われるのは、人間社会の問題であり、人間の問題である。故に、以後は人間の経済の現象として経済の意味を特定したい。

 即ち、経済は、人間を前提としている。人間は、生き物である。人間を前提としているという事は、人間関係、人間の社会を前提として経済は成り立っている。
 人間関係には、血縁関係と非血縁関係の二つがある。
 人間社会の根底は、家族、即ち、一組の男女と親子関係からなる事を前提とする。
 家族関係の基盤は、親子と、男女である。そして、親子は血縁関係で結ばれ、男女は非血縁関係によって結ばれている。この様な家族関係を核として社会は形成される。

 そして、家族は、家計を成立させる。家計は、経済の根本である。

 私は、経済が人間の活動の結果として生じることを自明の事として前提としているが、現代社会は、人間としての存在を前提としていない体制が多く見受けられる。その証拠が、家族の否定であり、男女の否定である。
 個体差があるのは、事実である。個体差によって処遇をかえるのは意識である。差別は、意識が生み出すものである。そして、差別を解消するのも意識である。差別を解消するためには、個体差を認識する事が前提となる。
 家族の否定や男女差の否定は差別に繋がる。家族や男女差が差別を有無のではない。差別を生むのは意識である。
 家族や男女差を前提とすることによってのみ、差別は解消できる。家族や性差の存在を否定する事は、否定する事自体差別である。

 世襲や同族の是非には、利点も欠点もある。世襲、同族の問題は、私的所有権の継承の問題でもある。それ故に、世襲や同族は、制度として固定すれば階級や差別の原因になる。
 この様な弊害を充分考慮しても人間の生活の場の根本が家族にあることは否定できない。
 人間の生きる活動が経済ならば、人間の生活の場の基盤である家族は、経済を構成する要素の一つであることは明らかである。この事を前提として経済は考えられなければならない。

 資本主義も社会主義も世襲の否定という点では共通しているのである。そして、世襲の禁止というのは、私的所有権の制限を意味するのである。即ち、家族の問題は、私的所有権と表裏の関係にある。
 故に、世襲の否定は、家族の否定にも結びつく。家族を否定したら経済は成り立たない。
 世襲という問題抜きに経済体制や税制の問題を理解することはできない。世襲という問題、則ち、一族、血族という問題をあからさまに議論することは少ない。その根底に、家族問題や民族問題が隠されているからである。しかし、経済を考える上で、家族問題や民族問題は、そして、更に宗教問題は、避けて通れない問題である。
 最初から絶対視するのもおかしいが、頭から否定するのも間違いである。事実を基にして、原則を導いて合意を形成すべきなのである。その為の手続の在り方に対する思想、考え方を民主主義というのである。

 経済というのは、人間の生きる為の活動の結果生じるのである。

 人間が社会的存在であることを前提とすると、人間の生きる為の活動である経済を構成する空間は、必然的に人為的空間だと言う事になる。経済的空間は、放置すれば自然に一定の状態になる空間ではなく。人為的に状態をつくり出さなければならない空間だと言う事になる。つまり、経済体制は、人間の肉体のように神から与えられた仕組みではなく、機械のように人間によって作られて仕組みだと言う事である。故に、経済現象に対して責任を負うのは人間であって、神や自然ではない。貧しいからと言って神を呪うのは筋違いである。
 人為的空間である経済空間は、何等かの合意を前提として成り立っている。経済空間は、自然空間と違って所与の空間ではなく、任意の空間である。

 この様な経済空間は有限であり、相対的である。また、経済的空間は閉鎖的な空間である事が前提となる。なぜならば、人間の認識の及ぶ範囲は、有限であり、相対的だからである。見える範囲しか見えないのである。

 経済における実物量は、有限である。即ち、経済現象は、一定の範囲内で生起する。物量には、上限と下限がある。際限のないのは、貨幣である。貨幣は、観念的な数値だからである。頭の中ならば無限に数値は生み出すことができる。
 以前、著名なコンピューター技術者が、世の中には、三馬鹿が居ると言っていた。それは、数学屋、電気技師、SEの三者だ。どんなに理論的に可能だと言って建設の設計技師は、月まで届く様なビルの設計はしないし、造船技師は、海一杯になるような船の設計はしない。物理的限界を知っている。しかし、数学屋や電気屋、SEは、平気で理論的に可能だと言うだけで暴走する。現代は、この三者に金融工学を加える必要がある。
 経済における物理量は有限なのである。第一、人間に与えられた時間そのものが有限なのである。

 政治的、経済的に閉ざされた空間を圏とする。圏は、範囲と境界線、一つの制度に依って成り立つ。例えば国家圏は、国民と国境と統一された国家制度によって成り立った圏である。

 為替取引では、通貨圏が前提となる。通貨圏を構成する要素は、範囲と境界線、単一の通貨制度である。為替市場は、取引の存在を前提して成立する。

 現代日本の経済体制は、第一に、資本主義、第二に、自由主義、第三に、市場経済、第四に貨幣経済、第五に、近代会計制度を土台とし、一部に社会主義的な仕組みを組み込んだ混合経済体制である。
 注意しなければならないのは、資本主義、自由主義、貨幣経済、市場経済は、同一な思想ではなく、各々独立した思想、体制だと言う事である。
 特に、資本主義という体制は、曖昧な部分があるが、それは、資本という概念が、会計的概念であることを見落としているからである。逆に言うと資本という概念は、会計的に定義しないと理解できない概念なのである。

 自由主義国家、国民国家における国家の目的は、国民の生命の財産の保障である。そして、その為に国家の独立と主権の維持がある。国家経済の目的は、国民生活に必要な物資の生産、調達と分配にあるといえる。

 社会主義国と自由主義国では、この物資の生産、調達、分配の手段や仕組みが違うのである。

 共産主義国や社会主義国、全体主義、独裁主義国、君主主義国にも市場は存在する。ただ、社会主義国や共産主義国と市場の在り方が違うのである。市場の在り方の違いは、市場の仕組みや機能の違いにもなる。しかし、市場が存在しないわけではない。同じ事は、貨幣にも言える。
 貨幣経済が確立されていない社会でも市場はある。物々交換でも市場は成り立つのである。
 同じ自由主義国といっても貨幣制度は一様ではない。
 つまり、自由主義、市場主義、貨幣主義、そして、資本主義は一体ではない。又、私的所有権も然りである。

 政治体制が違っても経済体制が違うとは限らない。政治と経済に対する認識は一様ではないのである。

 ただし、今日の自由主義というのは、私的所有権と市場経済を前提として思想である。つまり、自由主義国と称する国の前提は、私的所有権と市場経済と貨幣経済である。
 現代の日本は、純粋に市場主義的経済だけで成り立っているのではなく。一部に社会主義的な仕組みを組み込んで市場経済を補っている。それが公共事業である。

 我々の生活は、自由主義経済体制の上に成り立っている。現在の自由主義経済は、市場経済と貨幣経済を前提として成り立っている。又、自由主義経済は、私的財産制の上に成立している。

 かつて、一部の共産主義国で、貨幣制度と市場制度を廃止した。その結果は、経済活動の破綻であり、政治体制の崩壊である。一概に、市場制度や貨幣制度を絶対視することはないが、かといって市場制度や貨幣制度の有効性を頭から否定するは愚かである。

 今、日本で生活する我々の生活は、貨幣経済を前提として成り立っている。貨幣経済は、貨幣制度を基礎にして形成される空間である。この様な空間を多くの日本人は、所与の空間だと錯覚している。貨幣を所与の物だと錯覚している者にとって貨幣は、丁度空気みたいな存在である。しかし、貨幣と空気とは違う。少なくとも、空気は、機械によって創り出されているものではない。それに対して、貨幣は。人間が機械によって製造している物である。

 貨幣とは、交換価値を表象した物である。

 貨幣経済では、財の分配は、貨幣を媒体として市場を媒介として実現する。

 貨幣経済では、経済現象は、相対的な現象であることを前提としている。それは、貨幣が相対的基準であることを前提として成り立っているからである。
 貨幣経済を構成する要素は、相対的な要素である。例えば、価格を構成する費用は、相対的である。原材料が上昇すれば人件費の占める割合は、相対的に低下する。自国の通貨の上昇は、輸入品の名目的価格を下落させ、相対的に国内生産物の実質的価格を上昇させる。
 この様に経済的価値は相対的な価値である。

 貨幣価値は数値に依って表示される価値である。故に、、貨幣価値は数値的空間や場を形成する。貨幣経済は、数値的空間の中で成立している。

 現在の貨幣経済というのは、全ての経済的価値を数値化する事を前提として成り立っている。故に、今日の貨幣経済と、貨幣がある経済とは異質な経済である。今日の貨幣価値とは、全ての経済的価値を貨幣価値に換算することで成り立っている。部分的に貨幣価値に換算するのではない。即ち、貨幣がなければ経済活動ができないのである。
 全ての経済的価値を数値化する事を前提とすると言うことは、全ての価値を数値に返還する手続を前提としていることを意味する。
 数値化するとは、数えられる量、計測できる量に置き換える操作である。そして、その為には、財を経済的価値に変換する装置が必要となる。それが市場と組織である。

 算数の教科書には、四則の演算は、同じ種類、同じ質、同じ単位、同じ要素の集合でしか成り立たないと書かれている。ところが経済的価値は、違う。その点に誰も気がついていない。そして、気がつかないという事が貨幣価値を成り立たせているのである。

 全ての経済的価値を数値化するという事は、質的に違う価値も数値化する事によって四則の演算が可能となることを意味する。
 又、もう一つ重要なのは、時間の概念を経済的価値に持ち込むことを可能とすることである。即ち、経済的価値の数値は、経済的価値は時間の関数で表すことを可能とするのである。
 例えば、原材料と労働力といった物と力と時間の掛け算も又可能となるのである。自動車と家を足したり引いたり、労働力と労働時間をかけて報酬を計算する事ができるようになるのである。

 ただし、注意しなければならない点は、数値に全ての価値を還元すると言う事は、価値から質的な側面を削ぎ落としてしまう危険性があるという点である。

 貨幣経済体制下では、人的経済と物的経済、金銭的経済がある。
 また、自由主義経済において経済を構成する要素は、家計と、企業と財政である。
 人的経済から見ると家計は、労働力を提供し、企業は、所得を分配し、財政は、所得の分配と再分配、失業対策、そして、分配の手段を提供することである。それらの要素を前提とした上で会計は、分配のための基準を設定する。
 物の経済から見ると家計は、財の購入と消費を担い。企業は、財の生産と販売。財政は、社会資本の整備を担う。
 貨幣的経済では、家計は、投資と貯蓄。企業は、設備投資と借入。財政は、貨幣の信用の保証、貨幣の供給を担う。

 会計、財政、家計には、制度的連続性がない。会計制度は、期間損益、実現主義に基づき、財政制度と家計は現金主義に基づいている。制度的連続性がないという事は、制度的整合性がとれない事を意味し、情報の互換性もない事も意味する。

 故に、現行の経済体制は、経済主体間に制度的整合性は存在しない。経済主体間を結合しているのは、金銭的関係、即ち、貨幣である。だから「金」「金」「金」なのである。

 現代日本経済は、自由主義、民主主義、貨幣経済、市場経済の上に成り立っている資本主義国家である。しかし、資本主義とは何かというと曖昧である。特に資本主義と貨幣経済、市場経済、そして、自由主義経済の見分けがつかない人が多い。
 資本主義は、近代会計制度上に成り立つ思想である。それが大前提である。
 資本主義や民主主義ほど、主義として曖昧な思想はない。それは、民主主義や資本主義を従来の思想の枠組みの中で理解しようとするからである。民主主義は、現実の政治や制度の上に発言する思想である。つまり、民主主義を構成する政党の理念や政治活動、政策、更に、制度を観察しないと民主主義は理解できない。
 同様に、資本主義というのは、近代会計制度上において成立した思想である。故に、近代会計制度が理解できないと資本主義は理解できない。

 人的経済、物的経済は、各々独自の価値を形成する。形成された価値は市場を経由して貨幣価値に換算され、更に、時間的価値が加えられて会計的基準によって計られる。

 時間的価値は、名目的価値と実質的価値を派生させる。名目的価値と実質的価値比較して、値が大きい方に向かって資金は流れる性格がある。故に、実質的部分が縮小し始めると実物経済から名目的経済へ資金が逆流し、名目的部分が経済を圧迫するようになる

 物の価値と貨幣価値とは表裏を成している。物の価値が上がると貨幣価値を下がる方に働く。逆に、物の価値が下がると貨幣価値を上げる働きがある。同様に貨幣価値が上がると物の価値は下がり、貨幣価値が下がると物の価値は上がる。インフレーションやデフレーションといった現象は、物の価値が原因で起こるのか、貨幣価値が原因で起こるのか、一概に言えない。それは、前提条件や状況、環境によって違ってくるのである。

 財は、物的な要素と人的な要素、貨幣的な要素からなる。そして、財には、その物自体としての価値の寿命と貨幣的価値の寿命と会計的価値としての寿命がある。そして、財の性格によって価値の寿命は、財の時間的価値を形成する。
 物の価値の寿命は、物の更新の周期を形成し、貨幣的価値の寿命は、資金計画の周期を意味し、会計的価値の寿命は、償却の周期を意味する。
 この様な財の価値は、資産価値を構成する。資産価値の中でも費用性資産の時間的価値の総和は、物的価値、貨幣価値と会計的価値が一定の時間の範囲において均衡することを前提している。
 財の物的寿命の周期、貨幣的寿命の周期、会計的寿命の周期、これらの周期が複合されて景気の周期を形成する。故に、景気の周期は、単一の要素によって形成される性格の現象ではなく。構造的な現象である。
 故に、会計的価値だけで景気の周期を捉えようとしても経済の実体は見えない。むしろ、会計的周期に囚われて景気の周期を見失うこととなる。

 貨幣経済下で万能の施策などありえないのである。貨幣は道具であり、施策は、手段である。貨幣とは尺度である。尺度である貨幣が相対的であり、また、手段である施策は、状況や目的、則ち、前提条件に応じて選ぶべきものである。あらゆる病に効く万能薬がないように、万能の施策はないのである。

 恒久的な格差は、所得による階層を形成する。所得による階層化は、国民生活を階層毎に分裂させる。国民生活の分裂は国家の分裂に繋がる。国家の安寧は国民生活の均衡に依ってもたらされる。国家経済の本質は、財の分配にある。

 次ぎに、市場経済を前提と成り立っている。市場とは空間である。市場空間は、情報によってつくり出される空間である。市場は交換の場である。交換は、取引を成立させるから市場は交換の場である。

 市場の法則には、結合の法則、交換の法則、分配の法則がある。

 経済の根源は、交易、則ち、交換にある。交易、交換は取引に依って成立する。取引とは、貨幣を媒介した交換行為である。

 経済の問題は、交換によって成立する労働と分配、生産と消費、需要と供給、収入と支出、フローとストックの均衡の問題である。
 そして、これらの要素は相関関係にある。

 市場は取引の集合によって成り立つ。取引は、連鎖的に発生する。

 現行の市場制度では、市場取引は会計原則によって処理されることになっている。会計上の取引は、取引が成立した時点において貨幣価値は均衡している。貨幣価値が均衡しているという事は、交換価値が均衡していることであり、交換価値とは、財と現金、債権と債務が均衡していることを意味する。故に、市場における貨幣価値の総和は、均衡している。

 取引は市場を形成し、市場は、場を形成する。市場には、制約条件があり、故に、市場には、範囲と境界線が生じる。市場は閉ざされた空間である。

 所詮、市場も経済の仕組みの部分、部品に過ぎない。経済制度は、生活に必要な物資を生産し、それを消費者に分配する目的で作られた仕組みである。つまり、経済制度は、労働と分配を目的とした仕組みである。市場は、その仕組みの部品である。しかも、最終的な分配は、経済の最終単位である家計や企業、財政が組織的に行う。即ち、市場は、組織と個人、組織と組織、個人と個人との隙間を埋める部品に過ぎないのである。この事を忘れて市場を経済全体の仕組みだと錯覚すると経済現象を解明することができなくなる。

 取引には内部取引と外部取引がある。内部取引とは、内的要素間の取引だけで完結する取引である。外部取引とは、外部の対象との取引を言う。
 内部取引と、外部取引は、取引が成立した時点では均衡している。

 取引には物の受払とお金の支払という二つの側面がある。そして、この二つの取引が同時に完結するとは限らないのである。物と金の取引に時間的なズレがある場合が多い。

 現代の経済は、成長を前提とし、加速し続けていかなければならない仕組みになっている。しかし、それでは、経済は、過熱していつかは破綻してしまう。自動車の運転を考えればいい。アクセルだけでは、自動車を制御する事はできないのである。
 経済は、一定の水準に達したら加速運動から等速運動へと変化させる必要がある。又、状況によっては減速する必要もあるのである。
 則ち、状況に合わせて速度を制御することが可能な仕組みこそが、経済体制に要求されていることなのである。

 経済は、成長といった変化の有り様を絶対視するのではなく。変化といっても状況や環境を前提とし、その前提条件の変化や推移に基づいて体制を整えるべきなのである。

 市場には、競争の原理が働いているのではなく。競争の機能が働いている市場が自由主義市場なのである。即ち、競争は、原理ではなく。機能である。競争を前提としていない市場もあるのである。例えば、共産主義国や社会主義国のような計画経済、統制経済国の市場では交換と分配だけを前提とし、競争を前提としていない。競争を前提として市場は、自由市場である。故に、戦後の統制経済下の日本や共産主義や社会主義国は、闇市が形成されたのである。

 自由市場は、競争関係と協力、提携関係を前提としている。前提となる競争は、原理ではない。一つの手段である。しかも、前提に基づく手段の一つである。又、協力や提携を総て否定したら市場は成り立たない。
 競争は、それ自体で成り立っている法則ではない。競争を成り立たせているのは、競争を成り立たせる仕組みや規制があって成り立っているのである。仕組みや規制を取り除いたら競争は成り立たなくなる。仕組みや規制を緩和することはあっても規制を全廃することは、かえって競争を否定する事である。
 生存競争と言うが、自然界にあるのは、競争ではなくて、力による闘争である。市場から規制を取り除く行為は、野蛮な行為である。
 競争が成り立つのは、規則があっての上である。そして、規則とは、人為的な取り決めであって、規則間にある矛盾は、誤謬は取り除いて整合性をとるべきだが、所与の自然法則のような物とは性格が違う。それを自明な法則と同一するのは間違いである。

 市場は、希望や願望によって制御できるわけではない。況や、神の責任に帰すことはできない。市場を制御するのは、人間の意志であり、叡知がつくり出す仕組みである。市場を暴走させ、破綻させるのは人間の愚かさと欲望である。
 競争状態を維持するのは国の役割である。競争を過熱するのが国の役割ではない。競争は過熱すれば争いとなる。最後には生存闘争となる。市場から規律が失われれば競争は成り立たない。あるのは、殺戮だけである。それは市場ではなく、戦場である。そして、市場は荒廃し、やがて寡占、独占状態になる。寡占、独占は市場の死滅である。市場原理主義者と証する者達は、実は市場経済の破壊者なのである。

 だから、プロスポーツでは、勢力の均衡を保つためにいろいろな施策や仕組みを講じている。スポーツを自由にするのはルールである。自由とは、ルールに精通することを意味する。努力をせずに人間は自由にはなれない。



空  間

 空間は、自己の所在によって設定される。自己の所在が定まると自と他の関係が定まる。自と他の関係が定まる空間が成立する。自と他の関係が定まると内と外の関係が生じる。内と外の関係が生じると表と裏が生じる。

 位置と運動と関係は、存在から生じる。大前提は、存在である。

 空間が成立すると空間によって内と外の関係が成立する。また、表と裏の関係が成立する。
 空間は、複数の座標軸によって形成される場である。最初の空間は、自己を起点として成立する。故に、内外の関係は、自己の存在する位置によって定まる。
 範囲と境界線のない空間を開放された空間とする。範囲と境界線に囲まれた空間を閉ざされた空間とする。

 政治的空間、経済的空間は閉ざされた空間である。範囲と境界線は、制約的条件、制約的前提によって設定される。即ち、制約的条件や前提が範囲と境界線を画定する。
 経済的空間は、範囲と境界、座標軸から成る。自と他の境界線によって成立する。

 空間には何等かの法則が働いている。空間に働いている法則は、一様の力によって保たれている。一様の力が働いている空間を場という。場に働く一様な力は、所与の法則と任意の合意に基づく法、規則とがある。場に働く一陽の力は、場に生起する現象の前提となる。

 一様な力が働いている空間を場という。場に働く力は力を一様に均衡しようとする作用が働く。

 場の力の状態を一様に保とうとする作用が場に働いている。或いは、場には、最も安定した状態に戻ろうとする性格がある。この場の力を一様に保とうという働きが場の力を均衡状態の方向に向ける。

 場に働く力は、個々の部分が安定した位置に落ち着くように働きかける。安定した位置とは、個々の部分の関係が一定に保たれる位置である。

 空間で問題となるのは、歪みや偏りである。歪みや偏りは、部分に働きかけて運動を引き起こす。歪みや偏りは、歪みや偏りを是正しようとする力を発揮させる。この様な力の作用がない場は、場そのものが成立していない。

 極端な偏りや歪みは場に働く力の均衡を破り、空間を分裂、分離させる。この様な歪みや偏りを解消する方向に場の力は働く。即ち、場の力は、均衡した状態が最も安定した状態であり、安定した状態に落ち着くような一方通行的な方向に向かう性質がある。それがエントロピーである。

 場には、場の力の関係を常に安定した状態に保とうとする働きがある。又、その働きによって場は維持されている。場を安定した状態に保とうとする作用は、場を維持するための働きである。そして、場に働く力を一様に保とうとする作用があるために、場を構成する部分には、場の状態を常に安定した状態、即ち、均衡させようとする方向に向かう性格がある。この様な働きは、場の歪みや偏りを是正しようとする力を発揮する。そして、それは、部分が位置を占めることによって成立し、部分が位置によって与えられ保つ力、そして、部分に働く力の元となる。

 市場は、安定した状態に向かう。安定した状態というのは、力が均衡した状態である。力が均衡した状態というのは、競争関係や競合関係が解消された状態である。

 政治的、社会的関係から言えば、戦国乱世から寡頭政治、君主政治への移行である。

 市場の安定を損なう要素は、歪みや偏りである。故に、市場全体の力は、歪みや偏りを是正する方向にはたらく。
 放置すれば、市場は、競争や競合関係を解消する方向に向かう。それが、独占、寡占状態、或いは、協定関係、提携関係である。

 市場や経済が安定した方向に作用するとしたら、経済で問題になるのは、市場の歪みや偏りをどうするかである。歪み偏りを、ただ、是正すればいいと言うのではない。歪みや偏りをどう活用するかが問題なのである。

 ケインズ的手法というのは、大きな石を投げ込んで波を起こすに様な手法である。波は、一時的に空間を歪め、或いは偏りをつくり出すが、恒常的な効果は期待できない。

 つまり、市場において競争や競合関係を保持しようとしたら、何等かの仕組みが前提となるのである。
 個々の取引が均衡しているという事を前提とするならば、企業業績が安定した状態というのは、収益と費用が同値でになることである。利益が収益から費用を引いた値だとすると均衡した状態になると利益は、上がらなくなる。
 企業は、会計原則の上に作られた仕組みなのである。

 もし仮に、市場の活力を保ちながら、利益をあげ続けることを目的とするならば、市場の活力を引き出す何等かの仕組みが必要となる。

 経済的均衡には、第一に、水平的均衡と垂直的均衡、第二に、内的均衡と外的均衡、第三に、拡大均衡と縮小均衡、第四に、時間的均衡がある。

 例えば、産業における水平的均衡というのは、製造、流通、販売の収益を横断的に均衡しようとする働きであり。垂直的均衡というのは、製造なら製造という局面を垂直的に均衡させようとする働きである。

 又、その時点時点での均衡を垂直的均衡といい。一定期間内の均衡を水平的均衡という。

 貸借上における内的均衡は、内部取引の相手勘定が対象となる。外的均衡は、外部取引の相手が対象となる。例えば、仕入れは、内部取引では、買入債務と商品が問題となり、外部取引では、買入債権ととの引き相手の売上が対応する。

 空間に在る要素や物に働く作用は、一定方向の働きとその逆方向の働きが均衡することによって一体の状態を保っている。力が均衡する状態が定常的状態である。一つの基準である。それが作用反作用の関係を成立させている。
 経済的に言えば売りと買い、貸しと借りは、同量で逆方向の作用である事によって取引を均衡させている。

 これらの関係は、相互に関連し且つ、表裏の関係を成す。表裏の関係は、陰陽の関係を生む。そして、この関係は、必然的に相対的なものになる。

 為替市場は、通貨圏の存在によって成立する。故に、為替市場は、通貨圏の境界線上に形成される。通貨の価値は、通貨圏の内と外では、表裏の関係を成す。

 空間が成立すると空間の成立によって位置と運動と関係が生じる。

 自由は、運動。平等は、位置。友愛は、関係である。

 社会を統制する組織が確立されると、その組織に占める位置によって権力が生じ、権力が発揮される事によって組織的な活動が可能となり、権力関係を巡って権力闘争が起こる。

 位置とは、距離である。運動とは、変化である。関係とは働きである。
 距離は、場所によって導かれる。変化は、時間の関数である。働きの本は力である。
 位置は点で表され。運動は、線で示され。関係は面を構成する。
 位置は、量を表し、運動は、方向を示し、関係は、相を形成する。
 位置は、水準である。運動は、速度である。関係は場である。

 位置と運動と関係を定める根本は、差である。差には、長短、高低、強弱、大小、軽重、厚薄、熱冷等がある。即ち、差とは、相対的な概念である。
 位置に時間が関われば運動になり、位置に力が関われば働きになる。

 例えば、比率は、位置を示し、回転は運動を表す。歪みや偏りは、空間の状態を表す。比率は、全体に占める部分の割合、即ち位置を示す値である。

 量、即ち、位置の変化は、流れを変える。流れの変化とは、流れる方向や速度の変化を意味する。例えば金利の高さや総資本の総量は資金の流れる方向を変化させる。
 力、即ち、働きの変化は、速度に影響する。速度の変化は、その時点、時点に進んでいる方向と作用する力の方向の総和によって決まる。

 位置は、量の元となり数や並びを生み出す。数は比較の元となり、並びは、順番、順位の元となる。
 論理的体系では、論理を構成する命題、要素の位置が重要となる。簿記、仕事、組織も
論理的体系を持ち、この順序、組み合わせが重要な意味を持つ。

 物事には順番がある。順番は、時間を生み出し、また、手続を定める。
 仕事で大事なのは、手順、段取り、手続である。物事の順番を間違うと、成ることも成らなくなる。
 将棋や麻雀といったゲームは、手順を競うゲームである。故に、手続にも決まりがある。
 順序、順番は、変化の法則を表し、その組み合わせは、一定の働きを生み出す。それが仕組みである。
 命題や要素の順番がアルゴリズムを構成する。

 人間が生活する場は任意な空間の上に成り立っている事を前提とする。生活の場が任意な空間の上に成り立っていることを前提とするならば、その場が成立した過程、経緯、即ち、歴史が重要となる。

 国民国家を興し、法を正当たらしめるのも手続である。故に、民主主義は、論理的手続によって成立する。

 経済空間は、労働と分配がつくり出す人的空間、生産と消費がつくり出す物的空間、収入と支出がつくり出す、貨幣的空間の三つの空間を重層的した構造を形成している。
 市場経済において三つの空間を調節する仕組みが会計制度である。

 三つの空間の運動が経済現象を見る上で重要となる。
 経済は、拡大均衡と縮小均衡の繰り返しである。拡大均衡や縮小均衡は空間の変化に伴って発生する運動である。市場の拡大均衡と縮小均衡によって資金や財の生成や流れが生み出される。この様な市場の拡大や縮小は、企業実績に影響を与える。それを一定の期間を定めて測定する手段が期間損益である。

 現在の資本主義経済、市場経済は、会計的空間を前提にして成り立っている。
 ただし、現在の貨幣経済は、かならずしも会計制度上に成り立っているとは限らない。現行の貨幣経済は、会計制度上に成り立っている部分と会計制度上以外で成り立っている部分がある。

 同じ貨幣経済下でも経済主体によっては、会計的空間に成立する主体と会計以外の空間に成立する主体がある。財政や家計は、会計的空間以外の空間に成立している。財政は、第一に、現金主義であり、第二に、予算主義である。それに対し、会計は、第一に、実現主義、発生主義であり、第二に、決算主義である。予算主義と決算主義は、法に対する基本的思想が違うのである。

 経営の実体は、会計によって表現される。ただし、産業や企業経営を成り立たせている実体は、人と物と金である。会計は、あくまでも、経営を成り立たせるためのリテラシーであり、論理である。
 つまり、自然現象や自然の法則は、数式によって表現されるが、自然現象や自然法則を成り立たせているのは、自然現象そのものであり、自然の法則そのものというのと同じ事である。数式は、あくまでも現象の背後にある何等かの法則を表す手段であって、それ以上のものではない。自然の法則にしても、その様な法則が働いているらしいと言う仮説であることが前提である。真実は、神のみが知るのである。
 経営や投資といった実際的な事象は、、会計空間に現れた結果に基づいて意思決定が下された結果なのである。

 現代の企業経営や産業は、会計制度が形成する空間上において表現される。経済政策を立案する上で問題となるのは、経済に通じるという者の多くは会計を知らず。会計に携わる者は、経済に関わろうとしないことである。
 会計制度の上で経済が成り立っていることを前提とすると会計が解らない経済学者も経済が解らない会計士も、自分が何をやっているのか理解する術がない。

 市場は、取引の集合体である。市場を形成する個々の取引を仕訳し、転記し、集計し、決算処理する過程、手続を経て、企業実績は、会計空間に写像される。
 この様に会計的空間も手続によって成立している。

 期間損益で言う取引と、現金主義で言う取引とでは、基準や意味が違う。又、一般にいう取引と会計で言う取引も基準や範囲に違いが生じる。即ち、各々、前提が違うのである。

 会計の全体集合は、会計上の取引によって形成される。会計制度とは、取引の集合である。会計上の取引は、会計を構成する要素間の組み合わせによって構成される。
 会計上の取引は、個々の取引が成立した時点で均衡している。即ち、総和は、零になる。又、零になるように要素が組み合わされる。
 つまり、会計上の取引は、順、逆、二方向の取引からなり、その力は均衡している。これが、会計を基盤とした経済の大前提となる。又、この二方向の取引が会計の空間を形成する。

 会計上の取引は、相手となる対象、取引対象、相手勘定を必要とする。或いは、会計は、相手となる対象、取引対象を前提として成り立っている。この相手となる対象が会計主体の位置を写し出す。会計の基本は表裏関係であり、鏡像関係である。即ち、会計主体は、自分を映す鏡を必要としているのである。
 近代貨幣経済は、この写し出された像によって形成される。会計によって表された像は、経済の実体に反映される。
 ただし、貨幣経済で経済の実体を動かすのは、資金の流れである。

 我々は、会計がつくり出す数値表に載せられた数字、即ち、貨幣価値の有り高に目が眩むだろう。しかし、そこに記載された貨幣価値に相当する資金が実際に手元にあるわけではない。資金、即ち、すぐに流通で決め現金の残高はきわめて少ない。
 必要な現金の有り高は、必要な時に必要なだけあればいいので、不必要に高水準である必要はない。むしろ不必要に高い現金の残高、有り高は、経営の効率を阻害する。
 実際に必要な資金の量は、資金の流れと資産価値(ストック)の有り高の水準との関係から割り出される。

 資本金一億円といっても一億円の資金があるわけではない。一億円というのは名目的な値なのである。
 企業は、会計基準に則って組み立てられた通貨で動く仕組み、機械のようなものである。通貨は、エネルギー、活力であって常時、力を発揮しているわけではない。

 会計では、表示された貨幣価値、即ち、名目的価値があることを前提として成り立っている。故に、名目的価値が重要となる。そこに、原価主義か、時価主義かの議論の余地が生じる。例えば、負債は、債務の存在が前提となり、債務の根拠は借用書という証書が法的な根拠、会計的な根拠となる。

 この様な会計的な根拠は、手続によって保証される。故に、会計的空間は、手続によって形成されると言っていい。
 会計情報は、登録、仕訳、転記、集計、決済整理を経て、損益計算書と貸借対照表に集計される。会計的空間は、この様な手続きを経る過程で形成される。

 企業や産業の会計的実体は、手続きを経て会計的空間に写像されることによって成立する。

 会計制度というのは、典型的集合である。先ず、会計は、複式簿記を基礎としている。複式簿記は、簿記が一つの全体を構成している。複式簿記の全体は、二つの部分集合からなる。また、二つの部分集合への区分には二通りある。一つは、二つの部分集合の、一つを、借方といい、もう一方を、貸方という。もう一つの区分の仕方は、二つの部分集合の一方を損益といい、もう一方を貸借という。
 更に、借方は、資産と費用の部分集合からなり、貸方は、負債と純資産と収益からなる。また、損益には、収益と費用の部分集合からなり、貸借は、資産、負債、純資産(資本)からなる。

 会計上、借方、貸方に表示された数値の総和は常に等しい。即ち、借方と貸方は常に均衡している。それに対して、現金収支では、最初に元金があり、現金取引が生じた都度、収入と支出を加算、減算し、常に残高が零にならないように調整する。

 つまり、現金主義では、残高が問題なのであり、均衡という思想はない。何が均衡しなければならないのかというと、債権と債務である。

 又、会計を構成する五つ要素、即ち、資産、費用、負債、純資産、収益には正の位置がある。資産と費用は、借方が正の位置で貸方が負の位置。負債、純資産、収益は、貸方が正の位置で、借方が負の位置。資産、費用、負債、収益は正の位置にあるときは、加算され、負の位置にある時は減算される。
 資産、費用、負債、収益は、正の位置の残高は、零より小さく、即ち、マイナスしない。
 
 現代の企業は継続を前提としている。企業の継続を実際に決定する要素は、資金残高である。資金が廻れば、企業経営は継続できる。つまり、利益の有無が企業経営を継続させている直接的な要因ではないのである。ただし、利益の有無は、資金の調達に決定的な役割を果たす。

 そして、資金の調達において、貸し借りの関係が基盤となった。なぜならば、期間損益計算が可能になったことで、長期的な資金の出納の見通しが立てられるようになったからである。そのことで、長期的な貸し借りの関係が成立するようになった。つまり、経済的価値が時間の関数として扱えるようになったのである。

 長期的な資金の動向が期間損益によって描けるようになったのが大きな収穫なのである。そして、その資金の動向に基づいて事業計画が立てられ、長期借入、長期貸出貸が可能となったのである。そして、長期負債の水準が位置となり、金利の運動が問題となるようになった。ただ以後も、負債の問題は、潜在的に位置(ポテンシャル)の問題として経営に影響を及ぼし続けることとなる。これは経済の問題でもある。サブプライムが問題化した要因は、証券化された債務の潜在的な高さ、位置が瓦解したことである。

 全体を構成する部分の位置と関係は、構造の基盤を形成し、個々の部分の運動は、全体の力を発揮する源になる。そして、個々の部分の調和によって全体は保たれる。

 経済や経営の動きを分析するためには、位置が保持するエネルギーと運動によって生み出されるエネルギーとはその作用する部分や働きに差が生じる。



位  置

 最初の位置は、自分との距離に依って定まる。それが基準である。位置と距離は、量的なものを指すだけでなく、質的なものを含む。質とは、長短、温度、強弱、速度等である。

 位置は距離を表している。まず第一に、自分と対象との距離が基準となる。次ぎに対象間の距離が問題となる。

 距離は、自己と対象との隔たりの程度である。距離は、自己と対象と距離を測る基準とによって設定される。つまり、自己と対象と基準の距離は定まる。自己は間接的認識対象であるから、自己を任意な外的対象に写像する事によって中心は定められ。しかし、その時点ではまだ自と他は未分化である。

 基準は中心点が確定することによって成立する。最初の認識の中心は、自己である。故に、最初の基準は自己である。中心点とは、原点である。故に、原点とは自己である。
 基準は、位置である。最初の基準は自己を中心に成される。

 自己が外部に投置され、任意の位置に確定される事によって外部化されることによって基準点が客体化される。基準が客体化されて対象は、相対化される。

 故に、大前提は、自己の存在であり、対象の存在である。自己と対象の存在と、その距離によって最初の位置は定められる。

 会計的現象や物理的現象は、数値に置き換えられて解析される。会計的空間や物理学的空間は、数値的空間に置き換えられることによって現象を方程式化する事が可能となる。会計的現象や物理学的現象は方程式化することによって法則化される。

 数には、測る量と数える数という二つの側面がある。測る量というのは、図形的な数であり、比によって形成された連続した量である。それに対し、数える数は、個々、独立した要素の集合によって成立した不連続の数である。

 足し算、引き算の演算は、同質、同種の量の間で行われるが、掛け算とわり算の演算は、異種、異質の量の間でも可能であり、新しい量を生み出す力を持った操作なのである。
 例えば距離(長さ)と面の足し算や引き算はできない。それに対し、距離(長さ)と面との掛け算は可能で、その結果は体積という異次元の量を表す数値に変換される。(「数学入門 上」遠山 啓著 岩波新書)

 貨幣的価値は、最終的には、自然数に還元される。それは貨幣が物としての実体があるからである。即ち、貨幣価値は、分離量だからである。しかし、経済的価値は、連続量である。故に、経済的価値は、必ずしも自然数に還元されるとは限らない。

 所得は、分離量で計算されるが、労働は連続量である。

 物理現象は、長さと時間と質量によって測られるが、経済現象は、貨幣価値(交換価値)と時間と質量によって測られる。
 物理量で基準になるのが単位であるのに対し、経済の基準は単価である。即ち、単位は、一単位あたりの量であり、単価は、一単位あたりの貨幣価値である。

 会計的な数値は、数と量を掛け合わせる事によって成立している。それは、分離量、不連続な数と連続した量とを統合することを意味する。即ち、単位あたりの価格、単価と実物の数量を掛け合わせたものが経済的価値を構成するのである。

 家族というのは、象徴的な単位である。家族という関係は、親子兄弟姉妹という所与の関係と一組の男女の任意の関係、選択的関係によって成り立っている。
 つまり、親子と言う内的結合関係と男女という外的結合関係が組合わさり、核となって家族を構成する。つまり、連続的関係と不連続な関係を統合することによって家族は成り立っているのである。
 家族の有り様で重要なのは、家族の位置と働き(役割)と関係である。

 量は位置に反映される。

 位置と運動は関係を成立させる。

 位置は、運動を発生する。運動は、位置の変化である。変化は、位置の移動によって現れる。位置の移動は、時間と位置との関数である。故に、運動は、時間と位置の関数として表される。

 量、即ち、位置の変化は、流れを変える。流れの変化とは、流れる方向や速度の変化を意味する。例えば金利の高さや総資本の総量は資金の流れる方向を変化させる。
 力、即ち、働きの変化は、速度に影響する。速度の変化は、その時点時点に進んでいる方向と作用する力の方向の総和によって決まる。

 数式は、定数と、変数、関数からなる。定数は位置を示し、変数は運動を表す。関係は関数によって表現される。

 変数には、独立変数と従属変数がある。何を独立変数とするか、従属変数にするかは任意な問題である。

 貨幣価値は、経済的価値から派生する価値である。貨幣価値は、経済的価値の部分であり、全体ではない。貨幣価値は、経済的価値に従属した価値である。即ち、独立した価値ではない。

 経済的価値と貨幣価値とは同じ価値ではない。経済的価値とは、潜在的に在る価値である。即ち、生活に必要な物としての価値は、貨幣価値が成立する以前から存在している。貨幣価値というのは、経済的価値を交換する必要が生じた時に派生する価値、即ち、交換価値に基づいて成立する価値である。
 貨幣価値というのは、所与の価値として存在する価値ではなく、交換する必要性によって変換されることによって生じる任意の価値であり、基本的に数値として表現される。即ち、潜在的な価値である。
 貨幣価値は、財と別個に存在するというのは、錯覚である。或いは、結果的な認識である。貨幣価値は、本来、財と切り離しては考えられない価値である。即ち、貨幣価値は財の属性なのである。少なくとも貨幣価値が成立する当初は、財を変換する必要があるのである。それが貨幣価値の裏付けでもある。
 貨幣価値は、貨幣という物として表現される。貨幣価値は、貨幣に置き換わった瞬間、貨幣としての実体を持つ。そして、貨幣その物が財としての実体を持つようになる。その為に、貨幣価値は、操作することが可能となる。それは、言語が文字によって、数値が数字によって実体化されるのと似ている。 
 貨幣価値が実体化されると貨幣価値を所有したり、貯蔵することが可能となる。貨幣価値を所有したり、貯蔵することが可能となると、次ぎに、貨幣価値を貸し借りすることが可能となる。それが、貨幣の潜在的な力を持たせることになる。
 そして、貨幣価値の貸し借りは、債権と債務を生じさせる。債権と債務は、負債を成立させる。負債は、その財の元にある価値を増幅させる作用がある。それが経済における位置エネルギーの源である。

 借入金の残高は、現金を調達した量、また、将来、支払う義務のある現金の量を意味している。
 現金というのは、貨幣という形で現れるが、その本来の働きは運動によって発揮されるのである。

 資本主義経済は、会計と法学と数学の上に成り立っている。故に、経済学は、会計と法学と数学の融合の上に成立すべき学問である。ところが現在の経済学は、経済学としてしか成立していない。

 資本主義体制には、カジノ的な要素がある。むろん、カジノは賭博場であり、資本主義と賭博を同列に扱うつもりはない。ただ、資本主義、貨幣経済の仕組みには、カジノの仕組みに類似した部分があり、カジノを例に出して説明した方が解りやすいと思う。
 先ずカジノで掛けに参加する場合は、手持ちのチップが必要となる。チップは、胴元から購入するか、借りるかである。いずれの場合も金利はかからないことを前提とする。掛け金が不足したら、胴元から必要なだけ、購入するか、借りる、そして、カジノを出る際に、チップを清算し、現金に換える。
 つまり、購入という形式をとるにしても最初にチップを胴元から借りるのである。このチップに相当するのが貨幣である。元金というのは、最初から限られている場合もあるし、また、必要に応じ追加される場合もある。しかし、いずれにしても手持ちのチップがなければ、賭け事には参加できないのである。又、チップがなくなり、補充されなければゲームは終わりである。それ以上続けることはできない。それが市場の決まりである。残高というのは、手持ちのチップの量のことをいい。その残高の量がその人の掛けに対する潜在的な力、経済的位置エネルギーを意味する。
 そして、最終的には、現金に依って決済される。現金とは、現在の貨幣価値を実現した値である。貨幣とは、現在の貨幣価値を指し示した物である。

 表象貨幣の価値は、手持ちの資産の潜在的価値が前提となる。即ち、貨幣経済は、手持ち資金を零として設定されているわけではなく。ある程度の持ち分を想定することによって成り立っている。トランプのゲームや麻雀を思い浮かべればいい。トランプのゲームや麻雀は、最初に各々が何等かの手持ち、或いは、取り分を所有、保有していることが前提となる。掛け金のない者は参加できないのである。貨幣経済の原点は、手持ち貨幣の有り高、残高によって決まる。そして、最初の手持ち資金は、借金によって賄われる。
 そして、麻雀やトランプのように予め手持ちの資金は、必要に応じて手持ちの資産を現金化、即ち、貨幣への転換する事によって調整されているのである。その転換操作によって発生するのが債務、即ち、負債である。逆に言うと、貸し借りという操作によって貨幣は創造されるのである。それが信用価値である。つまり、貨幣価値というのは信用価値でもある。
 要するに、貨幣価値は、経済的価値の潜在的位置、保有量を前提として成り立っている。最初から決まった貨幣量が想定されているわけではない。貨幣の総量は、経済の状況によって調整されるべきものなのである。

 位置とは、残高水準、即ち、負債や固定資産、在庫の残高水準を意味する。位置の持つ働きは、位置エネルギーとなる。

 現在の資本主義は、会計制度の上に成り立っている。故に、現行の資本主義経済では、会計原則が経済現象の前提として働いている。

 会計は、取引を記録し、仕訳し、転記し、集計し、決算処理し、損益と貸借に分割される過程を経て形成される。
 この一連の操作を通じて現金主義から期間損益へと会計処理、変換されるのである。即ち、この一連の処理過程にこそ、資本主義経済の仕組みが隠されているのである。

 決算処理は基本的に残高処理である。

 会計上の定数とは、残高を表している。又、会計上の定数とは、固定的な部分を言う。

 例えば会計上の定数には、負債の元本や固定費、固定資産を表した部分、資本金等がある。それに対して、変数は、金利や配当、利益、変動費を意味する。

 総資産と費用を足した値に占める減価償却費の割合や総資産と収益の関数、即ち、総資産回転率などが重要な指標となる。

 また、固定費の位置と変動費の運動の組み合わせによって損益分岐構造が構成されるのである。損益分岐点の構成比率は、経営上だけでなく産業構造を知るためにも重要な要素となる。

 ストックで問題なのは、水準であ。即ち、位置である。フローで問題なのは速度と方向であり、運動である。水準と変化の関係によって損益の関係が構成される。それが損益分岐点である。

 故に、経済政策を選択する場合、位置に関係した問題なのか、運動に関係した問題なのかをよく見極める必要がある。

 位置は、比率でもある。位置とは、全体に占める割合を意味する。

 比にも割合と比較という二つの側面がある。そして、変化は時間の関数である。
 故に、経済や経営の分析の基本は、比率を出すことと、比較をすることと、推移を明らかにすることから始まるのである。

 経済的位置は、相対的な値であり、比率として表現される。
 例えば、企業経営において貸借対照表上の総資産に占める固定資産の比率は、長期的に期間損益に重大な影響を与える。
 又、費用に占める固定費と変動費の比率によって損益構造が形作られる。
 固定資産や損益構造は、産業の基礎的構造をも形成する。そして、この基礎的構造が景気の動向を潜在的に方向付けている。為替の乱高下や原油価格の高騰といった経済変動の影響は、基礎構造の在り方によって違いがでる。
 故に、この基礎的構造が理解できないと経済現象を解明することはできない。翻って言えば、産業の基礎構造が解らないと状況に適合した景気対策、経済政策も立てることができない。

 貸借対照表の対象性と比率に経営の秘密が隠されている。

 税の働きは、税が掛けられる対象とその対象に税が占める割合によって決まる。

 現行の日本の法人税は、法人の所得を課税対象としている。課税対象が期間利益でも、期間現金収支でもない点に注目する必要がある。

 借入金の元本の返済資金は、損益上には現れてこない。故に、期間損益には反映されない。借入金の返済は、負債の減少として現れる。しかし、それは、個々の借入金と直接的に結びついて表示されるわけではない。つまり、資金繰りとの関わり合いを読みとるのは困難である。
 借入金の原資は、減価償却費として計上される。しかし、非償却資産に対する借入金の返済の裏付けはない。

 現行の税制、会計制度上では、固定資産に含まれる非償却資産の原資は、資本化することを前提としている。

 なぜならば、非償却資産の原資は、資本以外、制度上認められていないからである。即ち、非償却資産の調達原資は、資本以外に清算する手段がない。
 固定資産を調達するための資金の調達手段には、借入と資本がある。資本問いのは、投資家に資金を提供してもらうことである。
 資本家から資金を調達する以外には、借入による手段しかない。借入の場合、融資をした者、即ち、融資者に返済する義務が生じる。返済の原資は、収益によって賄われる。
 これが前提である。
 そして、これは、現在の国家の根本的経済理念である。
 非償却資産というのは、主として不動産を指して言う。

 まず第一に、会計上の問題である。大前提は、借入金の返済額は、費用と見なされていないという事である。
 借入金の返済は、損益上には現れてこない。なぜならば、借入金の返済額は、費用として見なされていないからである。借入金に関連して損益上に計上されるのは、金利と減価償却費、そして、借入の際にかかった費用だけである。
 貸借対照表上において借入金は、総資本の側に負債として計上され、総資産の側には、負債の運用された結果が記載される。そして、借入金が返済された場合は、負債を直接減額することで表示される。即ち、借入金の返済額は、明確に表示されるわけではない。

 減価償却費は、借入金と同額を計上する事を意味しているわけではない。減価償却費は、借入金の元本の返済を意味しているわけではないのである。言い換えると減価償却費と借入金の返済額は同じ性格の科目ではない。さらに言えば、非減価償却費の返済額は、減価償却費の中に、含まれていない。又、借入金の返済で、減価償却費を超える部分は利益処分の中から捻出することになる。
 つまり、借入金の元本の返済は、会計上正規の処理の中に含まれていないのである。

 それを補うためにキャッシュフロー計算書が作られるようになった。しかし、期間損益には、借入金の返済は反映されていない。
 つまり、借入金の元本の返済が実際の経営収益にどの様な影響を与えているかを計測する術(すべ)がないという事である。資金が経営を実質的に左右しているというのにである。

 仮に、借入金の返済を早めたとしても期間損益には反映されない。かといって負債を直接減額するために、相対となる科目が曖昧になり、貸借対照表の均衡を崩すことになりかねない。故に、経営者に借入金の返済を早めようと言う動機が働かない。

 減価償却費にも問題がある。一度償却資産として計上されると規定に従って償却することが強制される。利益が上がったから、早めに償却をしてしまおうとしても会計上許されないのである。その為に、利益が計上されている時に借金を前倒しに返済してしまおうとしても、結局、資金繰りが苦しくするだけの結果を招くのである。
 逆に、不景気だからといって例えば投資を控えたとしても容赦なく償却費は費用計上しなければならなくなる。

 貸し渋り、貸し剥がしの対象は、借入金の元本に相当する部分で金利ではない。故に、金利をいくら優遇しても貸し渋り、貸し剥がしはなくならない。

 補助金の限界は、補助金は、資金上の問題であり、収益に反映されないという事である。同様のことは、公的融資や保証制度にも言える。収益が改善されない限り、経営の安定は得られないのである。

 貸し渋り、貸し剥がしの問題点は、融資の更新の時、借り換え時の問題である。即ち、新規融資や更新融資の際の問題である。
 又、深刻な問題を引き起こすのは、運転資金である。運転資金と言っても実際は新規融資と変わりない。むしろ、運転資金の方が融資基準は厳格である。運転資金を借りる際に問題になるのは、何を担保するかであり、その場合は、非償却資産の含み価値である。

 融資の基準は、担保か、収益、即ち、実績にあるという点である。裏がして言うと担保力や収益力が低下したり、また、為替の変動や石油価格の高騰によって実績が悪化した時、つまり、資金を一番必要とした時に融資基準が厳しくなることを意味する。

 強制的に不良債権を処理させても借入金が減るわけではない。むしろ、将来の借入金の返済の原資を失うことになる。
 又、不良債権と言われる部分には、稼働している設備が含まれる。稼働している設備に担保権が行使されると営業の続行が不可能となる。
 大体、一般の企業は、資産を遊ばせている程、経営にゆとりがあるわけではない。又、遊休資産は原則的に、税制上、或いは会計上、保有できない、或いは、収益的に不利になる仕組みになっている。
 つまり、遊休資産以外の不良債権の処理を強行すればするほど、景気は悪化するのである。

 第二に、税制上の問題である。
 先ず、税制上の減価償却に対する基準と会計上の減価償却に対する基準に微妙な違いがあることである。ただ、実務的には、日本では、確定決算主義がとられているために、減価償却の算出方法が税務処理に準拠する傾向がある。しかし、早期償却を行った場合、納税額と利益との関連性がなくなるので、結局、税効果処理を採用せざるをえなくなる。

 償却費以上の返済原資は、利益処分から賄われる。しかし、利益処分の項目には、借入金の返済は認められていない。内部留保は原則禁止されているのである。その為に、未上場企業は、内部留保は課税対象である。

 非償却資産、即ち、不動産を処理した時に上がった収入は、税制上、収益に計上される。しかも、利益には課税される。利益は、収益から原価を差し引いて出される。借入金は費用に計上されないから収益から引かれる費用に、借入金の返済額は含まれない。故に、借入金が減るわけではない。

 資本に対しては、株の売却時に税が課せられる。
 経営者と株主が同一人物である場合が多い未上場企業の場合、事業継承時に多額の納税資金が必要となる。
 事業継承で問題なのは、企業は誰の物かと言うことである。
 つまり、企業の主体性は誰に帰すかである。企業を組織とするならば、組織を構成する物の総意に企業の主体性は、反映されるべきところである。また、企業が存続するために必要なのが資金であるとするならば、資本の問題に社員が関わる必要がある。しかし、資本と社員とは切り離されている。その為に、企業を構成する社員は、企業の存続に関われないのが原則なのである。
 企業の所有権を誰に帰すかは思想なのである。又、世襲は基本的に認めないとするのもしそうである。思想であることを明確にすべきなのである。そうしなければ国民の意志を問うことはできない。

 経営主体は継続を前提としているとするならば、事業の継承を円滑にする方策を定めておく必要がある。企業は継続を目的とするというのは思想なのである。
 逆に、非償却資産を資本によって賄うというならば、その思想を明確にすべきなのである。この点はあくまでも思想なのである。だからこそ明確とすべきなのである。

 税制は、経営主体の行動規範を制約する。経営者の行動規範を制約することによって景気のような経済状況に重大な影響力を及ぼすのである。
安易に税を考えるべきではない。税は国家思想を実現したものなのである

 重要なのは、借入金の存在を前提とするならば、借入金の元本の扱いを明確にすることなのである。非償却資産の元本の精算を前提としないのならば、金融機関も行政も非償却資産の元本を清算しなくてもすむ仕組みや体制をとるべきなのである。
 即ち、借入金の元本は、基本的に会社が清算される時に清算されるべき性格の借入金だと言う事と借入金は常に存在しつづけるという事を前提とすべきだという点である。

 現行の会計制度も税制も事業の長期均衡を原則としながら、実務的には、単年度均衡を前提としているのである。そこに制度的な矛盾、不整合がある。そして、その制度的歪みが経済全般に悪影響を及ぼしているのである。

 重大なのは、会計の仕組みは、現在の経済の行動規範を構成していると言う事なのである。故に、会計を理解しないと経済現象を引き起こしている要因を解明することができないという事なのである。

 期間所得に対し課税するというのは、思想であって経済的根拠はない。つまり、それが経済現象にどの様な影響を与えているかを考慮された形跡はない。考慮されたとして技術的な問題に限定されている場合が多い。

 つまり、現行の法人税は、資金収支にも期間損益にも関係ない、期間所得にかけられており、その為に、法人の資金繰りや期間損益に重大に障害を引き起こしているのである。
 たとえば、期間損益上は黒字であっても資金繰りが逼迫すると言う事が往々にして発生する。この様なときに、納税のために借金をしなければならないと言う事態が発生するのである。

 法人という言葉がある。その代表的な存在が株式会社である。株式会社の所有を巡っては諸説ある。しかし、そのほとんどが、法人の人格を認めていない。つまり、法人というのは、法制上の便宜的な意味でしかない。つまり、法人は、主体性を認められていないのである。その為に法人から自律的機能が失われている。法人は死んでいるのである。
 基本的に、現在の資本主義思想は、法人という経済主体を機関として見なし、法人に対して主体性や自律性を持たせるという思想はない。その為に、利益は、全て株主と徴税主体と経営者と債権者の間で分配するという思想が強い。それは、法人の共同体としての性格を毀損し、法人から共同体としての実体を喪失させている。

 M&Aが盛んである。つまり、企業合併が盛んに行われている。しかし、その前提は、企業が合併せざるを得ない状況に追いやられていることを意味している。つまり、企業が自立できない状況が前提としてあると考えるべきなのである。
 そして、企業が合併を繰り返す背景には、必然的に合理化、効率化の要請があり、それは必然的に雇用の削減に繋がると言う事である。
 経済学者の中には、生産性の低い労働から付加価値の高い労働へ転職させればいいと言うが、現実的な話ではない。人間の人生には限りがあり、又、取り返しのつかないものがある。人の人生は不可逆的な過程であり、付加価値の高い仕事ほど、特殊な技術や知識、経験がなければできるものではなく。おいそれとは転職できるようなものではない。少なくとも時間が必要なのである。
 つまり、合併を繰り返すことによって企業の生産性は向上するかも知れないが、その結果、経済は、停滞するのである。過剰な安売りにも同様な効果がある。つまり、市場の機能の低下に結びつくのである。
 単純に生産をあげればいい、安ければ良いという発想だけでは経済を捉えきることはできない。経済で大切なのは、位置、即ち、割合なのである。

 経済主体の経済に対する働き、役割は、位置に関係する。個々の経済主体の果たす役割や働きは、順序や順番に影響されるからである。例えば、製造、卸、販売と言った順番は、製造の部分に属する企業の役割や働きを規制し、卸の部分に属する企業の役割や働きを規制するようにである。そして、この様な役割や働きは、個々の企業の形相や構造を確定する。製造には、製造の企業の形相があり、又、構造がある。そして、それは位置に関係している。

 経済的位置というのは、時間が陰に作用した現象である。経済的運動というのは、時間が陽に作用した現象である。

 時間が陰に作用するというのは、時間の働きが全くないというのではなく。時間の働きが直接現象に結びつかず表に現れてこない状態を言う。

 時間が陰に作用する、陽に作用するというのは、静と動として現れる。例えば、ある時点における財務内容を表示した文書が貸借対照表であり、一定期間の収益の費用の動きを表示したのが損益計算書である。貸借対照表は、時間が陰に作用している静的な部分を表しており、損益計算書は、時間が陽に作用している動的な部分を表していると言える。

 貸借対照表の中にも固定資産と流動資産の別がある。又、費用の中にも固定費と変動費がある。

 位置は、順番に深く関わっている。位置は、順序を決める要素である。順序、順番は、時間的な位置である。順番というのは後先の並びである。
 位置は、量の元となり数や並びを生み出す。数は比較の元となり、並びは、順番、順位の元となる。論理的体系では、論理を構成する命題、要素の位置が重要となる。
 簿記、仕事、組織も論理的体系を持ち、この順序、組み合わせが重要な意味を持つ。つまり、機能と位置は関連している。働きは、関係の元である。故に、位置によって関係は生じるのである。関係とは、どの様な力によって、どの様に結びついているかである。

 物事を他人に教えたり、説明する場合、話の組み立ての順番が重要になる。即ち、論旨である。話の順番、前後を間違うと相手に自分の真意が伝わらないどころか、無意味に感情的してしまうことだってある。物事を教えるのも順序がある。順序を間違えると相手はかえって混乱し、解らなくなる。
 つまり、論理というのは、命題や言葉の順序が重大な役割を果たしているのである。
 論理というのは、仕事や組織で言えば、手順や手続、段取りである。近代的な組織や制度は、手順や手続によって成立し、維持されていると言ってもいい。そして、それは形式でもある。
 又、礼儀作法は、手順、段取りが重要である。礼儀作法とは、手順、段取りが様式化し、権威と結びついて特別な意味や働きを持つようになった形式といえる。
 結婚というのは、相手の了解を得てはじめて成立する。相手の了解を得ないで結婚をするという事はできない。物事には順序があり、筋がある。その順序や筋が、その社会の仕来りや掟となり、法の根源となるのである。それを一概に形式として斥けるのは文化の否定である。
 そして、形式の本質は位置である。

 企業や産業は会計制度の原則に従って資金によって動く仕組みである。会計制度は、期間損益に則り、資金繰りは、現金主義に則っている。その為に、会計上に表れる結果と実際の資金繰りの状態とは必ずしも一致していない。
 経済政策を立てる時は、期間損益に影響を及ぼす政策か、資金繰りに影響を政策かを見極める必要がある。

 会計上の数値というのはあくまでも見かけ上の数値である。実際に企業や産業、経済を動かしているのは、資金である。では、会計上の数値は意味がない、役に立たないのかというとそうではない。目的が違うのである。会計上の数値というのは、債務債権の状態を明らかにすると同時に、一定期間の経営実体を明らかにし、長期的な均衡を可能にするためにあるのである。

 例えば、決算上、空前の利益をあげているように見える石油会社が実は、資金繰りに窮していたり、逆に、大赤字であるはずなのに資金は潤沢にあると言ったことが現実に起こる。そして、いずれの場合も経営が破綻することがあるのである。
 会計情報上に現れた数値が何を意味し、また、経済政策がどの様な効果をもたらしたかについてよく把握する必要があるのである。

 資産以外に実体はない。あるのは名目的価値である。例えば資本金と言っても表示された現金があるわけではない。売上と言っても同様である。売上として表示されている数値は、これだけの売上が計上されたと言うだけの数値である。
 又、資産の中でも現金、現金等として表示されている以外の金額は、見かけ上の残高に過ぎない。

 会計上においては、位置が重要な意味を持つ。即ち、取引の結果、計上された勘定科目の位置とその結果の残高が経営実績を表すからである。そして、勘定科目の位置によって取引の働きが評価される。

 会計を構成する個々の取引は、取引が成立した時点で均衡している事が前提である。
 個々の取引が均衡しているという事は、取引は、何等かの対称性を持っているという事を意味する。この取引の持つ対称性と非対称性が経済現象の根幹を形成する。それが複式簿記の特性である。
 会計取引は、二つの方向に分割して表示される。そして、取引が表示される位置が重要な意味を持つ。

 複式簿記の発想の根本は両天秤であり、左右を釣り合うように設定することにある。取引が釣り合っていると言うよりも、取引が釣り合うように操作していると考えるべきなのである。丁度、両天秤の一方が、もう一方に釣り合うように錘を調節するのと同じように、貨幣価値を調節しているのである。つまり、一方の値は錘に相当するのである。

 表示された会計取引の位置によって財と資金の流れが定まる。

 会計を構成する五つ要素、即ち、資産、費用、負債、純資産、収益には正の位置がある。資産と費用は、借方が正の位置で貸方が負の位置。負債、純資産、収益は、貸方が正の位置で、借方が負の位置。資産、費用、負債、収益は正の位置にあるときは、加算され、負の位置にある時は減算される。
 資産、費用、負債、収益は、正の位置の残高は、零より小さく、即ち、マイナスしない。

 会計上の数値というのは、ある意味で残像なのである。会計情報に現れる数字というのは、残高の高さである。それは、見かけ上の位置を示している。実体は、その数値の裏にある物である。ところが、その数値に囚われて実体を潰しているのが実情である。先ず、経済本来の目的に立ち返って実体を見極めることが重要なのである。そして、貨幣経済を実質的に動かしているのは、貨幣の力である。ただし、貨幣も目的があって始めて活用できる。何の目的もなく貨幣を垂れ流せば、自ずと弊害が生じるのである。

 人生にも目的がある。目的もなくただダラダラと生きているだけで、自分の命を上手に活用することはできない。

 注目して欲しいのは、貸借対照表は、残高試算表を元にして作成されていると言う事である。

 会計は、基本的に加算主義、残高主義である。つまり、各科目毎の前期末残、入、出、今期末残が集計されることによって経営実績を顕在化する手続が会計なのである。

 この様な計算をするための原則は、会計上、借方、貸方に表示された数値の総和は常に等しい。即ち、借方と貸方は常に均衡していることである。
 経営実績を表す考え方は、期間損益、即ち、会計的手法だけではない。その他に、現金主義がある。現金収支では、最初に元金があり、現金取引が生じた都度、収入と支出を加算、減算し、常に残高が零にならないように調整する。

 貸借対照表上に表示されているのは貸借対照表を構成する課目の残高の高さである。残高は、その時点での財務の状態の位置を表している。
 残高の意味も期間損益と現金主義では基準や定義が違う。期間損益では、会計を構成する要素、勘定科目の残高を意味するが、現金主義では、現金残高を意味する。

 現金残高を基準とする現金主義では、現金残高が問題なのであり、均衡という思想はない。では期間損益において、何が均衡しなければならないのかというと、債権と債務である。

 実際の貨幣経済を動かしているのは、貨幣の流れ、資金の流れである。資金の流れを見る場合、重要になるのは、資金の流れる量と方向と速度である。貸借対照表や損益計算書だけでは、この資金の流れる量や方向、速度を見極めるのは困難である。なぜならば、貸借対照表や損益計算書といった財務諸表は、資金の流れていった結果、痕跡を示した物にすぎないからである。

 例えて言えば、企業が設備投資に対して貸借対照表に提示されるのは、設備投資時に購入した資産の購入原価と設備投資時に借り入れた負債の量である。損益計算書に提示されるのは、購入時かかった費用である。そして、償却が終了するまで、減価償却費である。注意すべき事は、減価償却費は実際の資金の流れを示した数値ではない事である。

 資金は、投資時点では運用の側に流れ、投資が終了した後は、回収側、即ち、調達の側に流れる。

 重要なのは、収益によって投資した資金を回収することが可能か、不可能かである。また、借入金の返済に充てる資金がどの様に表示されているかである。
 収益によって回収することができない負債は、資本化せざるを得なくなる。負債が資本化するという事は、貸し付けた側は、貸し付けた資金が資本化することを意味する。それは、貸付金を貸付先の収益によって回収するのではなく。資本市場から回収することを意味する。

 会計は、貨幣価値によって計算される。

 貨幣価値は、経済的単位である。現金は、貨幣価値を実現させた物である。表象貨幣は、現金価値を指し示す指標である。
 即ち、貨幣価値は、経済的位置を意味する。

 経済現象において経済的な位置というのは、重要な役割を果たしている。位置が持つ潜在的な力を見逃すと経済現象は理解できない。

 経済的価値は、時間の関数である。即ち、時間が陰に作用する部分は定数として表示され、時間が陽に作用する部分は、変数として表示される。
 貸借対照表は、時間が陰に作用した結果と見なす事もできる。故に、貸借対照表に表示されるのは残高なのである。そして、損益は、時間が陽に作用した結果とも言える。

 物価は、なぜ、上昇するのか。それは時間価値の作用による。時間価値は、インフレーションの原因の一つである。つまり、時間価値というのは、時間の経過に伴って附加される価値だからである。時間価値を生み出す最大の要因は、金利である。金利以外に、地代、家賃、配当、人件費、則ち、付加価値を構成する要素である。つまり、時間価値とは付加価値といえる。
 そして、付加価値が自由主義経済の根本にある以上、物価の上昇は防げないのである。現代の自由主義経済が時間的価値を前提として成り立っている限り物価の上昇を前提とせざるを得ない。つまり、時間価値が経済の原動力(エネルギー)だからである。
 そして、物価の上昇を前提とすることによって、時間価値は、名目的価値と実質的価値を派生させる。
 時間価値は、必然的に位置に影響する。それは、金利は、元本となる経済的価値の多寡に依存した値だからである。

 世界経済を考える場合、それぞれの国や産業、企業が置かれている位置が重要になる。位置とは、地理的な位置と機能的な位置である。そして、経済において位置は決定的な役割を果たしている。

 位置は、世界市場に対する個々の国や企業に潜在的な力を持たせ、その国の経済の有り様に強く規制している。位置は前提条件の一つである。
 例えば、アメリカは、国際通貨制度の中心に位置し、アメリカの通貨は、基軸通貨として機能している。このアメリカの位置が、世界経済やアメリカ経済、そして、我が国の経済に決定的な作用を及ぼしているのである。

 外貨準備高の残高や経常収支の残高、資本収支の残高が世界市場における当該国の位置を決める。

 アメリカが、経常収支が赤字ならば、必ずアメリカ以外の国で黒字の国がある。そして、経常収支が赤字の国か、黒字の国かによって国際市場の役割、即ち、位置が決まる。
 経常収支の不均衡の背後には、過剰生産の国から過剰消費の国への流れが隠されているのである。貿易というのは、総和において均衡していることが前提となる。つまり、全体の総和は、常に、ゼロサムに調整されることが前提である。その上での位置付けなのである。

 むろん、地理的な位置も重要な要素である。地理的という意味には、地質的、又は地政的という意味も含まれる。



参考

石油元売り3社が増益、出光は赤字 4〜6月期決算
 新日本石油など石油元売り4社の平成20年4〜6月期連結決算が4日出そろった。原油高による期初の割安な在庫の利益かさ上げ(在庫評価益)効果で、新日石、コスモ石油など3社が最終増益を確保した。一方、原油在庫の評価方法が他社と異なる出光興産は赤字となった。

 コスモ石油が4日発表した4〜6月期は、最終利益が前年同期比74.3%増の228億円だった。原油高で在庫評価益が361億円発生し、利益を押し上げた。4〜6月期の在庫評価益は、新日石で926億円、ジャパンエナジーを傘下に置く新日鉱ホールディングスも333億円だった。

 出光を除く3社は期初の在庫額と四半期ごとの仕入れ額を合計して平均する原油在庫の評価法を採用しており、原油価格が上昇すれば評価益が膨らむ仕組みだ。一方、在庫評価で「後入れ先出し法」を採用している出光は評価益がなく最終赤字となった。

 21年3月期の業績見通しは新日石と出光が経常利益を当初より上方修正した。新日石は在庫評価益が4月時点の予想に比べ800億円膨らむ。出光は原油在庫の評価期間を変更したため、会計上の利益が約500億円発生するという。
(産経新聞2008.8.4)

石油元売り大手決算 出光除く3社は大幅最終赤字
 石油元売り大手4社の平成21年3月期連結決算が7日、出そろった。原油価格の急落で在庫評価損が膨らんだことから、評価方式の異なる出光興産を除く3社が経常、最終損益で大幅な赤字となった。

 新日本石油と新日鉱ホールディングス(HD)、コスモ石油の在庫評価方式は、原油価格の値上がり局面では利益に、値下がり局面では損失として計上される仕組みで、昨夏以降の原油価格の急落の直撃を受けた。また世界的な景気悪化による石化製品の販売不振も響いた。

 ただ、ガソリン販売価格の適正化が進み、採算が改善したことから、在庫影響を除いた“真水”ベースでは、3社ともに経常黒字を確保した。出光は逆に207億円の在庫評価益を計上したこともあり、経常、最終黒字を確保した。
(産経新聞2009/05/07 )



運  動


 運動とは、変化である。変化は、時間の関数である。
 運動の始めは、自己と対象との位置の変化として認識される。位置というのは空間的距離だけを言うのではなく、温度のような状態の変化も含んでいる。
 温度と言った状態の位置、又は、距離の変化とは、自分体温と対象との温度差の変化を言う。つまり、自己を中心とした状態の変化を言う。

 運動は、何によって引き起こされ。どの様に伝播するかが、重要である。

 経済の運動は、二次元的に見ると上昇と横這いと下降、三次元的に見ると発散、静止、収束の三つしかない。
 増加と減少。成長、成熟、衰退。 拡大、停滞、縮小は三つの運動の見方を変えた運動にすぎない。

 経済は、拡大と縮小、上昇と下降を繰り返している。

 上昇と横這い、下降の連続した運動は、回転運動に変換できる。

 経済運動の基本は、循環である。つまり回転運動である回転運動は、上下運動、周期運動に変換される。

 又、循環運動は拡大と収縮によって起こされる。 

 経済運動の混乱は、個々の運動の周期の差によって生じる。即ち、一年間で上下を繰り返す運動と、十年の周期で上下運動を繰り返す運動の不協和が経済全般の変動を狂わせるのである。

 即ち、変化は位置と時間の関数であり、時間の働きによって経済現象は引き起こされるのである。

 変化、即ち、運動で重要なのは、量と質、方向である。故に、運動で重要になるのは、密度とベクトルである。そして、変化は時間の関数であるから、生起した時間が重要になる。特に、経済を予測、決断を下すためには、全体の変化に先行的に現れる変化(予兆)か、遅行的に現れる変化かが重要になる。
 又同じ方向の変化か、逆方向の変化が重要となる。

 収益は、市場の拡大に連動して上昇し、市場が成熟するに従って横這いとなり、市場の収縮に従って下降する。

 それに対し、人件費は、年々、物価の上昇率に従って更新され、上昇していく。又、市場の動向に対して下方硬直的な動きをする。

 利益は、収益から費用を差し引いた値であるから、市場の縮小に伴って圧迫される。場合によっては、押し潰されてしまう。

 この様に何に連動して決まる値なのか。そして、その値が何に影響を与えるのかが、重要な要素となる。

 また、何に連動させて変化を測るかを明らかにする場合、経済的変化には、名目的な変化と実質的な変化があるため、名目的な変化を基準とするか、実質的変化を基準とするかが、重要となる。

 市場が縮小しているのに過剰な投資をすれば必然的に経営は破綻する。それは市場の周期と投資の周期の不協和によって発生する。

 市場の生成発展の周期と設備の投資、更新の周期を均衡させることが経済を安定させることに繋がる。
 
 作用反作用は、引力と斥力である。取引は作用反作用の働きを生む。即ち、一つの取引には、同量の反対取引が同時に発生している。

 財の流れる方向の反対方向に貨幣は流れる。それが経済の働きに作用反作用の関係をもたらしている。

 即ち、経済の運動の基本は、循環、蓄積、流れである。

 貨幣の運動は、流れに依る。故に流動性が重要となる。流れであるから量だけが重要になるのではなく。方向性が重要になる。特に、貨幣は、虚の流れ、情報の流れである。つまり、水流と言うよりも電流に近い。

 貨幣の流れを決定するのは、誘因である。例えば、国際間での資金の動きは、当事国間の金利の高低差、物価や購買力の高低差、人件費の高低差、貨幣価値の高低差、経常収支の状況、財政の状況、当事国間の経済政策、為替政策の差と言った要素が誘因となる。これらの誘因の総合力によって通貨の流れる方向が決まる。そして、この流れ自体が誘因にもなる。

 経済にとって重要なのは流れである。則ち、流動性である。
 経済の流れには、物流と通貨の流れがある。流動性とは、通貨の流れやすさの度合いを言う。つまり、現金化の速度である。

 流れは差によって生じる。差がなくなれば、流れが止まり、経済は機能しなくなる。同様に差が大きくなりすぎても、経済的要素は、流れなくなる。高低差を上手く活用して流れを制御する事が経済において重要なのである。

 変化は、安定を求める性質がある。故に、変化は、定常的な方向、即ち、均衡に向かって動く。差は、差がなくなる方向に変化する。

 流れは、安定を求めて高きから低きに流れる。つまり、相対的位置が重要になる。即ち、水準が重要なのである。
 相対的位置を知るためには、資金の流れを誘導する構造や力関係を見極める必要がある。その上で流れの方向を見るのである。
 例えば、表面に現れる資金の利用は同じでもその流れる方向が逆であればその効果も逆である。
 投資に向かう金なのか返済に向かう金なのか表面に現れた量だけでは理解できない。

 貨幣の流れを制するのは、大河を制するのに似ている。貨幣の流れには、勢いがある。滞留がある。澱みがある。又、奔流がある。

 過剰流動性という現象は、貨幣の総量によるだけでなく。偏りにもよる。

 事象には、変化する部分と変化しない部分がある。しかし、全体は統一的であり、均衡している。その統一性と均衡が破れると事象は破綻する。

 企業は、会計原則の上に構築された仕組みであり、企業を動かしている原動力は資金である。
 現金とは、現在の貨幣価値を実現した値である。貨幣とは、現在の貨幣価値を指し示した物である。
 経営の問題は、最終的には、現金の有り高、即ち、残高に収斂する。企業が所有する現金というのは、一年間の取引に使われた貨幣価値の総量から見るときわめて少ない。
 この資金の性格は、経済にも通じる。貨幣経済を実質的に動かしているのは、貨幣であるが、流通している貨幣の総量は、経済的価値を総量ではなく、一部に過ぎない。

 貨幣経済で経済の実体を動かすのは、資金の流れである。

 資金の速度は、回転率に現れる。
 
 現代の企業は継続を前提としている。企業の継続を実際に決定する要素は、資金残高である。資金が廻れば、企業経営は継続できる。つまり、利益の有無が企業経営を継続させている直接的な要因ではないのである。ただし、利益の有無は、資金の調達に決定的な役割を果たす。

 そして、資金の調達において、貸し借りの関係が基盤となった。なぜならば、期間損益計算が可能になったことで、長期的な資金の出納の見通しが立てられるようになったからである。そのことで、長期的な貸し借りの関係が成立するようになった。つまり、経済的価値が時間の関数として扱えるようになったのである。

 貨幣経済では、貨幣の運動が経済的な力を生み出し、国家や企業、家計と言った経済主体の仕組みを動かしている。
 この様な貨幣経済では、貨幣が、電流のように流れることによって力が伝達され、貨幣が、静止している時は、貨幣の力は、潜在的な力としてのみ働いている。
 即ち、貨幣は、流れることによって力が発揮されるのであり、通常は、経済主体に留まっているわけではない。貨幣は、経営主体を絶えず通過して流れていて、一瞬たりとも止まっているわけではない。
 企業の決算報告書、損益計算書、貸借表に記載されている数値は、見かけ上の数値であり、そこに記載されている数値と同量の現金があることを意味しているのではない。

 企業の会計制度は、丁度、自動車の速度計、燃料計や飛行機の高度計のような装置で、企業の実態を計測するための仕組みである。ガソリンの残量ような現物を直接表示しているのではない。計測した値を一定の尺度によって変換し、その結果の値を表示する装置である。ただし、速度違反を取り締まる根拠は、速度計にあるように、経営者の行動規範を規制する根拠は会計基準にあるのである。

 減価償却のような、内部取引は、仮想的取引であり、取引としての実体があるわけではない。この様な仮想的取引は、必要に応じて設定されるものである。故に、内部取引によって生じる利益も本来は実体がない。金融資産の評価替えの多くはこの実体を伴わない取引である。

 現金というのは、貨幣という形で現れるが、その本来の働きは運動によって発揮されるのである。
 借入金の残高は、現金を調達した量、また、将来、支払う義務のある現金の量を意味している。

 企業というのは、会計原則に基づいて組み立てられ、生産と分配を目的とした、現金で動く仕組みである。企業を動かすのは現金だが、企業を構成する要素は、人と物である。
 貨幣の動きばかりを見ていたら人と物の動きは把握できない。いくら見かけ上の数値がよくなっても雇用が減退し、財の流れが悪くなれば景気は悪化する。

 企業の仕組みを実際に動かしているのは、貨幣である。しかし、その貨幣の供給や回収を決めるための判断は、会計情報に基づいて成される。故に、会計情報は重要なのである。それぞれの、役割、目的を理解しないと経済政策に齟齬が生じる。

 間違ってはいけないのは、企業を動かしているのは資金だが、資金を供給するか、否かのは判断は、会計情報に基づいて為されているという事実である。

 故に、単純に資金を供給しただけでは、企業は正常に作動しないのである。

 補助金や借入保証は、資金を供給するためには有効な手段だが、それだけでは、現行の貨幣経済は正常に機能しない。企業が適正な収益があげられるような市場構造であって始めて企業は健全に機能するのである。収益が改善されることによって始めて企業は、正常に機能するのである。

 現在資金の量ばかりが問題とされているが、重要なことは、資金の流れる方向である。企業収益が改善されて始めて実業に資金は流れるのであり、企業収益が改善されなければいくら資金を供給しても実物経済に資金は流れず、回収側、即ち金融側に資金は流れる。
それが資金市場に大量に資金が流れ込む結果を招くのである。資金市場とは、金融、先物、資本市場を指す。

 実物市場に吸収されない資金は、行き場を失って仮想的市場を作りだし、その上で、自分達の作りだした仮想市場へ流れ込む。仮想的市場の対象としては、不動産市場や資本市場のような投機的市場が最適なのである。その典型がサブプライム問題である。
 それが過剰流動性をもたらし、バブルを引き起こすのである。バブルを生み出す市場は実体を持たないから実体と著しく乖離すると破綻してしまう。即ち、実物市場と仮想市場は連動していないと破綻するのである。
 バブルを引き起こしている市場は、見方を変えるとハイパーインフレを起こしている市場である。実物市場がバブルを引き起こしている市場に連動することは、実物市場がインフレーションに陥ることを意味する。故に、経済は、破綻するか、ハイパーインフレに陥るしか抜け道がなくなるのである。

 経済政策を施行する際、重要なのは、前提条件である。何が原因によって、どの様な市場の状況が現出したかである。必ずしも好況だから良い状態だとは断定できない。景気が過熱している場合もあるのである。
 馬鹿の一つ覚えのように競争、規制緩和と競争を煽ることだけが、唯一無二の政策だと硬直的に決め付けるのも危険である。重要なのは前提条件である。
 企業収益の悪化によって不況になった場合は、規制を緩和し、競争を煽ることではなく。市場の規律を取り戻すことである。

 個々の取引において貨幣が流れる方向と同じ方向に向かう取引を順な取引とする。貨幣の流れる方向と逆の方向の取引を逆な取引とする。又、個々の経済主体においては、調達貸せ運用側に方向への流れを順とし、運用側から調達側への流れを逆とする。
 貨幣の流れる方向と逆方向に財は流れる。貨幣経済では、貨幣が財の流れる方向を決める。

 経済や経営において固定的な部分を定数とし、可変的な部分を変数とする。そして定数と変数との関係を関数として設定するのである。固定性から変動性への変化の度合いを流動性と言い。この流動性が経済の活力の目安となる。

 企業経営を構成する資金には、長期的資金の動きと短期的資金の動きがある。そして、長期的な資金の動きと短期的な資金の動きを各々別個の性格のものとして分けて考えたのが期間損益である。
 長期的な資金は、固定的な部分とし、短期的な資金を変動的な部分を構成すると設定するのである。そして、長期的な資金の有り様と短期的な資金の有り様を分けて考えるのである。

 負債の残高は、将来の資金を調達側即ち、逆な流れの方向に向ける、逆流させる潜在的な圧力として働いている。

 貸し渋りは長期資金、即ち、借り換えを前提とした部分に対する行為であり、短期資金、即ち、運転資金は、その煽りを受けているのに過ぎない。
 運転資金は、基本的に期間収益、期間損益に関係した資金である。

 問題となるのは、この固定的であるべき資金が何の前触れもなく流動的な資金に変化してしまうことである。
 貸し渋りや貸し剥がしというのは、流動性の高い資金、即ち、運転資金の上で発生するのではなく。本来、固定的であるべき長期資金の借り換えや調達の上で起こるから深刻なのである。
 しかも、長期資金の返済は、損益上、貸借上のどこにも記載されず、期間損益には影響を与えない。長期資金を確保し、借り換えしていく為の担保は、担保力と収益力に依存している。又、短期資金の調達は、収益によって賄われるのが原則となっている。その為に、収益の悪化は、長期、短期の資金両面に悪影響を及ぼす。
 長期資金、短期資金の性格や構造に適合した資金政策がとられると、同時に、収益構造を経済環境に合わせて調整するような政策が併せてとられるべきなのである。

 現在採用されている経済政策の多くが、補助金や借入保証のような資金繰りに関連した政策と公共事業のような失業対策の面に重点が置かれているが、結局、企業収益が回復しない限り、本格的な景気の回復には結びつかない。その為には、収益構造の改善策を採る必要がある。
 物価の下落は、担保価値の下落、収益の悪化、雇用の減少、所得の減少を同時に併発する。その根本にあるのは、民間企業の収益力の悪化である。
 補助金や借入保証は、直接期間損益を改善する策ではない。失業対策も然りである。公共事業は、特定の業種に偏った策である。もう一つは、公共投資をしても資金が循環するように流れない限り意味はない。過去の借金の返済の方向にばかり資金が流れたら、市場に資金は循環しないのである。
 故に景気対策は、金融政策とか、公共事業の積み増しと言った単発的な政策ではなく。資金繰りに対する対策を図ると同時に、収益の改善策や雇用の促進策、会計基準の変更、規制の強化と言った策を複合的に行う必要がある。
 問題は市場の規律であり、市場が正常に機能するように規制することなのである。

 労働条件の差も経済状況に影響を与える。機械化するかしないかは、労働条件と機会のランニングコストとの比較による。

 労働条件の問題では、仕事に対する認識の違いは大きい。それは文化や世代の違いにもクッキリと現れる。日本の高度成長期を支えた多くの人間にとって仕事は、ただ所得を得るためだけのためにあるというのではなく仕事は生き甲斐だったのである。それが低成長時代にはいると仕事は、所得を得る手段としてしか考えられなくなってきた。この様に、経済情勢の背景には、道徳的、文化的な問題が潜んでいるのである。

 貨幣的価値は、最終的には、自然数に還元される。それは貨幣が物としての実体があるからである。即ち、貨幣価値は、分離量だからである。しかし、経済的価値は、連続量である。故に、経済的価値は、必ずしも自然数に還元されるとは限らない。

 所得は、分離量で計算されるが、労働は連続量である。

 物理現象は、長さと時間と質量によって測られるが、経済現象は、貨幣価値(交換価値)と時間と質量によって測られる。
 物理量で基準になるのが単位であるのに対し、経済の基準は単価である。即ち、単位は、一単位あたりの量であり、単価は、一単位あたりの貨幣価値である。

 会計の問題は、典型的な集合の問題であり、線形代数的な問題である。
 数字をひけらかしたり、弄ぶことで数学通であるように振る舞う者がいる。その場合、持ち出す数字は統計による数値が多い。しかし、数学は、統計だけが全てではない。確率、統計の重要性は認識するが、統計的数値だけで経済を捉えようとするのには限界がある。集合、数論、線形代数、微積分、幾何も含めた総合的に数学の知識を融合することが経済学には、必要とされるのである。

 会計は、取引を記録し、仕訳し、転記し、集計し、決算処理し、損益と貸借に分割される過程を経て形成される。即ち、会計は手続きであり、過程、操作である。

 会計制度は、基本的には、適正な期間収益、期間利益をあげられる体制を保証するものでなければならない。見せかけの利益や収益をあげることが目的なのではない。利益や収益はあくまでも結果なのである。利益や収益をあげるために会計本来の機能を変えてしまうとしたらそれは本末を転倒している。
 例えば、資金を調達するために、利益を操作し内部取引を利用するようなことである。又、見かけ上の利益をあげるために、売上や棚卸資産、金融資産の評価を調整すると言う事である。市場価格を支配するために、価格を異常に低く抑える事である。又、企業利益をあげるために、仕入れ価格を異常に低く買いたたいたり、賃金を低く設定したり、保安の手を抜いたり、品質を劣化したり、人員を必要以上に削減することである。それによって例え競争力が付いたとしても、それは、まやかしの競争力である。又、個別の企業の会計上の実績は改善しても景気全体は良くならない。あくまでも会計というのは、経営の実態を知るための手段に過ぎないのである。
 会計は、本来手段であって、目的ではない。利益は、指標であって、目的ではない。手段が目的化することによって本来の機能を果たさなくなれば、一企業の問題だけに止まらなくなる。
 正統的な処理によって適正な利益があげられない状況に企業が追いやられた時、企業は、存続するために、あらゆる手段を講じるようになる。それでも収益があげられなければ、本業以外で収益をあげることを画策する。又、その様な状況に陥れば、金融機関からの資金の供給も滞るようになる。産業や企業が苦況に陥った時、問題なのは、その産業や企業の社会に果たしている役割と、産業や企業が苦況に陥った原因である。短絡的に、全てを経営責任に帰しているばかりでは、真の原因は見失われるのである。経営者個人の力には自ずと限界があるのである。

 現在の会計制度では、自前の資金で投資ができない仕組みになっている。即ち、金融市場か資本市場で資金を調達せざるを得ない仕組みになっているのである。

 会計上、内部留保や資産は、所有することが、不利か、原則、できないような仕組みになっている。即ち、借金に頼らなければ、或いは、借金をしなければ投資ができない仕組みなのである。この点を論じなければ現代の資本主義は語れない。

 今の会計制度では、資金は、経営主体の内部に蓄積できない仕組みになっている。故に、必要な資金は外部から調達しなければならなくなる。資金を調達する手段には、借金と増資、収益の三つがある。そして、根本は、収益によるのである。
 資金が調達できなくなる、即ち、資金の供給がとなると企業は存続することができなくなる。即ち、倒産する。収益による資金の確保が困難になると借金か、増資をする以外に手段はない。費用は、固定的な部分が大きい。それに対し、収益は、固定的な部分が小さく、変動幅か大きいのが常である。故に、収益ばかりに頼っていれば、一時的に資金が不足するのは必然的帰結である。増資は、手続に時間がかかる上に、恒常的な資金調達の手段に適していない。その不足した部分を借金で補わなければ企業経営は存続できないのである。
 即ち、借金に依存しなければ企業経営は、存続できない仕組みが出来上がっているのである。そして、その前提に基づいて経済施策は考えなければならないのである。




関  係


 経済で重要なのは、関係である。関係は、元(もと)から生じる。元(もと)とは、自己である。元とは、基であり、本である。源である。そして、元から生じる関係とは、自他の関係である。故に、関係の根源は自他の関係である。

 自他の関係は、自を、即ち、自分、自己をどの様に定義するかによって決まる。

 自己とは、唯一の主体的存在であると、同時に、間接的認識対象であると定義する。
 この主体的存在であると、同時に、間接的認識対象であるという事が、自他の関係を決定付ける。
 自己が主体であり、間接的認識対象であるという事は、自己は、認識主体であると同時に間接的認識対象であることを意味し、それが、対象との関係を認識する際に作用反作用の関係を生み出す。

 自己を客体化することによって自他の関係が、他対他の関係に転換する。それが対象の基本的関係を性格付ける。
 この事は、他対他に関係にも作用反作用の関係を成立させる。作用反作用は認識上の問題である。しかし、作用反作用は、働きや関係を考える上の基本となる。

 経済は、社会的現象である。即ち、経済は、自己と人、人と人との関係によって成り立っている。

 関係は、比によって明らかにされる。関係は、一定の状態から、一定の状態への変化を促す働きや力を意味している。故に、関係を表す関数は、変化する以前の位置と変化した後の位置から求められる。位置とは、点と線と空間の状態を意味する。

 関係とは、対象間の結びつきである。対象間を結び付けているのは作用である。結びつきとは、対象間に働く力に依る。対象間に何等かの作用があるという事は、何等かの力が働いていることを意味する。この力の性質を理解することが関係を解明することに繋がる。

 関係を構成するのは、複数の対象(要素)の存在とそれを結び付ける作用、関係を成立させる空間である。即ち、関係は、複数の対象(要素)と作用、空間の存在を前提とする。

 経済的現象の多くは、現象の元となる複数の要素が相互に連関して引き起こす場合が多い。故に、個々の要素間の働きを理解することが重要となる。

 数学は言語である。会計は、言語である。数学は、論理である。会計も論理である。そして、会計は思想である。

 会計は、言語である。言語は、言語だけで成立しているのではない、言語を成立させている社会や世界と言った空間を前提として成り立っている。言葉だけでは、言葉の意味を成立しない。言葉の根底にあって言葉を成立させている対象の存在が意味を形成する前提となる。
 会計を成立させているのは、人間の存在と人と人の間の経済的取引である。つまり、人の存在と人間関係が会計の根底にある。この様な会計をただ、会計上の論理だけで理解しようとすれば、根底にある人間性が失われる結果を招く。企業経営を会計の論理だけで運用しようとすれば、経営から、人間性が削ぎ落とされてしまい、経済が非人間的な行為に堕落してしまう。
 故に、会計は、言語、数学であると同時に、思想なのである。
 会計は、数学である。そして、会計は思想なのである。会計に基づく行為の意味を正しく解釈するためには、会計の背後にある人間の営みをどう認識し、評価するかによるのである。

 会計を成り立たせている要素の一つが貨幣価値である。貨幣価値は、数字によって表現される。故に、数字は、会計の言語の一つである。数字化されることによって会計は、演算することが可能となる。
 数字が表現するのは量と比である。関数は、量と比を表した式である。

 関数を構成するのは、量と時間と速度である。量には、分離量と連続量とがある。連続量には、距離、体積、力などがある。
 速度は、単位時間あたりの変化率、変化量を言う。速度には、生産力、販売力、賃金などが含まれる。
 会計は、取引を期間損益に変化するための操作、手続を規定した基準をいう。期間損益は、時間と貨幣価値と財の量の関数である。即ち、時間と貨幣価値と財の比によって構成される。

 意味というのは、関係から生じる。意味は、自己と対象、対象と対象との関係から生じる。数字も意味の一種である。故に、数字も自己と対象、対象と対象との関係から生じる。故に、数字は、比であり、抽象的、相対的な認識に基づいて成立する。

 数字が成立するためには、数字を成立させるための実体、対象の存在が前提となる。一には、一人の人、一台の自動車、一リットルのガソリン、一箱のキャラメルといった対象が前提となる。二には、二人の人、二台の自動車というように一とか、二という数を象徴する事象が存在する事が前提となる。中でも一となる対象は、単位の根源となる対象であり、一以外の数は、比によって形成される。

 単位は、任意な基準である。定義と定義に対する合意に基づく。例えば、長さの単位もイギリスでは、12インチは、1フィートであり、3フィートは、1ヤードであり、1760ヤードは1マイルに相当する。
 貨幣単位も十進法とは限らない。イギリスでは、1971年2月15日以前は、12進法が採用され、1ポンドは、20シリングであり、240ペンスだったのである。日本でも江戸時代は、一両が四分、四貫文と四進法だった。

 貨幣は、人為的な物である。貨幣単位も人為的な物である。貨幣は、自然の産物ではない。貨幣単位も、何等かの物理的対象を基とした物理的単位とは違い、市場取引を変動する単位である。

 貨幣価値は、実体的な財から交換価値のみを抽出し、それを数値化する事によって成立する。貨幣価値は、取引という交換行為に通じて取引が成立した時点毎に裁定される分離量である。

 貨幣価値は量である。そして、貨幣価値は、自然数に還元される。なぜならば、貨幣価値は、交換を前提とした数値だからである。ただし、途中の過程においては、自然数でなければならないと限定されているわけではない。取引が成立する時点においては、自然数に限定されると言う意味である。即ち、貨幣価値は、基本的にスカラーである。ただ、キャッシュフローは、方向を持った数値、即ち、ベクトルである。

 また、貨幣価値と貨幣価値とは、加減はできても乗除はできない。複式簿記は、加算を基本としている。そして、残高の均衡を見る。その前提は、個々の取引は成立した時点で均衡しているという事である。これは、会計上の前提であり、根本は会計思想である。

 会計は思想である。故に、会計基準は、根本に社会的合意がある。即ち、歴史的事象であり、自然現象とは違う。この様な会計基準が資本主義の根底を成している。資本主義は会計の文法上に成立している思想なのである。

 石油のような物資は、石油を輸入する業者に備蓄が義務づけられている。備蓄を必要とする物資の在庫が問題となる。重要なのは、なぜ、戦略的な備蓄が必要なのか。石油の備蓄は、会計的な論理からは理解できない。そこには、経済的な視野が求められるのである。この様な問題は、会計以前の思想の問題である。つまり、国家経済の基盤の問題であり、経済思想の問題である。
 何を戦略的に備蓄するのか(石油、エネルギー資源、食料、希少金属)。それが一日でも不足すると国民生活が成り立たなくなる物資で、自給自足ができない物や生産が安定していない物。
 備蓄の目的は、軍事戦略なのか、経済的な物なのか、政治的な物なのか。それによって運用の基準が違ってくる。この問題も根本は思想である。
 石油の備蓄も経済的な目的があるならば、その目的にそって基準を設定しておく必要がある。備蓄を取り崩したり、放出するのは、基本的に非常時や緊急時である。備蓄を取り崩したり、放出しなければならない事態が発生した段階で実際の運用基準や手段を検討したのでは、最初から目的に沿わないのである。特に、経済的判断は、利害関係が複雑に絡む例が多く、その時点、その時点での判断が難しい事例が多い。故に、事前に明確な基準、指針、責任を明らかにしておく必要がある。

 会計の基準は会計思想の所産である。自然の法則のような現象を観察して導き出される法則とは、根本的性格が違う。会計は、経済現象の上に形成された従属的な言語である。会計があって経済があるわけではない。
 故に、会計は、経済の本質を変えることはできない。しかし、会計は、経済の状況を誘導することは可能である。
 資本主義は、その会計制度を基にして形成された思想である。

 現行の会計制度と資本主義は、資本主義に成立させ、尚かつ、資本主義に準拠すると言う相互依存関係にある。

 会計は、言語である。故に、会計は、会計を構成する要素の順番や組み合わせを規定する文法を基盤として成り立っている。会計の文法を規定するのが会計基準である。人的基準である会計基準は定義によって設定される。

 会計の基準は、定義することによって成り立っている。会計の基盤は、複式簿記である。故に、会計基準は、複式簿記を体(てい)とする。

 会計上の取引は、複式簿記によって均衡している。実際に取引の内容が均衡しているかどうかは別の問題である。複式簿記の基準基づいた帳簿上均衡しているのである。即ち、会計処理をするための計算上必要であるから均衡していると見なすのである。会計は思想であり、複式簿記の基準も思想的に形成された尺度である。即ち、個々の取引における貸方、借方が均衡しているのは、誰かが、均衡すると取り決めたかに均衡するのである。

 現行上の利益に対する会計的定義に基づいて利益の最大化を計れば、総資産、総資本を極力圧縮し、可能な限り、総資産を零にすることが求められる。要するに資産は何も持たない方がいいのである。そして。費用もなるべく削減した方がいいことになる。費用の上昇も会計上の合理性を欠くために、抑制しなければならないことになる。これは、会計的合理性を突き詰めた結果である。

 会計主体の最終利益は、何に帰属するのか。即ち、資本とは何か。利益は、株主に還元するのか、国や社会に還元するのか、経営者に還元するのか、債権者に還元するのか、労働者に還元するのか、それは思想の問題であり、会計技術の問題ではない。

 現行の会計制度の整合性からすると会計主体は何も所有しない方が有利である。設備も土地も資金も借りた方が有利である。社員も常雇いの正規の社員を雇用するよりも、臨時雇いの非正規社員を必要な時だけ雇った方がいい。つまり、人件費は純粋にコストと見なした方が会計上は妥当なのである。年金や福利厚生費は会計主体にとって負担を大きくするだけである。できれば下方硬直的労働費可能な限り機械化した方が収益は安定する。利益は全て単期毎に分配するのが前提である。
 可能な限り総資産を圧縮し、身軽にすることが会計上の生産性が高くなる仕組みなのである。
 しかし、これは思想なのである。この様な考え方は、決して会計制度の原理によるのではない。現行の会計制度の設計思想が基になっているのである。

 経済の目的と会計の目的は、違う。会計の目的は、経済の目的に準拠するものである。会計のために経済があるわけではない。経済の目的を達成するために会計があるのである。会計は、経済の部分集合である。経済は、会計が全てではない。そして、経済の目的は、国民生活を実現維持することである。会計上の利益が実現できないからといって生きられない状況が生じるとしたら、それは、会計制度のどこかに、何かしらの矛盾があるのである。

 バブル崩壊後、日本で問題となったのは、三つの過剰だと言われている。即ち、過剰設備、過剰雇用、過剰負債の三つである。そして、この三つの過剰、即ち、過剰設備と過剰雇用、過剰負債は、経済の本質を象徴している。
 三つの過剰に共通することは、長期的資金か固定的費用に関わった要素だと言うことである。長期的な周期の変動が経済を考える上で重要な鍵を握っているのは明らかである。

 産業の国際競争力は、人件費の差による部分が大きい。労働条件の差は、経済状況に重大な影響を与える。機械化するかしないかは、労働条件と機会のランニングコストとの比較による。そして、労働条件は、その国の民度に依存しているのである。
 さらに労働条件の問題は、仕事に対する認識の違いからくる部分が大きい比重を占めている。そうなると人件費の違いには、文化や世代の違いが反映される。
 多くの人間にとって仕事は、ただ所得を得るためだけのためにあるというのではなく。仕事は生き甲斐なのである。ところが今日、日本では、仕事は、所得を得るための手段でしかないと言う風潮がある。それは労働の質の劣化を招いている。この様に、経済には、道徳的、文化的な問題が潜んでいるのである。
 そして、その根底は、経済に対する思想の問題なのである。会計の仕組みは経済に対する思想に準拠して成立している。しかし、思想を体現するのは会計の仕組みである。

 国家経済の基幹は、人件費である。人件費とは、個人所得であり、個人支出、個人消費の原資である。即ち、個人の生活水準の前提条件である。個人の生活水準は、国家経済の水準を決める。個人所得の上昇率は、生産面、消費面両面から物価の上昇率を決める。同時に経済の上昇率を象徴する。更に言えば、人件費は、産業の国際競争力の決め手である。又、人件費は、国家の内部経済の基盤となる。故に、国内経済の基準を形成する。為替の水準の基礎となるのは、内部経済の物価水準や生活水準だからである。故に、人件費の上昇、水準をどう戦略的に捉えるかが、経済政策、経済戦略の鍵を握る。
 人件費、即ち、個人所得は、経済の成長期、拡大期には、順調に上昇し、それに伴って消費も拡大する、しかし、経済が成熟期にはいると上昇の速度も低下し、消費も量から質への転換が見られる。経済が収縮期にはいると経済体制の再構築、、再編成が測られるが硬直的な人件費は、経済の転換の阻害要因となる。経済の収縮期は、経済の転換期であり、必ずしも負の要素だけではなく、むしろ、次の飛躍への充電期間であるが、再編に失敗すると経済の混乱を招く原因となる要は、収益構造の中で個々の費用がどの様な作用をするかであり、その働きを明らかにするためには、収益構造の構成の変化を見る必要がある。
 特に、経済的に、人件費をどう位置付けるかが、重要となる。その根底には、会計的にどう利益に結び付けて処理するかの問題が隠されている。単に人件費をコストの問題としてのみ捉えたら、経済の本質は見えてこない。

 大量生産型産業は、過剰生産の問題を常に抱えている。過剰に生産された生産財は、余剰な生産財の捌け口となる市場を必要とする。つまり、過剰生産を過剰消費によって賄っているのである。この様な体制は、産業や市場に歪みを生じさせる。即ち、生産と消費が地域や国毎に偏って現れる。
 生産に偏るか、消費に偏るかの決めては、国力やその地域の生産力、地域や国が、過去に蓄積してきた資産力、個人所得の量、個人消費の性向、生活水準、物価水準、労働環境、為替相場などの差が決めてとなる。
 いずれにしても、個人の所得と企業の収益力の差が決定的な要因となる。個人の所得と企業の収益力を左右するのは、労働市場である。

 即ち、労働市場を確保することが国家経済の健全さを維持するための必要条件となるのである。労働市場を失うことは、国家の分配構造に重大な欠陥や歪みを発生させる原因となる。それは、経済の衰退を意味する。内需拡大と言うが、それは、国内の労働市場の整備を意味している部分が大きい。観光立国と言ってもそれが雇用に結びつかない限り、地域経済は、活性できない。

 国際経済では、成長発展期にある国や地域と成熟期、或いは衰退期にある国や地域が混在している。一律には語れない。

 経済や市場は、均衡を目指して動いている。労働条件や所得水準、生活水準を一定の水準に均衡さ様とする力が働いている。この働きが成長発展の方向に向かう経済と縮小向上の方向に向かう国や地域を生み出しているのである。経済は、歪みや偏りによって動く。

 成長発展期にある国の人件費の上昇は、経済の成長や市場の拡大によって吸収できる。しかし、経済が成熟期に入った市場では、経済の量的な拡大だけでは、人件費の上昇を吸収することが困難になる。故に、質的な転換が求められるようになる。経済が収縮期に入った市場では、下方硬直的な人件費は、経済にとって阻害条件となり、構造的転換が求められるようになるのである。

 経済の振幅は、人的市場、物的市場、貨幣的市場が一定の水準に均衡するまで続くことになる。

 これまでは、アメリカの旺盛な消費力に世界経済は依存してきた。しかし、その関係に陰りがでてきたのである。生産拠点がなく、過去の蓄えを食い潰すような体制には、最初から無理がある。

 経済は、相互作用によって成り立っている。特定の国や地域だけが繁栄し続けることができるようには経済の仕組みはできていないのである。
 生活水準にせよ、労働条件にせよ、いずれは均衡する。そして、均衡する方向に向かって経済は変化する。
 一方が生産をし、他方が消費をするだけというような偏りはいずれは是正される。是正される方向で調整される。

 他国との競争力を付けるために、付加価値の高い商品や真似のできない商品を生み出すことだという人がいるが、これは錯覚であり、一歩間違うと差別に結びつく。基本的に労働の質に大きな差はないと考えるべきなのである。問題は人件費の水準と生活水準にある。民度の問題である。

 質的な観点から見る労働構成の基本は、急激には変化できない。なぜならば、労働市場を構成する要素を質的な観点から鑑みた場合、人の一生が基本単位となり、人の能力や知識、性格は、そう簡単に転換できないからである。年齢が重要な要因ともなる。
 肝腎なのは、人間であり、人間の一生なのである。物のようには扱えない。

 付加価値の高い労働と言っても、例えば、資本市場や先端技術の開発に従事できる素養を持つ人間はかぎられているのである。その高度な技術や知識を持つ者を前提とした労働市場を基礎として、国家の産業構想を構築すると、重大な過ちを犯すことになる。

 経営主体は、資金によって動かされている。資金が供給されることによって生かされているのである。その資金の供給を保証しているのが収益である。
 経済を動かしているのは資金の流れである。経済を動かす為には資金の流れる道を確保しなければならない。資金の流れる道は、利益にある。その利益を規定するのが会計である。会計の仕組みが機能しなくなると資金の循環が途絶えることになり、産業も壊死してしまうのである。

 経済が順調に機能するためには、資金の通り道を造る必要がある。そして、収益が資金の正当的な通り道である。

 損益は、固定費と変動費、及び、数量の関数である。問題なのは固定費が前提によって可変的、可動的なことである。その可変的、可動的費用が、支出を伴わない費用であると言う点と逆に支出を伴う長期借入金の返済が計上されていない点にある。その為に、資金収支と損益とが直接結びついていない。その結果、実際の資金の流れと期間損益との関連が、外部はからなかなか伺い知れないのである。

 貨幣価値は、経済的価値から派生する価値である。貨幣価値は、経済的価値の部分であり、全体ではない。貨幣価値は、経済的価値に従属した価値である。即ち、独立した価値ではない。

 貨幣その物に価値があると考えるから解らなくなるのである。貨幣というのは、あくまでもその時点での貨幣価値を指し示している物なのである。即ち、貨幣価値を実現している物なのである。貨幣価値は、交換価値を数値化したものである。即ち、貨幣価値は、交換価値を測る尺度なのである。そして、交換価値の根源は、必要性なのである。
 しかも、貨幣価値が測る対象は、欲望という得体の知れない対象だという点にある。即ち、貨幣単位とは、距離(メートル)や体積(リットル、u)、温度といった客観的、物理的対象の量ではなく。欲望という、主体的、人的対象を測る尺度だと言う事である。

 貨幣は、単に貨幣価値の表象であるだけでなく。交換する権利をも表象している。つまり、貨幣は債権証である。貨幣が債権を有すると言う事は、貨幣の貨幣価値を保証する機関は、潜在的な債務がある事を意味する。日本では、貨幣を発行するのは中央銀行であり、中央銀行は国家機関であるから、日本では、貨幣の発行残高だけ国家に債務があることになる。

 経済的価値と貨幣価値とは同じ価値ではない。経済的価値とは、潜在的なある価値である。即ち、生活に必要な物としての価値は、貨幣価値が成立する以前からある。貨幣価値というのは、経済的価値を交換する必要が生じた時に派生する価値、即ち、交換価値に基づいて成立する価値である。
 貨幣価値というのは、所与の価値として存在する価値ではなく、交換する必要性によって変換されることによって生じる任意の価値であり、基本的に数値として表現される。即ち、潜在的な価値である。
 貨幣価値は、財と別個に存在するというのは、錯覚である。或いは、結果的な認識である。貨幣価値は、本来、財と切り離しては考えられない価値である。即ち、貨幣価値は財の属性なのである。少なくとも貨幣価値が成立する当初は、財を変換する必要があるのである。それが貨幣価値の裏付けでもある。
 貨幣価値は、貨幣という物として表現される。貨幣価値は、貨幣に置き換わった瞬間、貨幣としての実体を持つ。そして、貨幣その物が財としての実体を持つようになる。その為に、貨幣価値は、操作することが可能となる。それは、言語が文字によって、数値が数字によって実体化されるのと似ている。 
 貨幣価値が実体化されると貨幣価値を所有したり、貯蔵することが可能となる。貨幣価値を所有したり、貯蔵することが可能となると、次ぎに、貨幣価値を貸し借りすることが可能となる。それが、貨幣の潜在的な力を持たせることになる。
 そして、貨幣価値の貸し借りは、債権と債務を生じさせる。債権と債務は、負債を成立させる。負債は、その財の元にある価値を増幅させる作用がある。それが経済における位置エネルギーの源である。

 経済的原点というのは、手持ちの資産の潜在的価値が前提となる。トランプのゲームや麻雀を思い浮かべればいい。トランプのゲームや麻雀は、最初に各々が何等かの手持ち、或いは、取り分を所有、保有していることが前提となる。

 位置とは、残高水準、即ち、負債や固定資産、在庫の残高水準を意味する。位置の持つ働きは、位置エネルギーとなる。
 在庫水準にも景気に対する潜在的な位置エネルギーがある。在庫には、市場の需要と供給を調整する機能がある。過剰な生産物は、滞留して在庫となり、過剰な在庫は、価格を引き下げる効果がある。逆に、在庫が不足すると価格は上昇する。故に、在庫の水準は、経済の動向を占う重要な要素となる。
 特に、戦略的物資の在庫の動向は、経済だけでなく。政治や軍事にも影響する。大東亜戦争に突入する直前の日本は、石油の備蓄が底をついていた。それが戦争の引き金を引いたと言われている。
 ただ、備蓄の目的には、軍事的、政治的、経済的の別があり、その目的を明確に区別しておかないと有効な手だてを講ずることができない。

 経済は、複数の元、要素からなる集合である。

 経済的価値の総量は、必要とする財の総量であり、貨幣は、それを測り、分配するための手段である。即ち、秤の分銅である。経済の本質は、分配の問題であり、貨幣の問題ではない。貨幣は、分配をはかる手段の一つである。財や貨幣は集合の元、要素である。故に、経済は集合の問題なのである。

 経済を構成する個々の要素間の作用には、引力と斥力、働きの増幅、加速、促進と抑制、触発、変換・変質(凝固、気化、液化)、発散、収束、結合、解体、媒介、生産、消費、分配などがある。

 貨幣には、交換を仲介する作用がある。又、証券化は、資産に流動性を付加する働きがある。この様な働きを理解することによって経済的要素の結びつきを明らかにすることは、経済現象を理解する上で不可欠な要件である。

 関係を明らかにする場合、何と何が等しくて、何と何が均衡し、そして、何が独立しているのかが鍵になる。これは、従属的な関係、独立した関係かを意味する。即ち、従属変数なのか、独立変数なのかである。
 従属的な関係か、独立した関係かの問題は、比率の問題なのか。独立した個別の問題なのかである。

 従属した関係上において何を主とするか、何を従とするかは、任意の前提であり、相対的である。絶対的な前提ではない。

 何と何が対応関係にあるのか。相関関係にあるのかが重要なのである。そしてそれらの関係の基礎となるのが自他の関係である。

 自他の関係は、表裏の関係の関係になる。この表裏の関係が要素間を結び付け、全体を均衡させている。

 収入は、支出であり、売上は、仕入れであり、貸しは、借りである。これらの関係は、取引の成立時点では、等価、等量である。
 自分の売上は、相手にとっては仕入れになる。自分の仕入れは、相手にとっては売上になる。売上は売上債権になり、仕入れは仕入れ債務になる。則ち、取引を通じて、債権債務の関係が成立する。そして、この収支の関係が成立、即ち、取引が成立した時点では、等価、等量である。そして、この売上は、商品となって均衡する。

 経済は、労働と分配、生産と消費、需要と供給、収入と支出、フローとストックの問題である。

 経済を構成する要素は、相互に関連し、表裏の関係を構成している。そして、それが発展して自他の関係による運動を生み出す。それが作用、反作用の働きであり、関係である。この働きと関係は、不可分の関係にあり、一組の関係、一体である。
 経済を構成する労働と分配、生産と消費、収入と支出、需要と供給、フローとストックは、相関関係にある。

 内的均衡、外的均衡は、各々が相対取引を前提として、それが要素間を相互に結び付けている。この結びつきが全体の関係を成立させている。

 これらの関係は、相互に関連し且つ、表裏の関係を成す。表裏の関係は、陰陽の関係を生む。そして、この関係は、必然的に相対的なものになる。

 三面等価、即ち、国内総生産、国内総支出、国内総所得は等しい。生産、消費、所得は表裏の関係にある。故に、生産、支出、所得は等しい。則ち、元は一つである。そして、生産と消費、所得は内的均衡をする。
 また、これらの要素は、外国との取引においても均衡している。それを外部均衡という。

 経常収支は、資本収支に依って均衡している。均衡することによって為替市場の連続性が保たれている。連続性が保たれることによって貨幣価値は安定する。この均衡が保てなくなると為替市場は破綻し、貨幣価値の不連続な変動、急激な変動を引き起こす。
 為替の変動は、国内の経済の均衡を破綻させる。

 財政収支は内的に均衡しなければ破綻する。財政は、内的に均衡するためには、外的に均衡しなければならない。

 経済を構成する要素は、相生、相克する。

 複数の部分、要素が何等かの力や働きによって関係付けられている集合の全体を構造体いう。要素と力の関係を構造という。
 国家は、構造体の一種と見なす事ができる。複数の要素というのは国民を指す。何等かの力にと言うのは法や制度である。国民が法や制度によって関係付けられたいる体制、空間を国家という。
 経済体制は、この国家体制の一部である。市場は、経済体制の一部である。経済体制や市場も構造を有する。即ち、構造体である。

 構造には、時間が陽に作用する要素と陰に作用する要素がある。時間が陽に作用する部分というのは、可動的部分であり、時間が陰に作用する部分は、固定的部分である。固定的な部分の表象を形といい、可動的な部分の表象を相とする。

 この様な構造は、部分に対する働きや作用が全体に波及する性質を持つ。また、全体に対する働きは、部分に波及する性質を持つ。そして、前提の形、相を変化させる。

 為替の変動は、経済全体に一定の働きをする。為替の働きに対し個々の産業や企業は一律、一様の動きをするわけではない。

 構造体には、構造を維持しようとする力が働いている。それが構造体を構成している要因だからである。組織は、組織を維持しようと言う動機がなければ、最初から形成されない。この様な組織を維持しようとする働きが統制であり、維持しようとする力が統制力である。

 構造体を維持しようとするな力は、構造の中心に対する引力と斥力の均衡によって保たれている。それが調和である。

 保護主義と自由主義を対立的な構図で捉えるのは間違いである。部分を保護しようとする全体の力と個々の部分の自律性を保とうとする力の調和によって構造体は維持されるのである。個々の部分の自律性とは、個々の部分の自由度に依存するのである。故に、保護と自由は対立的概念ではなく。調和的概念である。

 人間が環境に合わせて自分を保護するのは当然の権利である。南極で南国のように裸で暮らせと言うのは、虐待以外の何ものでもない。砂漠で毛皮を着させるのは拷問である。同様に経済環境に合わせて市場や産業を保護する事と自由を抑圧する事とは別の問題である。保護主義か自由主義かといった択一的問題ではなく。前提条件の問題である。

 構造体の動きを理解するためには、常に、全体と部分との動きを連動させて観察する必要がある。又、構造体を制御する場合は、全体に与える影響と個々の部分に与える影響をよく見極め、全体と部分の関係が破綻しないように複合的に組み合わせて対処する必要がある。

 経営破綻や不況、政治状況を一個人や一企業の責任に帰すだけでは、問題の解決にはならない。企業も国家も構造体であり、構造的な対処の仕方が要求されているのである。

 戦後の日本経済の潮流を変えた事象は、石油価格の高騰と為替の変動である。特に、為替の変動によって日本の経済行動は、大きく揺さぶられた。
 為替の変動では、恩恵を受ける産業と犠牲になる産業の差がハッキリと浮かび上がった。そして、この様な産業間の差は、為替が劇的に変動する都度、日本経済全体を揺る動かし、徐々に日本の経済構造を変化させてきたのである。

 基本的に為替や原油価格、災害による被害は、不可抗力な出来事である。一企業や産業で防ぎきれる事象ではない。1992年、投機筋の動きにポンドの動向が翻弄された英国のように、大体一国家の力だけではどうしようもないことですらある。

 故に、為替の変動や原油価格の高騰と言った経済の急激な変動に依る経済的衝撃をいかに吸収し、和らげるか。その為にはどの様な仕組みを構築しておく必要があるのかが重要なのである。

 また、為替の変動や原油価格の高騰と言った経済的変動の影響は、どの産業、どの企業にも一律に働くのではない。

 為替の変動によって過剰な利益を得る産業と損失を被る産業がある。そして、これは構造的な問題である。
 要は、為替の変動は、水準の変更と時間が、運動、即ち変動にどう関わっていくか、関係していくかの問題である。そして、変動を誘導している力は資金なのである。為替の変動は、この資金、即ち、貨幣価値の変動、水準の変動を意味している。故に、より直接的に景気の変動を主導するのである。

 注意しなければならないのは、資金の動きと利益とは、直接的に結びついているわけではなく、会計的処理や決済手続と言う過程を経る事によって結びついている。故に、為替の変動による資金収支と利益計上との間に時間的なズレが生じると言う事である。利益が上がっているのに、資金繰りがつかなくなったり、損失がでているのに、資金は潤沢であるという例が多い。そして、資金がないのに、多額の税金を払わせられたり、儲かっているはずなのに、資金が集まらないといったこととなり、どちらの場合も企業は危機的状況に陥るのである。

 資金と利益との関係には、第一に、利益が上がっても資金も潤沢。第二に、利益が上がるが、資金が不足する。第三に、利益は変わらないが、資金は、潤沢。第四に、利益は変わらないが、資金が不足する。第五に、損失がでいるが、資金を足りている。第六に、損失が出て、資金も不足していると言った形が想定される。
 各々の状態によってとられるべき政策にも違いが出る。同時に金融機関は、前提とする条件を確認することが重要となる。

 資産価値の圧縮が資金の調達能力、即ち、借入や収益を圧迫してくる。
 資金の調達手段は、借入か、増資か、収益かによる。そして、借入の裏付けは、不動産や有価証券であり、また、増資は、株式相場に左右される。不況によって売上が低下すれば、収入も減少する。つまり、株、不動産、売上の低下は、資金の調達能力を直撃するのである。

 兎に角、収益が確保されなければ、必要な原材料も人件費も、経費も金利も支払えないのである。収益構造に欠陥があり、構造的に利益が上がらなくなった産業は、早晩成り立たなくなる。
 収益を維持するためには、市場の構造も重要な要素である。規律がなく、無秩序で抑制が効かず過当競争による慢性的な乱売合戦が続く市場構造は、収益構造を劣化させ、産業を荒廃させる。

 結果があって会計制度があるわけではない。会計制度を経済環境に合わせて変更するのは危険な行為である。
 基本的には、利益とは何かという定義、約束事があり、その上での基準なのである。結果に併せて尺度を変更し続ければ、会計本来の目的が見失われる。問題なのは、適切な経営をしていながら、利益があげられないと言う状況なのである。その状況を改善しない限り、会計制度を変更しても、問題の解決には結びつかず、かえって歪みを大きくするだけなのである。
 ただ会計技術論的に利益を追求すると実質的な収益が出なくなる危険性がある。安売りによって売上高を増やしたり、在庫を調整したり、未実現利益を計上したり、償却を遅らせることによって見かけ上の利益を積み増しすることは可能である。つまり、利益はあくまでも利益であり、必ずしも資金的な裏付けがあるわけではない。
 又、機関化した企業というのは、いざという時の蓄えができなくなり急激な変動に脆くなる。その為に、ちょっとした変動でも簡単に潰れてしまう。又、何の前触れもなく潰れてしまう。
 又、近年では短期的視野でしか企業実績を評価しなくなったために、長期的展望、即ち、長期的な資金の活用が難しくなっている。その為に、収益構造が歪められてしまう傾向がある。
 実体経済の収益構造が歪むと資金が実物市場から逃げ出すことになる。実物市場は、実体経済の基盤であるから、実体経済が機能しなくなる。合理化や経費削減、効率化、人員削減によって企業の財務内容は改善されるとしても、失業や倒産が増え、所得が低下し、消費が低迷する。会計の本質は、あくまでも手段であって目的ではない。利益を絶対視する事は危ういことである。

 安ければ良いという発想は危険な発想である。あくまでも適正な価格の維持であり、適正な価格と廉価とは同じ意味ではない。適正な価格を維持できなくなれば、経済構造が歪むのである。

 収益と企業の構造は、切っても切れない関係にある。利益を基準にして企業が成り立っている。少なくとも、収益によって費用を賄い、又、収益から費用を引いた利益が借入による資金調達の保証となる以上、そして、企業が資金によって存続している以上、適正な収益をあげることは、必要不可欠な要因である。
 その収益を計算するための基準が会計なのである。

 例えば、特定の財を仕入れ原価以下で販売されれば、その財を製造している産業は大打撃を受ける。目玉商品として、或いは、話題作りとして捨て値で売ることは、安売り業者にとってはおとり商法といった販売戦術かもしれないが製造業者には、死活問題である。極端に安い価格で売るのは、明白なルール違反である。

 正直で真面(まとも)に経営していても、良い結果が得られるとは限らない。しかし、正直で、真面(まとも)な経営者が市場から排除されるような体制がよくないことだけは明らかである。決められた原則通りに経営をしていても実績が上がらないとしたら、どこか仕組みに欠陥があるのである。その根本にあるのは、モラル、道徳の問題である。儲けるためならばどんなに悪辣、理不尽なことでも許されるという社会は、破綻してしまう。

 ジーパンが安くなったから、ガソリンが安くなったから助かるといった部分だけを誇張している様な発想では、経済の本質は理解できないのである。問題は、その背景にある構造を読みとることなのである。それが真に賢い消費者である。

 産業構造や市場構造の在り方によっては、高い精度の需要予測が可能な産業と、需要予測が立てにくい産業がある。需要予測の精度によって産業構造や収益構造にも差が生じる。
 予測が立てやすい産業は、一定の収益を前提とした経営がしやすいが、予測が立てにくい産業は、利益が上がっているうちに償却をしておきたいと考える。また、借入金の返済を急ごうとする傾向がある。ところが借入金を返済しても金利負担以上の軽減は計れず、かえって資金繰りに支障をきたし場合もある。これ等の要素を勘案した上で、統合的な経営をする必要があるのである。

 仮に、売上やシェアだけを基準に経営をする経営者が現れると産業全体の収益構造が、劇的に変化する場合がある。収益が圧迫されて淘汰される例もでてくる。それが、妥当な原因ならば、適度な競争は、産業の発展に寄与するが、経済的な歪みによって生じた変動だと産業構造のみならず、雇用構造や経済構造を著しく毀損させてしまうこともある。

 為替の変動や原材料の高騰などが産業や経済全般にどの様な影響をもたらすかを見極めた上で対策を立てる必要がある。対処療法的場当たりな政策は、かえって有害である。

 対外交易による収益を圧迫する要因には、内外価格差、人件費の違い、労働条件の差、市場構造の歪み、為替制度、生活水準や物価水準の差、文化や生活様式の違いなどが考えられる。これらの多くは構造的な要素である。

 なぜ、計画経済や統制経済が上手く機能しないのか、。それは、人間は、全知全能の神になれないからである。






質、量、密度

 現代人は、経済というのは、数学的世界だと思い込んでいる。数学的世界、則ち、数値的世界であり、量的世界である。量的世界とは、質的世界が逸脱した世界である。つまり、質がない世界である。
 しかし、現実の経済は、量だけの世界ではない。むしろ、質が重要な役割を果たしている。

 経済には、人的経済、物的経済、貨幣的経済がある。そして、経済の実体は、人的、物的空間にあり、貨幣的な空間は、いわば、経済の実体を写像した虚の世界である。しかし、貨幣は、現実の経済に対して絶大な力を持っている。そして、経済現象の多くは貨幣の振る舞いによって起こっていると言ってもいい。

 貨幣経済は、経済的価値情報を数値化する事によっなりたっているといえる。貨幣は、経済的価値を数値化するための指標であり、手段、道具である。つまり、物差しに過ぎない。ところが、現代社会では、手段である貨幣が目的化して、経済的価値の全てを支配している。
 その為に経済的価値の本質、言い換えると経済の本質そのものまでが変質している。

 経済的価値は、量的な部分だけで成り立っているわけではない。質的な部分も量と同等或いはそれ以上に重要なのである。ただ、貨幣経済では、全ての経済的価値を量化する事によって一律に処理をすることを可能としたのである。
 数値化する事によって異質な物を一律に取り引きすることを可能としたのである。また、貨幣化することによって時間差のある取引をも実現することが可能となった。そのお陰で、労働力や権利、サービスといった無形なものの取引も可能としたのである。
 しかし、その反面において経済は、質的な部分の要素を剥奪する弊害も招いた。例えば思い出のある物の価値とか、自作の物の価値などは全く価値に反映されなくなる。
 本来、価値というのは主観の問題なのである。主観の所産である価値に客観性を持たせる過程で貨幣価値が生じたと考えるべきなのである。つまり、自他の関係から主客の関係へ変換する過程で経済的価値は形成されたのであり、価値の本性は主観的認識である。故に、質が重要な要素であることに変わりはない。

 今日の自由経済は、則ち、市場経済といえる。自由経済の基盤は市場にある。市場は、取引の集合である。取引の実相は、単価×数量×時間によって表される。そして、時間は、一般に陰に作用するために、表面には表れない。

 質は、価格、単価に反映し、量は生産量、販売量に反映される。故に、経済は、質×量=密度によって成り立っている。量は、基本的に物理的量、則ち、物的経済を表している。
 則ち、単価は、経済的価値を数値化する事によって物理的量に結び付ける機能を果たしている。
 単価は、即ち、物の値段の単位である。単価は、単なる量ではない。単価は、価格の単位であるが、単に数値としての単位だけでなく、人や物、時間の単位といった複数の単位から成る。この単位の基準の複合性に価格に籠められた質的部分が隠されている。
 価格とは、構造的な物であり、ただ単に市場の競争だけで形成されるべきものではない。
 適正な価格を形成し、維持することが経済状態を正常に保つために不可欠な要素なのである。そして、その為の市場原則なのであり、競争の原理である。仮に、競争によって適正な価格を維持できないと判断された場合は、競争を抑制するようにするのも一つの方策である。競争は手段であって目的ではない。重要なのは価格がもたらす情報を正しく解析することなのである。

 経済を構成する価値は、質と量、則ち、密度によって定まる。
 市場価値は、交換価値であるから、本来、質が重んじられる。しかし、現在の市場では、圧倒的に量が重要な要素になる。なぜならば量は、単価に、即、反映されるからである。それが大量生産経済、大量消費経済の悪弊である。大量に生産し、大量に消費する事で、質が問われなくなる。

 市場経済の実体は、質と量、比率と回転率によって表される。
 質は、率に反映し、量は、回転に反映する。
 質は、形、象を元とし、量は相を元にする。
 形とは、例えば固定と変動の構成率に表れる。費用における人権の占める割合や減価償却費の割合。
 大量生産、大量消費は、回転率を高めることによって実現し、品質の向上は、利益率の向上によって維持される。
 現代の市場経済は、回転率を高めることばかりに向けられている。利益率を追求する事は悪であるかの如くメディアは扱う。その為に、安売り業者のみが跋扈する。その為に、商品やサービスの質を高めても利益率を向上させることができない。
 そして、安売り業者に市場が席巻されることで、結局、消費者の選択肢も狭まるのである。

 市場を構成する個々の取引は、取引が成立した時点時点で均衡している。
 個々の取引には、反対取引がある。反対取引は、表裏の関係が成り立っている。売りがあれば買いがあり、支出があれば収入がある。
 即ち、支出の総和が減れば収入の総和も減るのである。それは、当然、個人所得にも反映される。消費の減退にも繋がるのである。

 数値だけで経済を制御しようとしている現在のの経済は、現実感や生活実感が感じられない。経済政策が庶民の感覚から乖離してしまっているのである。その為に、経済政策が庶民の生活を変化させるだけの影響力を発揮できないでいる。
 経済の実体は、人的経済、物的経済の側にあることを忘れてはならない。

 経済とは、生きるための活動を言うのである。即ち、経済は生活である。生活感のない経済は、成り立たない。根底に生活があるから、経世済民でありうるのであり。それ故に、経済は文化なのである。

 昔、自分達が学生の頃は、街には小さな喫茶店がいくつもあった。歌声喫茶やジャズ喫茶など、喫茶店は、ある意味で文化の発信地だった。それぞれが店の個性を競い合っていた。
 退職後は、小さな喫茶店でも開いてのんびりと過ごしていきたいといった夢を持っていたサラリーマンも結構いたものである。
 それが街であり、経済である。経済の主役は人間なのである。物や金ではない。経済は、本来人と人との交流があって成り立つものである。
 街や生産現場から人の温もりや臭い、笑い声が失われつつある。義理も人情も無縁の世界に街がなりつつある。それは経済とは言わない。
 人々の生活があり、人生がある。それが人間の生きている空間であり、経済的な空間なのである。人間の生きられない空間では、経済は成り立たない。人間は、心のない物ではない。生きているのである。魂があるのである。
 小さな店で店番をしながら日向ぼっこをしているおばちゃんの姿や子供相手に談笑する駄菓子屋のおばちゃんの姿が下町の商店街ではよく見受けられたものである。三ちゃん経営の個人商店だからこそ成り立つこともあるのである。そんな下町にある多くの商店街も、いつの間にかシャッター街になり、おばちゃん、おじちゃん、子供達の姿が消えてしまった。恋人達の待ち合わせの場であった小さな喫茶店も姿を消し、巨大なネットワークを持つチェーンストアに姿を変えた。お陰でコーヒーの味は万国共通になり、地方都市でもニューヨークと同じ味のコーヒーが飲めるようになったのである。
 おじいちゃんやおばちゃんがいた店に変わってがらんどうの倉庫のような巨大な空間に棚を並べて商品を置き、セルフサービスや機械化によって最小限の人間しか雇わない、そんなショップに占領されてしまった。しかも、店員は、臨時雇いである。
 効率化された店と失業者の群でどうやって経済を立て直すつもりなのであろうか。
 その上、おじちゃんやおばちゃんを無味乾燥な施設に追いやってしまった。それを、高効率な高福祉社会というのであろうか。
 私には、地域社会の崩壊としか見えない。非人間的な経済にしか見えない。つまり、経済の破綻でしかないのである。
 沖縄のガソリンスタンドは、人でばかりが多くて過剰サービスだと批判をされた。そして、規制が緩和され、確かに、沖縄のガソリンスタンドは、合理化されたかも知れない。しかし、沖縄ではガソリンスタンドが雇用を創出していたという事実を忘れてはならない。効率性ばかりが経済ではない。非効率の経済もあるのである。そして、環境問題は、効率性ばかりでは解決できない問題なのである。つまり、量の経済から質の経済への転換が必要なのである。

 問題は、前提条件である。物が不足し、飢えている人々がいる地域や時代と物が溢れ、飽食の地域や時代とでは、自ずと採られるべき施策が違うのである。

 なぜ、不景気なのか。それは儲からないからである。なぜ、儲からないのか。それは物が売れないからである。なぜ、物が売れないのか。人々が、物を必要としていないからである。
 不必要な物をひたすら大量に作り出し、無理矢理、消費する。それは、無駄と浪費の極みである。しかも、その一方で飢餓に苦しみ人々がいるとしたら、それは大罪である。
 食べ物について考えてみれば明らかである。
 今の日本人は皆、満腹なのである。満ち足りているのである。飽食なのである。そんな人々に、工業製品の食料を大量に供給しても無駄なのである。しかも、大量に捨てている。その一方で環境破壊が進み。飢えに苦しむ人々が増殖している。人々が欲しているのは、少なくてもいいから、美味しい物であり、健康にいい高品質の料理なのである。

 現代の経済状況は、もっと深刻とも言える。現在は、金余りなのに安売り業者が跋扈している。それが事態を拗(こじ)らせている元凶なのである。金があるというのに、あえて質を低下させ、人々は、大量製品を購入しようとするのか。その背景にある意識や文化が問題なのである。物質的な貧困以上に意識の貧困が問題なのである。

 経済は、大量生産、大量消費と言った量の経済から質の経済へと転換すべきなのである。量的拡大は質的な変化を伴う。

 安くて大量の食料から、少なくても美味しい料理、健康的な料理へ転換することなのである。それは、ある意味で過去への回帰なのかもしれない。つまり、近代的工業生産から徒弟制度的職人の世界への回帰である。農薬づけの農法から、有機農法への回帰です。
 一見非効率な仕事のようだが、それが、高付加価値を生み出すのである。
 過去への回帰と言っても、懐古主義、復古主義とは違う。過去との違いは、昔は、美味しい料理を食べられたのは一部の特権階級に限られていたのが、現代は、多くの人が美味しい食事をしようとすれば可能だと言うことである。

 量の経済から質の経済への転換とはどの様な事であろうか。

 大量生産、大量消費から多品種少量へ。標準化、単一性から多様性へ。マスからミニへと言った経済の質の転換が求められているのである。
 つまり、物を大切にし、慈しむ経済である。
 例えば、大量生産による自動車ばかりの世界から、手作りによる自動車や個人の嗜好に合わせた改造自動車の普及と言ったことである。むろん、改造自動車と言っても暴走族用の自動車を指すのではない。自分の生活信条やスタイルに合わせて自動車を改造するという意味である。自分の生き方にあった自動車を作り出す創造的経済である。
 手作りの自動車や改造自動車を普及させる事によって多様な職種を新たに作りだし、雇用を増加させるのである。
 ボランティアなどと言わなくても、かつては、世話焼き婆さんのような役割をする人間が町内には必ずいて、結婚の世話などを一生懸命した。経済思想というのは、本来、そう言う社会体制であり、根底に流れている思想であり、又、その為の仕組み、或いは、礼節と言った文化なのである。そして、その文化こそ経済だったのである。

 現代人には、経済思想というと金儲け主義か、組合主義と言った偏った思想だというような誤解があるが、助け合いというのも経済思想の一種なのである。つまり、日常生活に対する考え方を洗練したものだと考えるべきなのである。
 革命思想とか、拝金主義のような非日常的な次元で経済思想を捉えていると経済思想の本質が見えてこない。
 経済思想は、家族の問題とか、恋愛観だとか、結婚問題と言った身近な細々とした事柄の積み重ねの上に成り立っている思想なのである。

 いくら小手先の理論で省エネルギー、環境保護を叫んでも何も変わらない。生き方を変えない限り、資源問題も、環境問題も改善できないのである。






基  準


 最初の基準は自己を中心に成される。自己は間接的認識対象であるから、自己を任意な外的対象に写像する事によって中心は定められ。しかし、その時点ではまだ自と他は未分化である。

 基準が外部に投置され、外部化されることによって客体化される。基準が客体化されて対象は、相対化される。

 経済の基準となる水準は相対的であり、要素間に働く作用の均衡点によって定まる。

 取引の総和は常に均衡している。

 経済的基準というのは、物理的基準と違って意識の所産である。意識の所産であるが故に、無形であり、直接、知覚できる対象ではない。その為に、基準自体が絶えず変動している。絶えず変動しているが故に、名目的な基準と実質的な基準が生じる。
 経済的価値の変動は、名目的な基準を中心として振幅しているのか、実質的な基準を振幅しているのかの判断が重要となる。

 経済的空間は、閉ざされた空間であり、範囲と境界線がある。即ち、経済的単位は、空間の規模に従属して決まる。独立した単位ではない。

 基準は単位の集合である。

 単位の集合は、密度を生み出す。即ち、現象の基本式は、質×量=密度である。経済の基本色は、単価×数量である。

 この密度は、経済の規模を設定する。規模と水準との積は全体を特定する。即ち、経済の範囲=規模×水準である。経済の規模、全体が、個々の単位の実体を現す。
 この様に経済単位は、全体との相関関係によって決まる従属的変数である。経済の単位は、貨幣単位と数量単位である。数量単位とは、実質的価値を意味し、物質の質と量から成りる。即ち、質を表す単位と量との積である。

 この様な経済的基準による経済現象は、経済の水準に従属して変化する。その為に、実質的変化と名目的な変化が生じる。

 経済を構成する個々の要素は個人である。そして、経済機関の基礎単位は、家計と企業と財政である。

 経済単位の役割とは、貨幣の流通、生産と消費の調整、労働と分配の決定である。

構   造


 経済には、構造がある。構造とは、経済を構成する個々の要素、部分が結びつきあって構成している全体を指す。

 構造では、個々の要素、部分を結びつけあっている働きが統合されて全体の動きとなる。個々の部分と全体との動きは、必ずしも統制のとれた動きではない。ただ、全体には、全体を維持していこうという力が常に働いている。この部分に働く力の総和と全体を維持していこうとする力の総和が均衡することによって全体は保たれている。均衡が破れると全体は解体する方向に動き出す。

 自分と他者との関係は、自己を客観化すると個人と全体との関係に置き換わる。個人と全体とは、内と外との関係を生み出す。
 個体と全体の関係の土台には自他の関係がある。個としての自分と全体の中の自分を位置付けることによって生じる関係がある。個というのは、視点を変えると何等かの一部であり、また、全体でもある。
 個としての働きは、全体に位置付けられて機能を発揮する。個々の機能は全体との関係を形成する。全体は、個々の働きと関係によって結び付けられ維持される。つまり、働きは個体と全体双方に働く。
 主体的存在である自己を客体化すると個人となる。個人が集まって社会、則ち、全体が形成される。社会が象を持つと国となる。それが民主主義である。

 構造とは、形、相である。

 天に在りては象を成し、地に在りては、形を成す。(繋辞伝上)

 時間の中に現れる象(かたち)を存といい、空間の中に現れる象(かたち)を在という。時間が陰に作用する象を形といい。時間が陽に作用する象を相という。

 複数の要素や、対象が相互に結びあって一つの全体を形成することがある。その全体を構造という。全体が形成されると個々の要素や対象は部分となり、位置が定まる。位置が定まると全体の形が決まる。
 形は、時間と伴に変化する。その時点、時点に作られた形が相である。

 会計は、構造である。則ち、会計には、形と相がある。そして、形や相を成立させるための法則、基準の象(かたち)がある。

 現代の貨幣経済には、「お金」の形、相がある。「物」の形、相がある。「人」の形、相がある。この他に、もう一つ、会計が生み出す形、相がある。

 例えば償却という概念で考えてみると、先ず、償却には、金銭上の償却の問題がある。更に物理的償却、人的な償却と言う観点がある。その上に、会計上で言う償却がある。更に、会計上の償却には、財務会計と管理会計の別があり、財務会計の中には、商法上の償却、税務上の償却、証券取引上の償却の取り決めがあり、各々微妙に内容が違う。又、国によっても差がある。これらが複合されて経済の上の形と相を作りだしている。
 家を例にして考えると、土地付きの家を購入したとした場合、家は、年月と共に老朽化していく。一定の期間が来ると建て替えが必要となる。これが物理的な意味での償却である。現金出納上の償却とは、家を購入する際にローンを組んで借入を起こす。そのローンの元本と月々の返済額が金銭的な償却である。そして、家の持ち主の生活や家に対する考え方、使用方法は年月と共に変化する。又、家族構成も変わる。生活や家族構成の変化によって家に対する基本的な考え方も変わってくる。これが人的な償却である。
 更に、会計上の償却がある。

 時間を一定の単位で区切る成立する形と相がある。会計は、その形と相によって成り立っている。

 会計基準のような象(かたち)、即ち、無形な法が財務諸表のような形を作り上げていく。そして、現実の取引によって一年、一年の相によって決算書が作成される。

 又、会計には、損益と貸借の形がある。損益というのは、一定期間、則ち、単位期間の活動の成果を表し、貸借は、結果を表している。言い換えると損益は、単位期間内の活動を表し、貸借は、単位期間を経過した後の残高を表している。一定期間内で成立した活動は、短期の活動であり、残高は長期の活動の経過だと言える。つまり、長期短期の現れだとも言えるのである。この基準は、流動性の尺度にもなる。又、一般に単位期間は一年とされる場合が多い。

 陰陽には、元となる性格と変化の方向の二つの働きがある。その二つの要素が合わさって陰陽、いずれかの働きを発揮する。

 陰陽には、その物や要素その物が持つ性質とその物や要素の変化や運動の方向による働きがある。そして、その働きが相互に関わり合うことによって全体の状態が形成されていく。陰陽を定めるのは自他の関係である。

 経済には、流動的な部分と固定的な部分がある。流動的であるか、固定的であるかは、時間の関係で決まる。流動的な部分が変易であり、固定的な部分が不易であり、その基準は簡易である。

 バブル崩壊後、日本で問題となったのは、三つの過剰だと言われている。即ち、過剰設備、過剰雇用、過剰負債の三つである。そして、この三つの過剰、即ち、過剰設備と過剰雇用、過剰負債は、経済の本質を象徴している。
 三つの過剰に共通することは、長期的資金か固定的費用に関わった要素だと言うことである。

 産業の構造には、第一に、固定費が大、変動費が大、第二に、固定費が大、変動費が少、第三に、固定費が少、変動費が大、第四に、固定費が少、変動費が大の四つの型がある。
 更に、固定費は、人件費と設備償却の占める割合によって性格が違ってくる。又、管理可能費か、不可能費かによっても違いが生じる。

 第二の型の産業には、設備集約型の大規模製造業や労働集約型のサービス業が属している。第三の型には、商社や生産の外部委託をしている製造業が属している。第四の型には、インターネット関連業などが属している。

 固定的で、基幹となるべき費用は、経営をする上での前提条件なのである。その前提条件であるべきはずの費用が揺れ動いているのが現代なのである。
 例えば、為替や原油価格と言った費用の根底を構成する要素は、前提条件となる固定的部分でなければならないのである。そして、為替も原油価格も収益と費用両面に影響を及ぼす要因なのである。
 為替や原油価格は、元来が管理不能費なのである。この様な要素は、基盤であり、地盤なのである。現代経済の問題点は、この基盤や地盤が揺らいでいることにあるのである。

 固定費というのは、長期的に均衡する費用である。即ち、一定の期間を時間の単位として単位期間あたりかかる費用を割り出す過程で期間内に消費される費用と期間をまたがって消費される費用が区分された結果、成立したのが固定費である。
 この様な固定費が設定することが可能なのは、費用が貨幣に依って表現することが可能となったからである。

 その為に、実体の伴わない。即ち、実際に現金の動きや消費の伴わない取引が生じる。即ち、虚の部分である。その典型が減価償却費である。だからといって虚の部分が悪いというのではない。虚の部分の働きを正しく理解しておかないと悪さをすると言うだけである。
 特に、虚の部分に対応する資金の流れを正確に理解することが大切となる。

 ただし、気を付けなければいけないのは、貨幣は、貨幣それ自体が虚だと言う点である。借入や資本というのは、それ自体では成り立たない。相対になる対象、裏付けとなる実体が何かが重要となる。

 貨幣化とは、則ち、数値化である。数値化の意義は、視覚性と操作性にある。貨幣価値に視覚性と操作性を与えることによって貨幣価値を方程式化する事が可能となる。また、分割したり、凍結することも可能となる。つまり、形式化することが可能になるのである。その結果、レパレッジやヘッジという操作によって価値を増幅したり、圧縮したりする操作が可能となるのである。又、転移したり、所有することも可能となる。数値化が貨幣経済の基盤を構成している。

 しかし、それは、実際の資金の流れや財の流れと損益を分離させることにもなった。つまり、利益や資本とは虚なのである。則ち、貨幣経済は、虚と実とからなる経済であり、虚と実との均衡を守ることが肝要となる。
 貨幣経済、市場経済は、虚の部分と実の部分から成る。虚の部分だけでも、実の部分だけでも成り立たない経済の仕組みが出来上がっているのである。

 利益を罪悪視する傾向があるが、それは、利益の構造を理解していないのである。利益とは相である。それは基盤となる形、象によって成り立っている。形、象は、長期、短期の実相を元としている。則ち、時間の構造が重要なのである。

 利益とは、相である。利益の相を診て、その後の対処を判断するのである。

 期間損益は、利益や費用の平準化を目的にして成立した計算方法である。利益や費用を平準化することによって現金収支の不均衡を是正したのである。則ち、期間損益と現金収支とは別の概念である。その点を理解しないと現在の経済現象の問題点を理解することはできない。

 景気が良くなっているはずなのに資金が流通しなかったり、逆に、資金が過剰に供給されているはずなのに、一向に景気が良くならないと言う現象は、この期間損益と現金収支の違いから生じる場合もあるのである。

 経済や経営というのは、生きる為の活動である。利益を上げる目的は、人間を行かすことにある。金儲けにあるわけではない。故に、利益そのものを目的化するのは、本末の転倒である。
 利益は、二義的な結果である。利益を生み出す構造、損失を生み出す仕組みが問題なのである。

 経済主体は、生きることを目的とした存在である。人々を生かすために、経済主体はあるのであり、金儲けをするために存在するのではない。
 人を生かすためには、適正な利益が必要なのである。やたらに競争を煽り、安売り合戦をもて囃すのは本末の転倒である。企業が適切な利益を上げられなくなり、人員を削減し、或いは、人件費を抑制すれば、巡り巡って不景気を招くのである。
 経済主体は生活のための形、相を持っている。その形と相を知る事が根本なのである。
 その相の一つが利益なのである。

 不当な利益も問題だが、累積赤字はより深刻な問題なのである。それは利益は、時間の経過の中で判断されるべき指標だからである。長期的、短期的均衡の上に利益は成り立っているのである。



参考文献
「漢字百話」白川 静著 中公新書



認識と陰陽


 主体は、対象を認識すると、対象を他の対象と識別する。それが分別の始まりである。主体は、対象を識別するにあたって自と他の関係を設定する。
 そして、自他の関係を元にして。内外、主客と置き換えていく。この様な置換の過程で空間が生じる。空間が成立する事によって位置が定まる。更に、それに時間軸が加わることによって運動が成立する。

 位置とは、差であり、運動は、変化。関係は結びつきである。言い換えると、位置は不易、運動は変易、関係は易簡である。

 出発点は自己にある。自他の関係にある。
 そして、自他の関係に対する認識の前提は、自己は、主体的存在であると、同時に、間接的認識対象だと言う点である。

 現代社会の最大の欠点は、自己否定にある。それは、科学を絶対化することによって客観主義や相対主義を絶対視することに原因がある。客観主義や相対主義を絶対視することは、資本主義にも、共産主義にも、社会主義にも、共通している。そして、自己否定は、物質主義、唯物主義に発展し、利己主義を育む。
 自己の否定は、自他の関係の否定であり、主体、主観の否定である。主体、主観の否定は、主体性の否定に繋がる。主体性の否定は、個性の否定でもある。個性の否定は、個としての人間の精神や魂の否定に発展する。それが唯物主義である。唯物主義は、科学主義の宿痾である。

 また、資本主義も社会主義も世襲を原則的に認めていないと言う点では共通している。特に、社会主義は、世襲を否定する事によって成り立っていると言える。その社会主義国において、世襲が行われている。これは、皮肉なことであり、且つ、象徴的なことである。思想上において世襲は問題は、あまり議論されたことがない。しかし、現実には、一番生々しい問題である。なぜならば、世襲問題の背後には、家族問題や民族問題が隠されているからである。現に、民主主義を標榜する国々でも世襲議員の問題は片付いていない。
 経済や経営において世襲はどの様な問題を引き起こすのか。それは、私的所有権の制限を意味する点である。経営問題では、事業継承と相続税の問題の根底をなす。
 また、事業に携わる者にとって人生観の根幹を形成するものであり、また、働く者にとって忠誠心の拠り所でもある。則ち、何のために働くのかの対象なのである。人生観や忠誠心は、自己実現の動機であり、頭から否定できるものではない。そこに、自他の問題がある。

 自己の存在は、認識の前提である。自己存在を認識する事は自他の関係を認識する事でもある。故に、自他の関係を否定する事は、認識の前提を見失う結果を招く。自己というのは、主体的存在であり、客観的対象が他である。自他の関係は、主客の関係を成立させる観念である。そして、相対的観念の原点でもある。
 客観性や相対性というのは、対象の全てを物とする事を意味するわけではない。

 取引には、立場がある。その立場によって取引の働きは変わってくる。則ち、一つの取引にも順逆が生じる。商品の売買では、売り手の立場に立てば、売りであり。買い手の立場では買いになる。貸し借りならば、借り手か貸し手かの立場に従って取引の働きも逆になる。これは自他の関係が基本にある。

 科学は、本来、認識の相対性を前提している。則ち、科学と言うのは、主観によって定まるのである。その科学から、主観性を徹底的に排除し、客観性のみに依拠すると、科学の相対性は損なわれる。
 その結果、科学を絶対視することによって、科学は、現代の神話となったのである。その時から科学の法則は、仮説ではなく、普遍的真理に変質したのである。そして、科学以外の理を神秘主義として現代人は、排斥したのである。その結果が、人心の荒廃と自然環境の悪化である。
 神を否定する者は、自らを神とする。

 経済的価値とは、本来、主観的な価値である。

 位置とは、差である。差は距離で測られる。当初の位置は、自分と対象との距離によって導き出される。距離がなければ位置が定まらず、関係は成立しない。又、距離がありすぎても対象間に働く力が効かなくなり、関係は生じない。
 故に、適度な距離を保つこと、則ち、中庸が大切になる。

 有無を確認し、対象認識、自己認識と進み、そして、自他の関係を元として、内外、主客、個体と全体と置き換え、対象認識は、更に、有形無形、表裏、主従、前後、順逆、虚実、質量、長短、上下、高低と変換を繰り返し、個別から一般、一般から普遍、普遍から特定へと発展する。最後に陰陽に至る。
 置換と変換を繰り返すことによって対象に働く力の方向と質と量が決まる。

 陰陽とは、働き全体の方向と状態である。そして、陰陽は、均衡、一元を求めて変動する性質がある。

 経済や経営も、自他、内外、主客、表裏、主従、前後、順逆、質量、長短、上限、高低との変化が組合わさって陰陽、則ち、その働きの方向と質、量が決まる。

 例えば、経常収支と資本収支は、表裏の関係にある。経常収支と資本収支の働きを仲立ちしているのが為替である。そして、経常収支は経常取引の、資本収支は資本取引の、為替相場は為替取引の集合である。個々の取引は、交易市場、資本市場、為替市場を形成する。

 そして、経常取引は、自他、主客、内外と変換し、内外取引の段階で、資本取引と為替取引を派生させる。また、経常取引と資本取引、為替取引は、虚実の関係も成立させる。

 為替には、自他の別があり、主客、内外、表裏の関係を生み出し、最終的には上下という運動として現れる。上下動は、経常収支、資本収支、物価と表裏の関係にあり、又、虚実の関係にもある。そして、為替の上下動は、経常収支や資本収支、物価にも上下動を引き起こす。

 また、為替の変動は、経常収支や資本収支の働きの方向に対し、逆方向に作用をする力がある。
 例えば日本を自とし貿易相手国を他とした場合、経常収支の黒字は、円の上昇させる働きがあるが、円の上昇は、経常収支の黒字を減少させる働きがある。この順逆の働きによって経常収支を均衡させる力が常に働いている。
 
 又、経常取引は、内外の物価にも影響を及ぼす。物価は、所得と表裏の関係にある。

 この様な変換の連鎖が経済全体の方向と状態を定め。それが陰陽に収斂される。

 陰中に陽あり、陽中に陰あり。市場は、上昇圧力と下降圧力が常に存在する事によって全体の働きの均衡を保っている。一方向の圧力しか働かなくなると市場は、制御できなくなり、暴走する。この上昇圧力と下降圧力を働かす仕組みの一つが競合である。正し、競争は、絶対ではなく。過当競争は、市場の働きを過剰にして市場全を毀損してしまうこともある。

 礼は、双方向の働きがあって形骸化を防げる。双方向の働き、則ち、作用反作用の働きがなくなると礼は、硬直化し、形骸化する。
 礼が双方向の働きを前提としているのは、礼が、自他の関係を元にして成立しているからである。
 礼は、自他、主客、内外と発展し、それが主従の関係を形成する。認識上の主従の関係は、相対的な物であり、絶対的な関係ではない。則ち、何を主とするかによって、何を従とするのかが決まるのである。この場合の主従の関係はあくまでも認識上の問題であって上下関係を意味するものではない。則ち、主従の関係は、その場、その時の立ち位置によって決まる。

 お客様は神様だと言った演歌歌手がいた。顧客が市場を通じて主張することが可能だからこそ経済は形骸化を防げる。
 経済が、効果を発揮するのは、顧客が市場の主人となるからである。市場が独占され、顧客から選択肢が奪われ、顧客の主張が通用しなくなると取引は形骸化する。則ち、市場が独占されれば消費者は、供給者に隷属し、主体性が失われるのである。それが自由の喪失である。

 マニュアルが絶対化するとサービスは形骸化する。サービス本来の目的や精神は見失われる。そして、サービスの本質は失われるのである。
 それは、政治にも言える。民が主人になれば、天と民とが一体となり、礼は完成する。則ち、礼は双方向の働きを持つのである。
 人間関係というのが双方向の関係であるならば、礼は、本来双方向作用である。封建主義の礼が形骸化したのは、礼の働く方向が一方向に偏っていたからである。
 一つ一つの礼は、双方向の働きを持った行為であり、その一つ一つの所作が連結されることによって礼の働きは循環し、形骸化を防ぐ。

 人事制度は、本来、統制を目的とし、恣意的な制度である。試験制度や客観的な基準によって恣意性を排除しすぎると人間性が、人事制度から喪失する。

 一陰一陽、これを道という。

 一元にして復始まる。
 物極まれば必ず返る。

 万物は流転する。

 陰陽は巡る。陰陽は巡ることによって効力を発揮する。
 陰陽に基づく礼は、循環することによってその働きを保つことができる。

 経済には、順逆の働きがある。順逆の働きは、自他、内外、表裏、虚実の関係を元にして発生する。

 経済現象を予測する時、重要なのは、働きの方向と、その働きの虚実である。

 為替相場の動きは、内外で逆方向になる。円とドルの関係で言えば、円が上がればドルは下がる。円が下がればドルは上がる。必然的に働きも内外で逆方向になる。

 市場取引は、同量の債権と逆方向の債務、そして、現金を生じる。現金とは、貨幣価値を実現した物である。

 貨幣がどちらの方向に流れているかが重要となる。

 資金の流れには、投資の方向と回収方向の働きがある。公共投資や金融政策を有効たらしめるためには、資金が発散する方向に流れているのか、回収する方向に流れているかが重要となる。



経  済


 現代の経済は、変化を前提とし、加速し続けていかなければならない仕組みになっている。しかし、それでは、経済は、過熱していつかは破綻してしまう。自動車の運転を考えればいい。アクセルだけでは、自動車を制御する事はできないのである。

 現代経済の問題点は、経済現象を金銭的な現象だと思い込んでいることである。経済の本質は、生きる為の活動である。
 生産性や効率ばかりを追い求め、働いている人々の生活が成り立たなくなったら本末転倒である。

 派遣問題が好例である。なぜ、派生が問題なのか。それは根本から人間の問題が欠落しているからである。
 経済というのは人間の問題である。根底は、人々の生活である。人々の生活が成り立たせるために、経済は存在する。それが経済の存在意義である。
 派遣の問題は、あくまでも企業収益の問題である。企業が利益を上げる事が大前提で考えられている。その為に、人の問題が疎かにされているのである。単純に利益を上げるためならば、人件費から人間的属性を一切削除してしまえばいい。そうすれば、人件費、単なる費用である。そうなると、必要な時に調達できて不必要な時に簡単に削減できる費用であることが一番都合が良いのである。つまり、全ての社員を派遣に置き換えることである。しかし、それは経済本来の目的を明らかに逸脱している。
 だからといって何等かの法的処置を施せばいいと言うのも本質を見誤っている。派遣の問題は、思想の問題であり、道徳の問題であり、人間をどう考えるかの問題、そして、経済の本質の問題なのである。

 経済とは、人々に生きる場所、居場所を作ることである。金を儲けるために経済主体が存在するわけではない。金儲けは、生きる為の糧を得る手段である。目的ではない。
 経済を構成するのは、人、物、金である。経済は、金が全てではない。現代社会では、金儲けばかりが先行している。利益を上げるために、平気で人々の生活を犠牲にする。しかし、経済の本義は人にある。人を生かすことにある。

 経済にも天・地・人がある。天とは、法である。地とは、物理的世界である。人とは人の世界である。経済には、貨幣的な経済と物的経済、人的経済がある。経済は、金だけが全てな世界とは違う。その根本は人である。人の暮らしである。人生である。

 生きていく上で、お金が必要だから金儲けをするのである。金儲けのために生きているわけではない。お金は大切である。それは生きていく上の手段として大切なのであり、お金を生きる目的にする事はできない。

 何をもってか位を守る。曰く仁。何をもってか人を聚(あつ)むる。曰く財。財を理め辞を正しくし、民の非を為すを禁ずるを、義と曰う。(周易繋辞下伝)

 現代の経済思想の中には、市場万能主義的な傾向がある。極端な場合、犯罪といった人間道徳に関わる問題、男女の恋愛や結婚、離婚、そして、親子の絆、家族の絆、又、人間の健康や出産といった生命に関わる問題も市場経済によって解決できるといった節まであるほどである。

 ここまでいくと、倫理とか、徳とか、正義といったものの存在し無意味になってしまう。神や天道、自然の法則までも貨幣取引の対象にしてしまう。

 そして、夫婦も、家族も、企業も、国家も単なる機関に堕してしまう。則ち、経済的目的を達成したら速やかに解消されるべき存在なのである。結婚は、売春行為と何ら変わらないと言ってのける者まで現れる始末である。彼等にとって愛情は性欲に取って代わられるべきものである。男女間にある愛情も、夫婦間の愛情も、仕事に対する愛情も、国家に対する愛情も、人類に対する愛情も唾棄すべき感情でしかない。
 家族も企業も国家も機関に過ぎず。愛情を要とした共同体ではないのである。共同体とは、運命共同体であり、生活共同体である。助け合い、信じあえる空間を前提とするのである。

 家族や、企業、国家を機関と見なす事で、家族や企業、国家から命が失われ、結局、人と人とを繋ぎ止める絆が失われ離散するのである。共同体を機関としてしか見れないのは野蛮である。それは、有史以前にも見られないほどの野蛮さである。
 経済の目的は、金儲けにあるわけではない。人々の生活を豊かにし、人々を幸せにすることである。少なくとも、人々が飢えや寒さで苦しむことのない環境を整えることにある。それが経済なのである。

 経済には、形と相がある。

 現代人は、利益を結果でしか捉えない。利益を結果として判断し、利益が上がらないと利益が上がらないこと自体を問題とする。それでは問題の抜本的な解決には結びつかない。赤字だから悪いのではない。赤字になる原因が問題なのである。何が利益を上がらないようにしているのか、その仕組みと原因が問題なのである。
 病気に罹ること自体が悪いのではない。病気の原因とその治療法が問題なのである。
 利益が上がらない仕組みにしておきながら、利益が上がらないと責めるのはお門違いである。
 利益というのは、一つの目安である。利益を診てその背後にある経済のは仕組みや相を解明することが肝要なのである。それが経済の形、相である。

 経済というのは、経世済民、経世致用である。

 経済を考察するには、先ず、自分の立ち位置を確認し、明確に設定する必要がある。
 経済に対する認識、味方は、人それぞれ自分の立ち位置に、視点によって違ってくる。そして、その立場、視点は、経済に対する認識、又、経済を考察する目的を明らかにする上で、決定的な要因、前提となる。

 個体と全体の関係がある。個としての自分と全体の中の自分を位置付けることによって生じる関係がある。個というのは、視点を変えると何等かの一部であり、また、全体でもある。
 個としての働きは、全体に位置付けられて機能を発揮する。個々の機能は全体との関係を形成する。
 主体的存在である自己を客体化すると個人となる。個人が集まって社会、則ち、全体が形成される。社会が象を持つと国となる。

 政治家、、官僚、企業経営者、個人事業者、消費者、皆それぞれ、経済に対する見方、関わり方が違う。自分がどの様に経済に関わるかによって経済に対する捉え方は、自ずと違ってくる。故に、自分の立ち位置を明らかにしないと相互の意見交換にも支障が出るのである。先ず、自分を知る事である。自分にとって経済とはどの様な意味を持ち、自分が生きていく上で、或いは、生活や暮らしにどの様な関わりがあるのか。それが経済に対する自分の意見を持つ上での大前提となるのである。

 次ぎ、経済を認識上での手がかりとなる対象を見極め、経済を考える上での目的を明確することである。その上で、前提となる条件を設定にする。目的や前提条件に基づいて認識の核となる因子、基準を決め、分析の方向性を定める。その上で、客観的データを収集、整理するのである。

 経済における実物量は、有限である。即ち、経済現象は、一定の範囲内で生起する。物量には、上限と下限がある。際限のないのは、貨幣である。貨幣は、観念的な数値だからである。頭の中ならば無限に数値は生み出すことができる。
 自分に与えられている時間や物には限りがある。そのことを、常に自覚し、前提にする必要がある。そして、人間は、自分に与えられた時間と物の範囲内でしか生きられないし、考えられないのである。与えられた物と時間を最大限に活用する。それが経済である。
 しかも、人間には、生病老死の四苦がつきまとう。どの様に健やかで剛健な者にも老いが訪れ、病になり、死んでいく。若さに驕ることなく。その時その時に最善を尽くす。それが、経済である。そして、その最善とは、決して浪費を意味するのではない。経済にとって消費が全てなのではない。消費は経済の一部に過ぎない。

 経済の物理量が有限であるから、経済は、相対化できるのである。有限の者を無限の尺度で測る。そこに経済の問題点が潜んでいる。その点をよく理解した上で貨幣価値は理解する必要がある。経済的価値は、物理量による制約を常に受けている。故に、全体に占める割合が重要となるのである。

 又、経済的価値の意義も物理的限界を前提としている。即ち、何等かの全体を基本として成り立っており、経済財の分配を目的として経済は成り立っている。分配の為の運動は、循環であり、その循環を成り立たせているのは差である。差がなければ物流は機能しない。しかし、極端な格差も物流を阻害する。故に、重要なのは仕組みと均衡になる。

 自他の関係を設定するという事は、自己と他者との境界線を明らかに、自己に所属する範囲を画定することである。即ち、内外の関係を明確に設定する事である。

 経済をよく診る者は、内外の体制、仕組みを熟知する必要がある。その上で、体制や仕組みを構成する要素間の関係や相互の結びつき、働きを明らかにする必要がある。
 内外の関係には、表裏を成す要素が多い。表裏の関係にあるものは、内外の動きを直接的に反映する。故に、よく注視することが肝要となる。

 好例が経常収支と資本収支である。経常収支と、資本収支は、国家経済における内外の関係によって生じる。経常収支と資本収支は、表裏の関係にある。そして、この関係を調節しているのが、為替相場である。
 そして、為替相場の変動は、国内の物価や景気にも重大な影響を及ぼしている。

 為替相場の動きは、内外で逆方向になる。円とドルの関係で言えば、円が上がればドルは下がる。円が下がればドルは上がる。必然的に働きも内外で逆方向になる。

 会計には、内と外を前提としする事によって内部取引と外部取引が派生する。内部取引と外部取引は均衡している。そして、我々はそれに誤魔化される。
 内部取引と外部取引が均衡するのは、認識上の問題だからである。つまり、取引というのは、一つの行為を取引だと認識する事によって成立する。それは外形的な現象であり、実体は、一つの行為として解消されている現象なのである。その為に、意識上、観念上は一つの作用に対し、反対作用の働きを想定することによって解消する性格を持つ。故に、会計上の取引は、発生時点で双方向の作用が想定される。そして、その働きは表裏の働きを持つ。
 例えば、内的な仕入れという行為は、売るという反対取引を反映した行為であり、又仕入れは、資産の増加という内部取引に変換される。この外部取引は内部と外部とを表裏の関係によって関連させ、内部取引は、表裏によって内部の関係を形成する。これらの関係は相互に均衡していることを前提としている。この前提を変化させるのが時間である。それは取引が認識作用の一つだからである。
 これらの働きは、認識上において発生する現象であるから虚である。

 又、家計には家内労働と家外労働がある。家内労働は内的な労働であり、市場経済や貨幣経済から独立している。それに対し、家外労働は、外的な労働であり、外部から所得や資源を得るために労働である。その為に、家内労働は、貨幣価値に換算されず。家外労働は貨幣価値によって測られる。しかし、その重要性に変わりはない。

 経済的価値を全て貨幣価値に還元することは危険な行為である。例えば景気回復と言うが景気回復の基準が企業業績の回復にのみ依拠したものならば、本来の人々の生活の実態が反映されているかが、居ないかが見落とされがちになる。しかし、本来経済の基盤は、人々の生活にある。いくら景気が良いと言っても人々の生活がよくならず失業率も高くなっているとしたら、それは真の景気回復とは言えない。

 企業業績の回復だけを目的としたら、冒頭で述べた派遣問題のように、人を単に費用の問題だけに還元して解決すればいいのである。だから、安ければ良いという発想は危険なのである。あくまでも適正な価格、利益とは何かであり、どの様な仕組みによって価格や利益を決定するかである。

 経済には、順逆の働きがある。順逆の働きは、自他、内外、表裏、虚実の関係を元にして発生する。

 市場取引は、同量の債権と逆方向の債務、そして、現金を生じる。現金とは、貨幣価値を実現した物である。

 貨幣がどちらの方向に流れているかが重要となる。

 資金の流れには、投資の方向と回収方向の働きがある。公共投資や金融政策を有効たらしめるためには、資金が発散する方向に流れているのか、回収する方向に流れているかが重要となる。

 経済現象を予測する時、重要なのは、働きの方向と、その働きの虚実である。

 市場経済、貨幣経済は観念の所産である。人間の意識が生み出した事象である。
 経済現象を考察する上で重要なのは、経済現象に潜む虚実である。

 経済政策を評価する際、量的な側面ばかりが強調される傾向があるが、実際には、資金が流れる方向が重要なのである。即ち、市場に供給された資金が流通の方向に流れているのか、回収の方向に流れているかである。

 資金の流れ方向に重大な役割を果たしているのが、家計と企業であり、家計が消費に、企業が投資に振り向けている場合は、資金は市場に供給されるが、返済に振り向けている場合は、資金は回収の方向に流れることになる。

 資金の流れる方向を知るためには、企業活動の規模を見ることである。企業活動の規模は、基本的に総資本と費用を足したものである。

 陰陽には、元となる性格と変化の方向の二つの働きがある。その二つの要素が合わさって陰陽、いずれかの働きを発揮する。

 元亨利貞。

 労働と成果、所得は、表裏の関係にある。又、労働と評価、成果と生産、所得と消費も表裏の関係にある。この表裏の関係が経済現象を引き起こしている。

 何が経済の根本なのか事由なのか、利益優先主義の落とし穴がそこにある。利益優先主義は、経済の根本事由を利益に求める。しかし、経済や景気を定めるのは利益だけではない。

 入れる者あれば出す者あり、出す者あれば、入れる者あり。貨幣経済では、収入と支出は表裏の関係にある。故に、総和は零である。利益は、差によって生じる。差は時間と空間によって生じる。
 市場全体の利益は、市場取引の総量の増減による。市場が拡大均衡している場合は、市場に参加する全ての経営主体が利益を上げられるが、市場が停滞ないし、縮小均衡している場合は、利益を上げられる経営主体は限られてくる。
 市場取引は常に均衡している。故に、取引によって生じる貨幣価値の総和は零である。取引を相殺して残るのは、取引によって生じた実体と貨幣、現金である。現金の本は借金である。故に、現金が流通している限り、借金はなくならない。問題は、通貨、則ち、借金の量である。

 基軸通貨国は、経常収支を赤字にすることで国際市場に基軸通貨を供給せざるを得なくなる。それは国の借金を積みますことを意味する。

 最近の企業業績を関する新聞記事を読んで感じる事は、増収増益でなければならないと言う思い込みがある様に思えることである。黒字でありながら減益という事で低い評価がされる。則ち、景気が後退していると言っても縮小均衡は許されない風潮がある。
 増収増益を前提としているという事は、則ち、市場の無限の拡大や際限のない成長を前提としなければ成り立たない。しかも、競争と均衡を前提としている。
 しかし、実際の市場は、有限な空間である。市場が限界に達し、縮小均衡に向かえば、必然的に競争ではなく、生存闘争になる。そして、市場は独占、寡占に向かうのである。寡占、独占は、競争の原理の対極にあり、競争を否定する事である。

 競争が過熱し、適正な利益がとれない場合は、競争を抑制すべきであり、経済が停滞し、活力をなくしている時は、競争を促す政策がとられるべきである。

 安いとか、高いとかは、相対的なものであり、時代や場所によって違ってくる。問題は、価格は、どの様な働きや仕組みによって決定し、又、何を根拠にその適正性を評価するかである。単純に安ければいいと言うのは短絡的である。
 価格にせよ、利益にせよ、問題なのは、妥当性である。限りなく安いことが良いわけでも、又、ギリギリの利益が良いわけでもないのである。

 一つ、二つの会社が赤字なのは、個別の企業の問題であるが、全ての企業が赤字なのは、その産業の全体構造の問題である。

 単年度決算の結果だけを問題とし、増収増益のみを是とする姿勢は、中長期的均衡を蔑ろにしてしまう。
 その結果、結局、技術革新や人材的育成と言った中長期的利益よりも目先の利益が優先されてしまう。それは、人や物の経済は、忘れられて、金だけ頼っているからである。
 利益を結果だとするならば正直に仕事をすれば利益が上がる仕組みでなければならない。それが大前提である。

 企業というのは、長期的均衡を本来の目的としているのである。そして、企業の役割は、利益を上げることだけに集約できる程、単純ではない。

 経済で重要なのは、第一に雇用である。そして、所得、物価、経済活動に必要な資源である。なぜならば、経済の本質は、生きる為の活動であり、その為の労働と分配だからである。その上での利益と資金の流れである。利益を否定するのもおかしいが、利益だけを重視するのも又偏りである。

 また、利益は、最終的に資金の流れに還元されてはじめて有効となる。いくら利益を計上しても資金の供給が断たれれば、倒産する。それが黒字倒産なのである。

 経済は、結局、モラルハザードに行き着くが、モラルハザードを問題とする時、モラルが明確にされ、尚かつ、確立されていなければならない。モラルが確立されていることを前提にしなければモラルハザードは起こりようがないのである。

 現代経済の錯誤は、生産手段や生産技術をごく限られた一部の国家だけで独占できるという前提に立っていることである。しかもまだ、多くの国がこの幻想から抜けきれないでいる。
 生産手段や生産技術は、条件さえ整えば、容易に転移することが可能である。肝腎なのは、前提となる条件なのである。特に、人々の生活水準や所得に負う部分が大きい。則ち、格差の是正が基本的条件となる。自分達だけが利益を享受しようとしている限り、経済の持続的発展は望めないのである。


経済の実際

 国家が、経済に対して成さなければならない事象で、真っ先に、又、最重要な事象は、経済体制、則ち、経済の仕組みを構築することである。

 現代人の多くは、経済の仕組みは自然できあがり、人間が生まれてから一つの一貫した仕組みが続いていると思い込んでいる節がある。自然出来上がるとは言わなくても歴史的に形成されたものであり、人為的に作られた仕組みだという認識が乏しい。
 それは、自然現象と同じように経済から人為的な作為を排除しようと言う思想によく現れている。いかになる権力の介入をも徹底的に排除するの事が、自由だとする思想が好例である。この様な考え方は、思想である。自由は、国家権力の介入を排除することによって実現するのではない。
 大体が、経済現象というのは、自然現象とは違う。経済現象は、人間の観念の所産であり、経済の仕組みは人為的に作り上げられたものである。
 よしんば、何等かの原則に基づいて作られた構造物だとしても、それは自動車や建築物のように法則を見出し他のは人間であり、その法則を人為的に作り上げたものである。その結果に対する責任は、人間に帰すべきものであり、自然や神に帰すべき事ではない。
 無為に放置すれば、何等かの均衡した状態に成るというのは、思想と言うよりも、むしろ信仰に近い。
 経済の仕組みは創り出すものであって、自然に成る物ではない。そして、その根本には、何等かの人間の作為があり、利害得失がある。つまり、高度に政治的な問題なのである。

 日本は、資本主義の国である。市場経済を前提として成り立っている。資本主義や現在の市場経済というのは、近代会計制度上において成立した思想である。故に、近代会計制度が理解できないと資本主義は理解できない。

 現金収支を基礎とした経済体制から経済体制を基礎とした経済体制への以降には、何等かの分岐点があったと考えるのが、至当であり。その分岐点を考える上で重要な鍵は、市場と貨幣と会計にある。

 思想という観点から言えば、現金収支に基づく経済体制と期間損益に基づく経済体制は、異質な経済体制である。この点をよく理解しておく必要がある。
 二十世紀に生起した多くの経済現象は、現金収支を基礎とした経済体制から期間損益を基礎とした経済体制への移行期に現れる現象だと言える。この点を理解しないと恐慌や戦争の持つ意味を理解するのは不可能である。

 経済は、人間の思索の所産である。故に、経済現象を表す用語は、全て、何等かの定義に基づいている。
 定義に基づくという事は、合意に基づくと言う事である。合意に基づくと言う事は、合意を前提とし、合意がなければ成り立たないことを意味する。
 故に、経済の仕組み、則ち、経済体制は、国家的に基づく国家権力の強制力によって維持されている。

 例えば紙幣は、国家によって定められた規定、法に基づき、紙幣の価値と働きが強制され、且つ保障されることによって成り立っている。
 つまり、紙幣による取引の決済は、国権によって強制されている事によって成り立っているのである。紙幣は、自然に湧き出る物ではない。

 現代の経済体制は、借金の上で成り立っていると言える。早い話、紙幣は、借用証書の一種が変化したものと言える。

 現在の経済体制を維持していきたいという前提に立てば、借金と上手く付き合っていくことを考えなければならない。借金の是々非々を問題にしても仕方がないのである。
 もう一つ重要なことは、借金を成り立たせているのは、安定した収入、又、予測可能な収入だと言う事である。
 つまり、現代の経済体制に欠くことのできない要素は、定収、或いは、予測可能な収入、借金だと言う事である。そして、それを保証しているのが期間損益だと言う事である。
 定収入や予測可能な収入を確保するために、収益という概念、そして、利益という概念が成立したのである。つまり、期間損益計算によって収益を平準化し、損益を基礎にして負債や収支を均衡させるという思想である。

 経済の仕組みや体制が、その時点の国家、政府によって構築される構造物だとするならば、経済体制もされから派生する経済政策も合目的的な事象である。
 経済の実態を分析し、経済政策を立てようとした場合、経済の本来の在り方を明確にし、経済政策の目的を明らかにする必要がある。

 経済とは人々暮らしであり、経済体制とは、人々の生活を成り立たせている仕組みである。経済を構成する要素は個人であり、経済の基礎単位は、家計と財政と企業である。市場経済を構成する要素は市場と共同体である。経済体制は、労働と分配、生産と消費、需要と供給を制御し、人々の必要な物資を提供する仕組みである。
 経済単位の役割とは、貨幣の流通、生産と消費の調整、労働と分配の決定である。

 一口に、経済規模と言うが、経済には、人的経済と、物的経済、金銭的経済がある。
 今の経済は、金の経済ばかりである。しかし、実体経済は、人や物にある。なぜならば、経済の本性は、人を生かす道にあるからである。則ち、経済の基盤は、人々の暮らし、生活にあるのである。

 金の経済に人の経済を合わせようとするからおかしくなる。人件費が好例である。人件費を人ではなく。金に合わせようとするから、派遣のような問題が起こるのである。貨幣価値という観点から人件費を見れば一律で均等な費用であることが望ましいからである。
 また、人と物とは違う。当然、人と物との経済は異質な物である。人を物と同じように扱えば、人件費は単なる一律な費用に過ぎない。しかし、人間は一律な存在ではない。同じ物を前提にできても、同じ人は前提にできないのである。人は部品にはできない。同じ条件の人はいないのである。人件費というのは属人的な費用なのである。人を人として識別することのできない経済は、経済としての本性を喪失している。
 経済は、人間を生かすものでなければならない。故に、人間の経済にこそ合わせるべきなのである。物の経済や金の経済は、人間の経済に従属すべき経済であり、特に、金は、あくまでも道具、手段に過ぎないことを忘れてはならない。

 経済的価値は、物の価値と人の価値と貨幣価値が複合されることによって形成される。経済現象を単なる貨幣的現象だと思い込むと経済現象の実態が掴めなくなる。なぜならば、貨幣価値は虚だからである。
 物の価値と、貨幣価値は、表裏の関係にある。物の価値が上がれば貨幣価値は下がり、貨幣価値が上がれば物の価値は下がる。そして、それを決定する因子は、人の価値観である。そして、人の経済的価値観は、購買力、所得に依存している。

 現代人は、経済を金銭的な現象としか捉えていない傾向がある。しかし、経済というのは、本来、生きる為の活動を意味する。生きる為に必要な活動とは、生活に基本がある。根底は、衣食住の実体である。生きる為に必要な物を調達し、分配をすることが基本である。又、人の一生をどうとらえるかによって決まる。経済とは、生きる事自体の活動である。

 多くの人は、経済を金銭的問題だと思い違いをしている。経済の実は、物の経済や人の経済にある。貨幣は、虚である。

 今でこそ、貨幣価値が経済的価値の全てであるように思われている。しかし、近代にのみ経済があるわけではない。ただ、近代以前の経済は、人々の記憶から抹消されてしまっているから近代経済が古代から営々と続いているように錯覚しているだけである。近代以前の経済の主役は物である。

 経営を再建しなければならなくなったとき、何をするのかを考えれば経済の本質は見えてくる。
 ただ、会計処理を変えれば経営が再建できるわけではない。経営再建は、合理化や経費の削減、新製品の開発、販売組織の組み替えと言った具体的な施策によるのである。

 貨幣を食べたても食欲を充たすことはできないし、貨幣を着ることはできない。貨幣は、食料や着る服を得るための手段に過ぎない。つまり、貨幣は、交換の手段、道具である。貨幣自体にしよう価値があるわけではない。あるとしたら、観賞用の価値程度である。その点を忘れては成らない。貨幣に価値があるのではなく。貨幣は、交換価値を指し示した指標、象徴、尺度にすぎない。

 経済本来の目的は、生きる為に必要な物を調達することである。ただ、貨幣経済体制下、市場経済体制下では、生きていく為に必要な物資は、貨幣という道具を用いて市場を経由して手に入れる以外にないのである。それが、貨幣経済、市場経済の原則である。

 現在の貨幣経済、市場経済が成り立つには、成り立つための前提がある。その前提とは、社会的分業が深化しているという事である。又、貨幣経済を前提として国家機構やそれに準ずる社会機構が構築されていると言う事である。その端的な例は、所有権は国家によって保障され、、税は、金納である事が前提であり、現代人は、国家に依存しなければ生きていけない体制が出来上がっているという事である。そして、国家に依存して生きていかなければならない限り、貨幣経済から逃れられないという事である。それが現代経済の大前提である。もし、貨幣経済から逃れたければ、国家権力の及ばない地域に移住する以外にない。しかし、それは、一部の密林地帯や山岳地帯か、南極のような生活するためにはかなり過酷な制約がある地域に限られている。その地域もどんどんと狭めれている。要するに、現代人は、貨幣経済や市場経済を受け容れないと生きていけない環境に置かれていることが前提なのである。

 そのことを前提として経済政策の目的を考える必要がある。ただ、注意すべきは、最初に貨幣ありきとすると経済の実相を見失うと言うことである。
 貨幣はあくまでも虚である。

 貨幣というのは、虚である。
 日本が高度成長時代に突入する以前は、物不足の時代であった。物不足によってハイパーインフレが発生して利している。物が不足しているから、実物への投資、製造へのが先行した。つまり、物への投資によって借金、則ち、貨幣の流通量が増大した。
 投資が一巡すると物から貨幣へと則ち、実物から虚へと主軸は移っていく。物が溢れる一方で借金も膨れあがるのである。
 その典型がサブプライム問題である。借金によって欲しい物は手に入れたが、借金も又膨れあがるのである。つまり、貨幣が市場や社会、経済に浸透するに従って虚の部分が増幅するのである。そして、やがて虚が実を支配するようになる。
 現代日本は、物が社会に溢れているというのに、家計も企業も国も借金だらけである。それが深刻な社会問題を引き起こしている。

 紙幣は、ある時払いの催促なしの公的借用書と変わりない。それでも兌換紙幣は、現物による返済が義務づけられていた。不兌換紙幣にはそれすらない。つまり、紙幣を増発することは国の借金、公的負債を増やしていることと変わりない。問題なのは、借金をすることではなく。その量と資金の流れる方向である。
 重要なことは、貨幣の機能、働きをどう特定するかである。その働きを有効にするために、どの様にして流量を制御するかである。それが金融政策の主眼となる。金融政策は、経済政策の重要な一部である。

 銀行業は、言い方を変えれば金貸し業なのである。故に、銀行取引の増加は、それだけ借金の増加に繋がるのである。

 経済政策の目的は、社会基盤の整備、雇用の確保、産業の振興、生活必要物資の確保、物価の安定、格差の是正である。
 経済政策は金のためにあるわけではない。国民生活の向上にある。金銭的な問題に目を奪われて国民生活を犠牲にするとしたら、それは本末の転倒である。要は、実質的な問題であり、なぜ、期間損益を確立せざるを得なかったかを考えれば、財政赤字の解決の糸口も見つかるはずである。所詮、会計というのは、観念の所産に過ぎないのである。
 財政赤字は解決しなければならない問題だが、根本は、考え方、基準や原則、目的、仕組みの問題でもあるのである。経済とはそういうものなのである。計算の結果よりもどの様に計算したかが重要なのである。

 経済を構成する要素は個人である。経済の基盤を構成する経済主体の基本単位は、家計、企業、財政である。市場経済は、経済主体と市場、生産手段によって構成される。

 経済で重要な働きをしているのは、場に働く圧力の方向と強弱、性質である。

 経済現象は、構成と方向、働きが重要で、構成と方向と働きは、位置と運動と関係を形成する。

 現代人は、市場を拡大し続ける空間、成長し続ける空間だとして、経済成長を前提として経済を認識する傾向がある。認識するだけでなく。経済の仕組みや構造、政策を拡大均衡型のものしようとする。その為に、一旦経済が縮小均衡の状態に陥るとなすすべを失い、周章狼狽する。その為に、最悪の場合、社会組織そのものが破壊されるしまう。

 人を雇えば年々歳々、人件費を上げ続けなければならなくなる。それが前提である。商売は、同じ事をやっている限り、収益は頭打ちになる。又、製造は、同じ設備、装置を使用している限り、生産力には限界がある。売上は、市場競争によって一定の所で天井につき、良くて横這い、悪くすると減少に転じる。要するに、経費は上昇するのに、収益は横這い、悪くすると減少する中で過酷な競争を強いられることになる。これが経済の実相であることを忘れては成らない。

 又、人生にも波がある。人は、生まれて成人に達するまでは、自分以外の人間の世話にならなければ生きていけない。人間の社会は、一人では生きていけない仕組みになっているのである。一般に、結婚をし、子供を産み、育て、やがて、老い、或いは、病気をして死んでいく。人生で必要とされる三大資金は、教育資金、家を建てるための資金、老後の蓄えだと言われる。その他にも結婚資金も必要である。価値観の問題だと言われるが、生きていく上で支出される資金には、一般に波がある。そして、この波は消費を形成し、資金需要を生み出す。
 又、乳児、幼児、児童、思春期、青年期、壮年、熟年、老人と変遷していく。人は老いるのである。感傷に浸っているだけでは生活はできなくなる。年齢に応じた役割を担っていく必要があるのである。そして、それが経済の在り方を形作っていく。

 経済を構成する基本単位の企業や家計が拡大一辺倒でないのであるから、必然的に、経済は、拡大均衡と縮小均衡を繰り返すものだと言うことを前提とすべきなのである。

 先ず、経済規模の変化を測定する必要がある。その上で経済の変化の方向を見定める。例えば経済規模が拡大均衡に向かっているのか、縮小均衡に向かっているのかが、経済の政策を立てる上で決定的な要素となるからである。

 経済規模を表す代表的指標は、国内総生産、国内総支出、国内総所得である。そして、この三つの指標は一致すると言われている。則ち、生産、支出、分配は、表裏の関係にあり、実体は一つである。この事を経済の三面等価の原理、三面等価の原則という。

 ただし、国内総生産、国内総支出、国内総所得は、金銭的な意味での経済規模である。経済規模には、この他に、物的経済規模と人的経済規模がある。そして、物的経済規模と人的経済規模が実体的経済規模である。

 物的経済規模には、物資の生産力、社会資本、産業基盤などがある。又、地理的な要件などがある。人的経済規模は、第一に人口がある。また、消費量や所得、貯蓄量等がある。

 日本の食糧自給率は、カロリーベースで41%、生産額ベースで65%しかない。1950年には、57%あったエネルギー自給率も1980年代にはいると6%台に落ち、2000年以降は、4%台に落ち込んでしまった。これなども物的経済の実態を示している。

 次ぎに経済の構成と比率の変化を見る必要がある。経済の構成と比率の変化によって内部構造の動きを分析するのである。

 内部構造の動き、変化の分析の次ぎに、経済の働き、変化の方向を見る。

 例えば、負債と資産との構造的変化である。現代経済は、借金の上に成り立っている。その借金を成り立たせている前提は、事業の継続と予測可能な収益である。予測可能というのは、収益であって収入ではない点を注意する必要がある。つまり、予測可能な、或いは恵存可能な収益を基にして、資金調達、則ち、収入を測るのである。現代経済は、この二重構造によって成り立っている。つまり、資金収支と期間損益である。

 経済政策上の多くの誤謬の原因は、金融機関の当事者や経済政策当局が資金の流れる方向に対して無頓着である事に起因する。多くの為政者は、資金の量的問題ばかりに拘って資金の流れる方向や働きに無関心である。その為に、金融政策や経済政策が上手く機能しないのである。

 現代の経済思想は、凶悪である。対立ばかり、争うことばかりを前提としている。引力と斥力双方が均衡することによって構造は維持される。争いのみを前提としたら、社会の秩序は保てないのである。疑問をもつ事は悪いことではない。しかし、根本に信頼関係がなければ猜疑心に潰されてしまう。助け合いがあって始めて競い合うことができる。助け合うことを忘れて争えば、妥協点は見失われる。際限のない殺戮だけの世界しか残らない。規則もなく、話し合う事も許されないような競争は、競争ではなく。闘争である。市場は、競技場でなく。戦場になる。

 共産主義も資本主義も対立を前提としている点は変わらない。故に、いずれの体制をとろうとも行き着くところは、争いによる世界であり、強調や妥協を許さない孤独な世界である。金や物が人間を豊かにするわけではない。豊かさの基準は人間の心に依存しているからである。
 いくら制度や設備を立派にしても老人の孤独を癒すことはできない。老人の孤独を癒すことができるのは、家族の愛情以外にないのである。人間の本性を置き忘れたところでは、経済は成立しない。

 本来人間関係は、対立と強調の均衡によって成り立っている。人間関係は、認識上における作用と反作用に基づいて形成されるからである。

 対立や競争、争うだけでは世の中は、治まらない。かといって、協調精神だけでは、活力が失われる。要は、前提条件の有り様である。そして、力の均衡である。
 競争だけに、頑なに固執するのは頑迷である。

 この要の全ての富を独占することはできない。例えば、この世にある土地の全てを所有することは、所有していないのと同じ事である。富は、相対的だからである。人の富は、比較する対象があって成り立つ。この要の全ての富を独占できる存在は神以外にいない。
 故に、経済的価値というのは相対的なものであり、限りあるものなのである。
 ホテルに例えば、部屋数は、ホテルを建てた時に決まるのである。つまり、宿泊者の上限は決まっているのである。故に、ホテルの収益の上限も自ずと決まっている。それなのに、未来永劫、実質的な拡大、増収増益を前提とするのは、明らかに矛盾している。もし、増収増益を前提とした経営を続けるとしたら、その為には、内部要因ではなく。外部要因に依存せざるを得ないのである。それが現在の経済の実体である。

 無理に増収増益を前提とせざるを得ないから、市場は荒廃し、事業の継続性が立たれるのである。結局は経済を破綻させ、縮小均衡に向かわざるを得なくなる。
 人間は、神から与えられた資源、自分の能力に限界があることを自覚しなければならない。人間が自らの能力を過信した時、人間は凶悪となり、自滅していくのである。
 人は、満ち足りている時、天を侮り、飢えると天を呪う。しかし、天は天である。人の都合によってどうなるものでもない。自らを不幸にしているのは人間である。住みやすい世界を造るのも住みにくい世界を造るのも人間の心の有り様にである。


   
財   政


 国家財政の役割は、国民を生かすことにある。いくら財政が黒字になっても国民が生きられなくなったら意味がないのである。財政赤字と言うが、何が財政赤字の問題なのか。財政赤字によってどの様な問題が起こるのかを先ず明らかにすることが肝腎なのである。

 財政赤字が社会問題化してから久しい。しかし、財政赤字は、一向に改善される兆しはなく、むしろ悪化し続けている。財政問題に取り組もうとすると、景気が悪化し、景気対策によって財政の出動が要求されるという悪循環が続いている。
 財政赤字を問題とするならば、財政赤字のどこが問題で、何が悪いのかを明らかにしておく必要がある。

 現代の日本では、財政赤字と財政赤字の額ばかりを問題にする傾向があるが、もっと重要なのは、財政赤字の何が悪くて、どの様な弊害を引き起こすのかである。
 問題の本質をよく理解していないと天文学的金額に目が眩んで、根本を見失い、かえって事態を悪化させる危険性すらある。又、問題の本質を明らかにするためには、財政を悪化させた原因も探求する必要がある。
 財政を悪化させたのは人間であって何の理由もなく財政だけが悪化したわけではない。
 大体、財政赤字とは何かと言う事も不明瞭なのである。
 財政問題は、対処療法では財政問題は解決できないのである。なぜならば、財政の本質は、国家観であり、経済哲学だからである。

 財政の悪化が国民生活にどの様な影響を与えるのか。それが根本的な問題である。それを知るためには、財政の働きを明らかにする必要がある。則ち、財政とは何か。第一に、財政は国家に対して、どの様な役割を果たしているのか。又、第二に、経済に対してどの様な働きがあるのか。第三に、国民生活に財政は、どの様な影響を持っているのかである。

 財政機能の根本は国家に対する働きである。故に、国家の役割とは何かに行き着くのである。国家の役割とは何かとは、国家の主体は何かである。国民国家においては、国家の主体は国民である。つまり、財政の役割は、国民に対する国家の働きに基づくのである。そして、その反作用として国民の国家に対する役割が元となるのである。則ち、財政の基盤は、税にある。

 財政の役割や働きを明らかにした上で、財政の問題や弊害を明らかにしないと財政赤字の本当の意味は理解できない。

 経済には、人の経済、物の経済、金の経済がある。根本は人の経済である。経済に、人、物、金があるならば、当然、財政にも、人の財政、物の財政、金の財政がある。現在は、金の財政だけが突出しているが、根本は人の財政、則ち、国民の財政である。そして、国家観であり、国家理念が基本である。

 国家の根本的役割は、国民の生命財産の保障にある。次ぎに民生の安定である。又、国民主権の保護である。そして、国民生活に必要な社会資本の整備である。
 また、国家の経済に対する役割は、物価や貨幣価値の安定である。次ぎに、所得の再分配によって格差を是正することである。又、雇用の維持である。

 財政が経済に対する働きで、最も重要なのは、通貨の供給と回収である。もっとも、通貨を発行し、供給するのは、現在は、中央銀行という独立機関に委ねられている。しかし、通貨の供給は、国債の発行や公共事業を通じてなされている。財政赤字の元凶はこの国債と公共事業にある。

 財政赤字の弊害でもっもと危惧されるのは、財政赤字が物価に与える影響である。次ぎに経済に与える影響である。また、国家機能、則ち、行政に与える影響。そして、財政赤字の国際的な影響である。
 個々の経済主体に与える影響を解明する必要がある。

 市場経済、貨幣経済を前提として現代経済は成り立っている。市場は取引によって成り立ち、貨幣は、取引を仲介する働きによって用をなす。そして、市場取引は常に均衡している。故に、取引によって生じる貨幣価値の総和は零である。取引を相殺して残るのは、取引によって生じた実体と貨幣、現金である。現金の本は借金である。故に、現金が流通している限り、借金はなくならない。問題は、通貨、則ち、借金の量である。

 国家収入は、所得によって成り立っている。所得は企業所得と個人所得によってなるが、その源は企業利益である。故に、企業利益が確保されなければ、経済は維持できない。
  入れる者あれば出す者あり、出す者あれば、入れる者あり。貨幣経済では、収入と支出は表裏の関係にある。故に、総和は零である。利益は、差によって生じる。差は時間と空間によって生じる。
 市場全体の利益は、市場取引の総量の増減による。市場が拡大均衡している場合は、市場に参加する全ての経営主体が利益を上げられるが、市場が停滞ないし、縮小均衡している場合は、利益を上げられる経営主体は限られてくる。結局は、税収も落ち。財政収入も減少する。

 財政を理解しようとしたら、表に現れている現象に目を奪われるのではなく。つまり、表に現れている現象を引き起こしている仕組みや形を解き明かす必要がある。そして、財政の働きを理解する必要がある。

 財政上、重要な働きの一つが通貨の供給ち回収がある。財政赤字が問題とされるが、実際は、通貨の供給と回収、則ち、通貨の供給量の調整が根底にあるのである。

 経済現象を引き起こす要因には、人的要因、物的要因、金銭的な要因、そして、会計的な要因がある。それらの要因が複合して経済現象を引き起こしている。

 インフレーションやデフレーションは、貨幣的な要因が強いと言われているが、貨幣的要因だけで引き起こされるわけではない。物的要因が重要な働きをしている場合も多いのである。何が、又どの様な働きが何にどの様に左様として引き起こされた現象なのかが重要なのである。則ち、経済における形と相の関わりを理解する必要がある。

 赤字ばかりを問題とするが、実際に問題となるのは、赤字の意味と原因であり、赤字その物ではない。
 財政赤字の問題点は、財政は赤字だという認識であり、次ぎに、赤字の原因は、借金によるものであり、借金だから返済しなければならないと思い込んでいることである。
 赤字といっても期間損益上でいうところの赤字と資金収支上でいう赤字とは意味が違う。資金収支上でいう赤字は、恒常的収入から支出を単純に引いた時、資金に不足が生じていることをいう。それに対し、期間損益上の赤字とは、期間収益から費用を差し引いた値がマイナスであることを意味する。

 財政破綻の背後には、貨幣経済の深化がある。それは、現在の貨幣制度が不兌換紙幣を基礎とした制度であり、不兌換紙幣は、公的な負債に基づいているからである。

 現代の市場経済は、借金を前提として成り立っている。それは、市場経済における経済主体の中核を担う民間企業が期間損益を基礎としているからである。
 なぜ、借金を前提として成り立っている。或いは、借金を前提とせざるを得ないのかというと、第一に、期間損益計算に資本主義経済は基づいているからである。二つ目には、資産の概念が成立したことである。三つ目は、それに関連して、償却という概念が確立したことによる。四つ目には、負債の概念の確立がある。五つ目は、利益の概念が成立したことによる。そして、もう一つ重要なのが現在の貨幣制度が表象貨幣を基礎にして成り立っているという点である。

 期間損益を確立するにあたり、なぜ、期間損益において損益と貸借を区分したのかというと長期変動と短期変動とを区別するためである。
 そして、この長期変動と短期変動を区分することによって償却という概念が成立し、期間損益が確立する。この様な前提で利益の概念は形成されたのである。長期的変動を固定的といい、短期的変動を流動的という。
 財政には、この長期的な区分がない。あくまでも単年度の現金収支を前提として成り立っている。その為に、資産という概念が確立されていない。なぜならば、資産という概念は、資産単独で成り立つ概念ではなく。その対極にある負債と資本の概念との関係によって成り立つ概念であるからである。現金収支上における財産という考え方は、そのもの自体が価値を形成する。それが財産と資産の違いである。
 同様なことは、借金と負債とにも言える。借金というのは、借入そのもの価値をいうのに対し、負債は、資産との関係によって成り立つ概念である。故に、負債の元本にあたる部分を返済しても金利相当部分以外収益に影響を与えることはない。長期負債の元本を返しても収益は改善せず。かえって納税と関連して資金不足を引き起こす可能性すらある。場合によっては、資金繰り倒産すらしかねないのである。

 民間企業は、負債を前提とし、負債を会計制度によって損益計算上で構造的に組み込んでいるが、国家財政は、現金収支計算を前提として負債の存在を前提としていない。その為に、負債を制御できないでいるのである。

 貸借上では、借金とはいわない。負債という。負債は、企業経営上つきものである。故に負債そのものの是非はあまり問わない。借金をすることは、手段、選択肢の一つであり、悪い事だとは誰も思っていないからである。是非を問うとしたら、負債の多寡や条件である。則ち、負債の程度と負債によってどの程度の負荷がかかるかである。つまり、資金繰り上の問題点と金利負担の問題である。企業経営では、資金繰りの問題と金利の問題は分けて考える。それは、分けて考える必要があるからである。金利の問題は費用の問題であるのに対し、資金繰りの問題は、資金収支の問題だからである。

 そして、現在の自由主義経済は、この現金収支を基礎とした経済と期間損益を基礎とした経済が混在した混合経済体制なのである。これが財政問題を考える上での大前提である。

 経済には、朝三暮四的な施策が多くある。それは、経済が主として配分の問題であることを証明している。
 税制などはその典型である。所得税控除を廃止するための財源として消費税を上げたり、年金を支払うために目的税を導入するというのは、結局、ただ、徴収する時期と対象を変えただけに終わることが多い。それによって財政が改善できるかというとそれほど単純な問題ではない。

 現に、財政政策において朝三暮四的な議論が、巷間、横行している。例えば石油税を廃止して、その代わり環境税を取ると言ったことである。税制の根本を忘れて、ただレッテルを貼り替えるような施策をしても物事の本質は変わらない。税制を問題にする場合は、税の目的とその税が経済にどの様な影響をもたらすかを明らかにすることである。

 税は、どの部分から、どの様にして、どの程度、徴収するかによって経済に与える影響に違いが生じる。

 課税対象は、所得、消費、取引、資産(有形、無形資産、諸権利)、使用、所有権、物品、人、サービス、輸入品等である。

 財政で重要になるのは、内的均衡と外的均衡である。内的均衡には、財政的均衡と経常収支上の均衡、資本取引上の均衡がある。財政赤字が問題にされるのは、主として財政的均衡である。しかし、国際市場で、実際に問題なるのは、経常的均衡と資本的均衡である。

 アメリカの財政政策は、手本には成らない。なぜならば、アメリカは基軸通貨国であり、特殊な立場にある国だからである。ただ、アメリカに基軸通貨国としての役割を期待するならば、アメリカの政策に合わせて自国の通貨政策を決めなければならないという事である。

 アメリカは、基軸通貨国として特殊な国なのである。アメリカの特殊性を前提としない限り、アメリカの経済は語れないし、アメリカの特殊性を考えるとアメリカの経済政策を敷延化するわけにはいかないことが理解できる。基軸通貨国でない国がアメリカと同じ経済政策をとることは危険なことである。特に、財政や金融、通貨政策に言える。

 アメリカは、自国の必要な物資の多くを自給することが可能である。その上、基軸通貨国であるから、経常赤字を出しても、資金の環流は期待できる。しかし、日本は、そうはいかない。

 財政は、その国の地理的要件や制度に多くを依存している。故に、その国固有の要素に負うところが大きい。一概に、一つの施策を是とするわけにはいかない。先ず前提条件を確認する必要がある。

 経済の目的は、人を生かすことにある。利益の追求や財政の黒字化は、目安に過ぎない。いくら企業の収益が改善されても雇用が確保されないければ景気は良くならない。財政が黒字になっても財政本来の機能が失われれば意味がない。経済というのは、本来、人々を生かす活動なのである。


財政の実際

 日本では、財政赤字が深刻な問題として社会問題化している。しかし、財政赤字が意味するのは何か、財政赤字がなぜ悪いのか。財政赤字によってどの様な不都合が生じるのかについて、明確な答えがあるわけではない。

 財政赤字と言うが、財政赤字とは何か。又、財政赤字という前に、赤字とは何かが、それを明らかにしておく必要がある。赤字というと、赤字と言うだけで、何かわかった気がするが、実際には、赤字の真の意味を理解している者は少ない。
 なぜ、赤字になるのか。赤字というのは、期間損益上の概念であることを忘れてはならない。つまり、赤字というのは、収益よりも費用が大きい場合を言うのである。収入よりも支出が大きいわけではない点に注意しなければならない。
 故に、期間損益を基盤としていない財政上、赤字というのは、あたらない。
 財政赤字を問題とする者は、先ず、何を以て赤字とするのか。赤字の定義から始めなければならない。

 大体、単純に国債を国が借金をしている事と説明するから誤解が生じるのである。借金というと、サラ金や高利貸しから金を借りて返せなくなって生活破綻した人の印象が強い。そして、その印象で財政破綻も捉える。だから大変だという事になる。つまり、多額の借金をして首が回らなくなった印象である。借金が返せなくなったらどうしようと思い倦(あぐ)ねる。
 借金だから何が何でも返済しなければならないと思い込んでしまっている。その為に、心配ばかりが先に立って国債の働きやそれから生じる弊害について冷静な議論ができないのである。
 しかし、現代社会は、借金というか、負債の上に成り立っていると言える。個人でも借金があるのが当たり前になっている。借金がない方が少数派である。だからといって、借金があるから、即、返せなくなって生活、即ち、経済が破綻するというのは短絡的である。

 是々非々は、別にしても、現代経済というのは、負債を前提とした経済である。負債を否定したら成り立たないのである。負債を、ただ、否定的なものとして捉えている限り、根本的解決はできない。
 負債は、過剰であるのも問題だが、負債はまったくできないと言うのも又問題なのであり、負債は、単純に返せば片付くという対象ではないのである。

 先ず財政赤字の正体を見極めることが肝腎なのである。その為に、財政とは何かを明らかにしていきたい。怖がってばかりいないで、先ず現実を直視することが財政問題を解決する糸口なのである。

 財政とは、国家思想そのものである。国家理念、建国理念、国家観は、財政として実際的に表される。つまり、財政とは、国家思想を表した施策なのである。それが現実の国家に施される策だけに財政という思想は、言論によって表現された思想よりも実体的な思想だといえるのである。

 故に、財政の目的は、国家目的の実現である。
 国家目的は、第一に、国防、第二に、国際条約や同盟、対外折衝、第三に、治安維持、及び、防災、第四に、社会資本の充実、第五に、殖産興業、第七に、公衆衛生、社会保証制度の整備、第八に、教育、および、科学技術の振興、第九に、国民の権利と義務の保護管理(戸籍管理等)、それに伴う、法制度の整備、維持、第十に、公有財産の管理、第十一に、所得の再分配、格差の是正、第十二に、景気対策、第十三に、失業対策、第十四に、通貨管理である。
 国民国家の存在意義は、国民の生命と財産を守ることにある。財政は、国家目的を実現するための手段である。

 国防と治安は、国家の独立と自治に関することである。社会資本の充実、公衆衛生、国民の生活に関わることである。教育や育児、法制度の整備は、国民の権利に関わることである。殖産興業、科学技術の振興、所得の再分配、失業対策、通貨管理は、国民経済の基盤に関わることである。

 国防計画は、何から、何を、何のために守るのかが明確でなければ立案できない。国家か生存、即ち、国民の生命、財産を守るためには、何が最低限必要で、その為には、何を守らなければならないのかを、実際的なする事が、国防計画の始点である。即ち、国防は、きわめて実利的な問題である。決して観念的な問題ではない。そして、国防は、外見は政治的に装ってもそのほとんどが経済的動機に基づくものである。なぜならば、一般に人間は、自分や家族が生きる為に必要な物資を確保するために、命をかけて戦っても、抽象的な理念のために、命懸けで戦うことは稀だからである。飢えれば、どんな生物も生きる為に戦うのである。人間もまた例外ではない。

 専守防衛を国防思想とすると言うのは、おかしな事である。専守防衛というのは、国防という点で言うと同義反復的な言葉である。元々国防というのは侵略を前提としたものではない。日本は、敗戦によってその根本を見誤っているのである。大多数の国は、防衛を専らとし、侵略を目的としてはいない。それは大国においても然りである。例え、侵略国のレッテルを貼られた国でも軍事行動を起こす時は、正当防衛であることを主張する。
 問題の本質は、何から、何を守るかであり、防衛の姿勢ではない。専守防衛と言うだけでは、何から何を守るかを明確にすることはできない。

 江戸時代には、中東産油国の出来事は、別の星の出来事くらいにしか考えられていなかった。況や、遠く離れた他国のために、自分の親や子を出征させるなどと言うのは思いもよらなかったであろう。誰も好き好んで戦をするわけではない。戦わなければならない理由、原因があるから戦うのである。戦争をなくすためには、その根本の原因を除く必要がある。そして、その根本の原因の多くが経済的な原因なのである。

 国防費は、諸刃の剣であることを忘れてはならない。国家財政の破綻、或いは、国債を発行する契機は、歴史的に見て軍事費や軍事行動に起因している場合が多い。つまり、国を守るためにしたことが国を滅ぼす原因にもなりうるのである。

 防災も国防の一環として捉えられるべき事業である。ただ、防災は、国防以上に国家観を根底にした事業でなければならない。今日では、防災の一つとして環境維持も位置付けられなければならない。公共事業の目的で多いのは、交通と防災である。それだけ防災というのは、国家の存在意義に関わっているのである。黄河を制する者は、国を制するとまでいわれたのである。
 ところが防災は、国防ほど脚光を浴びない。自然災害、事故と闘う者は、戦士以上の勇者である。

 治安の維持にかかる費用も財政において欠かすことができない。夜警国家という思想がある。この言葉は、夜警、即ち、治安維持にかかる費用だけは、除けないと言う意味が含まれている。つまり、治安維持にかかる費用は、国家にとって最低限必要な費用だと言う事を意味している。

 公共事業というのは、本来国家観から発生する事業であり、経済的事由から発生する事業ではない。特に、目先の景気対策によって左右されるべき事業ではない。
 公共事業は、国家財政の基幹を成す事業である。その反面において、既得権益として利権に結びつきやすい事業である。

 国民国家における教育の目的は、建国の理念を明らかにして、国家の仕組みを周知し、国民の権利と義務を認知させることにある。そして、共通の価値観の形成を促すことにある。

 決して、反体制、反権威、反権力思想を浸透させることにあるわけではない。
 教育の主権者は、教育者にあるわけではない。教育者は、教育の主権者の委託を受けて教育を請け負っているのに過ぎない。教育の内容を決めるのは、教育の主権者にある。教育の主権者は、国民にある。更に直接的な主権は、保護者にある。そして、地域社会にある。それは、利害が生じるからである。いくら言論の自由があるからといって、保護者の許可なく反社会的、反国家的、反体制的、反道徳的、反権力的教育をする事は容認されるものではない。反国家的、反体制的教育は、それ自体、憲法に反する行為なのである。
 だからこそ、教育には、財政的な裏付けが成されるのである。又、教育が義務であり、権利である根拠も国民国家において建国の理念を国民の権利と義務の前提としているからである。

 社会保障の目的は、所得の再配分と社会的弱者の保護にある。社会保障費制度は、国家と国民の関係に対する思想を具現化する過程によって構築される制度である。あくまでも根本にあるのは、国家思想である。そして、思想であって所与の原理ではない。国民の合意が前提にあるのである。だから、国民国家においては、国会の決議を前提としている。

 財政は、本来合目的的なものである。なぜならば、財政は、国家が国民の委託を受けて執行するものだからである。国家目的が明らかにされないと財政そのものが無目的なものになる。無目的では、国民の信託に答えられないからである。
 財政が本来の目的を見失えば、場当たりで、対処療法的なものにならざるをえない。財政は、その時の経済情勢と国家目的との均衡の上に成り立っている。場当たり的な財政では、破綻するのは必然的帰結である。

 過激な反体制主義者の中には、国家が国家目的をもつ事自体否定している者すらいる。そこまでいくと彼等は、反体制主義者というと無政府主義者である。無政府主義は、個人的な主義主張としては成り立ち得ても国家理念としては成り立たない。為政者が無政府主義、反体制的になれば国家が滅亡するのは、必然である。国家は、国民が必要とするから存在するのである。
 皮肉なことに、国家が機能している時は、国民の多くは国家の存在する意識することがない。国家の必要性を意識するのは、国家が有効に機能していない時である。

 財政支出には、この様に何等かの国家目的が前提となる。逆に言うと、国家目的、事業目的が明らかでない支出は認められないという事になる。そこにも財政の公開と単年度主義と予算主義がある。財政支出は、財源という制約条件がある。財源とは、財政収入の源、資源である。

 財政で問題なのは、国家目的であり、それに対する支出の規模である。その支出を裏付けるのが収入である。つまり、先ず、やるべき事、即ち、事業があってそれに必要な支出がきまるのである。先に予算があって次ぎに、事業計画があるわけではない。そして、当然、事業計画は、収入、即ち、財源の範囲内という制約条件がある。

 財政規模には、自ずと制限がある。その制限の境界線を何処におくかが重要となる。財政規模は、経済規模の範囲内でなければならない。これは原則である。経済規模を特定するためには、どの時点での経済規模を指すかが重要となる。つまり、前年度、本年度、次年度、どの時点での経済規模を基礎とするかによって財政規模の基本が決まるからである。

 そこで国家財政で問題となるのは、財源である。
 現在の国家財政は、単年度均衡を原則としている。そして、財政上における単年度均衡は、現金収支を基盤としている。
 財源は、税収と国債と事業収入である。問題になるのは、この財源の内訳なのである。

 現在の財政は、財源の中心は、税収である。税収は、税制度に依拠する。税制度は、その在り方そのものが思想である。つまり、税制の在り方は、本を正せば国家観、国家思想に行き着くのである。

 税収を基礎に財政を組み立てるとしたら、今度は、税とは何かが問題となる。つまり、税の目的と性格である。

 税収は、会計上で言う収益と性格が違う。故に、財政赤字と会計上の赤字とは異質なものである。同一には語れない。この事を前提としなければならない。

 また、税の働きには、財政支出の財源という働き以外に、通貨の循環と回収、所得の再分配、景気の調整がある。所得の再分配は、格差の是正の働きがある。財政支出の財源以外の働きが経済に重要な影響を及ぼしている。税制度を設計する場合はこの点を見落としてはならない。又、税制度を変更したり、増減税といった施策を採る場合は、制度変更や施策が税の制度の働き全体にどの様な影響を及ぼすかを事前に検証しておく必要がある。

 税制中心の財政であることによって財政にいろいろな弊害が生じる。なぜならば、税は、手段であり、目的ではないからである。ところが、財政収入を税収に依存すれば、税制が手段から目的に転じる危険性がある。つまり、税の在り方によって財政が歪められる危険性が生じるのである。
 財政の目的は、目的は、国家事業である。税の目的は、財政に準じるものであり、故に、税制の在り方は、国家目的に準じるものでなければならない。
 税収は目的ではない。税は、財源の一つである。財源も税だけに特定するのは危険である。今日の税制の目的は、単に、財源だけに留まらない。なぜならば、国家経済に与える税の働きが税制の目的を規定しているからである。国民経済に税制が与える影響は多岐にわたっているからである。故に、税の目的も財源という目的だけで判断することができない。

 財源を税収にのみ求めるという財政は、歳出の根拠が前年度の税収に制約されざるを得ないという欠陥を持っている。つまり、歳出に必要な要件と、前年度の経済情勢を反映した税収、即ち、前年度の経済状態との間に直接的な関係があるわけではない。むろん、まったく無縁というわけではなく。景気対策という要素も当然ある。しかし、その場合でも、前年度が不景気にならばその対策として支出が増加するという意味でである。税収不足というのは、市場の状態によるものであり、歳出は、社会の要請に基づくものだからである。

 税収の次ぎに問題になるのは、国の負債である。
 国債と個人の借金とは意味が違う。国債は、確かに、国の債務である。しかし、国債は、単に債務と言うだけではない。

 国債は、単に国の債務と言うだけでなく、国債は、債権でもあり、通貨を供給する手段でもある。実は、債権であり、通貨の供給手段だという点に国債の重要な働きが隠されているのである。

 国家の国民に対する債務と言う事である。しかし、国家の主権者は国民であるから、国民の国民に対する債務とも言える。即ち、国民は、債務者であると同時に、債権者でもあるという関係になる。

 最後に、事業収入である。実は、この事業収入が問題なのである。財政では、原則的に事業収入、或いは、事業収益を正式な収入とは認めていない。つまり、財政上は、市場経済を認めていないのである。財政は、市場経済外に位置する。市場経済外とは、統制経済、計画経済を意味する。つまり、財政は、社会主義的な性格を持つ事になるである。

 もう一つ重要なのは、財政思想では、事業収益が認知されていないことである。事業収益というのはないわけではない。しかし、それは、副次的な収入としてしか認知されていない。しかも、利益をあげることを目的とすることが許されていない。理由としては民業の圧迫があげられているが、基本的には、市場経済を認めていないのである。つまり、営利事業は、公共機関はすべきではないと言う思想である。これは思想である。つまり、利益は悪だという思想である。不思議な話だが、自由主義経済は、自由主義を保証し、実現すべき行政や公共団体が営利事業を認知していないのである。

 事業収益も利益も認知されない為に、財政では、期間損益という思想が成り立たない。利益という概念が成り立たないのだから、必然的に損失という概念も成り立たない。
 だから、赤字といっても財政赤字と期間損益上の赤字は意味が違うのである。

 財政が自由主義経済の中に位置付けられるためには、事業収益をもっと見直すべきなのである。事業収益は、取引を前提としており、会計制度と同じ基盤を持っているからである。

 過去において、事業収益がなかったかというとそうではない。ただそれが博打やたばこの専売である。また、国鉄や電信である。いずれも国がやることではないといって廃止されるか、或いは、国がやっていたら効率が悪いと民営化された。
 確かに、賭博やタバコを公共機関が奨励するのは、経済的だけでなく道義的にも問題がある。
 しかし、なぜ、鉄道や電話事業を国が経営すると効率が悪いのかは、その原因が明らかにされたわけではない。ただ、頭から公営は効率が悪いと決め付けているだけである。それでありながら、経営責任が問われるでもない。
 財政問題の本質は、このような事業収益に対する考え方に如実に現れている。つまり、収益や利益という考え方を受け容れないことに根本的な原因がある。
 本来ならば、収益の改善を計るべきであり、収益の改善というかぎりは、事業収益を見直すべきなのである。

 事業収益と税収との違いは、期間損益に基づくか、現金主義に基づくか、即ち、単位期間内での費用対効果を基準とするのか、単位期間内の資金収支を基にするのかの違いである。

 事業収益に基づく公共事業と税収による公共事業との差は、有料道路と一般道路の違いによく現れている。
 税によって賄われた一般道路は、収益に必要な処置や設備は不要である。又、費用対効果を計測する必要がない。故に、期間損益という思想に結びつかない。
 それに対し、有料道路は、常に、費用対効果が計測され、費用対効果が釣り合わなくなると強制的に廃止される事になる。
 ただし、有料道路による国家からの補助は、収益や負債的な働きではなく。資本的な働きがある。

 民間企業を政府が救済することの是非が社会問題化、政治問題化しているが、最後に問題となるのは手法である。当座問題になるのは資金不足である。民間企業が行き詰まる最大の原因は資金不足だからである。一時的に資金手当をすれば事は片付くのか。何等かの補助金を出すのか。又は、何等かの債務保証をして、借入の補助をするのか。資本を注入するのかである。
 しかし、いずれの策も収益の改善が見られなければ、民間企業として再生することはできない。その場合、国営化、公共化する以外に手立てはない。
 補助金や国家保証、債務保証は、収益の改善には、結びつかない。なぜならば、補助金や債務保証は、資金上の問題であって損益上の問題ではないからである。収益に計上できなければ費用に結び付けて費用対効果を測定することは不可能である。恒久的に資金を補助することは、増資と同じである。ただ、増資と違っているのは、取り分や経営権に制限が加えられることである。

 故に、政府が民間企業を救済する、これは、金融機関が企業救済する場合も同様だが、収益の見通しが立たない限り、効果を期待することはできない。問題の本質は、その企業が収益の悪化に陥った原因であり、それが経営者の手腕の問題なのか、不可抗力の問題なのか、即ち、技術の様な内部要因に依る問題なのか、環境、状況のような外部要因による問題なのか、或いは、外形、現象的問題なのか、構造的な問題なのかなのである。

 現行の財政の原則は、第一に、現金主義、第二に、単年度均衡主義、第三に、予算主義、第四に、法定主義(事前承認主義)、第五に、租税法律主義、第六に、公開主義である。

 会計の原則は、事後主義、結果主義である。即ち、経営者は、結果に対して責任を持たされているが、事前の予算に拘束されているわけではない。事前に与えられているのは、権限であって予算ではない。そうしないと状況の変化に対応できなくなるからである。
 それに対し、財政の原則は、事前承認主義であり、法定主義である。予算が予め決められていて、その範囲内でしか、予算の執行者には、権限が与えられていない。

 財政で問題なのは時間である。現金主義にせよ、単年度均衡主義、予算主義にせよ、法定主義にせよ、時間の捉え方が違うと百八十度違った体系になる。
 国家百年の計と言われるが、国家が、国家の目的を実現するのには、遠大な時間を必要とする。短期的な視野では、国家目的は実現できないのである。
 つまり、財政で重要なのは、時間の捉え方である。

 財政と会計とのこの根本的な違いは、財政の成立起源に原因があると考えられる。

 今日の財政思想の根幹は、財政が成立時点において成立した考え方や前提が本にある。その際たる者は、歳入に対する考え方である。

 現代のような財政思想の根幹がどの様にして成立したのか。それは、財政が成立した起源に遡る必要がある。

 財政は、当初、宮廷官房と軍事費の目的で生じた。宮廷官房とは、宮廷を維持するための経費である。その為に、税を課したのである。そして、税の不足分は、国債を発行して補ったのである。
 その為に、税収と歳出が深く関わることとなる。また、事業収益の認知がされない原因ともなっている。

 また、公式に国家に認められた紙幣は、税だけでは、国家の経費が賄えなくなったときに税収を補う目的で国の借金を元に生じた。

 近代国家を成立させた要因として、戦争と税、そして、国債があげられる。そして、その根本は財政破綻である。財政破綻は今に始まった事象はない。

 戦争、そして、税金や国債の問題が民主主義を成立させたと言っても過言ではない。

 そして、国会の設立と独立、司法の独立といった三権分立という制度の確立も財政問題に深く関わっているといえる。つまり、国家権力に対する不信感が根っ子にあり、国家財政を厳しく監視するという目的で財政原則は設定されているのである。

 この様な国家認識は、君主主義国家や封建主義国家の下で形成された。しかし、現代の日本は、君主主義国家ではない。国民国家である。建国の前提理念が違うのである。当然、国家に対する認識も改めるべきなのである。逆に、意味もなく反権力的立場や反国家主義、反体制的立場をとり続けることは、君主主義国家の時の思想に囚われている証拠なのである。負け犬根性である。

 国民国家が、一般国民の合意の上に成り立っていることを前提とすると権力を全て否定するわけにはいかない。国家の主権は統一されたものでなければ国家は分裂してしまうからである。故に、国権の発現は、単一な主体でなければならない。

 国家という概念は、国民という概念と表裏を成す概念である。つまり、近代的な概念である。それ以前は、特定の王族や貴族、領主、君主と臣民、奴婢という関係しかなかった。しかし、国民国家の前提は、君主国の前提とは違うのである。国家に対する忠誠といっても特定の個人や一族に対する忠誠を指すわけではない。国民国家に対する忠誠とは、主権者である国民に対する忠誠であり、国家理念に対する忠誠である。
 当然、国民を主権者とする事で成り立っている国民国家においては、権力に対する認識を変えなければならないのである。反体制、反国家一点張りでは、国民としての責任を果たせなくなる。国民が自らの意志で建国をしたそれを前提としているからこそ、国民国家においては、国民に権利と義務が課せられているのである。権利と義務を行使して国家権力の暴走を抑止することが国民としての最低限の責任なのである。その為に、国民国家では、国民には、より積極的に国政、特に、財政に関わっていくことが要請されている。

 また、財政原則を考える上で重要な大前提の一つに、環境や状況は絶えず変化しているという事がある。環境、状況は、絶え間なく変化をしていて、完全に予測することは不可能だという事である。つまり、世の中というのは、自分達の思い通りにはならない。それが大前提なのである。
 環境や状況の変化に対応するためには、統一された意思が必要だという点である。
 さらに重要なのは、決断は事前に行われるという事である。そして、決断を実行に移すためには、何等かの権力が必要とされるという事である。
 決定された事象を実際に執行するのは組織であり、組織を動かす力がなければ組織の統一性は保てなくなるからである。そこで重要になるのは、思想なのである。

 権力は一体でなければならない。この事は、財政は、統一された体系でなければならず。又、予算は、統一されなければならないことを意味する。それは、国家理念も統一された体系である必要があり、故に、憲法を必要とし、憲法の無謬性、整合性が問われるのである。
 この様な権力が絶対化すると権力を制御し、権力の暴走を抑制することが妨げられなくなる。故に、三権を分立し、相互牽制を働かせるべきだという思想が生まれてきたのである。そして、民主主義というのは、この権力の仕組みの在り方をそして言う。即ち、要件定義に基づく体制といえる。
 この民主主義の前提から、財政の原則は導かれた。しかし、現在、その民主主義の前提も見直されるべき時代に入りつつある。国民の主権が確立された以上、反権力的な思想だけでは、国権の維持がむずかしくなってきたのである。

 確かに、税は、国家を運営するための必要経費、又は、軍事費を賄う目的で生じた。しかし、税が国家の必要経費を支払うための原資だというのは、錯覚である。

 この様なとらわれが財政原則を歪めている。財政原則は、財政本来の働きから求められるべき原則である。

 財政は、反体制、反権力的な思想では成立しない。思想信条の自由は、否定しない。個人的に反体制、反国家、反社会的、反権力的な思想、無政府主義的思想を持つことは容認されるかもしれないが、それが国家の中枢を担う者が国政上において実現しようとする事は容認できない。それを容認すれば国家は解体してしまう。国家に対する叛逆だからである。
 現代の日本は、その反権力、反体制、反国家、反社会的な思想が国家の中枢に蔓延している。それが財政の危機を招いている一因でもある。

 起源と働き、機能とは必ずしも一致するとは限らない。そして、現実には起源よりも働きの方が重要なのである。つまり、なぜ、税は、生じたかよりも、税は、どの様に作用しているかが、重要なのである。

 重要なのは、財政の働きである。財政が国家経済に対してどの様な働きをしているかである。その観点から財政原則は見直す必要がある。

 財政で、税の働きで重要なのは、所得の再配分と通貨の回収であり、公共投資の働きは、通貨の供給である。金融政策の働きは、時間価値の管理にあるといえる。
 国防や防災のように費用対効果が直接的に計れない様な事業と行政サービスのように費用対効果が計測な事業とは、区分して考えるべきである。

 費用対効果の関係を明らかにするためには、行政サービスは、事業収益に基づき、国防や防災は、税に基づくというように収入源を支出に結び付ける必要がある。それは、収入源によって費用対効果を測定する場所や手段に違いが生じるからである。 

 予算主義は、財政の根幹をなす思想である。しかし、現行の予算制度は、予算主義に対する誤った認識に基づいている。。
 予算主義に対する誤った認識とは、予算主義は、単に予算に基づく財政だという認識である。そして、予算そのものを立てる過程のみが重視されることである。又、一度立てた予算は、変更することの出来ないものだという認識である。
 予算主義の基盤は、予算そのものを指すのではなく。予算の根底にある国家事業だと言う事である。予算主義の本質というのは、国家事業を遂行するための手段として予算を活用することにある。予算に囚われたら、予算の本質が見失われるのである。そして、この誤った予算主義と単年度均衡主義が財政破綻の元凶なのである。

 与えられるべきは、権限であって、拘束性の強い予算ではない。予算は予算であって、前提となる数値は、予測、推測の域を出ないのである。予算に囚われれば状況に合わせた迅速な行動がとれなくなる。だから、会計は、事後承認型の決算主義なのである。確かに、会計は、不正を全て妨げることはできない。しかし、それは、事前承認型の予算主義でも同じである。仮に、民間企業で株主総会で決議されて予算通りの経営しか許されていないとしたら、どんなに優秀な経営者でも経営は立ちいかなくなるだろう。

 単年度均衡主義には、時間の作用が働かない。単年度均衡主義を維持せんが為には、結果的に現金主義を採用せざるを得ない。それが期間損益との決定的に相違である。

 単年度均衡主義は、国家事業という観点からして当初から無理がある。先にも述べたように、国家百年の計というように国家的事業というのは、遠大な計画の基に行われるべきものである。一時の景気対策という目的だけで行われるべき事業ではない。それでも、計画の速度を加減するだけで充分景気対策に対応できる。ただ目先の利益だけで公共事業を決める事は、百害あって一利なしである。

 結局、財政赤字で最後に問題になるのは、財政規律が失われることである。つまり、際限がなくなりだらしなくなるという事である。そして、通貨の制御ができなくなることである。

 また、財政規律が失われることに依る深刻な問題点の一つは、資金の流れに偏りが生じ、格差や社会的不公平の原因となる事である。

 財政の問題は、収益と収入が直接結びついておらず、その為に、因果関係から財政規律を保つための仕組みがないという事である。即ち、収入から支出を抑制する作用が働かないと言う点にある。
 この問題点は、会計制度では、期間損益を確立する事によって費用対効果を計測することを可能とすることによって解決した。故に、財政でも期間損益を採用するか否かが焦点となる。

 期間損益上の赤字と言った場合、収益から費用を引いた差額がマイナス、即ち、収益より費用が大きい場合を言う。
 財政赤字という場合、税収から歳出を引いた数値がマイナス、即ち、税収より歳出が大きい場合を言う。歳入から歳出を引いた数値がマイナスした場合を言うわけではない。歳入から歳出を引いた数値がマイナスしたら、それは財政赤字ではなく、財政破綻である。現在は、税収のみを正当的財源としている。国債や事業収益は、補助的な財源という位置付けである。故に、税収から歳出を引いた値がマイナスすれば財政赤字とするのである。

 歳入を決定するために働く要因と歳出を決定するために働く要因は違うと言う事を念頭に置いておく必要がある。その因果関係を明らかにするために、会計、即ち、期間損益が考案されたのである。

 現代の経済で問題になるのは、経済の専門家は、会計に詳しくなく。会計の専門家は、経済を知らないという事である。

 財政上の赤字とは、税収に対して支出が多かった場合か、税収に事業収益を加えた値に対し、支出が多かった場合を指して言う。

 財政赤字を改善する手段は、税収や事業収入を増やすか、支出を減らすかしかない。ただ、厄介なのは、支出を減らすと税収も減少することがあるからである。つまり、個々の要素が相互に結びあっているという事である。故に、対策は、複合的、構造的な施策にならざるをえない。

 財源不足を単に税制を変えることで補填しようとする発想は危険である。税収は、単に内部要因だけで決まるのではなく。経済情勢という外部要因によっても左右される性格があるからである。予算の都合だけでは、税収は決められないのである。

 税の効果は、税制度自体が発揮する場合がある。税制は、景気を発揚したり、抑制したり、また、所得の再分配の機能を制度自体が持つ。景気を調節する機能を税制度に持たせ、経済制度に組み込むことによって景気の調整機能を制度に持たせることもある程度可能である。又、税制を変えることによって産業の在り方や消費の構成を変化させることも可能である。その為には、税制を設計する際は、税をどの部分にどの様に、どの程度化すべきかが重要となる。

 又、税制を考える上で重要となるのが、税の目的と使い道である。税は、どの様な目的で課せられ、どの様な理由で徴収される。

 問題点の一つは、財政、会計、家計との間に制度的連続性がないという事である。当然制度的整合性もない。その為に、税制が折衷的な制度になっている。
 財政、会計、家計の間に制度的整合性がないと税の効果、即ち、税が会計や家計のどの部分にどの様な作用があるのかの因果関係が断ち切られてしまうことになる。さらにそれは、税制度が生産や消費の局面に対してどの様な影響があるのかを不明瞭にしてしまう。経済にたいする税制度の直接的な影響を、測定することがむずかしくなる。
 また、財政、会計、家計情報に整合性がないために互換性がないという事にもなる。

 税収は、収益と資本を一緒にしたような性格がある。税収は、返済する義務を持たない資金という性格上資本に近い性格を持っている。また、費用と直接結びついていないと言う点において収益とは異質である。資本には、元金と利益という二つの意味が隠されているが収益から費用を差し引いた値である利益とも質が違う。故に税収は、元本に近い性格を持つ。
 税収というのは、収益、即ち、売上という概念になじまない点がある。それは、収益は、常に、費用対効果を測定する目的によって成立した概念であり、利益という概念の基礎となる概念だからである。
 税は、その徴収手段や徴収対象、徴収場所という点から費用対効果に結び付けにくい性格がある。費用対効果の関係が成立するためには、取引の存在が前提となるからである。税は、取引によって生じるものではない。ただし、税制の前提に、国家と国民という関係が存在することを忘れてはならない。この関係は、財政が成立するための大前提でもある。

 現行の財政政策は、国債は、国の借金だから悪いとし、税収に拘っていると歳出の削減に拘っている。拘っているから、財政赤字が問題となるのである。拘らなければ、もう少し、国債に対して柔軟になれる。ではなぜ、税収に拘るのかである。

 財政の働きを考える上で、財政規模が経済全体の規模に占める割合、比率が重要なのである。

 次ぎに、財政赤字を補填するためにどの様な手段があるかである。増税をして増加した税収で補填するのか、又、事業収益を増やすか、支出を減らすか、国が借金をすることである。其の中で国が借金をする場合に発行されるのがそれが国債である。国債以外には、直接国が紙幣を発行する手段がある。

 民間企業が資金繰りにつまった時とる手段が、第一に増資等による資本の増強、第二に、収益の改善、第三に、支出の削減、第四に、遊休資産の売却、第五に、借入、第六に、債務の圧縮、減免である。財政も同じである。ただ、民間企業と違うのは、国家は、通貨制度を掌握しているという点である。

 究極の手段としては、政府が直接紙幣を発行して国債を買い取ることも理論上は可能である。しかし、その時問題になるのは、財政規律と通貨の流通量である。強引に実行すれば、通貨制度の根幹を揺るがしかねない手段である。よくよく慎重にしなければならない。
 政府の借金と言うが借金する相手が国民である場合、貸出主体と借入主体が同一であることを意味する。それが家計上、会計上の借金と違う点である。そして、これは決定的な違いなのである。

 国債を問題にする時、量ばかりを問題にするが、量が示すのは、位置である。国債の総合的な働きを知るためには、位置だけでなく、国債による運動、働きと国債と他の要素との関係による働きを明らかにする必要がある。国債の量的な部分だけでなく、資金の流れる方向やそれによって生じる働きも重要なのである。

 資金の働きを考える時、負債によって発生する資金の流れの方向が重要となる。資金がどちらの方向に向かって流れているのか、運用の側に向かって流れているのか、回収側に向かって流れているのか、又は、実物市場に向かって流れているのか、金融市場に向かって流れているのか、資本市場に向かって流れているのか、労働市場に向かって流れているのかが景気対策には重要な要素となる。そして、景気対策の鍵は、どの方向に向かって資金の流れを誘導し、促すかにある。

 突き詰めてみると財政最大の役割は通貨管理である。通貨管理とは、貨幣価値の安定と通貨制度の維持にある。通貨制度は、一つの通貨圏に一つの体系を持つ。言い換えると、一つの通貨制度は、一つの通貨圏を形成する。

 通貨制度の維持には、他の通貨制度との接合と自通貨制度の独立性の維持にある。その為に通貨準備制度、決済制度の整備が要求される。その上に、通貨政策が執行されるのである。

 通貨管理は、主として、通貨量の管理をいう。その為には、国債残高や金利よりも通貨の発行残高が重要となる。

 何が国家国民にとって必要なのかを中心に考えるべきなのである。


    
産   業

 なぜ、経済問題を考える時、産業の構造を産業の性格を問題としないのか。それが経済問題を難しくしている最大の原因である。

 産業の構造には、象と形と相がある。
 又、産業を構成する原因には四つある。則ち、形相因、質料因、作用因、目的因である。

 産業や産業を構成する企業の働きを理解しようとしたら、先ず、産業や企業の形と相を診る必要がある。産業や企業には、産業や企業を成り立たせている形とその時々の現れる相がある。形には、目に見えない象(かたち)と外に現れる形がある。

 形を診ると言う事は、表に現れる変化と変化しない部分をとを見極め、変化を引き起こしている要因を明らかにすることである。変化にも表に現れている変化と、表に現れない変化がある。

 また、形や相、則ち、形相には、人的な形相、物的な形相、金銭的な形相がある。更に、経済現象には会計的な形相がある。それをよく見極めることが肝腎である。

 個々の産業には、各々、固有の形と相がある。そして、その形と相によってとられるべき政策にも違いが生じる。前提条件や状況を無視して一律に規制を緩和し、無原則な競争を強いれば均衡状態に達するというのは野蛮な考え方である。大体、その場合の均衡状態というのは、独占、寡占状態を指して言う。
 例えば、需要にも形と相がある。必需品、消耗品のように継続的に一定の需要がある財もあれば、贅沢品や耐久消費財のように需要に波があったり、周期がある財もある。又、流行品みたいに一つの山しかない場合もある。

 産業の性格は、形相によって形成される。特に時間的形相によって決まる。形相の違いは、時間が陰に作用しているか、陽に作用しているかの違いである。時間が陰に作用している象(かたち)を形と言い、陽に作用している象を相というのである。

 産業の形相の根本は、人生の形相である。人生の形相は、人生の形相は、暮らしの形相であり、暮らし、生活の形相は家計の形相である。家計の形相は、消費の形相であり、所得の形相である。所得の形相は、企業の形相であり、企業の形相は、産業の形相である。産業の形相は、国家経済の形相である。

 産業の形相を知るためには、産業を分類する必要がある。産業の分類には、第一に、産業の働きの基づく分類の仕方がある。第二に、産業の位相、形相による分類がある。第三に、産業の性格に基づく分類がある。

 位相というのは、時間の変化や次元の変化によって表れる相を言う。

 産業には、第一に、水平的構造と第二に、垂直的構造、第三に、時間的構造がある。その水平的、垂直的、時間的構造の個々の局面における相を位相という。

 例えば、自動車には、基盤、製造、販売といった次元がある。それらの次元には固有の形や相がある。また、派生的に、部品とか、加工といった次元が生じる。また、中核企業に、下請け、子会社、特約店といった階層的な産業構造がある。階層を構成する企業群は、固有の構造を持っている。これらの要素が複雑に絡み合い、組合わさって産業は形成されている。

 市場を基盤とした現代自由主義経済体制下における産業は、会計的空間に成立した企業の集合体である。
 この様な個々の産業は、固有の構造と特性を持っている。そして、産業に対する施策は、個々の構造や特性を前提として成されなければならない。
 これが大前提となる。
 又、集合体である産業は、部分と前提から成る。則ち、部分と前提には、部分としての働きと全体としての働きがある。しかし、全体としての働きは、必ずしも部分の働きの総和として捉えきれるものではない。

 産業は、部分も全体も自律的に機能しなければ維持できない。産業が有効に機能するためには、部分が自律的の機能する必要がある。部分が自律的に機能しなければ、全体の機能も維持できない。
 財政が破綻する原因は、財政を機能させている期間、則ち、国家機関が自律的に機能しなくなるからである。国家機関には、多くの制約があり、部分が自律的に機能することが阻害されている場合が多い。その為に、国家を構成する部分が自律的に機能できなくなる。それは、官僚機構を構成する者の資質の問題と言うより、構造的問題、又、仕組みの問題だといえる。
 自律的機能を発揮するためには、双方向の働きが必要なのである。組織が巨大になると双方向の働きが失われ、一方通行の働きに陥りがちである。一方通行の働きでは、組織上で情報が循環しなくなる。全体の関係は、情報が循環することによって維持されている。なぜならば、全体は、斥力と引力の均衡によって保たれているからである。

 そして、産業の構造には、人的な構造、物的な構造、貨幣的構造がある。それらを統合したところに会計的構造が成り立っている。

 現代経済は、人的経済、物的経済、貨幣的経済の三つの要素によって成り立っている。そして、この三つの要素を結び付けているのが現代会計制度である。複式簿記、会計は思想である。

 経済は、生きる為の活動である。決して、金儲けのための活動ではない。金儲けは、貨幣経済体制下において生きる為に必要な手段であり、生きる為の目的ではない。金儲けは、生きる為の手段として重要である。しかし、金儲けを生きる目的にすれば、人間は、手段に隷属することになる。貨幣経済を成り立たせているのは、貨幣だけではない。

 現代貨幣経済を構成する要素は、人的経済、物的経済、貨幣的経済の三つである。この三つを結び付けているのが、近代簿記、会計である。

 経済の本性は、生きる為の活動である。即ち、人的経済というのは、生活を基盤としている。生きる為の活動が、暮らし、則ち、衣食住が人的経済の基盤である。そして、今日、自己実現がそれに加わった。それが娯楽や趣味、教育に関連した活動である。

 人的経済は、組織の経済でもある。いかに人を組織化し、最大限の効率を引き出すかの経済である。それが人的経済である。組織の根本は分業である。又、評価である。分業や評価は、労働と分配とを結び付ける仕組みでもある。

 貨幣経済では、分配は、所得の形で支払われる。即ち、貨幣収入である。産業には、所得を定収入化させる働きがある。

 産業には、収入の定収入化、則ち、平準化という役割、機能がある。定収入には、固定的という側面と一定という側面がある。
 収入が安定し、貨幣化されることで借金の技術が発達した。借金の技術の発展が投資の技術の発展に結びついていたのである。

 借金の技術の発達が、資本主義経済の礎を形成した。資本主義というのは、資金の調達側から見るとと借金と投資の経済といえる。

 投資は、資本の元となる。負債と資本の違いはどこにあるのかというと、基本的な違いはない。資本は返済する必要のない資金に対し、負債は、返済を前提としているという事になっている。しかし、実際には超長期の借入金というのは、限りなく資本に近い。

 投資と借金の効果を知るためには、資金の流れる方向が重要となる。資金の流れる方向は、産業を構成する企業の総資本・総資産の総和の増減を見ると解る。
 即ち、総資産が増大している時は、投資側、運用側、即ち、借方側に資金は、流れ。総資産が縮小している場合は、返済側、回収側、即ち、貸方側に資金は流れているのである。
 回収側に資金が流れていれば、公共投資によっていくら資金を供給しても実物市場に資金は流通しない。

 投資を問題とした場合、物の経済を理解する必要が生じる。物の経済は、財の生産、流通、貯蔵、販売、そして、消費に関わる経済であるからである。いずれにしても、設備投資を前提としている。

 物の経済で重要なのは、償却と所有の概念である。その対極に投資と借金、則ち、融資がある。償却と所有の概念は、資産と債権を構成する。投資と借金は、負債と債務を構成する。それが貸借対照表の土台となるのである。

 自前の資金で設備投資をした場合、減価償却費が発生しないと言うのならば、話は別である。かなりの原価が削減できる。しかし、設備投資を自前の資金で賄ったとしても減価償却費は生じる。それが、会計の決まりであり、仕組みなのである。しかも、この決まりや仕組みは税制によって裏付けられている。

 金融機関は、元本で利益を上げているわけではない。金利で利益を上げているのである。その意味で金融機関は、元本を返済されると元も子もなくなるのである。
 ただ、減価償却費は、資金流失のない資金だという誤解がある。確かに、減価償却費自体は、資金支出を伴っていない。しかし、その代わり、元本の返済は、費用化されていないのである。

 ただ、問題なのは、金融機関や経済政策当局である。金融機関が、不良債権の解消策として、或いは担保不足を理由に、元本の返済を強要したら、ただでさえ、資金にゆとりのない企業は、資金不足を引き起こし、多くの企業は黒字倒産を引き起こす。それが貸し剥がしである。企業は、余剰の資金を蓄えておけない仕組みになっているのである。この様な元本の返済を強要されることで生じる破綻は、経済政策者の誤謬が原因である場合が多い。

 投資によって生じる債権が、固定的資金か、短期的、流動的な資金かを見極めることが重要なのである。

 借り手も買い手も固定負債は、借り換え(リファイナンス)を前提としている。つまり、長期負債は、企業経営の継続を前提とした資金だと言う事である。
 長期固定資金というのは、企業経営が継続している限り保証されている資金だと言う事が前提となっている。
 それを裏付けていたのが従来は、資産、則ち、担保資産の価値の上昇だったのである。
 そして、高度成長期においては、物価の上昇によって解消される負債だったという事である。
 返済圧力といわれるのは、この長期負債の元本に対する圧力であり、金融機関が借り換えに応じなくなることを意味している。

 問題は、返済圧力が強くなる原因、理由である。
 返済圧力が強くなるのは、所謂、担保資産が不良債権化することによって担保余力が小さくなったり、逆に、物価上昇によって調達資金が増大したのに対して、資産価値が相対的に不足した場合や収益が悪化した時である。いずれの場合も当然資金が不足していることに起因する。

 地価が下がったという理由で住宅ローンを一括して返済しろと要求されたり、失業したという事が原因で一括返済を強要されたら大変である。しかも、一度も返済を滞ったことがないとしたら、それは、明らかにルール違反であり、横暴である。

 固定的、長期的資金というのは、リファイナンスを暗黙に前提としているのである。問題は、企業経営における前提を無視して、その暗黙の前提を前触れもなく、突然、崩すことなのである。

 固定的負債が限りなく資本に近く、元本の返済が原則的に保留されているとしたら残されているのは、金利と配当である。しかし、これも本質的な差とは言えない。
 あるとすれば、資本による経営権の支配である。

 いずれにしても、今日の経済は、借金で成り立っている。借金の是非は別にしても、借金がなくならないとしたら、借金と上手く付き合っていく必要があるのである。そして、借金、則ち、負債の意義と役割、働きをよく理解する必要があるのである。

 決算書上に表れる数字というのは、ある意味で形骸である。つまり取引の痕跡に過ぎない。実際に取引によって生じた現金や財は、決算上に表された時には、決算上に表れた数値とは違った価値を形成している。時間が経過すると痕跡は、実体と乖離していく。
 市場取引は、資金を媒介として成立している。取引の効果、働きは、資金の流れを把握しないと理解できない。ただし、ここで言う資金の流れというのは、キャッシュフローとはちがう。一般に言うキャッシュフローというのは、資金が流れた結果を表したものである。しかし、資金の流れとは、資金の流れそのものを指す。
 例えば、会計上の負債は、借入金をさすが、金の流れから言うと金を借りて、物を買うという一連の取引が通常は隠されている。つまり、多少の時間差はあるが、借り入れた資金は、お釣り以外残っていないのである。残っているのは、債務と債権である。つまり、取引というのは、一定の貨幣の運動によって成立した貨幣価値と同量の債権と債務を生じる行為なのである。
 言い換えると融資は、借りて買うのか、投資は、権利を売って買うのである。そして、買って売るのである。これが、経営活動の基本運動である。
 そして、企業の内部に残って物、債権の価値と調達した資金の量と債権の量の差が純資産になる。
 問題なのは、この債権、債務が形成される過程と、どの様に、処理され解消されるかの手段である。それが経済体制の有り様まで左右する。
 例えば、個々の企業が持つ負債が生み出す資金の流れる方向と量が景気の状態を生み出すのである。故に、経済政策は、資金の方向と量を見極めた上で立てなければならない。

 現代の産業が会計的空間に成立する以上、会計の働きを理解することが産業に対する施策をする上での前提となる。

 会計は、形式である。言い換えると会計は、形式によって成り立っている。現代人は、形式を封建的として否定的にとらえる傾向がある。しかし、形式を軽視しては成らない。形式の弊害は、形式が形骸化することによって生じる。本来、科学も民主主義も形式である。形式主義である。今日の科学や民主主義の弊害は、科学や民主主義の形式が形骸化したことにある。
 会計は、形式によっなりたっている。故に、会計の形式を理解することが重要となる。
 これも大前提である。

 又、会計上の事象は、定義によって成り立っている概念である。実体的事象ではない。
 会計上の概念が定義によって成り立っているという事は、何等かの合意に基づく事を意味する。つまり、会計上の概念は合意がなければ成り立たないことを意味している。そして、この様な合意は、国家権力によって保障されていなければならない。
 例えば、利益や資産、負債という概念も合意を前提として成立している。そして、それらの概念は、税法や商法、金融商品取引法といった法によって強制されている。
 この様にして成立した会計上の概念は、現金収支による概念とは異質な概念である。故に、貨幣的経済と会計的経済は別次元の経済である。

 なぜ、土地は減価償却しないのか。会計の教科書を読むといろいろな理由が書いてある。しかし、理由は、明確なのである。則ち、そう言う取り決めがされたからである。
 基本は、取り決めであって物理的現象のような所与の法則ではない。そこには、何らかの意図がある。それが会計原則や基準である。

 産業は何によって成り立っているか。会計的に言えば利益と言う事になる。ただし、利益というのは、会計上の概念である。真理のような絶対的なものではない。又、自然現象のような客観的事象ではない。人為的に設定された基準によって導き出された値である。自然現象と経済現象を同一視することはできない。これも、重要な前提条件の一つである。

 利益は、会計的概念である。概念とは、定義された命題から論理的に導き出された命題なのである。利益とは、会計的に定義から論理的に導き出された命題である。即ち、利益は、自然の法則のように所与の原理ではない。合意や契約によって制度的に定められた基準に基づいて算出された数値なのである。利益は、絶対的な値ではない。あくまでもその前提となる会計制度に基づいて導き出された結果である。則ち、利益とは形式的な値である。
 利益は、会計基準によって変化する相対的値である。しかも形式的な値である。つまり、利益を設定するのには、何等かの目的、言い換えると利害が絡むのである。利益というのは思想の産物なのである。
 中でも、一番大きな思惑は、徴税者の思惑である。そして、税の在り方が経営には決定的な作用を及ぼすことを忘れては成らない。即ち、税とは合目的的な制度なのである。目的や機能の不明瞭な税制は、経済体制を破綻に導く。常に、為政者は、税の効果と働きに目を光らしている必要がある。

 利益の指し示す値は、費用対効果の関係である。
 日本では利益は、五段階で表示される。この利益の表示の仕方も国によって違う。三段階、四段階で表示する国もある。要するに任意の問題であり、どの様に表示するかは、その国の政治の問題である。
 利益をなぜ、段階的に表示する必要があるのか。それは、段階毎の費用対効果の関係を明らかにしたいからである。そこに、利益をあげる、或いは、利益があがらない仕組みや原因が隠されていると考えるからである。
 今日、会計基準を国際的に統一しようと言う気運がある。しかし、それはその国の経済的根幹を揺るがす大事であることを見落としては成らない。

 期間損益を考える上で忘れてはならないのが、貸し借りの関係である。元々、期間損益は、損益という思想と貸借という二つの思想からなるのである。損益と貸借というのはある意味で違う思想に基づいているのである。それは、損益が期間の動きを表しているのに対して、貸借は、ある一時点の状態を表していることからも伺い知ることができる。
 貸し借りの関係は、使用権と所有権の分離を意味する。使用権と所有権が分離すると所有権から時間価値が生じる。その典型的なのが金利や家賃である。財産は、ただ所有するだけでは利益は生まない。しかし、財産を他人に貸すことによって利益を生み出すようになるのである。この様にして生み出される利益は不労所得として見なされ、問題視される。
 同時に、貸し借りの関係が企業収益の前提を形成するようになる。

 自前の資金で設備投資しても利益には反映されないのである。それが会計上の決まりである。そのお陰で、自己資金で起業した者と借入で事業を興した者との差が極端に生じないのである。これが自由競争の前提である。

 自前の資金だけで、則ち、無借金で設備投資した場合、減価償却費はどこへ行くのか。それは、主として内部留保である。内部留保は期間損益には反映されない。内部留保は、資本に還元される。資本が威力を発揮するのは、清算される時である。継続を前提としている企業では、それは含み損益として表に出てこない。その含みを表面化させようと言うのが、時価会計制度である。しかし、時価を期間損益に反映することは、本来、期間損益が目的とする一定期間における営業活動の成果の算出という事から逸脱する危険性がある。
 又、資本は、株式取り分を意味する。費用対効果には直接関係しない。資金調達、則ち、貸借上における貸方の事象なのである。

 産業は、会計的空間に成立しているとはいえ、産業を成り立たせているのは、会計的な働きによるのではない。
 産業を成立させている要素には、人、物、「お金」がある。「お金」と会計的概念とは異質のものである。この点を注意しないと錯覚に陥る。「お金」の問題と会計の問題は違う。

 産業を会計的に分析する場合、最初から損益、貸借に分離するのが一般的である。しかし、本来、損益、貸借は一体のものである。会計的現象の全体を理解する上では、損益と貸借を最初から分離して考えるべきではない。先ず全体像を掴んだ上で、個別の問題に目を向けるべきなのである。

 会計制度を設計するにあたり、充分に考慮されなければならないのは、会計が経済に与える働きである。つまり機能である。一定の勢力が自己都合によって会計制度を歪めることは、経済現象全般に悪影響を与える。
 会計制度の在り方というのは高度に政治的問題なのである。

 会計制度を設計する場合重要になるのは、経済の仕組み、中でも市場の仕組みの目的と働きである。会計上の利益は指標であり得ても、目的化させてはならない。利益が目的化される原因は、利益の持つ意味を理解しないで、利益を絶対化することである。この様な利益市場主義に陥ると市場も経済も硬直化してしまう。期間損益が指し示す経済的意味を正確に読みとり事が肝腎なのである。

 会計制度の働きを理解する為には、会計的結果が、何を意味し、経済の仕組みにどの様な影響を及ぼすこと知る事である。会計基準を何等かの真理、原理と同一視、経済的な働きや機能を全く無視して絶対視すると経済は、硬直化して破綻してしまう。しかも、当事者には原因が把握できなくなる。それが最も危険な行為であることを忘れては成らない。会計基準はあくまでも人為的な基準なのであり、その時点、状況において最も適切な基準を選択すべきなのである。

 産業の基本運動は、回転である。又、経済は、相対的な価値によって成り立っている。故に、産業の基準は、回転と比率である。利益は、回転運動の過程であらわれる相対的比率、或いは、費用と成果の差である。

 回転運動は、人、物、金、各々にあり、各々が違う周期を持っている。それが経済現象を複雑に見せているのである。

 形は、構成比率として現れる。相は回転率として表される。則ち、構成比率と回転率は、固定性と流動性に還元される。

 資金は、流体である。産業には、長期的資金と短期的資金の流れがある。長期的資金は、固定的働きを短期的資金は、変動的働きを形成する。

 損益を分けるのは、固定費と変動率の比率である。産業の性格を決定付けるのは、固定比率である。つまり、固定性と変動率の違いは、産業の特性を定めるのである。

 資金は、一カ所に止まることなく。信用を創出しながら流れていく。信用というのは、ある意味で資金が流れさった後の痕跡、抜け殻であり、資金的裏付けがあるとは限らないのである。

 また、貸借増減運動が資金の流れる方向を定める。

 名目的価値と実質的価値比較して、値が大きい方に向かって資金は流れる性格がある。貸方は、名目的を表示し、借方は、実質的価値を暗示する。

 重要なのは、フリーキャッシュフローの構成とその使い道、運用先である。フリーキャッシュフローの使い道が新規投資や更新投資であれば、資金は、運用の側に流れる。借入金の返済であれば、返済側に流れる。

 初期投資は、資金を運用側に流し、以後は返済方向に流す。公共投資の効果を測る場合は、この資金の流れる方向が重要な要素となる。

 資産でも、株でも表示された価値があることが重要なのである。則ち、資産は、実際の取引が成立しない限りは、名目的価値しか表示できないのである。

 一定の利益を確保しようとした場合、一定の利益率と回転率を維持する必要がある。逆に利益を上げようとした場合は、利益率を上げるか、回転率を高めるかしかない。利益が減少した場合は、利益率が減少するか、回転率が落ちたか二つの原因が考えられる。
 現在の市場経済では、利益率は、常に圧縮圧力がかかっている。利益を確保する為には、回転率を高め様とする傾向がある。

 産業には、段階や次元、局面の別がある。そして、個々の段階や次元、局面に形相がある。
 例えば、段階には、創生段階。発展段階、成熟段階の別があり、局面には、拡大局面、縮小局面などがある。又、次元には、製造とか、販売と言った次元がある。

 相として顕在化した現象に対してどの様な形に、どの様にして変えていくかが重要なのである。




   
産業の実際

 現代の経済は、産業によって成り立っている。産業が栄えなければ経済は成り立たないのである。その点を現代の日本人は、どこかに置き忘れているように思えてならない。自国の産業が衰退するような政策を平然と支援する。経済の安定は、産業の安定に他ならない。

 経済は、現実である。経済は、人々が生きていく為の活動である。生々しい出来事である。理想でも絵空事でもない。現代人は、思想に囚われて人々が生きていく為の生々しい現実から目をそらそうとしている。

 経済の問題の根底には、産業の収益の問題が隠されている。経済の根幹にあるのは、産業である。産業が適正な収益をあげられなくなるとその地域の経済は衰退していくのである。
 自由主義経済にしても、社会主義経済にしても、どこか、商売という生業を蔑む風潮がある。経営者や実業家は、不正な行為をして利益を計ろうとしている。或いは、自分の利益だけを追求し、公を蔑ろにしているのではないか。また、人を騙したり、誤魔化すことで利益をあげようとしているのではないか。
 その多くの根拠は、偏見であり、僻みである。確かに、不正をする経営者はいないとは言わない。しかし、大多数の経営者は、真面目に事業に取り組んでいる。倫理観のない指導者の下では事業は継続できないのである。不正に手を染めた経営者でも、望んで不正に手を染めるわけではない。不正をしなければ事業を継続できなくなる様な状況に追い込まれ、不正を行わざるをえなかった場合が多いのである。多くの事業家は志を以て事業をしている。その点を見落としてはならない。
 いまだに世の中には、私的企業を蔑視する傾向がある。その現れは、公益事業の経営者は、赤字を出しても、また、破綻しても責任を問われないが、民間企業の経営者は、私産を没収されり、国民としての権利の一部を制限されたり、最悪の場合、犯罪者にされてしまう。
 大体、最初から公共事業は、利益の追求を目的としなくて良いことになっている。つまり、経営責任は、最初から免除されているようなものである。年金事業が破綻しても誰も責任を問われることがない。民間では考えられないことである。民間で同じ様なことが起これば、経営者のみ成らず管理責任者まで、刑事事件として裁かれかねないのにである。
 多くの経営者は自分の利益のみを追求しているように言われる。しかし、大多数の経営者は、自分達の信念や倫理に基づいて経営をしている。重要なのは、良心的に、或いは、正直に事業を継続していくこうと経営者が思っても、良心的に、正直に経営していたら、資金が廻らなくなる事態に追い込まれることがあるという事実である。
 むろん、不当に過剰な利益や、階級的な格差に繋がるような利益は、許されるべきではない。しかし、多くの経営者は、身を削るようにして経費の節減に努めているのである。
 経済における最大の問題は、産業が適正な利潤をあげられない構造になり、構造不況業種になっていくことなのである。構造不況業種というのは、継続するのも困難であり、尚かつ、清算することもできないと言う状態に陥っている産業である。

 週間新潮2009年10月29日号に75%が赤字で「倒産」続く「ガソリンスタンド」という記事が掲載された。
 資源エネルギー庁が、全国石油協会に委託したガソリンスタンドの経営実態調査(08年度)によると、赤字がほぼ50%で。必要経費を差し引くと赤字に転落する店舗が25%あったという。4軒に3軒は潰れてもおかしくない状況である。96年に特定石油製品輸入暫定処置法が撤廃されて価格競争が激化したことが原因だとしている。そして、このままでいけば、全国153の市町村で無スタンド状態になる怖れがあると書かれている。

 75%のガソリンスタンドが成り立たない市場環境というのは、異常である。しかし、もっと異常なのは、その状況を異常だと感じずに放置する事である。行政も、学者も、言論も異常だとは思っていない。異常だと気がつかないから、異常事態として対処できないのである。なぜ、異常だと思わないのかというと、適正価格、イコール、廉価だと思い込んでいるからである。つまり、安いことが全てに優先しているのである。適正価格と、廉価とは違う。異常に安い価格は、異常なのである。経営が成り立たなくなるような市場環境は異常なのである。
 原因は、特定石油製品輸入暫定処置法が撤廃されて価格競争が激化したこととハッキリしている。しかし、だからといって特定石油製品輸入暫定処置法を復活して競争を抑止しろとは、行政もマスコミも言わない。この点がおかしいのである。原因がハッキリしているのに、原因と対策を結び付けようとする発想が乏しい。
 それは、競争による廉価は、善だという思想が牢乎として彼等にあるからである。

 又、納税申告で黒字企業が三割をきったという報道がされたが、これも異常である。税収が記録的に落ちている時に、95兆円の予算が組まれるというのも異常である。しかし、先に言ったように、それを異常だと思わない方がもっと異常なのである。

 産業や産業を構成する企業には、利潤追求という以外にも目的があり、又、役割、働きがある。むしろ、役割、働きを果たすために、利潤の追求があるのである。
 重要なのは、国家、社会に必要な産業や企業が適正な利潤を確保できるかにある。適正な利潤とは、産業や企業が社会的責任を果たせるために必要な利潤である。利潤の根本的な存在意義は、社会的責任にある。単に、収益−費用、或いは、費用対効果だけで測られるべきものではない。問題は費用の内容であり、働きである。
 社会的責任の中には、雇用の問題がある。つまり、人々に生活の糧を購入するための原資を分配することにある。収入を減らしたり、定収入が確保されなくなることは、消費を減退させることであり、巡り巡って景気を後退させ、企業経営を圧迫する原因となる。人員削減、経費削減だけで企業単体の利益のみを追求することは、合成の誤謬である。
 経営や経済の重要性は、過程にある。つまり、経営も経済も継続性を前提とした行為だからである。ところが、現代経済では、利益も事業も過程を無視して結果でしか判断しない。その為に、経済、則ち、人々の生活が荒廃するのである。産業や企業が存在する根本の意義抜きに、ただ、市場の需給だけで市場価格を決定する仕組みでは、経済本来の機能を発揮することは不可能である。

 最初から、産業や市場を保護しようと言う考えがないのである。その根底には。私的企業は必要悪だ的な発想が隠されている。つまり、企業、産業は保護すべき対象ではなく。取り締まるべき対象だと言う事である。必要な事象は悪ではない。故に、必要悪など存在しない。
 公的機関は、信用できても、私的機関は、信用できない。しかし、経済的結果は、逆に出ている。つまり、公的機関は経済的合理性に欠け、私的企業は、経済的合理性を追求している。だから、今度は、民営化である。そして、競争が原理になる。どうも、発想が短絡的で一本調子である。単純すぎる。極端から極端に飛躍している。

 民営化、市場重視を唱える識者は、何が何でも競争は正しくて、保護や規制は悪だと頭から決め付けている。しかし、重要なのは、経済の役割である。つまり、経済現象間背後で働いている仕組みであり、法則である。
 大体、自然環境ですら保護しなければならないと言うご時世に市場は保護してはならないという考え方自体が理解できない。

 私的企業は、悪であり、できれば淘汰されべき対象であるといった認識である。しかし、産業を成り立たせてきたのは、私的企業であり、それに反して公共団体は非効率な組織であることが明らかにされてきた。そうなると今度は民営化、民営化で、民営化してしまえば何でも解決できるみたいな風潮になる。
 又、競争は原理であり、企業間の競争を煽っていれば何でも解決すると言った乱暴な理念がまかり通っている。しかし、競争は、一つの手段に過ぎない。競争は万能ではない。市場の状況に応じ、競争を促進したり、抑制すべきなのである。何でもかんでも競争させればいいと言うのは、野蛮である。大事なのは加減である。
 そして、重要なのは、産業が成り立っていけるような収益構造を確立することであり、その為の適正価格なのである。何でもかんでも安ければ良いというのはおかしい。

 赤字になるのも然りである。赤字だから悪いと決め付けるのは間違いである。中には、健全な赤字もある。健全だから赤字になるという事もある。問題は、赤字の原因である。原油の高騰や為替の変動という経営者にとって不可抗力の原因で生じる赤字もある。この様な赤字は兆候である。又、業界全体が蒙る赤字もある。個々の企業、経営者の不行跡、怠慢による赤字もある。ただ、正直に努力すれば赤字を回避できるとは限らない。正直だから赤字になることもある。逆にあくどいことをして黒字にする事もできる。今のメディアは、味噌も糞も一緒くたである。

 良い例が、テレビ番組や映画である。視聴率かがとれたり、興行的に成功すれば、何でも許されるとメディアは思っている。倫理的に問題があると指摘された映画でも、興行的に成功しているという理由でうやむやにされた映画がある。反社会的な行動をとるタレントでも視聴率がとれれば、反社会的行動は黙殺される。それがどれ程社会に悪影響を与えてもメディアの人間は、お構いなしである。

 価格を維持しようとする行為は、何が何でも悪い事という印象がある。しかし、販売業者が目玉商品として捨て値で販売する例もある。原価割れを承知で売られ、その為に適正な価格を維持できなくなる事を防ぐことがなぜ悪い事なのであろうか。それは、経済ではなく。奉仕である。

 安売り、乱売ばかりを奨励しても真の競争力は得られないのである。ちなみに、安売り、乱売合戦を煽る、出版界や放送業界は、再販制度や参入規制によって堅く守られているのである。

 日本の産業は、資本主義体制の上に成り立っている。資本主義というのは、近代会計制度上において成立した思想である。故に、近代会計制度が理解できないと資本主義は理解できない。例えば、資本や利益、取引の持つ意味である。資本や利益は、きわめて会計的な概念なのである。資本も利益も会計的に定められた期間損益を前提とした概念なのである。そして、資本主義経済では、期間損益が経済現象の根本を成している。

 損益というのは、経済的な指標の一つである。赤字だから倒産するのではなく。資金の供給が断たれるから倒産するのである。

 借金や損失を単純に善悪の基準に当て嵌め、借金や損は悪い事だと決め付けてしまう傾向がある。しかし、借金や損失を善悪の基準で推し量ると過剰な反応に陥る危険性がある。

 倫理観を貨幣価値に換算するのは、馬鹿げた事である。金で正義は買えないのである。どんなに正しいことを行っても資金の供給が断たれれば企業は倒産するのである。言い換えれば、どんなにあくどいことをしても、資金の供給が断たれなければ、経営を継続することはできるのである。

 借入金というとただ、金を借りることばかり注目するが、金を借りるのは、目的があって借りるのである。つまり、使い道があるのである。金を使えば、当然、資産が残り。現金は通過していく。残されるのは、資金と負債と残金である。この一連の取引の流れが経済の実体である。そして、お金が流れることによって生じる現象と痕跡によって会計的価値は形成されるのである。

 産業の社会的役割には、人的役割、物的役割、金銭的役割がある。資本主義経済では、これらの役割が、会計的文法の上で調整される。
 産業の人的役割には、雇用がある。物的な役割には、必要な財の生産と供給がある。金銭的な役割には、貨幣の供給と信用の創出がある。

 例えば、投資の周期において人的役割、物的役割、金銭的役割を具現化すると人的役割は、人材投資であり、物的投資には、設備投資と更新の周期として現れ、金銭的周期は、投資に基づく資金計画、資金繰りとして表され、会計においては、減価償却の形で表される。これらの事象には、形と相があり、時間価値が陰に陽に関わってくる。
 そして、この形と相が経済現象に重大な働きをする。

 産業構造を分析するための項目は、市場規模、生産能力、シェア、流通構造、製造形態、工程等である。
 産業には、固定的な部分と変動的な部分がおり、それぞれの部分に施す施策は異なる。基本的に普遍な部分、長期的に変動する部分、短期的に変動する部分を見極めそれがどの様な形を持ち、又、前提を変えることによってどの様な相を持つかを見極める必要がある。

 企業実態や産業実態をする場合は、自他の確認から入る。自分の立ち位置によって内外の意味も、企業や産業を分析する主旨も、の目的も違ってくるからである。自己の立ち位置は、自己の行為の目的を規定する。同時に制約条件を明らかにする。そして、自己の立ち位置は、自己の置かれている前提条件に基づいて定まる。自己の立ち位置が定まれば、内外の定義と範囲の画定をすることが可能となる。

 企業や産業を分析する者の立ち位置には、先ず、企業内部、産業内部の人間か、外部の人間かによって利害関係に違いが生じる。その違いは、分析の目的や入手できる情報の質と量に差が生じさせる。分析の目的に応じて会計に対する見方を分析者の変え、基準にまで影響を及ぼす。その結果、会計の在り方も違い、内部の者に対する会計と外部の者に対する会計そのものを別の体系として区分することもある。その場合、内部の者が基本とする会計を管理会計、外部の人間が基本とする会計を財務会計と区分する。

 産業を分析する目的には、第一に産業政策の決定の基礎資料の作成、第二に、産業の再編のための基礎調査、第三に、新規参入の為の事前調査等である。

 固定資産、収益、費用は、産業毎に固有の形と相がある。産業を分析する者は、その形と相を見極めることから始めなければならない。産業の地盤の形が産業の実体の前提を構成するからである。

 産業を分析する要点は、産業の構成の変化、収益の偏り、産業の歴史と発展段階、産業の置かれている環境・状況(為替や市場変化、原材料の価格の動向等)、産業の特性・傾向、設備投資の周期、社会的役割、経済に与える影響等である。

 石油産業を例にとると、先ず石油という商品の性格である。
 石油は軍事行動になくてはならない戦略物資でもある。故に、政治に利用される要素が大きい性格を持っている。そして、産油地は特定の地域、国家に限られており、多くの産油国は、政治的に不安定な地域にある。
 石油は、国家経済の基盤的な産業であり、過去に、第一次石油ショック、第二次石油ショックなどの経済事件を引き起こしている。
 石油産業は、一般に、上流部分と下流部分に分かれる。上流部分は、原油の探鉱、採掘、生産部分を指し、下流部分は、精製から販売部分を言う。更に、下流部分は、精製部分と販売部門に分かれる。上流部分と精製部門は、初期投資が巨額にのぼる上に、変動費の変動幅も大きい。その為に、上流部分は、資金力を持ったメジャーといわれる巨大な多国籍業や国営企業によって支配され、精製部門もある程度の規模を持った大企業によって占められている。それに対し、販売部分は、石油精製会社の直営企業から中小零細企業、個人事業者と大小さまざまな企業によって形成されている。

 産業において重要なのは、資金の調達と投資である。資金の調達には、借入、資本、収益がある。運用には、投資と費用がある。資金の調達は収入を意味し、運用は、支出を意味する。資金の流れは、順な流れは、収入から支出に向かい、逆な流れは、回収から返済に向かう。借入、資本、そして、投資と収益と費用との区分は、長期か、短期かによって区分される。長期か、短期かは、単位時間によって定められている。

 資金調達と投資が、経済や経営に一定の資金による周期運動をもたらす。この資金需要の周期が資金の流れる方向を決める。設備投資は、初期の段階で運用の側に流れ、以後は、返済の側に流れる。企業は資金を滞留させることは許されない。なぜならば、企業は、資金を循環させるための機関、器官なのである。

 例えば、固定資産は、決められた周期に従って拡張と収縮を繰り返す。その原動力は、投資運動と回収運動である。

 何に投資し、投資に必要な資金をどこから、どの様にして調達するかが重要なのである。

 産業には、草創期、成長期、成熟期、停滞期、衰退期などの段階があり、各々の産業に相がある。その相を生み出すのは、産業の形である。
 草創期には、開発競争が起こり、なかなか収益には結びつかない。一旦、成長期になると市場の拡大よる収益の拡大が期待できるようになる。やがて、新規参入が増えて過当競争が起こり収益が低下する。成熟期になると企業の淘汰が進み、収益が採算ギリギリまで落ち込む。停滞期にはいると市場が、新規需要が見込めなくなり寡占独占状態に陥り、新規参入がむずかしくなる。
 草創期には、開発のための支援が欠かせない。また、自動車のように裾野の広い産業では、インフラストラクチャー、社会資本の整備が先行する必要がある。成長期には、資金需要が旺盛になる。成熟期には、競争を抑制し、共倒れするのを防ぐ必要がある。
 産業政策は、その時その時の個々の産業の相に応じて個別に施されなければならない。

 産業は、企業の集合体である。産業を構成する企業は、資金によって維持されている。
 よく経営の教科書で企業は利益を上げることで成り立っていると書いている本があるが、それは錯覚である。企業は、資金を供給することで成り立っている。利益は、資金を供給するか否かの目安に過ぎない。
 企業は、資金が廻れば存続できる。資金の供給が断たれてしまえば、企業は経営を継続できなくなる。実質的に経営の生命線を握っているのは、資金であって利益ではない。だから、企業は赤字でも存続できるし、黒字でも倒産することがあるのである。

 企業の集合体である産業には、産業を構成する企業が共有している部分と固有の部分があり、共有している部分と個別の部分が産業の有り様や性格を形作る。

 産業を構成する個々の企業の総資産、総資本の運動は、資金の循環運動の原動力となる。つまり、資金の流れる方向を定める。産業内部にも調達、製造、流通、販売などの産業毎固有な次元があり、各々の次元によって形・相に違いがある。

 多くの場合、借り手も買い手も固定負債は、借り換え(リファイナンス)を前提としている借入を起こす。長期固定資金というのは、企業経営が継続している限り保証されている資金だと言う事が前提となっている。つまり、長期負債は、企業経営の継続を前提とした資金だと言う事である。
 問題は、借り換え時である。資金を調達するための裏付けが必要となる。その裏付けていたのが従来は、資産、則ち、担保資産の価値の上昇だったのである。そして、物価上昇が状態である経済では、担保資産の価値も上昇し続けて、担保に余力が生じる。高度成長期においては、物価の上昇によって解消される負債だったという事である。
 一般に、返済圧力といわれるのは、この長期負債の元本に対する圧力であり、金融機関が借り換えに応じなくなることを意味している。
 
 景気が順調であれば、返済圧力の強まることはない。返済圧力が強くなるのは、所謂、担保資産が不良債権化することによって担保余力が小さくなったり、逆に、物価上昇によって調達資金が増大したのに対して、資産価値が相対的に不足した場合や収益が悪化した時である。いずれの場合も当然資金が不足していることに起因する。問題になるのは、返済圧力が強くなる原因、理由である。

 何によって資金不足は引き起こされるのか。則ち、資金不足を引き起こす原因を見極める事が重要となる。実は資金は流れているので、蓄えられているわけではない。

 財政や金融政策は、個々の産業が置かれている状況、形・相を見極めた上で発動されるべきである。つまり、診断と処方は一連の過程、手続を経てなされるべきであり、脈絡もなく施されるものではない。

 地価が下がったという理由で住宅ローンを一括して返済しろと要求されたり、失業したという事が原因で一括返済を強要されたらたまったものではない。金が不足して、金を必要としているときに返済圧力をかければ経済が成り立たなくなるのは道理なのである。その場合、経済は、破綻すべきして破綻したのである。

 何によって資金が不足するのか、或いは、過剰になるのかを見極める必要がある。

 固定資産以外にも産業を性格付ける要素がいくつかある。それは、最終的には、収益構造に現れる。

 総資産、総資本の運動を決定付けるのは、固定資産の性格による。固定資産の性格は、固定資産の在り方によって形成される。故に、固定資産の在り方は、企業経営のみ成らず、産業や経済全般に影響を与える。
 そして、固定資産の在り方は、費用の構成にも決定的な影響を与える。

 収益にも、費用にも、変動的な部分と固定的な部分があり、個々の産業毎にある程度この構成比率は、特性がある。それは、収益にせよ、費用にせよ、産業の在り方に規制されるからである。特に費用の在り方は、固定資産、設備投資に大きく影響される。

 商売というのは、確定した売上があるわけではない。その日その日の状態によって売上は左右される。
 昔は、もっと収入、即ち、収穫は、一定していない。狩猟民族にしてみれば獲物がある日もあれば、一匹の獲物にもありつけない日もある。定住だってままならない。農業は天候に左右される。その日暮らしであって収穫が一定していることの方が稀なのである。
 産業においても、収入は、本来、一定していない。生産量は、調整できても、売上にはかなりの幅で変動がある。それに対し、出費は、確定した物が多い。借金の返済など待ったなしに取り立てが来る。だから借金は怖い。これが大前提になる。将来が予測不可能となると貸しては、安心してお金を貸し出すことができない。それでは、借金の技術は発展のしようがない。あるとしたら博打である。
 この様な収入、収益や費用のバラツキを平準化しようという動機で会計制度は作られたといっていい。
 産業によって収益の形に違いがある。則ち、第一に、収益が比較的一定している産業。第二に、収益に一定の周期が認められる産業。第三に、収益が不規則に変動する産業である。
 収益の変動は、価格による変動と数量による変動がある。売上の上昇や下降の原因には、価格的要因と数量的要因がある。価格的要因とは、則ち、貨幣的要因であり、数量的要因とは物理的要因である。故に、価格的要因は貨幣価値の変動要因に左右され、数量的要因は、生産力や流通量などの物理的要因に左右される。経済現象の多くは、貨幣的要因と数量的要因が複合されて起こる。
 また、収益の変動には、長期的な変動と短期的な変動がある。収益の長期的な変動の周期と設備投資、設備更新の周期との差が産業の消長に多大な影響を及ぼす。
 この様な変動を補う役割を果たしているのが金融機関である。この点を忘れてはならない。単に収益だけを目的として産業も金融機関も成り立っているわけではない。それぞれが重要な役割を担っているのである。

 重要なのは、収益も費用もどの様な要素がどの部分にどの様な影響を及ぼすかである。しかも、収益や費用を構成する要素は、個々独立したものではなく。相互に連携したものだと言うことである。

 特に、固定費の性格違いは、産業の性格の違いに繋がる。
 なぜ、固定費の性格を固定資産が決定付けるかというと総資産に占める固定資産の比率は、産業によって違うからである。また、産業における労働形態や製造工程が固定費に色濃く反映されるからである。
 固定費の性格を決定付ける重要な要素には、人件費と減価償却費がある。そして、人件費の元は、賃金体系であり、減価償却費の元は、固定資産である。どちらも産業の根本的有り様に源がある。

 固定費と変動費の比率は、産業毎に違う。又、固定費の性格も産業毎に違うのである。

 現代経済は、借金の上に成り立っていると言える。借金というとどうしても良い印象が持たれていない。借金というのは負であり、なるべくだったらしない方が良い。企業経営でも無借金経営というのがもてはやされて久しい。
 しかし、現代社会において借金の存在が前提となっているのは紛れもない事実である。中でも深刻な問題として浮上してきたのが、国の借金である。
 世の中の風潮には、兎に角、何が何でも借金は悪い事だからなくせという考えが蔓延している。しかし、本当に借金はなくなるのであろうか。又、なくしてしまって良いのであろうか。
 坊主憎けれゃ、袈裟まで憎いという諺があるが、借金が憎ければ、借金の存在まで否定してしまう傾向がある。
 しかし、現代経済は、借金を土台にして成り立っていると言っても過言ではない。借金をなくしてしまうと経済そのものが成り立たなくなるのである。
 ならば、借金をなくすことではなく。借金と上手く付き合っていくことを考えるべきなのである。

 借金と上手く付き合うためには、借金の意味と働きを良く知る事である。それが産業の実際の在り方を考えることにも繋がる。

 貨幣その物が借金と無縁ではない。

 借金が成立する。則ち、借金の技術が発達する背景となるのは、収益が一定、且つ、固定していることである。つまり、将来の収入が予測可能であることである。それによって経済に時間軸が設定できるようになる。日常的に消費される部分と財産として長期間にわたって所有することの可能な部分とに区分され。その長期的な部分を借金に置き換えることによって財の均衡を測るのである。つまり、消費と蓄積の区分が近代経済の根源にある。そして、蓄積を前提とする部分が蓄財になり、また、その蓄財を担保する事によって借金が成り立つようになったのである。
 これは、近代産業の基本にも働いている。借金は、資本に転化していくのである。それが資本主義である。

 ここで注意しておかなければならないのは、資本主義や自由主義と市場経済、貨幣経済は同一ではないという事である。資本主義や自由主義経済が成立するずっと以前から市場も貨幣も存在していた。
 貨幣価値というのは、資本主義的産物ではないのである。資本主義と貨幣経済、市場経済を同一視するのは間違いである。又、危険なことである。

 市場や貨幣をどの様に定義し、扱うかは、一律ではない。それは思想に基づいて設定されるべき事象である。資本主義には、資本主義の市場の在り方があり、社会主義には、社会主義の市場の在り方がある。問題は、国家社会が何を理念、目的としているかによるのである。

 借金の技術が発達するためには、定収入化が前提となる。定収入化を担っているのが産業と金融機関である。産業は、一定期間の収入を貯蓄しておいて、所得を平準化する。金融機関は、産業に供給される資金の過不足を調整する。それが産業と金融機関の基礎的構造である。
 収入には、不確定要素が多く、一定していない、それなのに、支出は、確定的要素が多く固定的である。それが、経済を不安定にしている要素なのである。収入を一定化するためには、どこかに収入を蓄積していて払い出しを一定にすればいいのである。それを担うのが産業である。実際は、産業を構成する個々の企業である。この様な企業の集合体である。

 会計本来の役割、目的は、利益、所得、収益、費用の平準化である。その目的の元に期間損益は確立されたのである。そして、利益が平準化することによって資金調達をしやすくし、収入と支出を平準化するのである。その前提は、収益と費用、収入と支出の長期的均衡である。
 その為に、会計の内部は、常に貨幣価値が内的に均衡した状況、調達と運用の総和は零になるように仕組まれているのである。これも思想である。複式簿記を成り立たせている思想なのである。

 産業にとって深刻なのは、資金が円滑に循環しなくなることである。それは、血液が循環しなくなるのと同じ事なのである。故に、産業政策は、資金が上手く循環しない部分に資金を供給することを目的とすべきなのである。公共事業などを通じて、ただ、資金を供給しても経済政策の目的を達成することはできない。

 又、資金を供給する場合注意すべき事は、資金の流れる方向である。
 資金の流れの方向を見定める上で目安になるのが、総資産と総資本の増減運動である。なぜならば、総資産、総資本の増加、縮小が資金の流れの方向性を決めるからである。

 資金の量ばかり問題にするが、重要なのは、資金の流れる方向なのである。資金をいくら投入してもそれが、返済の側に流れ、投資の側に向かわない限り、市場には資金は循環しない。更に、回収された資金が実業に流れず。金融市場や資本市場に流れれば、バブルを再発するだけである。

 又、企業の総資産、則ち、総資本が収縮すれば、回収側、つまり、返済の方向に資金は流れる。逆に、総資産が拡大すれば投資の方向に資金は流れる。総資産を圧縮作用がある金融機関の自己資本規制は、資金を回収する方向に流す。この点をよく理解して自己資本規制を考えなければならない。

 原則として金利の上昇は、回収側に資金を向かわせ、金利の下降は、投資の側に向かわせる。ただし、金利による効果は、前提条件に左右される。

 急激な為替の変動や原油価格の高騰が与える影響は、産業によって違いがでる。例えば自国の通貨の急騰は、輸出産業にとっては逆風でも、輸入産業には追い風になる。ただ、長中期的には、市場によって調整される。問題は、短期的に偏りが生じることである。この短期的な偏りを是正するのが、行政と金融機関である。現代の金融機関の悪質さは、為替の変動による収益の悪化に苦しむ輸出産業から資金を引き揚げ、為替の変動によって資金が余っている輸入産業に供給することである。
 又、石油価格が高騰している時に、行政から金融機関に対し、キャッシュフローに注意するよう通達がでたことがある。物価上昇時に資金繰りが厳しくなることは明らかなことである。資金不足で苦しんでいる中小企業から資金繰りが苦しいことを理由にして資金を引き揚げるのは、首吊り人の足を引っ張る行為といわれても仕方がない。
 この様な転倒した行為が危機を引き起こし。尚かつ増幅しているのである。

 為替の急激な変動や原油価格の高騰が個々の産業の収益構造のどの部分に影響を与えるかは、ある程度予測することができる。ある程度予測ができるのであれば、対策を講じておくのが行政の役割なのである。

 資金の流れる方向が重要なのは、いくら、資金を供給しても資金の流れる方向が回収の側に向かっていたら資金は市場に流れていかないからである。かえって、資金を偏在化させる結果を招く。
 重要なのは、実業に資金が循環することである。しかし、実業が適正な収益をあげられないと資金は、実業へ向かわず、金融市場に滞留することになる。過剰流動性は、単純に資金が過剰に流れているというのではなく。資金の流れに偏りがあることによって生じる場合のあるのである。

 バブルが発生する前には、実物経済の停滞が見られる場合が多い。

 実業に資金が流れないのは、収益構造と不良債権問題の問題である。特に、収益構造、企業が市場で適正な価格を維持できないことにある。収益が確保できない中で不良債権処理に追われれば、経済は縮小均衡に向かわざるをえない。
 :現在のように、適正な価格が維持できないような状況下では、まず、過度の競争を抑制し、適正な価格を維持できる体制を採ることが重要なのである。

 過当競争を放置すればいずれ市場は寡占独占状態に向かうであろう。しかし、それは市場の機能の劣化を招く。何でもかんでも競争をさせればいい。競争は万能だという発想は間違いである。競争が有効なのは、一定の前提条件の下である。第一に、ルールを前提としている。ルールがなければ、ただ単なる生き残りをかけた喧嘩、闘争に過ぎない。

 借金に限らず、どうも経済的概念というのは悪者扱いされる概念が多いように思われる。その代表的な概念が借金である。又、金や商売というのも借金同じように悪者扱いされ、嫌われる。

 現代日本は、まだまだ士農工商的身分制度から抜けきれないでいる。又、金銭を卑しむ風潮も残っている。その為に、私企業を罪悪視する傾向が払拭できないでいる。

 この様な偏見は、自由主義的な思想の持ち主、社会主義的思想の持ち主の双方に共通してある。

 暫定的な処置としてよく用いられるのが、補助金である。しかし、この補助金が曲者である。暫定的な処置というのは、当座の処置という意味であり、ある一定の期間に一定の効果を期待して実施する短期的な施策である。所が暫定的な処置だったはずの施策が恒久的な物にすり替わったり、また、抜本的な施策が採られない間々終わってしまうことがままある。補助金のような施策は、一時的に企業の収益を改善する効果は期待できる。しかし、あくまでも一時的な効果である。一時的な効果が現れているうちに、抜本的施策がとられる必要がある。
 長期的な展望に基づけば、企業自体が収益を改善できる様な仕組みを作ることが肝要なのである。

 重要なのは、個々の産業をどの様に位置付けるかである。又、産業が不振な原因をどう分析し、どの様に、認識するかである。つまり、事業をどの様に見て、どう評価するかが重要となる。そこには、確固たる事業観が必要とされるのである。

 根本になければならないのは、国家観であり、国民に対する理念である。つまり、国家は産業に対して何を期待しているかである。産業は国家に対してどの様な役割を果たしているかである。
 産業の役割は、単に利潤の追求にあるわけではない。産業の主要な役割、目的は、国民の生命、財産の保障と生きる為に必要な物、社会に有用な財を調達し、生産し、分配することにある。そして、国民生活を豊かにすることである。利潤の追求はその手段に過ぎない。利潤追求のために、国民生活を犠牲にすることは本末の転倒である。
 企業が利潤を確保するために、人件費を削減し、経費を削減すること、則ち、支出を抑制することは、所得を縮小することに繋がる。所得を縮小することは、消費を減退させる。消費を減退すれば収入が減るのである。そうなると経済は、縮小均衡に向かう。合成の誤謬である。
 産業にとって適正な収益、翻って言えば、適正価格を維持することは、死活問題なのである。

 砂漠に籾を蒔いても稲は育たない。同様に、荒野のような市場では、産業は育たないのである。荒れ地を開墾することによって産業は育つのである。

 セルフスタンドを増やせば経営の効率化は進むかも知れないが、それだけ、雇用の機会は失われるのである。

 合成の誤謬という言葉を私は、好まない。「合成の誤謬」と言われる事象は、結果に過ぎない。「合成の誤謬」を起こさせている原因や仕組みが問題なのである。そして、その根本には、価値観や倫理観の歪みが隠されているからである。

 京都の町並みが美しいのは、規制があったからである。それに対し、近代都市は、一つ一つの建築物を見るとそれなりに凝った作りをしていても全体としては雑然とし、色褪せて見えるのは無秩序だからである。それを、合成の誤謬というのには抵抗がある。

 民主主義は、無秩序の中から生まれる。無秩序を耐え抜き、貫き通す意志が民主主義に必要とされる。

 自由とは通じることである。あらゆる法則、規則に通じきれば、法や規則に縛られることはない。それが自由である。

 政府の役割というのは、競争状態を維持することにある。競争状態を過熱することにはない。競争状態が過熱すれば市場の規律は失われ、市場は荒廃する。秩序なき競争は、競争ではなく、闘争である。生存競争は、寡占、独占を招く。寡占、独占は、市場の終焉を招くのである。競争の原理を守ることと市場を放置することは、背反関係にある。競争の原理を守るためには、市場は規制されなければならない。



参考
2009/10/28 20:21 【共同通信】
 法人所得、38兆円にダウン 下落率35%で過去ワースト
 今年7月末までの約1年間(2008事務年度)に税務申告した全国の法人所得の総額が、前年度比で35・4%減の37兆9874億円となり、過去最大の下落幅だったことが28日、国税庁のまとめで分かった。石油危機の影響でこれまで下落率ワーストだった1975年の18・2%を大幅に超えており、世界不況による景気低迷が法人所得からも裏付けられた。

 国税庁によると、法人税申告税額も9兆7077億円(前年度比33・2%減)と大きく減少。税務申告した280万5千法人(同0・2%減)のうち、黒字申告した法人割合は29・1%。国税庁に記録が残る67年以来、初めて30%を割り込んだ。

 黒字申告1件当たりの所得が4652万8千円(同28・1%減)だったのに対し、赤字申告1件当たりの欠損金は1555万6千円(同78・5%増)となった。

 また法人が社員の給与から天引きした源泉所得税の総額は14兆811億円(同6・1%減)で、2年連続の減少だった。



経  営

 企業経営は、一定の期間を単位として測られる数値に依って表現される期間損益が基礎である。この様な期間損益によって企業業績は評価される。
 しかし、実際の企業経営の存続は、資金の供給の有無によって決まる。資金の供給が停止されると企業は存続できなくなる。この点をよく理解して企業経営の実体は分析される必要がある。

 企業経営に対する認識も自他の関係を元として、主客、内外、表裏と言った段階を踏んで展開される。

 企業経営の実体を理解する上では、先ず、自他の関係を明らかにする必要がある。自他の関係とは、自己と対象となる企業との関係を設定することである。自他と対象となる企業との関係、即ち、自己の立ち位置や対象企業に対する認識度合い、分析の目的などによって分析段階の組み合わせ方や内容の設定に差が生じる。
 例えば、部内者と部外者では、内外の意味も入手できる情報の質、量も全く違う物になる。その陽と目的も必然的に違ったものになる。
 この様に企業業績に対する認識は、自他の関係によって決まる。

 部内者でも経営車窓と管理職層、一般社員、生産現場では視点に違いが生じる。経営者を例にとると、先ず自他の関係を明らかにし、目的と課題を設定する。次ぎに、内外、主客、表裏、長短、正負、虚実、順逆の関係を分析していく。
 そして、これらを物と資金の流れに還元し、資金の供給が途切れないように計画するのである。

 現代の企業経営の文法は会計原則にある。主客の変換とは、経営を会計情報に置き換えることを意味する。

 経済的価値というのは、本来主観的なものである。主観的な価値だと、普遍妥当性は得られない。その為に、経済的価値を客観的な数値に変換する必要性が生じるのである。

 主客の変換とは、主観的データの客観化である。客観化とは、複式簿記の手続に従って会計情報へ置換する事である。会計情報への置換とは、収支を損益、貸借、キャッシュフローに置き換える操作を意味する。

 企業の活動は、形に依って相として現れる。企業活動を理解するためには、形相を知る必要がある。形と相は、位置と運動と関係として現れる。

 運動は、量と方向と、力が関係する。単に量だけの問題ではない。進む方向が、重要なのである。特に資金の流れは、流れる方向が重要となる。

 経営活動の基本は、位置と運動と関係である。故に、分析も主として位置と運動と関係を基礎として為される。位置は不易、運動は、変易、関係は簡易である。
 経営における位置は、主として比率によって測られる。又、運動は、回転運動である。そして、関係は、従属関係である。近代会計が前提とするのは均衡である。
 即ち、比率、回転、均衡が経営活動の基本である。

 会計上の資産とは、位置を示した数値である。収益は運動である。
 資産上で運動を表すのは、現金と現金同等物だけである。

 次ぎに内外の設定である。内外の設定とは、内部要因と外部要因の区分である。例えば、為替や金利、物価、原油、原材料の変動は外部に従属して変化する要因であるから外部要因である。それに対し、管理、販売経費や人件費と言った費用は内部で管理が可能であるからこれは内部要因である。ただ、何を内部要因とし、何を外部要因とするかは、多分に主観的な問題である。

 内外を設定する場合、何を内とし、何を外とするのかを定義する必要がある。内外を定義する場合、内外の境界線と範囲を明らかにする必要がある。境界線と範囲は、制約条件でもある。
 内外の境界線を設定する条件によっては、幾つかの経営主体を連結する必要性も出てくる。それは経営主体に対する定義もよるのである。

 内外の働きを明らかにするためには、個々の要因が、独立して変化するのか。何かに従属して変化するのかを先ず明らかにする必要がある。更に、従属的に変化する要因の場合、何に従属して変化するのかを明らかにする必要がある。

 経営活動を成立させている取引は、表裏の関係がある。それが複式簿記の基本である。即ち、売りには買い、貸しには、借りという反対取引が必ず存在する。そして、その反対取引が内部にある場合を内部取引、外部にある場合を外部取引という。内部取引と外部取引は、連鎖、連動している。そして、これが内外の関係にも影響を及ぼす。

 又、表裏の関係は、名目と実質の差を生じさせる。名目的な数値は虚であり、実質的な数値は実である。

 経営活動には、表に表される数値と、裏で働く数値とがある。表に表される情報を作成するのを財務会計と言い、裏で実質的に働いている数値を管理するのが管理会計である。

 総資本と総資産は、表裏の関係にあり、均衡を前提している。そして、総資産、総資本の拡張と収縮が資金の流れる方向を決める。総資産、総資本の拡張は、資金を流通させる方向に、総資産、総資本の収縮は、資金を返済する方向に働く。この方向をよく見極めることが経営者にも為政者にも重要となる。

 経営活動で重要なのは、資金の量と資金が流れる方向である。資金が投資に向けて流れる場合は、企業は拡大しているのであり、返済に向けて流れている場合は、成熟期、或いは、調整期に入っているのである。

 経営活動は、期間損益に還元される。その基準は長短である。つまり、経営活動を一定期間の中に収斂するのである。一定期間とは、時間の単位である。企業活動は長短によって区分される。その長短に区分する意味や目的を理解しないと企業活動は、理解できない。企業活動の最終的目的は長期的均衡にある。長期的均衡を測るために、短期的な均衡を求めるのである。この長期的均衡と短期的均衡の調和が企業経営の要諦である。
 ところが目先の企業業績は、短期的均衡として現れる。その為に、短期的均衡に捕らわれて長期的均衡を忘れ、資金の供給や停止が行われる傾向がある。それが産業や経済全般に深刻な影響を及ぼしているのである。

 経済のインフラストラクチャーを形成する財政や金融は、長期的均衡を前提として計画されるべき性格のものなのに、短期的利益ばかりに注目するきらいがある。特に、財政は、単年度均衡主義を採っているために、その弊害が甚だしい。本来、財政も金融も長期的展望、国家観に基づいて計画されるべきものなのである。

 企業の目的は、利益の追求だけにあるわけではない。大事なのは、企業が社会に果たす役割や働きである。利益は、企業が存続していく上での一つに指標に過ぎない。

 恒久的な問題なのか。一時的な問題なのかを見極めることである。

 期間損益が画定されると、正負の関係が生じる。即ち、単位時間内の損益が正負として表されるのである。ただ、正負、即、善悪、成否の関係ではない。短期的均衡は、長期的均衡に照らし合わせて成立しているからである。
 資金の収支は、即、企業の存亡に関わる。しかし、期間損益は、企業に資金を供給するか、しないかの指標に過ぎない。資金を供給するかしないかの判定は、企業の経営目的、社会的役割、長期的展望、支払い能力と言った要素を期間損益に加味した上でなされるものである。
 その為には、期間損益として現れて数値の中に潜む正負の働きを見極める必要がある。

 経営活動には、虚実がある。それは、現在流通している貨幣その物が虚だからである。つまり、現在流通している貨幣は表象貨幣であり、交換価値を表象して指標に過ぎないからである。貨幣自体が何等かの実体的価値を持つわけではない。紙幣は、紙に印刷された印刷物に過ぎない。即ち、貨幣は虚である。経営活動の継続は資金によって支えられている。その現金の実際的な物である紙幣に実体的な価値がないのであるから、会計上に表れる経営活動というのは虚である。
 また、経営活動は、期間損益によって表される。期間損益は、一定の期間内の経営活動を便宜的に切り取った数値情報であり、その為に、特別な処理が施されている。その部分は、一定期間に経営活動を集約するために行われた処理であるから虚である。例えば減価償却、繰延勘定、引当金処理、未実現損益などである。

 何が実で、何が虚かである。期間損益の中で虚の部分はどこに生じるのか。それを見極めることが金融や財政において重要な鍵を握る。その際、重要な要素が時間なのである。

 虚の部分の働きというのは、資金収支と期間損益の差によって生じるところが大きい。そして、その差は、時間に関係して派生する。

 会計情報上虚の部分を構成する要素は、信用取引に関わる要素と決算処理に関わる要素、そして、未実現損益である。

 元々、貸方は、資金の調達を意味し、借方は、資金の運用を意味している。
 更に、貸方、借方を消費と蓄積に分離する事よって貸借と損益の概念を生み出し、期間損益の概念を確立したのである。
 その際、貸借、損益どちらとも言えない灰色の部分を決算処理として仮想的に処理をした。
 その部分が虚の部分を構成するようになる。
 即ち、減価償却、未実現利益、繰延勘定、引当金と言った勘定である。

 虚の部分の働きを見るためには、経営活動全体の規模を知る必要がある。経営活動全体の中に占める虚の部分の大きさによって虚の働きを知る為である。
 経営活動全体の規模は、総資産に費用を足すことによって求められる。

 虚実は、経営に働く力に順逆の働きをする。それが経営活動の長期的均衡、短期的均衡の調和に影響するのである。

 順逆の働きは、何に連動しているかに大きく影響を受ける。何に連動するかによって内外の動きや表裏の関係にも影響される。
 為替や原油価格の変動が好例である。又、地価の動静や物価の動きも順逆の動きに影響を及ぼす。これらの動きが経営にどの様な働きを及ぼすかを見極めることが経営者には要求されている。

 順逆には、働きを加速したり、増幅、或いは強化、逆に、原則、抑止、抑制、弱体化させる働きがある。正常に機能した場合、外的環境の変動を緩和したり、急激な変化の緩衝材の役割を果たす。レパレッジ効果やリスクヘッジは、経営の仕組みにこの様な働きを意図的に組み込んでおくことである。しかし、裏目に出ると危機を増幅してしまい。状況によっては、経営を破綻させてしまう事もある。
 経営にどの様な働きがどの様な方向に働いているかをよく見極める必要がある。

 お金の流れる方向を見極めるのが重要なのである。その為には、水が高いところから低いところに流れる、則ち、物理的位置が水の流れの方向を決定する様に、何がお金の流れる方向を決めるのかを知る事である。
 例えば、建物や施設を購入する際、資金を調達して運用する方向に資金は流れ、その後は、返済するという運用側から調達する側に環流する。
 収益は、一旦費用の側、則ち、運用する側に流れて支払側へと環流、則ち、調達側へと環流する。
 資金の流れは、虚実、陰陽を以て見極める。

 最後に自他の関係に還元し、是非を判断する。その上で対策、処方を立てる。そして、表裏、虚実、長短、高下、順逆といった個々の要素、要因を、陰陽を以て判別をし、爻を立て分析の目的に応じて天地人の卦を組み立て吉凶を占う。

 例えば、市場を天と為し、企業を地と為し、経営者を人と為す。

 経営というのは、単年度の均衡と長期均衡の調和を測る事に要諦がある。そして、均衡は資金収支と損益の調和から求められる。金融機関は、単年度損益に拘泥するのではなく。長期的展望に立ち、その時点その時点の経済情勢や経営段階を見極めた上で資金の供給の是非を判断すべきなのである。元々、金融機関の役割は資金が不足しているところに、余剰の資金を持っているところから融通することにあるのである。

 又、企業経営の基本的な役割、機能は、雇用の創出、所得の分配、財の生産と、供給である。利益の追求は、企業経営の健全さを保つための指標である。角を撓めて牛を殺すが如き行為は、謹まなければならない。

 競争を原理だとして不必要に競争を煽るのは、邪道である。経営の本義は、その役割にある。競争は手段に過ぎない。

経営の実際

 万能の施策などないのである。施策は、手段である。手段は、状況や目的、則ち、前提条件に応じて選ぶべきであり、あらゆる病に効く万能薬がないように、万能の施策はないのである。
 競争は、原理ではない。一つの手段である。しかも、前提に基づく手段の一つである。また、競争が成り立つのは、規則があっての上である。そして、規則とは、人為的な取り決めであって、規則間にある矛盾は、誤謬は取り除いて整合性をとるべきだが、所与の自然法則のような法則とは性格が違う。それを自明な法則と同一するのは間違いである。

 企業実態や産業実態をする場合は、自他の確認から入る。自分の立ち位置によって内外の意味も、企業や産業を分析する主旨も、の目的も違ってくるからである。自己の立ち位置は、自己の行為の目的を規定する。同時に制約条件を明らかにする。そして、自己の立ち位置は、自己の置かれている前提条件に基づいて定まる。自己の立ち位置が定まれば、内外の定義と範囲の画定をすることが可能となる。

 企業を分析する者の立ち位置には、先ず企業内部の人間か、外部の人間家によって違いが生じる。その違いは、入手できる情報の質と量に差が生じ、それに応じて会計に対する見方も変え、基準にまで影響を及ぼす。その結果、内部の者が基本とする会計を管理会計、外部の人間が基本とする会計を財務会計と区分する場合すらある。

 会計には、開閉の問題がある。つまり、外に向かって開かれている企業か、閉ざされた企業かである。株式会社は基本的に外部に向かって開かれた体制を前提としている。しかし、同じ株式会社でも未上場企業は、基本的に閉鎖的である。是非の問題ではなく。開放的経済主体と閉鎖的な経済主体が混在しているという事を前提とせざるを得ないのである。

 前提に基づいて自分の立ち位置を確認し、内外の定義と範囲を定め、開閉を明らかにしたら、いよいよ目的を定めて分析にかかる。

 企業分析の目的は、第一に、融資の為の判断材料(支払い能力)、第二に、投資のための判断材料(安全性や成長性)、第三に、取引のための与信調査、第四に、企業買収のための事前調査、第五に、企業経営(予算、原価計算、事業継承、設備投資等)のための基礎調査、第六に、労使交渉のための基礎資料、第七に、経済政策を立てるための指針、第八納税額を算出するための基盤等である。

 企業分析の項目は、一般に、第一に、安全性であり、第二に、収益性であり、第三に、採算性であり、第五に生産性であり、第六に成長性である。
 一般には、これらの調査項目は、共通しているが、目的や自分の立ち位置によってその内容や得られる情報、更に、入手できる情報等に差がでる。ただ、根本にあるのは、継続性である。

 分析に用いる指標は、第一に構成比、第二に、相関比、第三に、推移、第四に、回転率、第五に他社比較である。基準は、相対的なものであり、前提条件や状況に応じて選択されるべき尺度である。

 企業分析をする上で重要な要素として人、物、金がある。企業が社会に果たすべき役割にも人、物、金がある。人でいえば、雇用の創出や収入の定収入化がある。物でいえば、財の生産や設備等の投資がある。金でいえば、資金の調達と運用による供給とと循環である。そして、会計的に見ると利益の確保と事業の継続である。

 企業分析の根本的目的は、継続性である。企業には、形、相がある。事業の継続性は、企業の形と相に現れる。故に、企業分析は、この形、相が重要となる。企業の形と相には、人的形相、物的形相、貨幣的形相があり、各々違った次元に現れてくる。それを統合しているのが会計的形相である。企業分析では、有無の確認が重要となる。それは、有形、無形として現れる。また、表されて資源が有限を前提としているか、無限を前提としているか、つまり、時間的基準が重要となる。時間の作用は、時間価値が陰に働いているのか、陽に働いているのかによって違ってくる。時間が陰に作用しているのが静的形であり、時間が陽に作用しているのが動的相である。また、静的形は、固定的な相を持ち、動的相は、流動的な形を持つ。貸借は時間が陰に作用している形であり、損益は、時間が陽に作用している相である。
 固定と変動の区分の基準は、長期、短期に基づく。長期、短期は単位期間で区分けられ、通常は一年を単位とする。
 資金収支と期間損益は、表裏の関係にある。資金収支を決定するのは収入、支出である。期間損益の基準は、収益、費用である。事業の継続を決定付けるのは資金である。故に、実質的に企業の存亡を決定するのは資金収支である。しかし、資金収支は、資金調達の是非によって決まる。資金調達の是非に決定的な影響を与えるのが期間損益である。

 資金収支を基盤とした社会と期間損益を基盤とした社会は、異質な社会である。
 物を仕入れて売り切ればいいというわけにはいかない。仕入れに使う金は例え自分が出した金でも予め決められた手続や規則によって処理しなければならないのである。支出ではなく費用だからである。
 質素、節約、倹約して極力出費を抑える、入るを計って出るを抑えるといった発想は、資金収支の時代であり、期間損益の時代になると通用しなくなる。その代わりに、費用対効果が基準となり、比率と回転が重視されるようになる。

 債務の返済は、利益から履行される点も見落としてはならない。現金主義と期間損益の整合性が忘れられると企業経営は、成り立たなくなり、わけの解らないうちに破綻へと追いやられてしまう。

 例えば、2007年から2008年にかけて原油価格の高騰があったが、その時、キャッシュフローに注意するよう通達があり、その通達が原因で貸し渋りが起こり、多くの中小企業が資金的に行き詰まった。
 石油価格が高騰したり、自国の通貨が上昇している時、物価が上昇している時、市場が縮小均衡から拡大均衡に転換する時は、必然的に資金繰りは厳しくなる。この様に、キャッシュフローを問題にする時は、どの様な現象がキャッシュフローにどの様な影響、働きをするのかを事前に見極めておく必要がある。

 現在でも資金収支を基盤とした主体がなくなったわけではなく、混在していることを忘れてはならない。資金収支を基盤とした主体は、財政であり、家計であり、一部の個人事業者、そして個人である。

 収益と費用、利益は、会計的な概念によって要件定義されている。資産、負債、資本(純資産)も、収益と費用に準じて要件定義される。則ち、資本主義とは、会計的な概念によって確立されている思想なのである。

 収益−費用=利益という方程式を我々は、当たり前のように受け容れている。しかし、この様な方程式が成り立ったのは、近代会計が確立されたい後のことである。それ以前は、残高−支出+収入=残高である。つまり、利益ではなく、残高が問題だったのである。そして、儲けは、利益ではなく、残高−元金という式から導き出されたのである。つまり、収益や費用という概念はきわめて新しい概念なのである。

 残高を基本とした時代では、兎に角、お金が残っていれば何とかなったのである。元手を使い切ってしまえばお終いである。期間損益の時代になるとそう言うわけにはいかない。期間損益の基盤は、貸借対照表と損益計算書だが、資金は、全て外部調達が原則となる。つまり、資金は、外部から調達して、内部で運用し、そこで生じた利益を山分けするのである。不思議に思うかも知れないが、企業内部には、極力資金を残さないようにするのが原則である。残高とあってもそれは必ずしも現金の裏付けがあるわけではなく。帳簿上にそれだけの価値があると記載されているに過ぎない。だから、企業は清算されるとなにも残らないし、残さないのが原則である。つまり、企業というのは、生活実態のない金儲けのための機関なのである。

 つまり、期間損益を基本とした事業経営では、常に資金の調達と運用を前提としている。調達と運用による資金の循環がなくなれば、企業は存続できなくなるのである。何等かの残高があれば存続することが可能なのではない。資金調達のための指標が利益である。増収増益が一つの目安とされる。その為に、利益を平準化しようという動機が生じるのである。

 もう一つ重要なのは、貸し借りの関係である。期間損益は、損益という思想と貸借という二つの思想からなるのである。

 貸借と言う関係の成立は、使用権と所有権の分離を意味する。決算書の構成が、損益と貸借からできていることは象徴的である。期間損益の基本は、利益と損失であるのに対し貸借対照表の基本は貸し借りなのである。
 使用権と所有権の分離は、所有権と経営権の分離と合わせて企業を所有権なき主体にしてしまう危険性がある。それは、経営主体の機関化を招く。
 所有権から時間的価値を派生させる。財産は、ただ所有するだけでは利益は生まない。貸し借りという関係が生じて、損得関係が成立する。損得関係が損益関係に転じることによって時間的価値が形成するのである。

 所有と経営が分離されると経営組織は機関化される。つまり、経営組織は、何等かの運命共同体ではなく。何等かの経済的目的によって組織化された機関であり、目的を達成したら清算されるべき対象である。経営組織を構成する構成員は、単に一定期間、所得を得る目的だけで勤めているのに過ぎない。所得は、単価×時間か単価×数量によって計測されるのが原則である。それが株式会社の基本である。株式会社は基本的に人間関係を求めないし、組織の構成員は、人間関係を期待しない。会社という空間は、非人間的な空間である。

 企業は機関化すると経営地盤が脆弱化し、収益が悪化すると経営危機に陥りやすい。その為に、企業は、常に増収増益を至上命令とせざるを得なくなる。
 なぜ、機関化すると経営地盤が脆弱化するのかというと、第一に、機関化すると組織から生命力が失われるからである。即ち、生命力とは、自律的働きである。自律的働きとは、組織を構成する個人や個々の部分が組織を存続するために独自の判断や行動をとる事であるが、機関化すると企業は、ただ、報酬を得るだけの意味しか持たなくなり、金儲け以外、組織を存続するための動機が失われるからである。
 また、第二に、全体と部分の利害が一致しにくくなり、組織としての統一が保てなくなるからである。ただでさえ、組織が肥大化すると収益が悪化してもその原因を共有することができなくなる。全体と部分、部分と部分が、統一した認識を前提にできにくくなるのである。運命を共有できないのである。それが組織の分裂を加速する。官僚機関がその典型である。個々の個人は善良でも集団化すると暴走し、制御する事ができなくなる。
 第三に、実体を喪失するからである。自律しようとする意志は内部にある。しかし、所有権が外部にあれば、自律しようとする意志が組織全体の意志として反映するのが困難になるからである。自律しようとする意志は、即ち、主体性である。その結果、組織が組織としての自律性、主体性を保てなくなるのである。組織を維持存続しようとする力は、組織内部になければ組織は存立できない。

 機関化すると苦楽を共にする。集団から喜び、哀しみといった人間性が失われる。それは、組織の成功と自分の成功とが結びつかなくなる。仕事仲間の現実と自分の置かれている現実とは無縁なのである。それが、疎外である。

 期間損益は、何等かの実体があるわけではない。基本的に会計制度に基づく概念である。資金収支は、少なくとも残高という実体を元としている。その点を良く注意しないと経済も経営も真の実体を見失い、虚構の世界に落ち込んでしまう。それを回避するために、近年キャッシュフローが重視されるようになってきたのである。ただし、キャッシュフローも資金の実際的な動きを理解していないと単なる観念的なもので終わる。

 資産、負債、資本、収益、費用の中で実体があるのは資産だけである。負債、資本、収益、費用は、取引の記録と痕跡だけである。

 例えば受取手形は、手形という証書を保有していることを意味するが、支払手形というのは、支払手形を発行したという記録を意味する。

 資産だけが実質的価値を形成し、他は名目的価値しか持たない。

 経済指標の元となる経営指標は、名目的価値によって表される。

 経済には、固定的な部分と変動的な部分がある。資産にも、負債にも、資本にも、企業にも、収益にも、費用にも固定的な部分と変動的な部分がある。
 固定的というのは、長期的、静態的、普遍的な部分であり、変動的というのは、短期的、動的、刹那的部分である。ただし、固定的、変動的といっても、相互に関連した事象である。相互の関連や前提条件を確認しないと一概に固定的、変動的と決め付けることはできない。即ち、固定的か、変動的かの基準は、相対的なものである。

 収益で問題になるのは、収益の変動要因である。収益は基本的に市場に依存している。則ち、収益は、市場的概念なのである。市場は、需要と供給によって成り立っている。則ち、収益には、需要要因と供給要因がある。

 又、費用では固定的な部分が問題となる。固定費を構成するのは、第一に、人件費、第二に、設備関連費用(償却費、リース料、賃貸料等)第三に、販売費、管理費、第四に、金融費用、支払利息、第五に、その他固定費がある。

 費用には各々性格がある。例えば人件費は、下方硬直的であり、物価上昇率+α、年々上昇する傾向がある。また、人件費は、所得であり、生活のための原資である。継続的な定収入は、長期的資金、借入の原資となり、借入は、継続的雇用によって保障されるという性格がある。
 又、償却費は資金流失のない費用だと言う事である。ただし、償却費の裏には長期借入金元本の返済費が隠されていることを見落としてはならない。償却費と長期借入金の元本の返済は、表裏を為すものであり、資金計画の骨格を為すものである。

 収益では、変動要因、費用では固定要因が問題になったが、収益と費用は表裏の関係にあることを忘れてはならない。即ち、固定要因、変動要因、いずれが重要かではなく。相互にどの様に関連し、どの様な相乗的な働きをしているかが重要なのである。

 資金は、借入金、資本、収益によって調達される。資金は、生産手段か、金融資産か、原材料、仕入れ商品に投資として運用されるか、消費される。生産手段、金融資産、原材料、仕入れ商品に投資された部分を資産といい、消費された部分を費用という。調達は、会計上貸方に集計され、運用は、借方に計上される。投資と借金は権利でもある。資産は、再建を構成し、負債と資本は、債務を形成する。資産は、実体に依存し、実質的価値を形成する。負債と資本は、金融に依存し名目的価値を形成する。実質的価値は、収入の裏付けとなり、名目的価値は支出の根拠となる。
 期間損益は、総資本と総資産、収益と費用からなる。総資本と総資産は、貸借勘定を構成し、収益と費用は損益構造を構成する。

 企業の実績は、正負によって表現される。正は黒字、負は赤字である。正と負は、虚の部分と実の部分に判別される。虚の部分とは、例えば、未実現利益や減価償却のように資金的な裏付けを持たない部分である。
 これらを解析することによって経営の実態を解明することができる。

 現代企業の最大の前提は継続である。則ち、企業は継続することで社会的役割を果たすことができるからである。ある意味で企業経営の目的は、継続にあるとも言える。利益は、企業経営を継続していく上で不可欠な要素といえる。逆に言えば、利益は、継続的な企業経営を前提とした上に成り立つ二義的な要素だと言える。その証拠に、企業は利益がなくても継続することは可能なのである。利益や損失というのは一つの兆(きざ)しである。
 ならば、継続することで果たすべき役割とは何か。そこに経済の本質が隠されている。そして、経営の目的の秘密もあるのである。ここで言う経営の秘密は、経営の本質をも意味する。

 企業が経済に果たす役割の一つに所得の定収入化がある。定収入というのは、収入を固定的で、一定した所得を一定期間継続的に支払うことを保証する制度によって成り立っている。これによって家計の収支が平準化されることを意味する。家計が平準化することは、消費が平準化することを意味し、経済を安定させる要素となる。
 そして、収入が保証されることによって、長期的な借入が可能となる。それが経済の需要予測を容易にすることが可能となったのである。又、長期的資金の調達が可能となったことによって、企業経営に計画性を持ち込むことができるようになった。そして、それは投資の裏付けにもなったのである。

 この定収入を裏付けるのが、企業の収益と金融である。この点を突き詰めてみれば、企業や金融の本来の役割が見えてくる。
 企業収益は、事業の継続を保つために必要な要素であり、金融は、資金が不足して事業の継続が危うくなった時に、資金を供給するのが本来の役割である。問題は、企業が事業を継続できなくなる理由が、恒久的な原因に基づくのか、一時的な原因に基づくのか、則ち、継続が困難になった時、再生、再建が可能か否かである。それを判断するために経営を分析するのである。その為には、先ず収益構造が問題となる。

 企業の事業を継続し、継続することによって使命を果たすためには、安定した収益構造が大前提となるのである。経営分析も安定性、収益性、生産性、成長性から分析される。雇用を維持し、一定の所得を継続的に支払続けるためには、企業収益が一定の水準で確保されていなければならない。しかも、今日のように拡大均衡を前提とした経済下では、一定の水準で人件費も上昇し続けることが前提となる。この様な経済体制下では、停滞は悪なのである。
 しかし、収益には、波がある。その為に、収支に過不足が生じる。収支の過不足を補うのが金融の最大の役割なのである。

 この様なことを前提に企業経営や金融を考えると、長期的展望に立った事業観が必要であることは自明である。一番、企業経営や金融においてその能力を発揮することが要求されるのが、資金が不足した時だからである。
 資金が不足する状況というのは、収益が落ち込んだ時である。重要なのは、収益が落ち込んだという結果ではなく。収益が落ち込んだ、原因である。それが経営者の不可抗力に要因によるのか、又、一過性の原因なのか、構造的な原因なのかが重要になる。原因によって採るべき施策が違ってくるからである。

 2008年以降続く経済危機は、企業収益が収縮していることが一因である。適正な企業収益を取り戻さない限り、抜本的な解決は望めない。

 なぜ、適正な価格を維持する行為を全て認めようとしないのか。それは、根底に人間不信があるからである。
 暴利を貪ることは、許されない行為である。しかし、適正な価格を維持しようと言うのは、企業経営を継続する上で、不可避な行為である。
 経済環境の僅かな変化でも企業経営には、深刻な影響をもたらすことがある。例えば為替の変動である。問題なのは、その影響が一時的なものなのか、経営責任に帰すべき原因なのか、それとも構造的な問題なのかである。

 経済体制を維持するためには、適正な収益が不可欠な要素である。適正な収益は、適正な価格を維持することが前提となる。

 現代経済というのは、人間不信の経済なのである。それは、人を人として見ずに、貨幣価値に換算してみようとするからである。
 例えば、書籍の価値を売れ行きだけで判断するような事である。書籍の価値は、本来、書籍の内容によって判断されるべき事である。書籍の内容をどう考えるかは、読み手の主観に左右される。きわめて、人間的な行為である。経済が、人間を主として形成された事象である以上、主観的な行為からのがれられないのである。人間が信じられなくなったら、経済は成り立たなくなる。

 経済は、人間同士の信頼関係の上に成り立っている。近代以前には、信頼の根底に神が存在した。契約も神を介した契約である。だから、結婚式も神前で行うのが習いなのである。現代社会の病巣は、神の不在にある。現代は、神なき世界なのである。

 企業経営には、誤解がある。則ち、企業経営は、ひたすらに利益を追求することだという誤解である。しかし、経営主体本来の機能は、社会に有用な財を生み出し、生活の糧を得るための所得を配分することである。則ち、労働と分配にある。企業の本質は、雇用にあると言っていい。利益というのは、その為の手段に過ぎない。それに、経営を継続するために実際に必要なのは、利益ではなく、資金である。

 現代人は、商人や資本家をどうしても悪役にしなければ気が済まないようである。時代劇の悪役も悪徳役人と悪徳商人に相場が決まっている。士農工商の身分の名残なのだろうけれど、誰もそれを差別だとはいはない。しかし、一種の差別であることには変わりない。
 その証拠は、公益事業は利益をあげる必要がないという事である。あたかも、利益を目的とした事業は、賤しいことであり、利益に囚われない事業は、貴いと言っているようなものである。だから、公益事業は、経営が破綻する。
 公益事業に携われ者には、利益を目的としなくとも事業は成功させることができるという奢りがある。結局、武士の商法、殿様商売になる。又、事業に失敗しても罪悪感はないし、罪に問われることも稀である。

 御上のやることには間違いがないという意識がどこかで働いている。経済の建て直しも、その意識が先行する。うまくいかなくなると結局、運が悪いか、無知な国民が悪いのである。年金問題が好例である。

 日頃商売人を目の仇にしている癖に、財政が破綻すると、やれ民営、民活と囃し立てる。こんどは、民営化が万能の施策のようになる。その前に、なぜ、公共事業が上手く機能しなかったのかを考えるべきなのである。
 一方は、潤沢な資金があって人材も豊富であり、規制にも守られているというのに、経営破綻した。何がそうさせるのかは、経済を考える上での決定的な要素であるはずである。

 貨幣経済を構成する要素には、人的経済、物的経済、貨幣的経済、そして、会計的経済がある。貨幣経済が発達する以前は、人的経済、物的経済だけで成り立ってきた。この人的経済、物的経済を補う形で貨幣制度が発達し、現在では、貨幣経済は、不可欠な要素にまでなった。貨幣制度がここまで浸透することができた背景には、近代会計制度の発達がある。現代貨幣制度は、会計的制度と貨幣制度に支えられて成立している。
 これが大前提である。

 しかし、会計制度や貨幣制度の発達は、人的、物的経済の存在感を薄れさせてしまった。その為に、あたかも貨幣的経済が貨幣経済の全てであるような錯覚を引き起こしている。その錯覚が、現代社会の病巣である。

 経済に人的経済、物的経済、貨幣的経済があるならば、経営には、人的機能、物的機能、貨幣的機能がある。そして、その機能は、各々独立した目的、要素を持っている。人的目的から言うと、企業は、一種の運命共同体だと言う事である。又、物的経済から言うと、企業は、製造や流通という職能集団、生産機関だと言う事である。貨幣的機能から見ると貨幣の流通、分配を担っている機関だと言える。

 企業が継続を前提とするのは、主として人的経済からの要請である。この点を忘れては成らない。あくまでも、企業の主は、人だと言う事である。

 経済は、金が全てではない。又、経済は金のためにあるわけではない。金は手段であり、道具である。ただ、金が上手く循環しなくなり、本来の機能を発揮しなくなった時、経済は混乱するのである。
 金は生命ではない。しかし、生命を維持するために必要な、いわば血液のようなものである。金を軽んずるべきではないが、金を過信することも。必要以上に高く評価することも、又、危険なことである。

 経済は、常に、人が主である。経済は、人々が生きていく為の活動なのである。人の経済の基礎は、人の一生にある。人の一生とは、生きる為の過程である。人の生き様である。則ち、生まれて、成人し、家庭を持ち、子供を育て、やがて老い、死んでいく。その家庭にこそ、人の経済は、成立する。
 企業の主たる目的、使命は、人に生きる為の場を提供することにある。

 つまり、労働の場を提供し、そこから、生活に必要な糧、貨幣経済では、現金を分配し、社会に必要な財を生産することが企業の主要な役割、機能である。これが前提である。その為に、企業は継続を前提とする。

 継続を前提とする経営活動の基盤は過程にある。経営とは、物を現金化するプロセスだとも言える。そして、そのプロセスを明らかにすることが経営の実態を解明する手がかりとなる。

 又、企業の重要な役割の一つに、定収入化がある。定収入化というのは、固定的というのと、一定という二つの要素がある。安定した定収入を保証することは、生活設計をしやすくすると言う効果と、生活設計に基づいた借金を可能にすると言う効果がある。この二つの効果が、経済に重要な役割を果たすのである。

 故に、企業の社会的役割において重要なのは、定収入の確保と保証、その為の経営の継続なのである。
 この点を前提として経済政策は立てられなければならない。

 企業経営というのは、先ず人の問題であるという事が前提である。困った時に助け合うことを目的として企業というのは形成された。企業は、本来経済的な共同体なのである。それが金銭的利益を追求する過程で不経済な機関になりつつある。つまり、経済の本質である人々の生きる活動が失われつつあるのである。企業は一つの社会なのである。困ったからといって働く者から労働の場を奪うのでは、企業本来の経済的目的を放擲することになる。企業は、自身が、利益を上げる為にあるのではなく。関係する人々に利益をもたらすためにあるのである。そこに企業の存在意義がある。無人で利益を独占するような企業は、経済的に存在価値がないのである。

 資本主義というのは、近代会計制度上において成立した思想である。故に、近代会計制度が理解できないと資本主義は理解できない。

 会計的に人の経済を見ると人件費という事になる。しかし、人件費を他の費用と同じ様な性格の費用だと思うと大きな間違いである。人を雇うという行為は、その人の一生を面倒見るという事を意味している。つまり、根源は、生涯賃金の在り方である。つまり、人件費とは、人を人として遇することを前提として成り立っている。ところが、会計的な利益ばかりを前提とするとこの点が見落とされがちとなる。しかも、人件費は、下方硬直的な上、年々上昇するという性格がある。そうなると、企業収益が圧迫された場合、どうしても人員削減と言う事に陥る。行き着くところ、なるべく固定的社員は、雇用しない方が合理的だという結論に達する。そうなると企業は本来の機能を果たせなくなる。ただ、それを経営責任と責めたところで、人件費を単なる費用だとしてみている限りは解決できないことになる。つまり、人間性を削ぎ落とさない限り、現在の経済体制では解決できなくなるのである。
 ただ単に競争を促し、費用を小さくするかだけで経済を評価しているだけでは、経済の均衡は保てないのである。それは、かえって不経済な行為である。

 又、人の経済は組織の経済でもある。どの様な組織的活動をするのかによって経済の有り様も変化する。

 次ぎに物の経済がある。物の経済といっても、権利やサービスといった無形な物まで含まれる。故に、物と言うより財の経済である。ただ、ここでは便宜的に物の経済とする。
 物の経済は、物の生産と供給、流通、貯蔵、分配、消費に関わる経済である。そして、物の経済では、生産性や効率が重要な要素となる。

 取引には物の受払とお金の支払という二つの側面がある。そして、この二つの取引が同時に完結するとは限らないのである。物と金の取引に時間的なズレがある場合が多い。

 最後に「お金」の経済である。

 「お金」の経済で、注意しなければならないのは、現金収支に基づく経済と期間損益に基づく経済とは異質な経済だと言う事である。現代の資本主義は、企業は、期間損益を基に、家計と財政は、現金収支を基礎とした混合経済である。

 そして、期間損益に基づく経済というのは、会計制度の上になれ成り立っている。そして、資本主義は、期間損益を基礎とした思想なのである。則ち、資本主義を理解するためには、会計の理念を理解する必要がある。

 会計制度は、通貨によって動いている仕組みである。資金は、会計制度の動力、エネルギーだといえる。エネルギーは力であって無形な働きである。
 通貨の力、即ち、資金力は、電力と言うよりも水力に似ている。水力発電機は、水の流れによって水力が生じ、発生した水力によって発電機を動かす機械である。
 水力によって動く機械や仕組みは、水の流れによる力によって動くのである。仕組みや機械の中に水がなかったり、水が静止している時は、水力は生じない。
 財務情報を視る時に注意しなければならないのは、財務諸表に表示されている数値は、実在する通貨の量を表してた数値ではないと言う点である。財務諸表に表示されている数値は、通貨が流れた痕跡に過ぎない。表示された数値だけの現金が用意されているわけではない。数値が指し示した対象の貨幣価値の水準を示した値に過ぎないのである。

 自由主義経済は、会計的に表現された数値を元にして成り立っている。そして、会計上に表れた数値を実体的な数値として認識するが、実際は、会計的な数値は、実体的な数値ではない。

 期間損益を考える上で基本となる概念は、一つは、利益の概念である。則ち、利益を算出する為の基本的理念である。第二に、貸借勘定と損益勘定の分離である。

 利益の概念の基盤を知るためには、第一に、誰の為に、第二に、何のために利益を計算するのかを明らかにすることである。その前提は、利益は会計的概念だと言う事である。つまり、利益は、合目的的な概念であり、任意な事象だと言う事である。
 利益を計算する目的が明らかになれば、利益を計算する上で前提となる要素、費用を構成する要素の成立要件が明らかになる。例えば、なぜ、減価償却があるのか、減価償却の計算式の根拠などが判明する。又、時価会計の是非もである。これにはきわめいて思想的な問題である。

 利益処分の内訳は、株主取り分、報酬、税、そして、内部留保である。これは、企業経営の主体を考える上で重要な示唆を含んでいる。つまり、利益の分配先とは、最終責任と、利権の所有者を指し示しているからである。つまり、資本家と経営者と国家と会社の関係先である。関係者とは、債権者を意味し、金融、取引業者、従業員である。ただし、関係者といってもそれは債権者と言うことであって利益の分配に与(あずか)る立場にはない。

 利益は、国に納めるか、株主に配当するか、債務者に返済するか、経営者に報酬として出すか、内部に蓄積するかの選択である。内部に蓄積するといってもその持ち分は、株主に帰す。

 利益処分を見ると明らかなことは、利益を分配する相手は、企業組織を構成する者の外にいるという事である。つまり、利益処分の対象としては、従業員は、対象外だと言う事である。ここに資本主義の思想が隠されている。企業は内的動機ではなく、外的動機に動かされていることを意味する。つまり、所有権の外在である。それが疎外の原因となる。企業経営が苦しくなると平然と人員削減が行われるのは、この様な資本の論理に基づく。

 配当、役員報酬、納税は、利益処分から分配されるという事である。利益処分と言う事は、これらの項目は、費用とは見なされないという事である。
 又、フリーキャッシュフローは、簡易的計算によると税引き後利益と減価償却費を加算した値として計算される。そして、借入金の元本の返済資金は、このフリーキャッシュフローの範囲内から支払われる。
 いくら売上が上がり、収入が増えても決められた以上の償却は認められない。借り金の返済は、最初から費用として認知されていないのである。つまり、いくら借金を返済しても金利以外は、収益に反映されない。

 購入した物が、資産計上され減価償却が適用されると償却費は、限定され、たとえ利益が上がったとしても予め決められた額しか費用計上できない。費用計上されなかった収益は、利益に計上される。その様にして算出された利益から税額が計算される。つまり、儲ければ儲けるほど納税額だけが増える仕組みになっているのである。
 会計上、利益が上がっても長期借入金の返済に向かわず、税金の支払いに廻ることになる。故に、企業は、利益が上がっている時は、なるべく早く償却が終わるように画策し、又、将来の借入金の返済に備えて 含み資産の中に溜め込もうとする。逆に、収益が見込めないときは、償却を先送りしようとする。金融機関は、利益が上がって資金が余っている時は、融資に応じ、利益が低下し、資金が不足している時は、融資に応じないどころか、資金を引き揚げようとするのである。晴れたときに傘を貸して、雨が降ったら、傘を取り上げるといわれる由縁である。
 結局、利益は、恣意的なものになるのである。この様にして算出される利益は、あくまでも作為的なものであり、作られた値である。作られた値であることが問題なのではなく。当事者が利益の意味を理解していないことが問題なのである。

 経済を考える上で重要な要素は、人の心である。利益をどう定義するかは、本来、人の心の問題なのである。しかし、現在は、利益は会計上の問題でしかない。故に、現代では利益は、会計上の目的でしかないし、会計上の動機しか想定できないのである。

 多くの富裕層は、給与所得者である。本来、富裕層は、資本家か、経営者である場合が多い。つまり、有産階級である。所得を給与にするのは、確かに、節税対策による動機が大きい。それ以上に大きいのは、所有と経営を分離する事が認められた結果、有産階級が一方でリスクを分散し、他方、収入の平準化という動機による事である。
 所有権と経営権を分離しておいた方が、収入を定収入化できる上に、収入を確実に確保でき。さらに、事業継承の時に有利だからである。
 また、単に私腹を肥やすというだけでなく。いざという時の為に、私有財産として蓄え、企業が縮小均衡せざるを得ない状況や資金不足に陥ったときに備えているからである。また、自分が関わっている企業が倒産しても一定の被害に留めようという動機からである。

 派遣のことをとやかく言うが、資本主義的合理性を追求すれば、人件費は、単価×時間、或いは、単価×成果に要約される。そして、この事を強く要求しているのは、組合である。つまり、資本主義も平等主義も向かっている方向は同じなのである。
 それに対し、企業を一個の共同体と捉えれば、人中心の思想になる。つまり、共同で働く者が生きていける環境作りが企業本来の目的となる。それが人中心の経済である。その根本は家族主義である。経済を考える上で忘れてはならないのは、人の心である。

 現行の会計制度では、儲かった時に、借金を返して不況に備えると言う事ができない。故に、不況になると一機に危機が表面化するのである。この点が従来の現金主義と決定的に違う点である。

 業績が悪化し、資金繰りにつまれば企業は清算される。それ故に、極力利益を企業内部に蓄えておこうという動機が経営者には働く。また、どうせ社外へ流出してしまうならば、企業経営に直接役立つことに消費しようとする傾向がでる。

 それが節税という行為である。節税という行為には道義はない。あるのは利益に対する考え方だけである。故に、節税という観点から、無駄に出費を省いて節約するとか、浪費、冗費を抑えて倹約する事が必ずしも美徳だとは限らなくなる。
 一方において、限りなく利益をあげるよう努力をし、他方において利益を少なく見せるように画策せざるを得ない。そこに資本主義の矛盾が潜んでいる。それが企業経営に影を落としているのである。同時に企業の金融政策の基幹部分にも節税という意識が働いている。問題は、企業の永続性、継続性という目的を企業経営者も債権者も公も見失っているからである。

 実際的に経営者が頭を悩ませているのは、税金と資金繰りの問題である。資金繰りというのは、資金調達、中でも、中小企業の経営者にとっては、借入、つまり、借金は、絶えず頭を悩ます切実、かつ、深刻な問題である。

 企業にかかる税金は、法人税だけではない。消費税や固定資産税、又、個人の所得税も間接的ではあるがかかる。そして、これらの税金が企業収益のどの部分を対象として課せられるかが、企業の行動に重大な影響を与えている。
 税制で重要なのは、税が企業経営に対してどの様な働きをし、それが経済全体にどの様な効果があるかである。

 国に税金を納めている企業が三割を切っているという事実をどう受け止めるべきなのか。
 従来の金融政策だけでは、税の問題も資金繰りの問題も片付かないのは自明な事である。少なくとも、資金繰りの問題を片付けるためには、金利を上下させたり、通貨の流量を加減するだけでなく。通貨の通り道を造ることも必要な政策である。

 現代の市場経済は、借金を前提として成り立っている。より厳密にいうと負債を土台にして成り立っている。市場経済が負債を前提として成り立っているのは、市場経済における経済主体の中核を担う民間企業が期間損益を基礎としているからである。
 なぜ、借金を前提として成り立っている。或いは、借金を前提とせざるを得ないのかというと、第一に、期間損益計算に資本主義経済は基づいているからである。二つ目には、負債の概念の確立がある。三つ目には、資産の概念が成立したことである。四つ目は、それに関連して、償却という概念が確立したことによる。五つ目は、利益の概念が成立したことによる。そして、企業経営は、これら五つの要素を基礎として資本の概念が成り立っているのである。

 期間損益は、貸借と損益の二つの部分から成り立っている。なぜ、期間損益において損益と貸借を区分したのかというと長期変動と短期変動とを区別するためである。

 なぜ、長期変動と短期変動を区別したのかというと、一つは、当座型経営から継続的経営に移行したことがある。次ぎ、多額の資金を一時的に必要とした点にある。つまり、貸借と損益の区分を明らかにしたのは、資金を調達するのにあたって費用対効果を事前に明らかにする必要性が生じたことである。時間軸を加えることで費用対効果を測定するに際、費用を平準化することが可能となったのである。しかし、その事によってそれまでの現金収支の考え方から利益を中核とした期間損益に基づく体制に一部移行したのである。結果的に、それまでの現金収支中心の会計、財政と期間損益に基づく企業経営とが分離したのである。

 資本主義というのは、近代会計制度上において成立した思想である。故に、近代会計制度が理解できないと資本主義は理解できない。

 また、資本主義の根底にあるのは、株式会社という思想である。つまり、株式会社というのは、一つの思想である。株式会社は思想であり、株式会社の有り様そのものが資本主義を体現しているのである。その意味で株式会社というのは、特異な存在である。株式会社を所与のものとして捉えると株式会社の本質は見えてこない。

 株式会社の特異な点とは何かというと資本の概念と償却の概念に要約される。資本の概念は、その裏側に資本家を前提としなければ成立しない概念である。

 会計制度が社会的制度として確立される以前の企業経営と、以後の企業経営との決定的な違いは、負債との関係にある。
 経営は、借金の上に成り立っているといって過言ではない。資本は、返済する必要がない資金というのは、間違っている。資本の提供者である資本家に対する返済は、企業が清算された時になされる。故に、企業が経営を継続している限り、返済を、前提としなくていい資金だと言う事である。実質的に返済をする必要がないという意味であり、資本は、負債の変形であると見なしていい。しかし、負債である事に違いはない。故に、経費がかかる。
 又、近代会計制度下では、負債や資本の働き、在り方は、対極にある資産の働き、在り方との関係を見ないと判然としない。則ち、負債や資本は、資産との関係によって成り立っている。
 この点が従来の財産と資産との違いである。財産は、それ自身が独立した価値を持つが、資産価値は、負債と資本との関係の上で成り立つ概念なのである。
 この違いは、実体経済にも影響を及ぼす。

 期間損益の基本は、収益−費用に基づいている。収益の在り方や費用の構造は、必然的に経済に影響を与える。

 又、税制度も重大な影響を持つ。税が何に対し、何を基準にして課せられるかは、実体経済の有り様に重大な影響を与える。

 収益と収入とは違う。収入は、収益に借入金と投資を加算したものである。支出は、資産に費用を加算したものである。キャッシュフローの原形は、この収入と支出から割り出される。則ち、キャッシュフロー計算書とは、試算表をいうのである。こう考えると試算表と精算表の役割は、現金収支から期間損益への変換にあるといえる。

 近年、時価会計の必要性がいわれている。しかし、時価会計の採用は慎重にされる必要がある。時価会計とは、長期的変動を短期的変動に置き換え、収益以外の収入を前提としようとする点にある。
 そして、収益以外の収入は、未実現利益を裏付けとして架空の収益と損失を前提とする事によって測られる。つまり、未実現、不確定な取引を前提としているのである。
 未実現利益とは、例えば、在庫を売り上げたことにして損益を計算することと同じである。 

 現金収支を基礎とした場合、未実現利益は問題にならない。なぜならば、現金収支上あるのは、残高であり、現金収支上には、利益という概念そのものが存在しないからである。

 現代の経済危機は、市場の収縮によってもたらされている。市場を収縮している原因を取り除かない限り、問題の解決には至らない。問題を解決するどころか、悪化させるだけである。

 市場を収縮させている原因は、収益の収縮である。つまり、収益構造が市場の圧力によって圧縮されていることが第一の原因なのである。実業が健全な収益構造を回復しない限り、縮小均衡に向かう市場の流れは止められない。

 収益が収縮することによって経済が経済危機の元凶であるならば、収益の健全性を取り戻す必要がある。収益を向上する手立てには、回転率を高めるか、利益率を向上させるかである。
 回転率を高める為には、需要を喚起し、消費を拡大する必要がある。しかし、市場が飽和状態な状況において重要を喚起するのはむずかしい。要するに、満腹状態で食欲が起こるようにするような行為だからである。現実に、食べた物を吐き出させるような施策が横行しているが、その様な施策は、かえって健全性を損ねることである。
 残された手立ては、利益率の向上である。回転率を高めるためには、競争心を煽ることである。それに対し、利益率を高めるためには、過度の競争を抑制することである。収益を向上させるといっても採るべき施策はまったく反対の施策である。万能の施策はない。重要なのは、前提条件である。
 市場が拡大均衡に向かっているときは、規制を緩和し、競争を促進すべきであるが、縮小均衡に向かう時は、規制を強化し、競争を抑制すべきなのである。

 原則として金利の上昇は、回収側に資金を向かわせ、金利の下降は、投資の側に向かわせる。ただし、金利による効果は、前提条件に左右される。

 補助金のような施策は、一時的に企業の収益を改善する効果は期待できる。しかし、あくまでも一時的な効果である。
 企業自体が収益を改善できる様な仕組みを作ることが重要なのである。

 多くの人は、資金の量ばかり問題にするが、重要なのは、資金の流れる方向なのである。資金をいくら投入してもそれが、返済の側に流れ、投資の側に向かわない限り、市場には資金は循環しない。更に、回収された資金が実業に流れず。金融市場や資本市場に流れれば、バブルを再発するだけである。

 総資産、則ち、総資本が収縮すれば、回収側、つまり、返済の方向に資金は流れる。逆に、総資産が拡大すれば投資の方向に資金は流れる。自己資本規制は、資金の流れを回収の側に向かわせる。実施する際は、慎重に行うべきである。

 重要なのは、市場に投下される資金の量でなく。資金が流れる方向である。現在の経済現象は、資金の偏在によって引き起こされている。一方において、資金が流れない部分があれば、他方に過剰に資金が流れている部分がある。流れなければならない部分に資金が流れず。流れては成らない部分に資金が多量に流入している。それが過剰流動性の本質である。つまり、過剰流動性の問題は、過剰に流れている箇所だけを取り上げても意味がなく。むしろ資金が流れない部分、滞留している部分の方が深刻なのである。

 金融政策を立案する際は、金利や通貨の供給量を加減することだけでなく。通貨の通り道を造ることも必要なのである。

 資金が実体経済、実体市場の方向に流れず、返済側、或いは、金融市場や資本市場に向かって流れる事が問題を引き起こしているのである。
 実業に資金が流れないのは、収益構造と不良債権問題の問題である。特に、収益構造、企業が市場で適正な価格を維持できないことにある。収益が確保できない中で不良債権処理に追われれば、経済は縮小均衡に向かわざるをえない。
 まず、過度の競争を抑制し、適正な価格を維持できる体制を採ることが重要なのである。過当競争を放置すれば、いずれ市場は寡占独占状態に向かうであろう。しかし、それは市場の機能の劣化を招く。

 収入が借入と投資と収益を加算するものとすると支出は、返済と利益処分と支払を加算したものである。費用と支出が同一でないのは、費用の中に支出を伴わないもの、そして、支出の中に費用化できない部分が、含まれるからである。
 また、費用と資産の違いは、費用には、支出がそのまま反映されるが、資産は、支出された結果が残っているだけである。つまり、費用とは、実質的な支出であるのに対し、資産は名目的な価値である。、

 期間損益は、単位期間の費用対効果の測定にある。故に、収益と同じくらい費用の構造が重要となる。収益と収入が別の概念であるように、費用と支出も別の概念である。

 経営の最終的目的は、収入と支出の長期的均衡にある。長期的均衡の計算は、本来、収益と費用の時間軸を無限大に設定することによって求められる。単純に考えれば、微分、積分によって求められる。しかし、収益と費用を決定する要因は、単純に確定できる要素ばかりではない。費用に関して言えば、長期的な費用を単位期間の費用として按分し、短期的な費用を加算すればいいのだが、そうすると必ずしも単位期間に発生する支出と一致しなくなるのである。それが償却資産と借入金の元本の返済である。
 そして、市場の変動によってもっとも影響を受けるのがこの償却資産の償却費と元本の返済なのである。

 企業には、人の形と相、物の形と相、金の形と相、そして会計の形と相がある。
 企業経営における長期的な均衡を見る時、重要なのは、物の形、キャッシュフローの形、人の形、会計の形である。物の形とは、設備更新の形である。キャッシュフローの形とは、資金計画の形である。人の形とは組織の形である。会計の形とは、償却の形である。
 企業収益は、人、物、金の長期的均衡の上に成り立っている。そして、収益という概念は会計的な概念である。つまり、人、物、金の調和を測る手段が会計なのである。故に、自由主義例財は、会計的均衡の上に成り立っている。

 初期投資は、資金を運用側に流し、以後は返済方向に流す。

 資金は、流体である。産業には、長期的資金と短期的資金の流れがある。長期的資金は、固定的働きを短期的資金は、変動的働きを形成する。

 損益を分けるのは、固定費と変動率の比率である。産業の性格を決定付けるのは、固定比率である。

 また、貸借増減運動が資金の流れる方向を定める。
故に、重要なのは、フリーキャッシュフローの構成とその使い道、運用先である。新規投資や設備更新に、フリーキャッシュフローが使われれば、運用側に資金は流れ、借入金の元本の返済に使われれば、調達側に資金は流れる。

 この根本には、株式会社という思想がある。
 株式会社という思想の前提には、所有と経営の分離がある。資本主義の根本思想は、株式という仕組みによって私的所有権と経営主体とを切り離し、私的所有権は一代限りとするという暗黙の前提である。つまり、世襲と同族支配の否定である。
 確かに、世襲や同族経営には問題が多い。一番の問題点は、身分制や階級制に繋がる危険性があることである。しかし、安易に企業の主体性を損ねることにも弊害がある。企業組織の機関化をもたらす。
 所有権と経営権の分離は、経営主体の主体性の分割、分裂に結びつく可能性がある。会社を経営すると言う事と会社を所有すると言う事は、どちらも主体性に関わることである。この主体性を分割することで、会社を機関化するそれが株式会社という思想である。会社が機関化されると、会社は人間の集合というよりも経済行為のための手段、道具と言う事になる。会社の目的は、金銭的な目的に限定されることになる。それは、唯物主義に繋がる思想であり、もっとあからさまにいえば、唯金主義、拝金主義である。会社は生き物である。人間の集合体である。会社を成り立たせている人々には、各々の生活や家族、人生がある。それを量的な側面だけで捕捉しきることはできない。

 また、私的所有権の問題になるのは、私的所有権は一代限りでありながら、事業継承をする際、評価は時価でして、支払いは現金で要求するという在り方である。こうなると一部の財産の所有権を放棄して現金化せざるを得ないという状況が派生する。この場合、負の遺産を相続することになりかねないのである。

 事業の継続というのは、所有者や経営者だけの問題ではない。働いている者や取引業者、金融といった多くの関係者の連鎖の上に企業経営は、成り立っている。円滑な事業の継承は、社会的問題の一つである。

 企業の支出は、他の企業や個人の所得になる。所得と支出は表裏の関係にある。企業所得は、個人所得や納税の原資でもある。個人所得は、消費や貯金、則ち、家計の原資であり、税は、財政の原資である。これらの関係が経済の基礎的関係を形作る。

 企業経営が継続を大前提としているのならば、必然的に事業継承が重要な意味を持つ。人の命には限りがある。どの様に優れた経営者でも命が終わる時が来る。そして、事業は、経営者の死を乗り越えて継続していかなければならないのである。
 いかに事業を継承していくかは、一事業家だけの問題ではなく。事業に関わる人間全てにとっての大事なのである。

 企業は、世の為、人の為にある存在であることを忘れてはならない。人とは、働く者であり、客であり、投資者であり、債権者であり、取引業者であり、地域住民である。企業は、ただ、金儲けをするためにあるわけではない。金儲けは手段であり、目的ではない。現代経済の根源的病巣は、企業の目的が金儲け一辺倒になり、それが国家社会の目的、人生の目的にまで転化しようとしていることである。

 経済は、生きる為の活動であり、それを実現するのが経営である。

 経営者が、仮に、20才の人間を採用しようとしたら、最低限、40年は、その人とその人の家族を養う覚悟を必要とする。又、従業員の数を四倍にした人間の数だけの生活を支えているのだという自覚がなければならない。本来なら、終生その人ともに生きていく覚悟が必要である。それが東洋的な発想である。そして、それが人の経済の基本でもある。
 老いた人間を老いたことを理由に社会から葬り去ることほど残酷なことはない。労働は苦役ではない。労働は、自己実現の手段である。労働は生き甲斐である。人生なのである。労働は喜びなのである。プロとは、誇りである。専業主婦を侮るが、彼女たちはプロである。だから、生涯、母親でいられるのである。
 プロの集団が企業体であることを忘れてはならない。働く人々からプロとしての誇り、プロとしての自覚が失われたとき、経営は、その目的を実現することが不可能となる。

 企業も、家計も、財政も機関化するにつれて社会から人間関係を表す表現が失われつつある。例えば、世話をするとか、養うとか、面倒を見るとか、恩だ、義理だ、人情だという言葉である。秩序や規律は、使うことすら憚れる。愛だ、恋だといっても虚しい。欲望と快楽以外に信じていないからである。その欲望や快楽を充たすのも金である。愛情や性も商品価値しか持たない。それに伴って人間関係もどんどんと稀薄になり、ひきこもりやニートといった言葉が生まれる。言葉は、その背後にある社会の実態を示している。
 しかし、この様な社会を招聘したのは自分達であることを忘れてはならない。
 人間性のある経済を確立しない限り、人間が生きることのできる経済、空間は、生まれないのである。
 経済的空間というのは、人々が泣き、笑い、時には、怒り、愛し合い、歓談し、踊り、歌い、食べ、子供育み、親の面倒を見る場である。それが経済なのである。そして、それを実現するのが経営である。金だけの世界ではない。
 例えば、経営効率が悪くなった企業や産業は潰してしまえと言う意見がある。しかし、それは暴論である。そこに生き、生活している人々がいるのである。人生があるのである。
 人間という生き物は、不器用なものである。簡単にそれまでの生き方を変えられはしない。人生にも限りがある。
 会社は誰のものか。この質問も虚しい。なぜならば、その場に生きている者達にとって会社が誰のものか、家族が誰のものかとが問題だからではない。その場に生きる者、一人一人が、その場でどの様に生きていくかが最大の問題なのだからである。会社が株主ものであろうと、又、債権者のものであろうと、経営者のものであろうと、国家のものであろうとそんなことは、その場に生きる者にとって本質的な問題ではない。自分達の生きる権利が保障されているかいないかが問題なのである。そして、そこにいる人々各々の生き様が守れるかどうかが重要なのである。人間は部品ではない。役に立つかたたないかが基準ではなく。どの様に生きていくべきかが基準なのである。それこそが経営の実際である。例え企業が倒産したとしても人々は生き続けなければならない。そのことを忘れてしまった企業は、経営の実体をその時失っているのである。


家   計

 家計の本源は愛である。家族愛である。

 家計というのは、現代の経済では最も虐げられている経済主体である。
 しかし、家計は、消費経済の根源である。そして、消費は、景気を決定付ける基本的要素である。

 家計は、消費経済の中核である。経済は、生産だけで成り立っているわけではない。生産と消費は表裏関係にあり、経済は、生産経済と消費経済から成る。消費経済は、生産経済と同じぐらい重要な経済である。

 現代社会は、大量生産型、大量消費型経済である。この大量生産、大量消費が資源の浪費や環境問題を引き起こし、社会、経済を不安定にしている。生産を制約するのは、消費である。その消費の在り方が、無秩序であるから、経済が無軌道になるのである。経済は、生産だけに重点があるのではなく。消費にも重要な役割がある。生産と消費は経済の両輪なのである。

 そして、家計の本質は人の経済でもある。家計は、所得と支出から成る。所得と支出は、収入と消費でもある。消費の根本は、生きる為の活動であり、人生である。

 人の経済は、人々の暮らし、則ち、生活を基盤としている。この生活費は、固定的支出を形成する。つい近年まで衣食住が経済の中心であった。

 また、人の経済は、組織の経済でもある。人の経済は、共同体の経済である。
 人の経済は、人の一生にある。則ち、人の生き様にある。

 消費というのは、固定的で、一定で、周期的である部分が大きい。つまり、生きる為の活動は、単純、反復、繰り返しの事象が主体なのである。又、日常的な活動には、一日、一週間、一月、一年、一生の周期で繰り返される事象に区分される。その他に、臨時的、不定期な事象がある。
 例えば、炊事、洗濯、掃除は、一日の活動である。結婚は、一生に一度の出来事であることが前提である。
 この様に、消費が固定的で、一定であるのに対して、従来では、収入や所得は、変動的で、不規則、不確実なものであった。企業や機関は、この変動的で、不規則、不確実な所得、収入を定収入化する働きがある。そして、定収の有無が、家計の基盤に重要な作用を及ぼしているのである。

 定収入化すると言う事は、消費を計画的なものにする事ができるようになる。消費を計画的にすることが可能になることは、計画的な借金が可能となる。つまり、定収入化は、借金の技術の発展を促すことになる。
 消費者金融は、消費経済が認知されていない分、不完全なままに放置されている。それが、消費者経済を不安定要因にしている。つまり、消費経済が確立されていないために、消費経済が成り立たず、消費者金融が成り立たないために、消費経済が確立できないと言う悪循環に陥っているのである。
 消費者金融の確立は、消費経済を確立する上での必要十分条件の一つである。

 家計の根本は、家族である。家族の関係は、基本的に血縁関係によって成り立っている。この様な家族の関係には、親兄弟、姉妹、叔父叔母、従兄弟という所与の関係、則ち、与えられた関係と夫婦、子供、養子、義母と言った生み出す関係がある。

 現代社会は、所与の関係に対して否定的で冷淡である。それが家庭の崩壊、家計の脆弱を招いている。その為に、消費経済の確立ができないでいる。

 家計を考える上では、先ず家族関係のことを考える必要がある。

 家族は、生活の基盤である。生活の基盤と言う事は、人生の基盤である。自分という存在は、父母の存在なくして成立しない。則ち、父母の間から自分は生まれたのである。この夫婦、親子が人間関係の原点であることは間違いない。客観的な事実である。ただ、現代社会は、この関係に対し懐疑的である。つまり、血縁関係に自己の意志を認めない傾向がある。しかし、自己の意志、主体性の源も父母の関係との関わりにある。否定しようが、肯定しようが、親子関係というのは、人間関係の原点であり、人生の起点でもあるのである。否定する事自体、その関係の存在を前提としている。
 問題があるとしたら、この親子関係を基盤とした人間関係が築けないことにある。

 家族に対して否定的であるから、必然的に家計に対しても否定的である。家計に対して否定的というのは、家族を経済における最小単位とすることに否定的だという事である。つまり、家族を一個の経済主体として認めないことを意味する。家族を共同体として見なさないのである。そして、経済主体を全て個人に還元する。この場合、個としての人間関係以外の人間関係は認められない。婚姻関係も、扶養関係も存在しなくなる。つまり、経済に関する権利と義務は、全て個に還元される。
 故に、出産、育児、老後の介護もすべて個としての権利と義務に還元されてしまう。社会的な権利、義務関係には、家族は関わりがないという事になる。家族というのは、便宜的に共同生活をしているだけの同居人に過ぎないのである。在るとしたら、愛情という曖昧模糊とした感情だけの繋がりである。
 現代人が、何かにつけて愛を求めようとする気持ちが解る気がする。つまり、人間関係、絆は、愛しか認められないのである。その愛も血縁関係以外の人間関係の中ででしか認められない。それが現代社会の基礎である。私には、殺伐としているとしか言いようがない。

 親子の情愛も兄弟の愛情も一切が無駄としたら、正常な人間関係は築けなくなる。なぜならば、親子の愛が人間関係の原点だからである。

 市民革命の原点は、自由と平等と同志愛(fratemity)にある。日本では、fratemityを博愛と訳している。しかし、本来は、友愛という意味に近く、同志愛と言った方が適切であろう。つまり、志を同じくする者達の間にある連帯感である。この連帯感を敷延したところに普遍的な愛がある。なぜ、愛があるのか。つまり、自由と平等の行き着いたところ、或いは、中間には愛が必要だからである。

 人間関係の起点は自他の関係にある。この自他の関係の原初にあるのは、親子、特に母と子の関係である。つまり、親子の愛情である。この親子の愛情を前提とするのか、それとも断ち切って考えるのかによってその後の人間関係は決定的に違ってくる。

 自他の関係は、主観、客観の問題、則ち、主客の問題でもある。

 先ず家計を考える上では、自分と家族との関係を明らかにする必要がある。その上で、どの様な考え方を基礎として家族を組み立てるかが重要となる。

 大家族主義を採るか、核家族主義を採るか、又、夫婦別家計を採るからによって家計の在り方は全く違ったものになる。

 ただ、基本的に全てを個人に還元する事は、現在の経済体制では不可能である。それは、乳児や幼児というのは、何等かの保護者が居なければ、生物学的に生存できないことが前提であるからである。
 故に、何等かの共同体を前提とせざるを得ない。その共同体を家族とするか、公共団体、或いは、地域社会、自治体、国家にするかによって国家体制は決まる。
 それは婚姻制度や教育の在り方にも決定的な影響を及ぼすのである。

 なぜ、自由や平等だけでなく、愛が必要なのか。自由にせよ、平等にせよ、突き詰めると人間関係に至るからである。人と人との関係を前提としなければ自由も平等も成立しない。人間関係の出発点は自分である。人間関係の本源は愛にある。
 人間関係は起点は自他の関係にあり、自由と平等は主客の関係にあるからである。主体的な関わりがなければ人間関係は生じない。主体的働きは愛にある。愛は、自分と他者との関係から生まれる感情なのである。
 自己が確立されていなければ他者との関わりは隷属関係でしかない。自分を制御するのは主体性である。主体性がなければ人間は自律できない。自律できなければ他者の支配下に置かれる。乳児、幼児期がそれである。正常な人間関係が結べるか否かは、自律性の問題である。他者に支配されてる限り、自由も、平等も実現できない。
 自分がなければ、則ち、愛情がなければ自由も平等も成り立たない。なぜならば、自分の存在を前提としないという事は自己否定を意味するからである。誰も愛せない人間が自由や平等について語っても虚しい。
 ところが現代人は、自由や平等について議論するばかりで肝腎な愛について議論しようとしない。そして、曖昧模糊としたところで愛を持ち出してくる。
 愛がなければ、自由も平等もただの関係、働きに過ぎない。愛は自己実現である。愛を否定することは自己否定である。そして、その愛は、限定的な愛ではなく、普遍的な愛なのである。
 愛の持つ厳しさ、そして、権利や義務については目を瞑り。又、愛と欲望とをすり替えてただ、自分の快楽を充たすことだけに愛を利用しようとする。しかし、愛の本源は母性愛にある。家族の中心に母親が居るのである。だからこそ、母親を保護する形で家族関係は構成されるのである。それが家族の形と相を表す。その根源にあるのは愛の象(かたち)である。
 自らの卑しさや淫らさを正当化するために愛を持ち出すのは愚劣な行為である。愛の本質は禁欲的で、純潔ですらある。愛と性欲とを混同するのは身勝手なことである。
 自分を抑制し、愛する人を大事にするからこそ、愛は、実現するのである。自分の欲望のために、他人を犠牲にする行為を愛とは言わない。

 家は内である。家は、内と外との関係をつくり出す。そして、内には内の外には外の規範が働く。内なる規範は、道徳、倫理を本とし、外なる規範は、法や規則を本とする。外は、不道徳な世界であり、内は道徳的な世界である。内には愛があり、外には力がある。外の力を内に取り入れることによって家は、活力を得る。外には内なる規範によって立ち向かう。内は戻るべき処、住むべき処なのである。

 愛は、人間関係の中心にある。そして、その愛の本性は母性愛である。家族はこの母性を中心によって築かれる。男は、家族を外敵から護ることを本分とする。そこに内と外の関係が生じる。内と外との関係は、家族の境界線と範囲によって決まる。
 家族の主体は一つである。統一される必要がある。家計が分かれれば、家族の生活も分裂する。故に、家族は、経済主体の最小単位の一つなのである。

 家庭内労働と家庭外労働の性格は違う。家庭内労働は収入に結びつかない労働であり、消費的労働である。故に、出費を伴う労働でもある。

 家計にも形と相がある。家計における形、相が家計の性格を決める。故に、家計の形は重要である。家計の形相を左右するのは時間の作用である。時間には、日常的な側面と非日常的な側面がある。それが固定的な費用と変動的な費用を発生させる。固定的な費用は位置に転じ、変動的な費用は運動に転じる。

 家計における日常的な収支と非日常的な収支を区分することが重要になる。則ち、費用には、固定的な費用と変動的な費用がある。固定的な費用は、必需的費用である。則ち、固定的費用は家計の基盤を構成する費用である。

 そして、家族か生活していく上で何が必要なのかに依って家計の基礎と構成が定まる。それは、消費の問題である。欲望の問題ではない。消費が確立されて始めて、生産は成り立つ。故に、消費と生産は経済の両輪なのである。
 消費は必ずしも市場を経由して為されるものではない。使用価値は、交換価値に全て還元れはしない。貨幣価値が全てではないのである。
 大量消費を前提とした経済は、物理的限界にいたって破綻する。経済は、物理的制約の上に成り立っていることを忘れては成らない。人間が、食べられる物には、限界があるのである。人間が生きられる時間には限りがあるのである。

 生産と消費は表裏の関係にある。生産と消費が表裏の関係にあるという事は、産業と家計は表裏の関係にあることを意味する。生産は供給の元となり、消費は需要をつくり出す。つまり、生産と消費は市場経済の基盤である。

 収入と支出も表裏の関係にある。収入と支出は、入りと出の関係でもある。ただし、収入と支出は、入りと出の関係の一部に過ぎない。収支の他に、入りと出の関係には、物と金と人がある。
 生産と消費、入りと出の関係は内と外との関係に根ざしている。内と外との取引は均衡している。それは、内部と外部の取引が均衡しているという意味だけでなく、内部の取引も均衡している事を意味する。
 外部取引とは、外が売り、内が買うと言う関係で当然均衡している。内部取引は、購入した物が内にあって物や消費となり、外に金銭を支出する事であると言う関係である。この関係も均衡している。
 この様な内部取引と外部取引は、表裏の関係にある。そして、この外部取引と内部取引が家計の形と相を決める。

 家計は、消費から成り立つ。消費とは生活そのものである。生活とは、生きる為の活動である。生きる為の活動とは人生である。則ち、家計は、家族の人生が複合する事によって形成される。
 家計を考えることは、人生を考えることである。人間の生き様を考えることである。自分が生きていく時間を考えることである。そこに消費経済の意義がある。

 生活をしていくためには、外部から生活に必要な財を摂取する必要がある。外部から必要な財、物資を摂取するとは、外部から貨幣で購入することを意味する。その為には、収入が前提となる。
 その為に、家計は、労働を提供して収入を得るのである。つまり、労働と引き替えに分配の権利を得るのである。この関係も表裏の関係を生じる。この関係は家族の人的構成、役割分担を形成する。

 家族の重心には、内向きな者と外向きな者がある。つまり、名目的な重心と実質的な中心である。名目的な中心は、一般に世帯主であり、実質的な中心は、主婦、或いは、主人である。内を護る者は、母親、女性でなければならないという事ではないが、実質的中心の本性は、母性である。名目と実質は、陰陽の本となる。母性は太極であり、一である。則ち、家族を生み出す根源である。

 現代人は、生きる為に何が必要なのかを考えずに、ただ消費させることばかりを考える。だから家計が滅茶苦茶になる。人としての根本を忘れている。だから、欲望だけが先行する。それでは餓鬼である。現代の経済は餓鬼道、修羅場である。

 自分の欲望を充足するためには、他人を犠牲にすることを厭わない。あさましい限りである。恥も外聞もあったものではない。人間としての尊厳など欠片もない。品位も失われた。金儲けに長けた者が世の誉れを受ける。どんなに悪逆な作品でも売れれば勝ちなのである。言論も地に堕ちた。言論の自由は猥褻な物を世に出すときのみ叫ばれる。どんなに不道徳な物でも言論の自由の下で許される。現代の経済には徳がない。

 消費を欲望に委ねるべきではない。欲望に消費を委ねれば、後は破滅するだけである。物には限りがある。人間に与えられた時間にも限りがある。欲望には際限がない。限りある物を際限ない欲望に委ねれば、自制、抑制が利かなくなる。残された道は破滅である。

 欲望に市場の原理を委ねている限り現在の経済は、自滅的経済である。

 人生は、量ではなくて質であることを忘れてはならない。
 人生は、仕事と消費の質によって決まる。そして、調和のとれた人生にこそ上質な人生がある。そして、その上質さこそが豊かさや幸福の尺度なのである。そうしてみると豊かさは調和のとれた生活にある。
 豊かさというのは、調和のとれた生活にある。現代人は、その調和を忘れ貨幣的価値ばかりを追い求めている。
 例えばいくらお金があっても使い道がなければ豊かとは言えない。又、いくら物質的な恵まれているとしても愛すべき人達がいなければ幸せとは言えない。
 お金があれば上質な人生が送れると思い込んでいる。金さえあれば、どんなに美味しい物でも食べられると錯覚している。
 しかし、いくらお金を出しても愛情の沢山つまった暖かな料理を手に入れることはできない。大切なのは、何を美味しいと感じるかの感性である。美味しい物を食べるために、家族や愛する人達を犠牲にしたら、上質の人生は送れない。
 食文化と言うが、今、文化は、均質化しつつある。国々や土地々の食文化が滅び、味覚が均一化されつつある。味覚というのは、最も個性的でな感覚であり、自己主張する感覚である。それが、一つの国どころか、世界が一つの味覚に均質化されつつある。それを豊というのであろうか。
 若さや、健康も金では買えない。それに、お金があっても暇がなければ使い道がないし、暇があってもお金がなければ、暇を持て余してしまう。
 豊かな国の一日の食事代にもならない年間所得しか稼げない国がある。そんなことは本来あり得ないのである。あるとすれば異常なのである。それを異常と感じられなくなっているとしたらそれ自体が異常であり、経済感覚が麻痺している証拠である。それは国民的病気である。所得の多寡ではなく。そこに人々が生活をしているという事実である。
 つまり、生活ができるという事実であり、重要なのは生活の実態がどうなっているかである。
 貨幣価値ばかりで豊かさを測ることほど空疎なことはない。なぜならば豊かさや幸せは主観的な尺度に基づくからである。そして、多分に錯覚に基づいている。
 例えば、高級料理店で出される料理と採れたての野菜や魚とではどちらが美味しいかは、主観の差である。どちらの価格が高いかに依るのではない。高級品が美味しく感じるのは、高価な物が美味しいと錯覚しているだけである。味覚に関しては、余程子供の方が騙されない。子供は、価格ではなく、自分の舌を信じているからである。
 我々は、本当に豊かになったのであろうか。豊かになったと錯覚しているだけではないのだろうか。
 我々は、本当に幸せになったのであろうか。幸せになったと錯覚しているだけではないだろうか。



家計の実際


 経済には、人的経済と物的経済、金銭的経済がある。経済を構成する要素は、家計と、企業と財政である。
 人的経済から見ると家計は、労働力を提供し、企業は、所得を分配し、財政は、所得の分配と再分配、失業対策、そして、分配の手段を提供することである。それらの要素を前提とした上で会計は、分配のための基準を設定する。
 物の経済から見ると家計は、財の購入と消費を担い。企業は、財の生産と販売。財政は、社会資本の整備を担う。
 貨幣的経済では、家計は、投資と貯蓄。企業は、設備投資と借入。財政は、貨幣の信用保証、貨幣の供給を担う。

 自由経済では、財の交換は、貨幣を媒体として市場を経由してなされる。貨幣は、所得という形で分配される。

 即ち、家計の役割とは、労働力を提供することによって所得を貨幣という方で受取、生活に必要な物資を市場において貨幣を媒体にして受け取り、消費することである。又、余剰の貨幣を直接、間接に産業に投資し、又、税金を支払うことによって公共財に貨幣を供給することである。
 家計の基盤は、家族という共同体であり、家族の内部は、非貨幣的経済空間、非市場的経済空間である。
 また、家族は、独立した経済単位、政治単位であり、私的所有権を有する個人の集合体である。家族には、家族に属する扶養家族の保護責任と私的財産の管理責任がある。

 これが、自由経済で家計を成立される前提である。

 家計は、経済単位の一つである。家計は、消費経済の中心である。家計の基礎は家族である。家族は、生活共同体であり、運命共同体である。家族は婚姻制度と血族関係を土台とした集団の単位である。家族は、原初的社会集団である。

 家族は、生活共同体である。家族の場は、生活の場である。そして、全ての経済単位の中心にある。そして、経済の最終目標が家計にあると言える。則ち、生活が全ての経済の基本なのである。

 近代とそれ以前とを区分する決定的な要因は、家族に対する認識である。現代、政治や経済の思想では、家族、及び家族に関連した概念にたいして否定的な考えが主流である。
 家族に関連した概念の中には、世襲、血族、親族、婚姻等がある。

 現代では、否定的にとらえられる家族でも、かつて、人間関係の中心的概念として捉えられてきた。例えて言えば、忠と孝は、儒教において中核的な概念であり、イタリアでは、大家族制度が一般である。又、祖先崇拝は、東洋では一般に見られる。

 つい最近まで、一家、一族中心に人間関係は、形成され、婚姻も家同士の結びつきとして捉えられていた。それは、結婚式の儀式や仕来りに象徴的に表されている。家族制度の崩壊は、結婚式にも如実に現れている。

 忠と孝は、現代では、封建思想と結び付けられて捉えられるが、忠と孝という思想そのものが、封建的というのではなく。封建的社会の中で忠と孝という関係が封建的にとらえられ、概念化されてというのが至当である。忠、本来の考え方は、誠実なり、いつわりのない行為という意味であり、孝は、親に対する真心、愛情と、親子の関係から派生する義務、責務を意味しする。
 民主主義には、民主主義の忠と孝があるのである。忠と孝が封建的なのではない。忠と孝は、関係から生じる働きである。

 社会を構成する要素の大部分は、家族を基本として、国家や社会は、それを補完する関係に位置付けられていた時代が長く続いてきたのである。
 大家は親も同然、従業員は、子も同然という考え方が主流であり、親分子分の関係や、義兄弟の契りという言葉がもてはやされたのである。
 それだけ、人間関係が親密だった証拠である。日本では、義理人情という言葉で表現された。そう言った濃密な人間関係を否定したところに現代社会はある。そして、その非人間的な部分が現代社会の病巣なのである。
 現代社会では、親子の情よりも、介護施設や介護制度、年金、福祉が重視されている。人間としての倫理、愛情より、金や施設の方が信じられる世の中になったのである。愛情より信じられるのは快楽であり、人間の欲望である。だから、現代人は、愛情に飢えているのである。しかし、それは自業自得である。
 そして、政治や経済の根底も、倫理や愛情から快楽や欲望へと移ってきた。現代人にとって家族の絆は徹底的に否定すべき関係なのである。しかし、それは、人間が生き物である限り、親子の関係は否定しきることはできない事実なのである。

 人間の存在が両親を前提としている限り、この家族という単位を否定する事はできない。故に、現代でも家族の絆を断ちきることはできない。結局、政治の世界でも代を重ねると世襲議員の率が高くなる。それが生物学的現実なのである。家族という関係を頭から否定するのは、むしろ、非科学的行為である。
 そして、この家族が経済における最小単位の一つになる。家族を基礎として経済が家計である。
 又、政治も家族か中心であった。宮廷官房学が財政学の起源であることがその証拠である。つまり、財政の起源は家政なのである。

 かつては、家族が全ての中心にあった。政治も経済も家族主義、それも大家族主義が基本にあった。ただ、母系か、父系かの違いがあっただけである。

 現代社会では家族の存在を前提としていない。少なくとも経済的な意味で家族の存在に期待していない。
 家庭内は非市場的経済空間、非貨幣的経済空間である。その家庭内にすら市場経済や貨幣経済を持ち込もうとしている。それが家族の崩壊や喪失を促進している。
 経済的価値は、家庭内には認められず。常に家庭外にしか認められなくなりつつある。貨幣に換算できないことは、まったく経済的価値を認めないのである。外に働くにいくという表現が象徴されている。外に働きに出ない者は、経済的、社会的に自律していないと見なされるからである。また、経済的な弱者でしかない。
 出産、育児、教育、掃除、洗濯、料理、病人や老人の介護といった労働は、一切外注化されるべき労働であり、家内労働は、否定される。性すら単なる商品と化す。そうなると、家族は同居している根拠すらなくなる。結果的に家族は解体されていく。老人の孤独死が増えるのは必然的帰結である。
 そして、この家族の関係を支えてきたのは、人間としても道徳である。現代経済は、徳のない経済である。あっても損得の得であり、人徳の徳ではない。
 経済の本質は、思いやる心である。現代の経済には、思いやる心など持ちようがない。あるのは、金銭による取引だけである。信じられるのは、「お金」だけであり、親や子供ですら信じる事のできない経済社会である。親に売られ、子に捨てられるのが当然の社会である。
 金を出さなければ、子供でも親の世話はやかないのである。

 この様な思想は、生きることの意味を見落としている。つまり、人間の繋がりや愛情を単なる物質的な価値に置き換えているだけである。それが資本主義や社会主義の正体である。

 平等という思想と、同等という思想は違う。人間は、平等だけれど同等ではない。つまり、人間は存在において変わりはないが、人は、皆、違うのである。平等は、一人一人の人間まったく違った個性を持つという前提の上に成り立つ思想である。
 違うからこそ、お互いが助け合い、補い合う関係が生じる。人間関係は、一方的なものではなく、双方向の関係である。その典型が家族である。

 家族は、補い合い、助け合う関係である。親に迷惑をかけない子供はいない。生まれたばかりの赤ん坊は、自分一人の力だけでは生きていけないのである。老いたら、子供が面倒を見る。立派な設備に預けっぱなしにはいかない。そして、それなくして家族は維持できない。それが家族の絆である。家族が助け合うことが当然な社会と、そうでない社会とでは、経済の有り様が違ってくる。
 家族の力が当てにできなくなれば、国や社会が子供や老人の世話を全面的に見なければならなくなる。

 むろん、従来の家族主義もそれなりの理由があって否定的にとらえられるようになったのである。世襲制度や同族主義には、決定的な弊害がある。その最たる部分が、身分的差別、階級的差別に結びつくことである。身分制度や階級制度は、基本的人権を制限し、経済的格差を否定的なものにしてしまう怖れがある。

 貧困を生み出すのは、格差である。生産量や供給量の不足ではない。貧困は、経済を破綻させる原因、或いは、経済が破綻した結果と見ることができる。いずれにしても貧困は、人民を不幸にする種であり、しっさいの最たる結果である。その貧困の原因となる要因として差別や格差がある。差別や格差を生み出す元となるものに身分や階級がある。

 また、異常な格差が生じるのは、資金の流れに偏りがある証拠である。資金の偏りは、貧富の差を広げる重大な要因でもある。

 身分制や階級制を生み出す要因の一つとして、世襲や同族経営は忌避されてきたと考えられる。また、それは、世襲や同族主義の致命的な欠陥である。
 そして、世襲や同族会社を生み出す要因の一つが家族主義である。又、家族主義は、特定の家族や一族に権力の集中をもたらす原因となる。それが権力闘争の根源でもある。血で血を争う醜い権力闘争は、人心を荒廃させ、戦争や革命、国家滅亡の原因となる。その温床となる家族主義が否定的にとらえられるのも必然的な帰結である。

 しかし、家族主義の弊害を前提としても、家族そのものを否定する事はできない。人間の社会は、家族中心に成り立っており、又、家族を中心に据えなければ、成り立たないのである。家族という単位を否定したら、人間関係を構築するための要がなくなってしまうからである。

 世襲や同族、また、そこから派生する身分制度や階級制度の弊害を取り除いたうえで家族を基盤とした経済体制を築く。その為にこそ、経営と所有の分離があるのである。ただ、いずれにしても、経営や家計の主体を失ったら、経済は自律的機能を喪失してしまう。なぜなら、人間の社会は、あくまでも人と人との絆よって成り立ちその根本はだからである。

 家計は、消費を基礎としている。家族を否定的にとらえることによって家計も否定的にとらえられるようになり、その結果、消費経済も一段低く見られ、未だに確立されていない。

 かつては、生産の現場も家族が中心であった。一次産業が典型であり、工業も家内制工業が中心であった。生産現場と消費の現場は一体であった。当然、職住も一体であった。社会的分業が発達するにつれて生産の現場と消費の現場は分離した。又、財政の発端も家政、家計である。この様なことを考え合わせると、家計は、経済単位の源だと言えるのである。

 生産が消費を形成し、消費が生産を規制する。供給が需要を創造し、需要が供給を抑制する。生産と消費は、経済の両輪である。

 消費は文化である。消費行動は、文化的行為である。

 生活を考える上で重要なのは、生活を成り立たせている前提である。生活を成り立たせている前提は、その国の文化や価値観に根ざしている。その点を抜きにして、経済を語ることはできない。例えば食生活や住宅、衣装である。

 かつては、高額な酒税が掛けられていた。また、お酒には関税も掛けられていた。しかし、それが前提として生活が成り立っていれば、家計には、何の支障もないのである。なぜならば、家計は、生活環境を前提として形成されているからである。生きていく上で必要な物資が確保さえされていれば、基本的には、生活は成り立つのである。

 消費経済が、産業の有り様を形作る。消費経済は、垂直的な段階があり、産業は、水平的な段階で成熟していく。つまり、消費経済は、衣食住の必需品、日常品から贅沢品、自己実現のための出費へと発展していき。産業は、創生、成長、成熟、停滞、衰退と移行していく。

 安ければ良いという風潮が蔓延している。その為に、乱売合戦が起こり、市場が荒廃してもお構いなしである。その結果、デフレの振興であり、不景気である。
 消費の質もどんどん低下している。しかし、消費の質の低下に誰も気がついていない。消費の質を落とすことは、生活の質、文化の質を落とすことになるのである。

 安かろう、悪かろうは、生活の質も、文化の質も安っぽい、劣悪なものに変えてしまう。かつては、高くてもいい物を買って、それを大切にして何世代にもわたって、使ってきた。衣食住でも現代よりずっと寿命が長い。また、いい物を見抜く目、本物を見抜く眼識を養うのも重要な徳目として見なされてきた。
 経済としても修理屋や営繕、修繕が職業として成り立ってきたのである。それが社会であり、経済である。大量生産、大量販売、大量消費だけが経済なのではない。
 物を大切にすると言うのは徳目なのである。決して吝嗇(りんしょく)だからではない。それが資源や環境の保護にも繋がるのである。

 近代は、大量生産に始まったと言っていい。しかし、現代人は、この手大量生産に落とし穴があることに気がついていない。大量消費は、浪費、無駄遣い、使い捨て文化に繋がるのである。
 環境破壊、産業廃棄物、ゴミ処理、化学物質汚染、資源問題、薬物汚染、家庭崩壊これらの諸問題の根源には、大量生産、大量消費が隠されている。
 生産は、消費と表裏を成している。消費は、人々の生活によって成り立っている。人々の生活は、人々の生活観、人生観を背景としている。そして、本来は、消費が生産を決めるのである。
 大量生産は、大量消費を前提として成り立っている。故に、現代の大量消費型社会は、消費による要請によって成り立っているのではなく。主として生産者側の都合によって成り立っている。

 それが安売りに繋がっているのである。

 いい物を買って修理、修繕しながら末永く使うという思想は失われたのである。いい物を長く大切にすると言う思想から安い物を買って使い捨て、常に新しい物を求めるという思想に変化したのである。そして、それが地球規模での環境破壊を引き起こしている。

 経済には、固定的な部分と変動的な部分がある。産業にも、消費にも、家計にも、企業にも、財政にも固定的な部分と変動的な部分がある。
 固定的というのは、長期的、静態的、普遍的な部分であり、変動的というのは、短期的、動的、刹那的部分である。ただし、固定的、変動的といっても、相互に関連した事象である。相互の関連や前提条件を確認しないと一概に固定的、変動的と決め付けることはできない。即ち、固定的か、変動的かの基準は、相対的なものである。

 家計を構成する基本的要素の基幹にあるのは、衣、食、住、そして、自己実現に対する出費である。衣食住は、生きているために不可欠な物資、必需品、日常品である

 経済は、必需品、日用品から、暫時、成熟していく傾向がある。経済全体が成熟してくると必需品を扱う産業の成長が頭打ちとなり、贅沢品を扱う産業が発達するといった現象が見られる。その為に、経済全体から見ると偏りが生じる。

 その結果、構造不況業種には、必需品や日用品を扱う産業、俗に言う、コモディティ産業に多く見られる傾向がある。

 構造不況業種は、成熟産業に多く。構造不況業種には、素材産業や繊維産業のような基幹産業が含まれている。

 消費の有り様が市場の構造を形成するからである。放置すれば、素材産業や必需品産業、エネルギー産業といった基幹産業が構造不況業種に陥ってしまう。

 家計を考える上で重要なのは、第一に収入の形相である。第二に、支出の形相である。
 収入と支出、いずれにも時間的要素が加わる。そして、その時間的要素が収支の形・相を形作るための決定的な要素となるのである。
 収入の形でいえば、定収入の有無が重要となる。定収入とは、一定の固定的収入を意味する。なぜ、定収の有無が重要なのかといえば、定収の有無によって時間的な要素の度合いに変化が生じるからである。この点は、支出の形である、可処分所得の在り方にも決定的な働きをする。また、借金の在り方にも重要な要素となる。極端な話し、決まった定収が期待できない者は、借金すらできなくなる。又、金利にも格差が生じるのである。物や住宅を借りることも制約を受ける。この事は、貧富の格差の潜在的要因ともなる。
 可処分所得の根底には、固定的資金がある。その固定的資金は、税金や社会保険費、住宅ローンの返済といった長期的、或いは恒久的な費用、則ち、社会的費用によって形成されている。

 家計において問題だったのは、支出は、ある程度一定していて固定的なのに対し、収入は、一定せず変動的だという事である。支出と収入というのは、貨幣経済的概念で物的にいえば消費は固定的で生産は、変動的だという事である。人的にいえば生活、即ち、生きていく為に必要な物は日々一定しているのに、手に入れられる物は、一定していないという事である。

 狩猟生活を主とした時代では、収穫は、常に一定せず食料の保存も思い通りにならない。それでも、日々一定の食料を摂取しなければ飢え死にしてしまう。日照りが続いて水が涸れれば生きていけない。農耕によってある程度は、保存の効く食料を手に入れ事が可能となり、定住することも可能になった。しかし、それもその年の天候や作柄に左右され、飢饉になるリスク逃れられない不安定な生活であった。
 現代でも個人事業者や定職を持たない者は、日々の資金繰りに負われ、借入や保険といって長期的資金の調達にいろいろな制約を受けているのである。

 つまり、収入が一定しない限り、生活は安定しない。そして、日々の生活が安定しなければ長期的な展望も、計画も立てられないという事である。

 家計は、収入と支出から成る。自由主義経済における家計の顕著な特徴は、収入の定収入化と私的所有権の確立にある。つまり、個々の家計が自律的に存在するという点である。

 この定収入化が長期的借金を可能とし、現代の消費経済の基盤を形成するようになった。定収入化の基盤にあるのは、企業である。故に、家計と企業とは表裏の関係にある。
 定収入化によって消費の有り様も変わってきたのである。

 かつて、社会主義国では、一律の基準で所得を分配し、収入を平準化することで平等な社会状況をつくり出そうとしたが、結局は失敗した。
 なぜ、所得の分配において絶対的な基準は適さないのか。

 第一に言えるのは、経済現象は、複数の要素の相互作用によって引き起こされる。一律の基準で単純に割りきれるものではない。
 所得だけを一律に分配しても均等な分配が行われるという保証はない。
 第二に言えるのは、経済には、不確定な要素が多く。未知数な部分が多いからである。
 だいたい、需給が未知数なのである。需要量は、必要量と消費量から導き出される。供給量は、生産能力に依存している。
 消費には、はやり、すたりがある。又、市場の成熟度によって消費も影響を受ける。安定した消費を望める市場は、過当競争に陥りやすい。
 生産能力といっても農産物のように天候や作柄に左右される物もある。又、政治、災害、自己によって生産量や流通に影響がでる物資も多い。つまり、生産量には、未知数が多いのである。
 第三にいえるのは、必要とする財に個人差があることを前提としなければならないという事である。
 更に、個人差は、個人の能力、個人の嗜好、その人の体格や健康状態、その人のおかれた環境、家族状況、経験といった多岐にわたる。

 この様に、生産と消費を完全に予測することはむずかしい。だから市場の仕組みに委ねるのである。

 消費の傾向は、家計の構造に現れる。故に、家計は、経済の根源といえるのである。

 消費は文化である。故に、家計は、その国の文化の縮図である。

 親子兄弟姉妹ほど、不条理な関係はない。なぜならば、親子兄弟姉妹は、自らが望んで結んだ関係ではないのである。親子兄弟姉妹は、所与の関係である。それ故に、その絆は、切っても切れないのである。一生つきまとう。前提である。
 しかし、その親子関係の要にあるのは、一組の男と女の関係である。男と女の絆は、選択が可能な関係である。そして、今日、その根本を愛情と自らの意志に基づく事を前提とするようになってきた。
 所与の人間関係と選択的な人間関係が組合わさって社会が構成されているからこそ、人間関係の偏りを防ぎ、社会の均衡、平衡を保つことができるのである。それこそが神の意志なのである。
 この家族という関係抜きに政治や経済を語ることは不毛なことである。そして、それは男と女の関係を律することでもある。

 経済とは、生きることである。仕事はその為の手段である。同時に、仕事をすることは生きることでもあるのである。仕事は、労働である。だから、労働は、経済なのである。
 現代人は、労働を忌避すべき行為だと錯覚している。しかし、労働は、生きる為の手段であると同時に、自己実現の手段でもある。その点を忘れてはならない。
 よく仕事をとったら何も残らないと自嘲気味に言う者がいるが、それは、滑稽である。仕事は生きる事であり、生きる手段である。人は、仕事によって生かされているとも言える。だから天職とも言う。働くことは喜びであり、働けることは感謝すべき事なのである。働かなければならないことを呪うことは、生きることを呪うことに相当する。だからこそ、主体性のもてない労働は、苦役なのである。労働が苦役なのではない。労働に主体的になれないのが苦しいのである。
 現代人のように、なるべく休みを多く取り、なるべく早く、仕事から引退することを望み、又、制度化すれば、人間は生きる術(すべ)を失ってしまう。それが現代人の病根である。人は、仕事によって生かされているのである。そのことを忘れてしまえば仕事に生き甲斐を見出すことも、やりがいもなくしてしまう。仕事は、ただ単なる金儲けの手段に過ぎなくなる。そこに疎外がある。人は、パンのために働いているわけではない。パンは生きる為に必要な物である。しかし、それは目的ではない。人は生きるために働くのである。人は、働くことによって生かされているのである。

 生きる為に働くのであって、働くために生きているわけではない。そう思えれば、むしろ、働くことは生き甲斐になるのである。人間は、働くことによって生かされているのである。働くことが喜びにならない限り、生きる喜びは得られないのである。

 自分から仕事をとったら何も残らないと言うのは間違いである。全てを剥ぎ取った時、人間である。我々は、仕事によって生きることの意義を学ばされているのである。仕事を通じて何も学ぶ事ができなかったからこそ、何も残らないのである。それは結果であって原因ではない。元来、仕事に対する考え方を間違っていたのである。
 仕事によって生かされる事、生きる事、それが経済である。生きる事、生かす事を置き忘れた時、経済はその本質を失うのである。なぜならば、経済は生きる為の活動だからである。

 例えば、父親という仕事、母親という仕事である。父親という仕事、母親という仕事は辞めることができない。
 ところが現代人は、父親という仕事、母親という仕事を辞めることができると錯覚している。だから家庭が形骸化するのである。いやになったら、父親だって、母親だって辞められると思い込んでいる。子供が成人したら、父親や、母親はお役ご免だと思っている。仕事に定年退職があるように、父親にも母親にも定年退職があると思っている。
 ならば、仕事にも終わりがあるのだろうか。仕事の原点は、親となること、或いは養うべき家族を持つことである。親という仕事、愛するという仕事には、仕事ができなくなったから引退するというのは間違いである。

 知り合いの父親は、認知症になっても畑にでると不思議と認知症になる以前と同じように仕事をし続けたという。かつての職人は、死ぬまで職人であり続けた。哲学者は、哲学で死ぬのである。つまりは、仕事は人生そのものなのである。仕事共に生き、仕事によって死ぬ。これ程幸せな一生はない。現代人、特に、欧米人は、頭からそれを否定する。仕事に喜びを見いだせない。それが現代人の不幸の源なのである。

 現代人にとって仕事という言葉には醒めた響きがある。
 仕事に愛情だとか、人生に対する思いれれの様な情を見いだせない。仕事は、仕事、所詮、金の為じゃあないかと突き放して考える。
 だから、父親も、母親も、夫も、妻も仕事だというと違和感を感じ、否定的にとらえる。父親や、母親は、無償の労働であって仕事ではないという。現代人にとって仕事はあくまでも報酬を得るための手段に過ぎない。仕事だから仕方なくお愛想を言うのである。現代人は、その人の価値観や生き様と仕事は無縁だと考える。だから、金のためならどんなに悪どい事であろうとお構いなしである。裸であろうと、人を傷つけることであろうと恥じることな平然とやってのける。仕事だからと現代人は言う。
 しかし、それは欧米流の考え方である。日本人にとって、仕事場は、生きる為の修業の場であった。だから、武道になり、商人道が生まれ、職人気質が形成されたのである。日本の商人は、命懸けで信用を守り、職人は、自分の仕事に誇りを持ち、納得のいかないどんなに金を積まれても仕事はしなかった。教育者は、子供を育てることを天職と考え、子供達に愛情を注ぎ、死ぬまで面倒を見た。だから、教え子は、先生を結婚式に招いたのものなのである。信用を守り、寝食を忘れて腕を磨き、子供に愛情を注いだのは、それが仕事だからである。同じ様に仕事を口実にするにしても全く逆の発想である。
 日本人にとって仕事は修業なのである。だから、休むことさえ惜しんだ。休め、休めという思想とは異質である。

 定年退職という思想は、日本人にはない。働けなくなるまで働き。働けなくなったら、隠居するのである。隠居しても、仕事から離れるのではなく。ただ後進に道を譲ると言うだけである。
 現代人は、仕事を仕事として受け止められないから、生き甲斐が見いだせなくなってのである。一定の年齢が来たら、仕事がなくなるから自尊心を失ってしまうのである。また、働けなくなったら、働く場がなくなるから、自分の信条を保てなくなったのである。そして、道徳がなくなり、家族に対する愛情や絆が失われ、家庭が崩壊し、同僚への思いやりがなくなり会社が守れなくなり、経済がおかしくなるのである。
 要するに、守るべきものがなくなってしまったのである。それが喪失の正体であり、疎外の原因なのである。現代人は、あえてそこから目を背けている。最後に問われるのは、愛情なのである。だからこそ、自由、平等の最後に愛が必要となるのである。
 共に生きることを考えることが経済を考えることなのである。争い、対立するのではなく。助け合い、補い合って生きていくのが経済である。

 自由と言い、平等という。しかし、最後に友愛が来るのは、愛がなければ自由と平等の調和が計れないからである。人々は、自由や平等についてはよく論じるが、真実の愛については、議論することが少ない。しかし、最後に求められるのは愛なのである。







                    


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