過剰経済




現代社会は、過剰を是としてきた。不足するよりも過剰であるほうがいいに決まっている。
そのような暗黙の了解のもとにこれまでは市場経済が成り立っていた。
その結果、質より量が重んじられてきたのである。
その事が量から質への転換を阻んできた。

その結果いたるところであらゆるものが過剰な状態になっている。
金も、物も、人も過剰なのに、一方で極端な不足も生じている。
そして、物が大量に生産され、消費されている。生産性の効率ばかりが求められ、消費の効率は蔑ろにされている。
その結果、環境破壊、温暖化、資源の無駄遣い、貧富の格差が拡大していてる。
それは、経済が経済本来の目的、働きを見失っているからに他ならない。

過剰と飽食、不足と飢餓、それが混在しているのが現在の経済の実体である。

満腹な状態でおいしい物や好物を出されても、食欲もわかない。だからと言って吐かせてまで食べさせなければ成り立たないような経済が健全だとはとても思えない。
物余り、金余りで無理、無駄を承知したうえで高級マンションを建てる一方で、空室、空きが増えり、ホームレスが増えるのはおかしい。人間が不在なのである。

大量生産、大量消費型の経済体制には限界がある事は明らかである。
ただ量だけを問題にすれば、経済効率は自ずから失われてしまう。
なぜならば、経済の目的は、生産にだけあるわけでも、生産にあるわけでもない。
経済とは、生きるための活動なのである。
その点を間違うと経済の本質が失われてしまう。

経済の本質は、分配である。
即ち、必要な物を必要なだけ生産して、必要な人に配分する。それが経済本来の在り方なのである。

住宅であれば、必要とするだけの住宅を建てて、住宅を必要としている人に、必要な住宅を配分する。
そして、住宅で大切なのは、住宅の質である。ただ家を建てればいいというのではない。いかに住んでいる人が快適に生活のできる家を提供できるかの問題なのである。

住宅というのは、人の一生を反映したものでなければならない。生まれて育って結婚をして、子供を産み育て、子供が独り立ちしたら、余生を豊かに暮らし、そして、死んでいく。
そういった人生その時々の必要性によって姿を変え、寄り添うように存在していくのが家である。
住宅は不変ではない。
だからこそ、住宅には、質が問われ、個性が問われるのである。
租税乱造では、人の一生を台無しにしてしまう。
経済とはそういうものである。

家でいえば単に雨風を防げればいいというのではない。
家は、文化である。また、家庭の基盤であり、家族を守る城、砦である。
また、拠点であり、港である。






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