経済と数学



学校で我々は数や数学を演繹的な形で教えられる。
しかし、数は元々帰納法的に導き出される概念なのである。
数の概念は、数えるとか、確かめるとか、比べるとか、測るとか、交換する、分配するといった何らかの目的や働きによって成立した。
本来、数というのは合目的的で機能的なのである。

数の性格で重要なのは、視覚性と操作性である。
目に見えて、なおかつ、操作することができる。だからこそ、数は発達したのである。
そして、その延長線上にあるのが貨幣である。

数の概念では、何と何を同じ、即ち、等しいとするかがカギを握ってくる。
数学というと足したり引いたり、掛けたり割ったりする事が基本であるように教えられたが、足したり、引いたり、掛けたり、割るというのは、数の働きの一部に過ぎない。

この様な事を考えると、数学の本質は、代数ではなくて幾何や統計にあるのかもしれない。
経済は、直接的に数の働きの影響を受ける。統計の本質を正しく理解していないと経済問題は解明できない。

我々は、十進法に基づく数の体系を最初から完成された事として教えられる。しかし、数は、その目的や働きによって二進法も、三進法も、六進法も、十二進法も使われてきた。数とは、目的によって形成されてきたのである。

数の起源とか、数の歴史を理解しないと数の概念を正しく理解することはできない。

現代経済学において統計以外の数学が経済に直接かかわっているとはいいがたい。
確かに、一見、経済学において高等数学が使われているように見える。しかし、そこで使用している数学は、自然科学で用いられて数学とは異質なものである。
物理学にせよ、生物学にせよ、医学にしても何らかの実態と結びついて数学は成り立っている。故に、物理学も、生物学も、医学も数学によって実証する事が可能なのである。

しかし、現代の経済学は、何らかの実態と結びついているのではなく。観念的な概念からいきなり導き出されている。故に、いまだに経済的事象を数学的に実証することができず、推測、憶測の域を出ないのである。

今の経済学は、科学というより文学である。


予測・計画・実績



何が確かな事で、何が不確かな事か、経済は確かな事と不確かな事を見分ける事が鍵を握っているのである。
収益は、不確かな事である。また、農産物や漁獲高は不確かである。
それに対して工業製品の生産は確実性に計算することができるし、費用の計算も比較的確実性が高い。
金融費用の様に名目的な勘定は、確実に計算できる。
費用は確実に計算できるといったが、海外から資源を調達している場合は別である。為替や原材料は予測外の変動をすることがあるからである。
ただ、支出は確実性が高く、収入は不確かな事が多い。それが経済をわかりにくくしている。支出は確実で収入が不確かだという事が、経済予測を難しくし、経済の計画性を阻んでいるのである。

不確かな事というのは、自分で決められない事であり、確かな事というのは、自分で決められる事である。故に、不確かな事は、予測し、確かな事は、計画する。そして、その結果が実績である。
予算には、予測に基づく予算と計画に基づく予算の二種類がある。

予測のつかない事、予測外の事、想定外の事によって経済は振り回されてきた。
予測してつもり、わかっているつもりになっていて足元を掬われるような事態が起こり、それが、市場のみならず、社会や生活全般、こっんの存亡すら危うくしてきたのである。

不測の事態に対してどのように対処すべきかは、経済学にとって枢要な課題である。間違いは許されない事なのに、根本原因はいまだに解明されていない。

経済政策というのは、確実な事から、不確実な事を制御することを目的としている。

収益は、不確かな事であり、計画が立てられない。故に、予測するしかない。不確かな事に基づいて確かな事を計画しなければならない。それが経営状態を不安定にするのである。
何が不確実なのか、それは、収益は買い手があって決まる事であり、買う買わないの決定権は買い手の側にあるからである。
つまり、収益を決めるのは外部要因なのである。

収益を決定づける要因は、市場にある。経営にとって一番根幹にあたる収益が不確かなのである。それが経済を不確かな事にする最大の原因である。

収益は、費用に比べて不確実で変動が激しい。
また収益の性格には、余り差がないように考えがちだが、産業の構造によって収益にも違いが生じる。この様な差は主として費用の性格に左右される。

収入は、不確かな事に基づき、支出は確実な事に基づく。
収入というのは、市場や生産高、需給関係などに左右され、不規則である。また、消費は一定しておらず、周期的に変動している。

どの程度の資金が必要となるかは計算できるが、どのくらいの資金が調達できるかは、正確には、計算できないのである。

経営主体は、不規則に変動する収入を整流し、支出を一定化するための整流装置の役割を果たしている。
この点を理解していないと利益の意味は理解できないし、利益によって経営主体を管理、制御する事もできない。
利益は目的ではなくて指標である。

経営主体は、生産を担うだけでなく、分配も担っているのである。
生産効率ばかり求めて分配の効率を疎かにすると、経済は偏り、停滞する。
また、家計は、労働と消費を担っている。この生産者と消費者を結びつける場が市場である。
市場は、需給を調整する場である。

何を前提とするか



何を前提とするか、それによって結論も違ってくる。
確実な事を前提としているのか、観念の所産を前提としているのか。
現代科学は、検証可能性を前提として成り立っている。
経済は必ずしも検証性を前提としてはいない。因果関係あるのか、相関関係なのか。それさえ明らかにされているわけではない。
それは、自然科学で用いられる数と経済で用いられる数の働きに違いがあるからである。
数を成り立たせている前提が違うのである。

確かめようのない事をあたかも自明な事として論理の前提とするのは、経済学の悪しき伝統である。
需要、供給と言っても何を前提とし、どの様な事を指して言っているのか判然としていない。何を需要と言い、何を供給とするのか、その数学的根拠を明確にし、定義すべきなのである。
物理学は、直接計測しようのない事は、自明な事とはしない。経済学において直接計測できるのは、統計である。ゆえに、経済数学は、統計を基礎としたものにならざるを得ないのである。

最も、自然科学に用いられる数学と言っても直接計測できるものの範囲は限られている。
また、計測できたとしても再現性の保証のある事象の範囲にも制約がある。
故に、数学の基礎は統計や集合だと言える。また、数学では証明が前提となるのである。なぜならば、数学は論理的整合性によって信憑性が担保されているからである。

数が表象するのは、働きである。数というのは働きを意味している。数そのものが何らかの実態を持っているわけではない。
数というのは、数えるとか、測るとか、比較するといった働きがあって成り立っている。数から働きを失くしたら、数は、意味を持たない。数は働きを意味するから、数は何らかの実態的対象と結びつくことでその効用を発揮する。数そのそのものだけでは効用を発揮することはできない。
この様に数を前提として成り立つ数学は、論理である。数学の本質は論理である。
この点を正しく理解しておかないと、数学を活用することはできない。

論理は何らかの前提条件基づいて展開される。前提条件が違えば、同じ方程式を使っても答え、結果は違ってくる。つまり、数学は、前提条件によって制約を受けている。

経済学が数学と直接的にかかわれない理由がこの点にある。
経済学の前提が観念的なものであるから、いくら数学的論理を用いても実態からかけ離れたことになってしまい、実証しようがなくなってしまうからである。

現代社会では、数学が本来の目的から乖離し、単なる演算、計算の延長線上でしかとらえられない傾向がある。図形も単なる図形でしかない。そのために、無理数や有理数、分数、小数の働きや意味が失われてしまっている。無理数、有理数、分数、小数、虚数も単なる観念の所産に過ぎなくなっている。それで、数学を学ぶ意義がなくなってしまう。数学の有用性が理解されないからである。
その責任の一端は、現代の学校教育、試験制度にあるとも言える。今の学校教育は、数学で最も肝心な事を教えようとしていない。なぜ、数学を学ぶ必要があるのか。それは試験問題を解くことにあるわけではない。数学の背後に隠されている真実を理解することが数学を教える真の目的である。
現代の学校教育は、数学を数学としてしか教えないから、数学の本質は理解されないのである。

例えば、近代スポーツは、数学によって成り立っていると言える。ところが、我々は、近代スポーツを支えている数学を意識する事は少ない。しかし、近代スポーツは数学そのものだと言っても過言ではないのである。

数の働きには、対象をバラバラに分解したり(識別・判別)、いくつか要素の集まりを作ったり(集合化)。対象の特定の性資を抽出し、対象を特定する(抽出特定化)。対象を特定の性格によって仕分け・分類する(分類)。対象を何らかの基準によって測れるようにする(計測化)。対象を量化としてとらえられるようにする(量化)。対象を数える事を可能にする(可算化)、対象を演算が出来るようにする(演算化)。対象を比較できるようにする(比較)。対象を検証・確認できるようにする(検証化)等の働きがある。

この様な数の働きは集合の原理を構成する。
集合を数学の基礎とするは、数学が上記の数の働きに基づくからである。

数は、対象から特定の性格を抽出して分類、集合化する性格がある。
この働きによって対象を分解したり、分類することが可能となる。

数学と計算を同一視する人がいる。数学と計算は同じ事ではない。
演算、計算は、操作に過ぎない。演算、計算を数学としたら、数学の本質が見失われる。試験を絶対視し、試験問題のために数学を教えれば、数学は形骸化し、単なる技巧に堕してしまう。
数学で重要なのは、数学を学ぶ目的である。江戸時代の読み書きそろばんは、学ぶ目的が明確であった。
しかし、近代の学校教育は、読み書きそろばんのような目的を侮蔑しながら、自分たちの目的を明らかにしていない。なぜ、近代学校教育において読み書きそろばんを馬鹿にするのか。それは、読み書きそろばんは有用だからである。つまり、目的が明確だからである。

本来、微分積分、無理数や有理数、対数なども有用な事であった。ただ教える者が本来の数学の目的を理解していないために、微分積分の持つ実用性が伝わらないのである。
その結果数学は詭弁になってしまった。
学校の先生で、微分積分といった数学を実用的に使っている者がどれ程いるであろうか。実際に実生活で数学を活用している先生は、ほとんどいないのである。それでは数学の本当の役割を教える事はできない。
数学は抽象概念なのである。


経済で用いられる数学と自然科学で用いられる数学は本質が違う。


経済で用いられる数学と自然科学で用いられる数学とは本質が違う。
大体、経済と自然科学では、用いられる目的も用途も違うし、形成過程も別である。
経済と自然科学とでは、成り立たせている基盤が違うのである。

第一に、自然科学は、所与で客観的な前提に基づくが、経済は、任意で主観的な欲求、動機に基づくからである。
数の概念にも違いが生じる。

数は、どのような目的によって、どの様にして成立してきたのかを、明らかにしておかないと数本来の役割が見えてこないのである。

自然科学の数学が測る事を主目的に発達してきたのに対して、経済的に用いられる数は、主として分配を目的としている。それ故に、測るというより、数えるという事が重視される。
経済と純粋数学の違いを考える時、この数の性格が重要な意味を持ってくる。

経済学と自然科学の数字の差は、「する」と「なる」との違いともいえる。
例えば、「お金」の事なら百億円投資するという事はできる。
しかし、水の温度を五十度にするといった場合、実際は、温度が五十度になるように機械を調整するのである。自然現象というのは基本的に「成る」のである。それに対して経済は「する」のである。
自然科学では、数字は状態を表してはすねが、数字そのものに何らかの働きがあるわけではない。しかし、貨幣は数字そのものが働きを持っている。貨幣が象徴する数字には固有の力があるのである。故に、経済的な数学では操作性が重要となる。数字を直接的に操作することで経済を制御するのである。この点が自然科学における数字と経済における数字の決定的な違いである。

自然科学で用いられる数や数学の元は割り算にあると言える。無理数も、有理数も、分数も、小数も割り算によって生まれた。
しかし、経済的な数学は、割り算を除いた演算が中心となる。故に群論の持つはたらきを注目すべきなのである。

自然界でいう三分の一は、市場では、一と三なのである。三人に分配する場合、三分の一にするのではなくて、一を三にする操作が市場では重要なのである。つまり、市場で用いる数字は、より直接的で、即物的なのである。だから、市場では、割り切れない数は必要ではないのである。
経済では、必要であれば二進法も、三進法も、五進法も成立してきた。
経済では、数学は実用に基づいている。

経済は、基本的に自然数を基礎としている。なぜなら、経済では、測る事より、数える事が重要だからである。
故に、無理数、有理数、分数、少数は用いられない。
無理数や有理数、分数、少数が用いられない分、経済的な数学は、シンプルである。シンプルだから、純粋数学に劣っいるという訳ではない。その点を誤解してはならない。

自然数というのは、負の数を含んでいない。また、離散数に基づく。
また、加法的減算が原則である。

経済数学の目的は測る事よりも配分する事にある。それ故に、余り算や残高主義になるのである。
例えば、所得から、支出したものを引いた余りが貯蓄となる。所得は、支出と貯蓄を足したものである。また、利益は、収益から費用を引いた余りである。利益と費用を足した値が収益である。収益から利益を引いた値が費用である。
平均単価と売上個数の積が売上高である。利益は、価格から原価を引いた余りでもある。
これまでは、原価に利益を足した値が価格だという思想から、価格から、原価を引いた余りが利益だという考えに変わり、市場価格から利益を引いた範囲内で原価を抑えるという思想に近年はなってきた。これは、利益の働き、即ち、余りに対する考え方が変わってきた事を意味する。

経済の基本は、余り算

経済の基本は、余り算である。残高主義である。
割り算でも割り切れない部分は、余りを出すか、小数点以下を何らかの原則によって切り捨てる。
この点が割り算によって成立した数学と決定的な違いなのである。
つまり、経済で用いる数学と自然科学で用いる数学とは、異質なのである。

割り算も、割り切れなければ、無理して割り切らずに、余りとする。そして、余った物の働きが大切なのである。

割り切ることより、余らす事が重要な意味を持つ。余りをどう生み出し、余りをどう活用するかが、経済の主要な課題だからである。数学の目的・性格が自然科学とは違うのである。

経済では、余剰と不足が重要になる。余剰と不足は、裏腹の現象だが、働きには大きな違いがある。そして、人、物、金、各々の要素によって余剰と不足の働きが違ってくる。早い話、資金は、常に、余剰の部分と不足している部分の総計は零、すなわち零和なのである。それに対して、人と物の余剰と不足の総計は、零にはならない。また、零になる事は、どこかに飢餓や失業が発生している事を意味する。
故に、余剰と不足をいかに均衡させるかが、経済数学の主たる目的となる。

今日、経済的損失という場合、金銭的損失であって物的損失でも、人的損失でもない場合が多い。むろん、物的損失や人的損失も経済的損失に相違はない。しかし、今日、経済的損失は、金銭的損失が甚大なのである。物的、人的損失は、経済的意味において二義的損失に過ぎなくなっている。

数は、自然科学に用いる目的以前に、経済的な働き、政治的な目的のために用いられてきた。
ただ純粋数学は、物理的対象を基礎として発達した。そのために、経済的な働きの数学は、あまり意識されることなく、不当に低い扱いをされてきたと思う。今日数学というと、主として自然科学を基にしたものを指して言う。しかし、数学は、経済的な働きを持つ数学も重要な役割を果てしている。

権力者は、「お金」を卑しむ傾向がある。その為に、自然科学に用いられる数学を純粋数学、学術的数学と差別して扱ってきた。いわゆる寺子屋は、読み書き、そろばんと正規の学問とを区別し、読み書き、そろばんは、庶民の学問だと差別していたのがその証左である。
江戸時代、算数はそろばんでしかなかった。また、算数は、数学としてみなされていない。しかし、それは偏見である。
それは、今日、コンピューターを計算機と位置付けながら、二進法を正式の数学として位置づけていないのにも通じる差別である。
商売用の数学も歴とした数学である。商売用だからと言って差別する必要はない。


数というのは、数自体だけでは成り立たない。



数や数学は、何らかの実体から働きを抽出することで成立する。数それ自体だけでは本来成り立たないのである。
数を成立させる実体とは何らかの集合体である。
何らかの集合体を観察することに基づいてそこから数という性格を抽出するのである。
数は何らかの集合体を前提として成り立っている。

数字と貨幣とは、根本の性質が類似している。
第一に、貨幣も数字もそれ自体では成り立たないという同じ性格を有している。
それに元々、貨幣価値は数値によって表現される価値である。
数字も貨幣もその根本は、数である。故に、数の性格が鍵を握っているのである。
本来、数学と経済学は相性がいいのである。

数学の基礎である数は、本来、数えるとか、測るとか、確認するとか、比較するといった何らかの目的と結ぶつくことによって成立した。数の本質は、合目的的な働きであり、数そのものには意味はない。
数は、合目的的な働きによって成り立っている以上、数は、数となる何らかの対象を前提としている。

比較、確認、検証というのは、数の働きで原緒的な働きである。重要な働きの一つである。
経済では、前年対比とか、予実績対比という具合に比較は、重要な働きをしているし、数が発生する一つの動機は、家畜を確認するにあった事がその証拠である。
ところがこのような働きは純粋数学では軽視されている。

自然科学では、数値は、対象の働きによって生じるが、経済では、数が対象に及ぼす働きが重要となる。
自然科学は、数式は、現象の法則や変化を表すが、経済では、数値は、対象の価値や働きを意味しているのである。

経済における数の働きには、比較、確認、検証、測定、交換、分類、計算、保全という働きがあり、これらの働きによって制約も受けている。経済の目的は分配であり、数の働きは、最終的に分配に係るのである。

経済数学は、数と対象との結びつきが強く、数が対象によって強く制約を受ける事もしばしばある。

そして、数値の性格とは、一つは、対象から特定の性格を抽出して識別する事である。第二に、対象をいくつかの集合に分類する事である。第三に、任意の基準を定め、対象を数値によって定義する。すなわち、単位を定める事である。第四に、価値を統一する事である。第五に、対象を数値化し計算可能にすることである。第六に、対象を分割し、体系的にすることである。
この様な数値の性格に対して、群という考え方が重要な意味を持つ事になる。

典型的なのは、簿記である。簿記は、取引、仕分け、記帳、集計、決算という一連の働きを数値操作によって行う。
そして会計上の数値は、実質的に経営組織を動かしているのである。
その点、ボイラーや飛行機のような機械は違う。数値は、単に状態を示しているのであって数値によって仕組みが動かされているわけではない。

損益は、加法的減算が基本である。
経済の勘定は、数を積み上げていって全体の枠組みを作る。
加法的減算、残高主義は、一定の枠組みの中で演算をする。それが複式簿記の原型となる。つまり、やり取り、やり繰りを基礎として計算するのである。
直接、足したり引いたりするのではなく。加算は、残高を表示する欄に積み上げ゛ることで計算し。減算は、残高を表示する欄の反対側の欄に積み上げる事で残高を計算する。


経済空間



経済的な問題は、全体と部分の不整合によって引き起こされる。
人と、物と、金の歪が経済を狂わせるのである。

仕事量と生産量、そして所得の均衡によって経済は成り立っている。
そして、格差の拡大と負債の蓄積が極限にまで達した時、社会制度は破綻するのである。
この様な歪は、世界中に拡散している。中国では、一方に鬼城と言われるゴーストタウンが広がっている半面で都市部では、カプセルマンションが出現し、鼠族といった人達が増えている。この様な歪が社会を不安定にしているのである。

確かに、景気は、貨幣的現象として市場の表面に現れてくる。しかし、経済を貨幣的な現象、貨幣的な局面からだけ見ていても解明することは不可能である。
経済の根本は、人が生きるための活動である。何らかの対価として所得を得て、生きるために必要な資源を市場から得る事で経済は成り立ているのである。お金がすべてなのではない。表に現れる貨幣的現象の背後には、実物経済が潜んでいる。消費量と人口が価格の方向を定める。

結局、経済は、消費者が何をどれくらい必要としているか、消費者が必要としている物をどの様にしてどれだけ生産をし、必要としている人に必要としているだけ配分するためにどうしたらいいのかの問題である。
それがいつの間にかお金の問題にすり替わってしまった。すり替わってから経済の本質は見失われ、「お金」に振り回されることになったのである。

空間は、距離の集合である。

距離の集合が空間を形成する。
空間の歪は距離に現れる。

ユークリッドは「原論」において最初に三つのものがある。一つを点とし、もう一つを線とし、もう一つを面とするとして論を始める。
三点によって論理を展開するのは、一つの形である。

数は、自己と対象と単位の三点によって構成される。つまり、自己と対象と単位が作り出す三角関係が数の基本である。

次元の基礎は三角形によって作られる。三角形によって位置が相対化される。位置が相対化されると関係を数式化する事が可能となる。そして、変化を表す時間軸を加える事で、位置と運動と関係を表す空間が構成される。

三角形は空間を作る。三角形は空間を構成する最小単位と形成する。三角形は、位相を作る。

人、物、金の三次元に時間軸を加えた四次元を想定する事で経済空間は形作られる。即ち、人的な距離、物的な距離、貨幣的距離、時間的距離の集合が経済空間を構成するのである。
人、物、金が作り出す三角形、空間が経済の基礎を構成する。

経済空間は、人、物、金を座標軸とする事で物理的空間と類似した空間を構成する事が可能である。
人と物には制約がかかり、お金は、人と物との関係から相対的に定まる。ただし、数値は上に開かれている。
例えば、人の制約とは人口による制約であり、物の制約は、生産量といった物理的制約を言う。
人と物の数の体系は閉じられているが、貨幣価値の数の体系は上に開かれている。

経済の三次元、即ち、物の単位、人の単位、金の単位で経済空間を構成する目的は、性質の違う物どうしの演算を可能とすることである。
例えば、労働や自動車、時間などの性格の異質な対象を貨幣と掛け合わせることで演算が可能とする。
例えば、単位時間×人数×単価×平均販売量=売上高という数式が成り立つ。
六時間の間に一時間平均二人の客に一個、二百円のリンゴを平均五個売上たら、売上は、一万二千円である。

貨幣経済空間は、人、物、金の三つの軸に時間軸を加えて四次元の空間を構成する。
貨幣価値のベクトルは、人・物・金によって構成され、形作られる。
例えば、ガスの売上は、件数×単位消費量×単価によって一つの市場空間、取引空間が形成され、それに時間軸を加えて件数×単位消費量×単価×単位時間によって単位期間の収益は確定する。
食料品の売上は、消費者数×単位消費量×単価によて取引空間、市場空間が形成され、形成された取引空間に時間軸を加える事で消費者数×単位消費量×単価×単位時間よって単位期間の収益は求められる。

これらの空間で生じるベクトル。位置と方向と働きの在り方が経済全体の動向を決めるのである。

人口と消費量、そして、通貨の流量によって構成されるベクトルが物価の方向性を決める。

物理では、長さ、量、質、重さ、熱、体積、面積、速度、力といった事が重要となるのに対して、経済では、全体、平均、最大値、最小値、幅、分散、偏り、構成が重要となる。それは、経済の本質が分配であり、数値を表す貨幣は、分配のための手段だからである。

所得、生産、消費、人口、金融(負債と資本、収益、貯蓄)の構造と分散と偏り、平均が経済の動きを決めている。

経済で用いられるのは可算数である。



数は、対象を可算化する、値や量に置き換える事で、対象を計測したり、演算する事が可能となる。

経済で用いらわれるのは、可算数である。
経済空間の基礎は可算集合である。

貨幣価値は可算集合である。
貨幣が可算数というのは、貨幣は媒体である事を意味する。

貨幣は、交換価値を一元化するための媒体である。

貨幣経済においては、経済は、「お金」の流れによって動かされている。経済体制は、「お金」の流れによって動く仕組みである。
ゆえに、経済の状態を明らかにするためには、「お金」の流れが人や物にどの様な働きをするかを明らかにする必要がある。

「お金」の働きは数値として表される。それは、「お金」の働きに数の性格が決定的な役割を果たしているからである。

「お金」は、取引の手段として生じた。つまり、「お金」を使って必要な資源を手に入れたり、交換したり、価値を蓄積したりするのである。そのために、「お金」は、所有ができて、交換できて数える事の出来る物でなければならない。

「お金」は交換できて数を表象する物である。「お金」は、数えられて交換できるものでなければならない。「お金」は交換価値を持ち、数の性格を表象する物である必要がある。「お金」は、可換性と可算性、実現性がなければ機能を発揮することができない。
この様な「お金」は、直接的な働きを求められている。「お金」が表象する数には直接的な働きが与えられている。この点が自然科学で用いられる数と決定的に違うのである。

即ち、自然科学に用いられる数値の働きは、間接的なのに対して経済では、より直接的、実際的な働きが与えられている。
経済に用いられる数値は交換価値を表し、物と交換したり、売ったり、買ったり、貯蓄したり、報酬として支払われたり、投資や投機に用いられたりすることが可能なのである。

また、「お金」が機能するためには、一定程度の「お金」が市場に流通している必要がある。
今日、我々は「お金」を容易に手に入れる事ができる。しかし、最初から「お金」は「お金」として存在し、流通していたわけではない。「お金」も最初は交換可能な物だったのである。

「お金」は、借金によって生み出され、投資によって市場に供給される。
故に、お金の供給が増えるためには、借金と投資の需要がなければならない。
「お金」が生まれ、社会に普及するためには、まず何かに投資しようという動機があってそのために借金をする必要が生じる事である。
自給自足の社会では、借金も投資も必要ではない。では何に投資する必要があったのか。

人が最も「お金」を使うのは、戦争と虚栄心を満たす事である。そして、もう一つは、社会資本である。更に後々教育がこれに加わった。これらは今日でも公共投資の基本である。

貨幣が市場に流通するためのきっかけを作ったのは、戦争と戦争に必要な資金を調達するために発行された国債だという事を忘れてはならない。そして、それが市場経済の基盤を構築したのである。


経済の単位は、物理的単位と違って一意的に定まる値ではない。



経済で用いられる単位は、物理的単位と違って一意的に求めらる事ではない。なぜならば、経済単位には質があり、経済単位では密度が問題となるからである。

だからこそ、カギを握っているのが平均単位消費量と分散である。
生きていくために必要な絶対量が確保できれば、経済は成り立っていける。最大値と最小値の幅の中に納まれば、経済破綻せずに済む。
所得の平均と分散と消費量の平均と分散が均衡がとれているかどうかの問題なのである。所得と消費の均衡が保てなくなった時、経済は制御不能に陥るのである。

ただ単位時間、単位人数、単価、単位生産量は一意的に定まるのではなく、代表値に基づいている。
例えば人数や販売個数、物によっては価格も一律一定ではなく、偏りや変動がある。
人、物、金の単位を定め、距離を測る時に重要となるのは、平均と偏差である。
つまり、人、物、金の距離は統計に基づいて定められる。それが経済空間の特性である。

単位が方程式において省かれるのは、比率に還元されるからである。それは、数の本質を暗示している。単位というのは、単位となる部分を全体の中に特定し、切り出す事である。更に、単位が設定することで距離が測れるようになる。つまり、単位は、何らかの全体を前提として成り立っている。距離というのは部分である。部分であるから、始点と焦点がある。単位は、始点と終点をどこに置くによって定まる。故に、単位は比率に還元される。

単位は、次元を構成する。単位は、次元を表しているのである。

人・物・金が作り出す空間は、生産、消費等、それぞれの次元を構成する。
生産による空間は、生産量、労働人口、所得によって成り立つ。
消費による空間は、消費量、消費人口、価格によって成り立っている。

労働人口の分布、生産拠点の分布、消費地の分布には偏りがあり分布の不整合と歪によって経済は滞留するのである。

この様に考えると、経済では、平均、分布、密度が重要な鍵を握っている。更に、時間の経過による変化の構造である。
人は、一生において必要とする資金は均一に発生するわけではない。年齢や生活の経過に従って資金需給にはいくつかの山がある。収入と支出の波は一致しているわけではない。空間的時間的変更が経済の変動の原因となっているのである。

貨幣価値の総量は、物理的総量を表しているわけではない。

経済的働きは、位置と運動と関係によって成り立っている。代表的な関係には、因果関係と相関関係がある。

貨幣価値が無限であるのに対して、物質的空間は限りがある。
無限に発散しようとする貨幣価値は、市場規模が物質的な限界に達すると収縮を始める。

見かけ上は拡大しているように見えても、実体は収縮しているというような事象が起こるのである。故に、実際の物の動きと金の動きを常に関連付けてみる必要がある。
名目的な動きと実質的動きは連動しているとは限らない。

地価を例にとるとわかる。まず土地は有限があり、活用できる土地には制限がある。また、全ての土地が有効活用されているわけではなく、有効活用されていない土地がある。
土地はその活用目的によって用途が変化する。
人口の増加や経済成長に伴って土地の有効活用が計られ、活用できる土地も減少する。
住宅を建てる場合、一戸当たりの敷地面積にも制限がある。これが前提である。
経済は、いかに土地を有効活用するかの問題であり、土地からどれくらい収益を上げるかが問題なのではない。

住宅市場が成熟したら、敷地面積が拡大し、住宅の質も向上する。また、全ての人に良質な住宅が提供される。それこそが経済体制が求める土地政策なのである。

土地が有効に活用されているかどうかの指針は、土地の配分に要約される。

地価と、実際の敷地面積の相関関係は、市場が拡大している期間と市場が縮小している期間とでは違いがあるのが当たり前である。

土地の総量に変化がないとしたら人口が増加している間は、世帯数の増加に応じて土地は細分化される。地価は、土地の需給によって定まる。しかし、人口が減少に転じると敷地面積は、本来、拡大しなければならない。
また、住宅も新築からリフォームへと質的な転換が計られるべきである。

現実の土地取引は、土地の実需と関わりのないところで乱高下し、バブル現象を引き起こしたり。かと思うと人口が減少に転じ、空き家空室が増えている一方で空前のマンションブームが起こったりと土地の有効活用とかけ離れた状況が現出している。
また、片一方で住宅の在庫が過剰だというのに、もう一方でホームレスが増加している。

経済的な意味で地価の問題は、土地の有効活用を最大にすることが目的であり、土地取引を拡大したり、土地取引の利益を最大にすることが目的なのではない。この点を見誤ると重大な錯誤をすることになる。

経済は、量だけでなく質、即ち、密度が重要な役割を果たしている。




市場規模を制約するのは、貨幣ではなく、人と物である。
なぜならば、貨幣は、数値であり、実体を持たず、無限だからである。それに対して、人と物は、実体を持ち有限である。故に、市場規模を制約する実質条件は、人と物によって形成される。
貨幣単位には量でしかない。それに対して、人や物は、量と質からなる。故に、実体的経済には、質量、密度がある。

経済の実体を理解する上では、この密度を理解する必要がある。

経済的価値には、密度が深くかかわっている。故に、現在のように経済を二次元的にしかとらえられないと経済の全貌を把握する事はできない。また、物理学を応用する事もできない。
経済的現象に密度が深くかかわっているとしたら、経済現象はどちらかというと統計熱力学的な現象だと言える。

物理的距離は、単純に量に還元できるが、経済的距離には、質的な要素が絡んでくる。また、経済的距離は主観的な要素があり、ばらつきもあるので線形的に測る事も難しい。
基本的に、経済的距離は、統計的データを根拠としていて平均と偏差によって信憑性に差が出てくる。

経済の実体は、人と物にある。
お金は、分配のために人と物を媒介している道具に過ぎない。
実体である人や物にはも限りがあるが、媒体である「お金」には、上限がない。
経済現象の根底には、人と物がある。必要な物を必要な人に分配する機構が経済の仕組みである。経済の基本を構成するのは、人と物である。
貨幣現象は、その表層に現れる。しかし、経済の実体を動かしているのは、人と物である。経済の本質は、生産財をいかに人々に分配するかであり、経済の仕組みは、分配の仕組みである。
分配するためには、必要とする人と必要とする物とが均衡する事が求められる。人としての資源から生み出された価値と生産された物とをお金を仲介して交換するのが市場である。

市場には、常に、物的、人的制約が働いている。
価格は別である。価格は、同じ条件、同じ前提、同じ状況でも、時間や場所が違うと二倍にも三倍にも変動する。

インフレーションやデフレーションは、物の価格として現れる。
原則として、価格は、物の不足や過剰が背後に本来ある。必要としている人の分布と生産財の分布が不均衡なのである。
エネルギー価格の高騰とか、地価の高騰、物価の乱高下等は、物と人との分布に偏りが生じる事によって生じる。
ところが、物の不足や過剰と一見無関係に価格の乱高下が起こる事がある。
それは、貨幣が本来の働きからかけ離れたとこで働くからである。それは貨幣自体は実体を持っていない、それ故に上限がない事に原因している。
貨幣に上限を持たせようとする試みが金本位制度のような事である。ただ、金本位制度も結局、貨幣の上限を画定することができなかった。

この様に、貨幣に上限がないという事が、景気が通貨の動きに振り回される原因の一つである。
第二には、全体と部分の不整合にある。個々の産業によって価値の尺度に差があるという事である。
部分の不均衡が全体の構造を不安定にするのである。不合理な格差が拡大すると消費が不当に歪められる。その結果フローとストックの均衡が破られることがある。
芸能人やスポーツ選手が他の労働と比べて高い報酬を得るのは、産業構造の違いによる。低い単価でも集客力が高ければ、高収入が得られる。この様な格差の偏りが異常に高くなれば、消費構造も歪める。
第三には、生産手段、所得構造、消費構造に質的な差があると言う点である。一人ひとりの所得は、個人の生活の必要性と一致しているわけではない。
お金が必要としている時に必要なだけの資金があるとは限らない。この様な不均衡によって景気は、影響を受けるのである。所得格差が以上に広がると消費構造を歪めてしまう事になる。その典型が、バブルという現象である。金余りが嵩じると必要以上にお金がストック市場に流れ込み資産価格の高騰を招き、投機が実需を押しのけてしまう事態が起こる。
第四に、市場の競争に依存すぎている点がある。重要なのは、適正な価格であって、安ければいいとか、競争力だけを追求するのは間違いである。つまり、制度的不整合によって景気の変化が増幅される例である。
逆に寡占独占状態になると適正価格の形成ができなくなる。
経済は、合目的的行為であり、目的を失った競争は有害なだけである。経済の目的は分配である。
第五に、局所的な変動が全体的変動を増幅する。オイルショックのように一部の財が極端に品薄になったり、高騰した場合、物価全体が抑制を失って高騰してしまう現象である。

必要な財を分配する手段として用いらわれるのは、今日では貨幣である。貨幣は、何らかの対価によって個々の個人に配られる。自分の手持ちの貨幣によって人々は、市場から必要な資源を調達するのである。

問題なのは、貨幣を手に入れる為の手段も、財も、生活も均一ではないという事。また、生産手段も均一に分布しているわけではない。また、生産手段の質も均一ではないという事である。

貨幣を手に入れる為には、何らかの生産手段を所有する必要がある。一番、簡易なのは、労働である。労働は、生産手段の一つである。

労働の質は均一ではない。労働の質が均一でないから、対価としての報酬、所得も均一にはならない。
労働の質には差がある。労働の質は、職種によつても違いが生じる。例えば、単純肉体労働と技能労働、知的作業、管理作業とは質的な差がある。均一、一律に扱う事はできない。
また、労働を何によってどの様に評価するかによっても、労働にの質には違いが生じる。労働の成果、品質や労働時間によっても差が生じる。

労働の質の違いは、報酬の違いにもなる。
故に、労働では密度が重要となる。
所得の差は、生産手段や成果物の差によって生じる。
また、労働がどうかかわっているかによっても違いが生じる。
知識、経験、技能、実績、能力などをどの様に評価するかによって所得の質に差が生じるからである。

また、財にも質の差がある。

例えば、住宅を例にとると、敷地面積、建物、利便性によっ住宅には質的な差がある。
また、建築に携わる人たちは、左官、大工、設計士、配管工、家具職人等、多種多様にわたり、技術にも、熟練度にも差が生じる。
住宅の消費者も生活水準やライフスタイル、所得などによる差が生じる。これらを一律均一に扱う事はできない。
住宅のライフサイクル、償却、資金計画などによっても差が生じる。

六万戸の住宅を必要としている人がいると仮定して、まず、その住宅を建てるための資材が必要となる。また、住宅を建てるために必要な労働者、それも職種別の労働者を確保する必要がある。そして、住宅を変えるだけの資金が消費者になければならない。
つまり、建物を建てるための資材、労働者、所得がそろっていなければ市場は成立しない。これらの要素にはすべて質が伴い、平均と分布、密度が問題となるのである。
また、市場が成り立つためには、住宅の価格、労賃、資材の価格、消費者の可処分所得金利等といった要素が均衡していることが求められる。
しかも、これらが時間的にも均衡していないと市場、産業は持続することができない。
故に、経済は、住宅価格、労賃、資材価格、可処分所得、金利の関数なのである。


予算や予測はベイズ統計が基本にある。




私は、「お宝拝見」という番組が好きでちょくちょく見ている。
よくよく考えてみると「お宝拝見」という番組は、ベイズ統計の本(もと)の考えが隠されているように思える。
「お宝拝見」は、自分が宝だと思っている物をプロの鑑定士に鑑定してもらう番組である。鑑定を依頼した者は、最初自分が予測した金額を提示しそれをプロの鑑定士が鑑定をするという趣向である。
自分が実際に購入した金額と予測した金額がプロの鑑定士の鑑定と一致したかしないか。それとも外れたか。外れも、高い方に外したか、安い方に外したか。それを視聴者も一緒になって予測する。それが長い間人気を保ち続けている理由に思える。

予想以上に高い評価が出た時の喜ぶさまと当てが外れた時の落胆ぶりが好対照でそれが笑いを誘うのである。

ここで重要なのは、骨董品の真贋を自分が判断して購入すると言う点、そして、現在の価格を予測して評価額を皆に公開する。それに対してプロの鑑定士が鑑定を下すという過程である。

このような過程を繰り返す事で、鑑識眼が育っていく。それがベイズ統計である。
ベイズ統計が最近脚光を浴びているのは、人の予測のアルゴリズムにベイズ統計の論理が一番近いように見られるようになったからである。

数学の要は、アルゴリズムにある。

ベイズのアルゴリズムは、例えば予実績管理とか、仮説検証などにみられる。
予測を立てて、あるいは仮説を立て、その予測や仮説に基づいて実行、あるいは実験をし、その結果と、予測、仮説とを比較して軌道修正をし、あるいは証明する。
これらのアルゴリズムは、科学一般に通じている。

始めの予測を立てて、その予測に基づいて実行をする。その結果を反省して、次の決断の参考にする。それが普通の人のする事である。その普通な論理悌回に基づいているのがベイズ統計である。
結果と予測を照らし合わせて物事の相関関係を探し出す。そこから因果関係を導き出すのである。ただ相関関係があるからと言って即それが因果関係に結び付くとは限らない。
当たり前に考えられている自然の法則だって始めから明確だったわけではない。
最初は注意深く物事を観察することから何事も始まるのである。それが科学である。
導き出された法則に基づくと言ってもそれは、法則が立証された後の事である。

現代の経済学で問題となるのは、この論理展開がされていない事である。
つまり、実証主義とは言えないのである。
経済学は、検証できない仮設ばかりなのである。多分この考えでいいだろうというだけで、何の証明もされないまま、経済の法則として扱われている。
競争さえさせておけば万事うまくいくといった競争原理なんてその典型である。
競争原理が働いた場合と、働いていない場合を比較しどのような違いがあるのかが検証されないまま、競争は原理だという経済学者が多い。この手の原理は、神の託宣みたいなものである。何の合理性も論理性も認められない。


何が確かで何が不確かな事か



何事も初めは曖昧模糊としていたのである。結局、科学の原点は統計に至る。

数学に求められているのは、確かさである。数学というのは確かさの象徴でもある。故に、数学の論理では、曖昧さだとか、不確かさをとことん嫌う。妥協を許さない厳密さが求められている。

何が確かな事で、何が不確かな事か、経済は確かな事と不確かな事を見分ける事が鍵を握っているのである。
収益は、不確かな事である。また、農産物や漁獲高は不確かである。
それに対して工業製品の生産は確実性に計算することができるし、費用の計算も比較的確実性が高い。
金融費用の様に名目的な勘定は、確実に計算できる。
費用は確実に計算できるといったが、海外から資源を調達している場合は別である。為替や原材料は予測外の変動をすることがあるからである。
ただ、支出は確実性が高く、収入は不確かな事が多い。それが経済をわかりにくくしている。支出は確実で収入が不確かだという事が、経済予測を難しくし、経済の計画性を阻んでいるのである。

突き詰めてみると現実の世界は不確かな事ばかりであり。かくなるからかくなるのだというような事しか言えないのである。
人生は、賭け事と考えられる所以である。

それでも賭け事は、結果が出れば何らかの説明がつく。
とりあえずは丁半ばくちは二分の一の確率と。八百長でなければという前提付きになるが。また、偏りやゆがみのないサイコロという前提である。
丁の目が出る確率は、何回も繰り返せば二分の一になると信じ込んでいる。それを大数の法則という。

しかし、現実の経済はそうはいかない。複雑な要素が絡み合い、結果が出ても、その結果をどう評価するかは決まりがない。同じ結果は、成功だと思う者もいれば、失敗だと思う者もいるのが一般的である。
経済だけでなく現実の社会は、理論通りにいかないということはほとんどの人が薄々気が付いている。だから、世の中は、理屈通りにはならないんだよと、何かあるとよく窘(たしな)められる。

人は、世の中の出来事が自分の思い通りにならない事を知っている。
予測した通りにはならないのである。だから賭け事は成り立っている。株価が何らかの理論通りに変動する事が明らかにされたら、株式投資そのものが成り立たなくなる。

例えば、男女の出生比率である。男と女の比率は正確に二分の一になるわけではない。若干、男性の方が多いのである。ここには大数の法則は当てはまらない。しかし、大体、男と女は、同数だという前提がまかり通っている。また、男と女は同数だと考えた方がやりやすい事が多い。
数学の精度なんて現実の社会ではこの程度でいいのである。小数点以下の桁を百も二百も導き出しても意味がないのである。
人にも各々優劣がある。人を一律に同じだとするのは乱暴である。

現代経済学の話は、もっともらしい話ではあるがもっともな話ではない。確からしい話ではあるが、確かな話ではない。

世の中の出来事は、曖昧として不確かな事ばかり。それでは、生きづらい。だから、人は未来を予測し、計画をて立てる。その下となるのが数学である。

しかし、数字は数字、予測は予測に過ぎない。
そこには必ず誤差が生じる。
世の中が自分の予想した通り、予定した通りになり、計画が何の違いもなく実現で来たらそれに越したことはない。予定した事、予測した事と当てが違ってくる。
仮説と結果、予測と実績、計画と結果、その間にある誤差を修正する処から科学は発展してきたともいえる。
故に、数学の根源は、誤差の修正であり、集合であり、統計、中でもベイズ統計であり、確率だと言えるのである。そして、さらに言えば近似である。


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