極めれば則変じ


漢民族は、過去にも他民族支配を受けたことはある。しかし、たとえ他民族支配を受けたとしても最後は自分達の文化に同化させてきた。それに対して、今日の西欧化は、中国文化そのものの本質が問われているのである。
だから、中国にとって深刻であり、中国が深刻だから世界も深刻なのである。

中国思想の坤元は易経にある。

日本人は歴史に学ぶべきである。
日本人に歴史を学べというのは、
自国を賤しめる様な歴史観のことを言っているのではない。
東洋人の心根を学べと言うのである。
そして、何が本源的な原因なのかを理解すべきなのである。
東洋の歴史の根本には、人種問題や植民地問題がある。
日本人も中国人も同じ東洋人であり、価値観を共有してきたのである。
その価値観の根底を成しているのは、中国とインドの思想、哲学であることを忘れてはならない。
今の日本人に求められているのは、東洋人としての誇りであり、東洋人の一員としての自覚である。
中国とインドは東洋文明の源である。

日本と中国がお互いに敵意を剥き出しにするような状態は哀しいことである。
その根本は国家間の礼節が失われたことである。
礼は、中国において最も大切な徳目の一つである。

日本と中国との関係は、古くは、魏志倭人伝の時代から、又、遣隋使、遣唐使の時代まで遡る事が出来る。鎖国を解いた以降、また、第二次世界大戦終戦後だけの短い期間に限られているわけではない。
その長い時間の中で、日本は、多くの文物を中国から摂取してきたのである。
又、その長い関係の中で、日中両国の友好は育まれてきたのである。
その長い歴史抜きに、日本と中国の関係を語ることは出来ない。

不必要に対抗心を煽り、国民感情を悪くするのは、日本と中国、双方にとって、長い目で見て得策ではない。
肝腎なのは、同じ東洋人であり、文化や価値観、歴史を共有しているという意識なのである。
東洋人の根底にあるのは、中国の思想である。
その意味においても中国の根本思想を再考することが重要である。

易は決して占いや予言と言った非科学的なものではない。
きわめて科学的なものである。
易こそ世界を救うだけの力を秘めているのである。

易学は、近代的で科学的である。
又、新たな経済学の基礎となりうる思想である。

窮すれば則ち変じ、変じれば則ち通じ、通じれば則ち、久しい。

無窮から太極が生じる。
太極は、宇宙の精気を吸い込み、放出する。太極の運動によって世界は変化する。その本性は、渾然一体なる状態、玄妙なるものである。

窮まれば無、則ち、0となる。
陰陽合わさって0、則ち、虚となる。
0には、虚、無、空、始、基の意味がある。
虚は無であり、空であり、始まりであり、基点である。

それがゼロサムな状態である。ゼロサムは均衡を意味し、調和を意味する。

易に太極あり。太極から両儀が生じる。

易は、二進法である。

お金が流れることで債権と債務が生じ、また、所得と消費が生じる。
損益は、利益と損失として顕れ、資金の流れは、常に正である。故に、貨幣価値は自然数となる。

債務は陰で、債権は陽。
所得は陰で、消費は陽。

乾は、変化を言い。坤は、成物を言う。

損益は変化、貸借は成物を言う。

窮すれば則ち変じ、変じれば則ち通じ、通じれば則ち、久しい。

禍福は糾える縄の如し。
捨てる神がいれば拾う神がいる。
日が昇る国があれば日の沈む国がある。

経済には、陰陽、虚実、表裏、寒熱がある。

負と正は、陰陽の関係にある。
赤字と黒字、損失と利益は陰陽の関係にある。

負債と資産、フローとストック、名目と実質は虚実の関係にある。

貸し借り、売り買いは、表裏の関係にある。
収入と支出は、表裏の関係にある。
経常収支と資本収支は表裏の関係にある。

下降と上昇、縮小と拡大は寒熱の関係にある。
デフレーションとインフレーションは寒熱の関係にある。
不況と好況は寒熱の関係にある。

物価の上昇と下降は、貨幣の流れる方向と強さを表している。

陽、則ち、物が強くなりすぎればインフレーションになり、陰、則ち、金が強くなりすぎれば、デフレーションになる。

マイナス×マイナスは+とする。これは決め事である。
陰陽であれば、陰と陽を掛け合わせれば陰となり、陰と陰、陽と陽を掛け合わせれば陽とするのである。

陰×陽=陰。
陽×陰=陰。
陰×陰=陽。
陽×陽=陽。

陰陽は、複式簿記にも現れる。
名目は陰。実質は陽。
貸借は陰。損益は陽。
貸方は、陰で、借方は陽である。
負は陰であり、正は陽。
損は陰で、利益は、陽である。
負債は陰で、資産は陽。
収益は陰で、費用は陽。
ストックは陰。フローは陽。
短期は陽で、長期は陰。

易の卦は前提によって変わる。
陰陽は、固定的ではなく、状況の変化に応じて変じる。
陰陽は、相対的なのである。

易に三義あり。
三義とは、変易、不易、易簡である。

物事には、どんな時代にも、変化している部分と変わらない部分、変わっていい部分と変わってはならない部分があり、それらの根本は突き詰めてみると単純明快な基準に基づいているのである。
今の経済は、成長や技術革新と言った変化による力にのみ重きを置いている。この様な経済体制は、成長や技術革新と言った変化がなくなれば失速して経済の均衡を失ってしまう。産業には、急速に技術革新が進んでいる分野と古くからの技術を継承することで成り立っている産業がある。
成長や拡大、技術革新のみを経済の原動力としていたら、市場が成熟し、あるいは、飽和状態に陥り、変化の少ない産業は衰退していってしまうことになる。
変化の激しい産業は、人材の入れ替わりも激しい。技術も熟練を必要としていない場合が多い。
逆に、成熟し、古くからある技術に支えられた産業は、多くの熟練した職人を養っている。この様な産業は、経験が重要であり、高齢になっても仕事を続けることが出来る。そして、熟練を要する技術は、時間をかけて人から人へと継承されていくべき技なのである。
この様な職人の存在は、社会の安定にとっても不可欠な存在なのである。
そして、長い間変わらない産業も必要なのである。

老いて自分の衰えや限界を自覚した時こそ、人は、人として究極的成長を促される。それこそが人生を完成するため挑戦なのである。
老いてこそできる仕事がある。老いてできる仕事を用意し、維持することが肝要なのである。

現在の経済は、陽の力、則ち、変化を促す力に偏りすぎるのである。

貨幣価値は、認識主体と貨幣が指し示す対象と貨幣の三つの要素からなる。この三つの要素は、人・物・金である。

人は、坤元。物は陽。金は陰。

産業の主は人である。金でも、物でもない。
産業の本分は、人民を幸せにするために、財を生産し、働きに応じて財を分配するために、「お金」を用いるのである。
この点を間違うと人間は、「お金」の奴隷になってしまう。

その意味では、経済とは、人による労働の仕組みを基礎としているとも言える。つまり、経済問題とは、生産した物をどの様に分配するか、その仕組みをどう構築するかの問題だとも言える。

経済とは、「お金」だけが総てではないのである。
経済とは、人の問題なのである。

いくら生産性が上がっても人の働く場がなくなれば経済は成り立たなくなる。
経済は人の問題なのである。

労働と所得の時間的、空間的な平準化、平均化が経済の課題の一つである。

労働は、単に量だけでなく、質も重要なのである。

第一の問題は、人々の欲求を満たすだけの生産財があるか。これは質と量ともにである。第二の問題は、生産財が人々に公平に行き渡っているか。少なくとも、生きていく為に最低限必要な資源が行き渡っているかである。
人々の欲求を満たすだけの生産財があったとしてもその分配が極端に偏っていて、中には、生活も出来ないような国民がいる場合と、生産財そのものが不足している場合とでは問題な本質が違ってくる。

経済の発展によって多くの人々が人の道を誤るとしたら、それは真の経済発展ではない。経済の成長によって多くの人々が不幸になるとしたら、経済の目的から逸脱した成長である。

徳のない経済発展は、偽りの経済発展である。

「お金」が通じれば、陰陽が生じ、あるいは、陰陽は変わる。

静と動があり。
動けば陰陽変ず。止まれば又陰陽変ず。

貨幣経済では、「お金」は使うことによってはじめて役に立つ。役に立たないという事は、価値がないという事である。お金は食べる事も、着る事も、住む事も出来ないのである。

資金の流れる道は、
塞がるところがあれば通じるところがあり、通じるところがあれば塞がるところもある。

入りは陰で、出は陽。陰陽合わさって万物は生じる。

複式簿記では、「お金」は、借方からはいって貸方から出ていく。

道は、一に始まるも、一にしては生ぜず。故に、別れて陰陽と為り、陰陽合和して、万物生ず。故に曰わく、一は二を生じ、三は万物を生ず。(「淮南子」天文訓)

泰初に無あり。有なければ名無し。一の起こる所なり。一有りて未だ形(あら)われず。物得て以て生ずる。之を徳と謂う。未だ形われざる者分有り、且つ然(か)くして、かん(分かれていても隙間ない)無き、之を命という。留動して物を生じ、物成りて生理ある、之を形と謂う。形体の神を保ち、各々儀則有る。之を姓と謂う。(「荘子」天地編)

固定的なもの、重い物は、下に沈み地となる。流動的な物、軽い物は、上に上昇して天になる。

乾知大始。坤作成物。
乾以易知。坤以簡能。(繋辞上伝)
乾は大始を知り、坤は物を作成す。
乾は易を以て知り、坤は簡を以て能くす。

経済では三面等価が重要となる。
則ち、支出=所得=生産である。

経済における、公と私の区別を明確にすることが重要なのである。
公は陽であり、私は陰である。
更に、家計部門と企業会計部門と財政部門と海外部門といった経済主体の働きを明らかにする。
それぞれの経済主体にも陰と陽があり、それぞれの経済主体の状態にも陰と陽がある。

家計部門+企業部門+財政部門+海外部門=0が成り立つ関係式が重要なのである。
この様な関係式と経常収支が世界市場ではゼロサムだという関係式を結び付けると世界経済の図式が明らかになってくる。

家計の貸借+企業部門の貸借+企業の貸借+海外部門の貸借=0
この根本には、貸し借りは均衡しているという前提がある。
同様に、家計収支+企業収支+財政収支+経常収支=0
誰かの収入は他の誰かの支出になる。誰かの支出は、他の誰かの収入になるからである。
貸すというのと、借りるというのは、貸す側から見ると金を貸し出すと言う意味であり、借りるというのは、借りる側から見て借り受けるという意味です。支出は、払い手が払い出すという意味で、収入は、受け手が受け取るという意味である。つまり、貨幣が流れる方向が違うと言うだけで結局、同じ運動を主体を代えてみているだけなのである。
また、ゼロサムが成立する関係では、前期−当期もゼロサムが成立する。

GNP(分配)=消費+貯蓄
GNP(支出)=消費+投資+経常収支
故に、貯蓄−投資=経常収支

民間貯蓄投資バランス+政府貯蓄投資バランス=海外貯蓄投資バランス
(家計貸借−家計投資)+(民間企業貸借−民間企業投資)+財政収支
    +資本収支+外貨準備増減=0

財政収支=(税収+税外収入)−歳出

国際収支もゼロサムが基本である。つまり、国際収支で重要なのは、経常収支と資本収支、外貨準備高の関係である。

重要な前提は、世界全体で見ると経常収支の総和も、資本収支の総和も、外貨準備高の総和も、0になるという事である。まず、この経常収支は、全体は一つ、総和は0という関係を前提としなければならない。

家計部門+企業部門+公共部門+海外部門=0。

全てが陽となる組み合わせと全てが陰になる組み合わせはない。
それ以外の組み合わせの形が経済の状態を表している。

則ち、経済の状態の形には、次の形がある。
陽陽陽陰。
陽陽陰陽。
陽陰陽陽。
陰陽陽陽。
陰陽陰陽。
陽陰陽陰。
陰陽陽陰。
陽陽陰陰。
陽陰陰陽。
陰陰陽陽。
陽陰陰陰。
陰陽陰陰。
陰陰陽陰。
陰陰陰陽。

陰陽の力はいつも均衡する。
これが大前提である。

国家間の均衡を考えると一国の経常収支、則ち、輸出額と輸入額が一致出来ればいいが、現実には、不均衡なのが状態である。それが国際紛争の要因となる。

この不均衡をどう解消するかが、国際経済の喫緊の課題なのである。

東洋文明は、西洋文明に決して劣ってはいない。
東洋文明と西洋文明は、表裏を成す文明である。
西洋文明を陽とするなら、東洋文明は陰である。
陰と陽との力が渾然一体となったとき、世界は調和するのである。

一陰一陽これを道という。

陰陽錯行すれば、則ち天地大いにおどろく。「荘子」

東洋文明と西洋文明を一体とする力を持つのは易である。



今の日中問題がこじれた原因が日本の元首が、中国の元首の面子を潰してしまったことだとするなら、余りにも情けないし、哀しい。
国家間で重要なのは、儀礼だと言う事を忘れているからこういう事態を引き起こすのである。
日本人は、面子なんてどうでも良いと思っている。中国人や韓国人は面子を重んじる。
日本人は、自分の考え方が正しいとして国際社会で傍若無人に振る舞う傾向がある。
しかし、相手が面子を重んじている以上、相手の面子が保てるように配慮をするのは当然であり、外交の鉄則であるはずである。

日本と中国の係争が片付かない原因の一つは、日本人と中国人が共有してきた東洋的価値観の喪失がある。かつては、東洋人は、共通の価値観の下に共存してきた。その共通の価値観、則ち、東洋的価値観の根底を成してきたのが、中国的論理である。中国的論理の本質が失われ、形相的な部分でばかり争われているから解決の糸口が見出せないのである。

日本人の多くは、隣人のことをよく知っているようで知らない。キリスト教やイスラム教、ユダヤ教のことはよく研究しているのに、中国人が信じる神のことは知っているようで知らない。それでありながら、多くの日本人は、中国人のことをよく知っているつもりになっている。このよく知っているつもりと言うのが曲者なのである。
我々は、もっと中国人や韓国人の文化を知る必要がある。隣人の逆鱗が何で、又、何を大切にし、何を信じているのか、それを知り、尊重する必要がある。

核兵器や化学兵器、生物兵器と言った大量殺戮兵器、最終兵器が世界中に蔓延している今日、国家間の紛争を武力によって解決する時代ではなくなってきている。
いわば狭い部屋の中で爆弾をもって対峙しているような状況なのである。
国家間の紛争を解決する手段を武力以外にも工夫していく必要がある。それは、たんに願望や理想論ばかりではなく、現実的な手段でなくてはならない。
領土問題を解決するためにも緩衝地帯の設定や共同統治、国際機関の直接統治といった手段も用意しておく必要がある。特定の国の軍事力ばかりを頼るのは危ういことである。

日本人も、日本人以外の人も武士道を誤解している者が多い。武士道というのは、無闇に命を粗末にしたり、刀を振り回すような考え方ではない。
刀を傍らに置くことで、常に、真剣勝負の心を持つのである。刀を傍らに置くことで心を静め、冷静に物事を判断する。刀の刃は、相手に向いていると伴に自分にも向いているのである。
もし、道義、礼節に反することがあれば、潔く切腹する。もし、己の名誉、信義が護れなければ相手と刺し違える覚悟をする。
その潔さ、覚悟にこそ、自らの潔白の証があると覚悟するのが武士道である。
命懸けで自らの潔白と大義への忠誠を示すそれが武士道である。
その覚悟をもって誰に対しても正々堂々と接するのが日本人魂である。
その為に武器を携行するのである。










       

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