費用は、経済の本源である。



経済は、分配のための仕組みだという事を忘れてはならない。「お金」は、分配のための手段、道具に過ぎないのである。
経済は、金儲けの手段でもなければ、搾取のための手段でもない。
分配が目的という事は、全体の絶対量よりも全体に対する比率が重要になる。
GDPが増えたとか、減ったとかばかり言うが、GDPの増減が問題なのではなく。経済全体の必要量と公平、公正な分配がされたかが肝心なのである。
金額ではなく、必要な資源を必要なだけ生産し、必要なところに必要なだけ分配できたか否かが重要なのである。
ところが現代経済は、「お金」の多寡ばかりを問題にして、「お金」の働きを蔑ろにしている。その為に、生産や分配に偏りが生じ、一方で飢餓や貧困に悩まされているというのに、他方で大量の無駄が発生して廃棄物処理に悩まされるているのである。

総量は変化していないのに分配に違いが出て、経済全体の働きを変動させてしまう事が現代経済では往々にして起こる。
経済は、個々の局面に注目しただけでは理解できない。それは経済は分配の仕組みであって分配は、全体の状態と部分の働きを合わせて見なければ意味が解らないからである。

経済の本質は、いかに生産的な費用を増やすかにある。
要は効用であり、付加価値である。第一、経済成長は、付加価値の増大を意味する。現在行われている経費削減は、付加価値の削減を意味している事を忘れてはならない。
つまり、経済の問題というのは、付加価値の分配と総量の増減問題に還元できる。

経済成長を前提とするならば、単なる経費削減は、経済成長を抑制する事を忘れてはならない。

経済には、いくつかの景気の波がある。その波には、各々に波を構成する要因がある。景気の変動は、多分に構造的な事である。

経済が経営主体の継続性を前提とした時から、収益と利益、費用の平準化は、経営者の行動規範になった。
それは、不確実な収入に対して支出は、固定的だからである。確実に出ていく支出に対し、いかに不確実な収入を適合させるかが、経営者の最大の課題となったからである。
そこから、期間損益という思想が生まれたのである。

支出には特定の波がある。先ずこの支出の波や偏りを平準化する必要がある。その為に派生した概念が費用である。故に、費用には、支出を伴う費用と支出を伴わない費用がある。支出の伴わない費用で代表的な費用が減価償却費である。

期間損益とはは、償却という概念を導入する事によって支出の偏りを期間費用として平準化し、利益にに基づいて、借入金を使って資金の過不足を補う仕組みを構築するための尺度を提供したものである。
償却期間は、一つの景気の波を作る。減価償却は、支出を平準化することが目的であり、そのために手段として借入金が活用されるため、資金の波の基礎となる。
この様にして派生する波は観念的な波ではない。資金の流れが生み出す実体的な波である。

収入は、一定ではなく、波がある。その波のいくつかの波が複合されてできていて一見して不規則で予測不可能な波に見える。波には、一定の周期がある波と一時的、突発的な波がある。

収入は不確実で不安定である。それに対して支出は、確定的で、持続的に派生する。
この様な状態では、収支の整合性をとることは難しい。
それ故に、近代経済というのは、収益、費用、利益、負債の平準化を目的として成り立ってきたのである。定職、定収はその結果である。定職について定収が約束されていれば、借金も容易になる。この様な前提のもとにいろいろな形や性格の借金が形成されてきたのである。現代経済は、借金経済と言える。
一番の根本は、収益と費用の平準化である。
ところが現在は、利益の追求ばかりが求められ、収益や費用、負債の平準化がないがしろにされている。結果、収益や費用が圧縮され、全体の付加価値を収縮させてしまっているのである。それが根本の問題なのである。

税は、所得や収益を平準化しようという動機をもたらす。
元々、税というのは、所得や収益を平準化する目的がある。

金融工学も本来は、負債の平準化と利益の平準化を目的としていた。それが、レバレッジによって利益の拡大に傾いた事によって投機的目的が強くなったのである。

収入が一定している場合は、計画的に支出、費用を組むのは容易い。
しかし、相場物の様に値動きが激しい財に対する利益を平準化するのは、困難である。資金の過不足が常にあるのが常態だと考えるべきなのである。原価を基にしていると価格も安定せず、不確かなものになってしまう。

支出は、計画的にできるが、収入は予測しか立てられない。

経済規模は、支出が基礎となるのであり、所得ではない。所得は、支出の制約となる。所得で不足する資金は、借りるしかない。社会全体で資金が不足した場合は、公的機関が借金をして私的主体に貸し出すのである。

収入が不確実で不安定なうえ、短期間の波があるうえに、一定の利益を常に維持することが経営者に求められている。
必然的に経営者には、儲かった時に資金を蓄え、、赤字の時に備えたいという動機が働く様になる。そういった事情が金融工学を生み出す背景になっている。
全ての経営者は強欲だというのは間違いである。むしろ多くの経営者は、経営の安定を望んでいるのである。

産業の構造によっては、冬籠り、冬眠する企業も出てくる。

例えば住宅のような30年、40年、事情によっては半永久的な寿命を持つ財もあれば生鮮食品の様に日々消費されていく財もある。

相場物の様に値動きが激しい財の価格をいかに平準化するか。
また、住宅の様に一度投資をすると長期間更新されない財は、新規投資による市況と、更新、リフォームによる市況の期間とでは産業構造もおのずと変化する。
多額の設備投資を必要とする産業もあれば、設備投資を全く必要としない産業もあり、費用構造、資産構造、収益構造、負債構造は、各々の産業に特性があって一律ではない。

また、資産構造、費用構造、収益構造、負債構造の違いによって投資の在り様にも違いが生じる。それによって資金の流れにも差が生じ、産業毎に景気の波が違ってくる。

費用や支出の在り様は、全ての産業が一律なのではなく。個々の産業ごとに違う。また、ライフサイクルも違う。この事を前提として経済政策がとられないと経済政策の実効性はなく。場合には、逆効果になる。

経済政策に万能薬はない。規制緩和、規制緩和。公共投資、公共投資と馬鹿の一つ覚えに叫ぶのは、何でもかんでもアスピリンを飲ませておけばいいという藪医者のごときものである。

現在の経済学は、対処療法的な学問になっている。そのために抜本的対策が立てらない。

経済規模を制約するのは、貨幣ではなく、人と物である。
なぜならば、貨幣は、数値であり、実体を持たず、無限だからである。それに対して、人と物は、実体を持ち有限である。故に、市場規模を制約する実質条件は、人と物によって形成される。
貨幣単位には量でしかない。それに対して、人や物は、量と質からなる。故に、実体的経済には、質量、密度がある。

経済の実体を理解する上では、この密度を理解する必要がある。

経済的価値には、密度が深くかかわっている。故に、現在のように経済を二次元的にしかとらえられないと経済の全貌を把握する事はできない。また、物理学を応用する事もできない。
経済的現象に密度が深くかかわっているとしたら、経済現象はどちらかというと統計熱力学的な現象だと言える。

距離の集合が空間を形成する。
空間の歪は距離に現れる。

貨幣経済空間は、人、物、金の三つの軸に時間軸を加えて四次元の空間を構成する。

貨幣価値は可算集合である。

貨幣価値が無限であるのに対して、物質的空間は限りがある。
無限に発散しようとする貨幣価値は、市場規模が物質的な限界に達すると収縮を始める。

見かけ上は拡大しているように見えても、実体は収縮しているというような事象が起こるのである。故に、実際の物の動きと金の動きを常に関連付けてみる必要がある。
名目的な動きと実質的動きは連動しているとは限らない。

経済は、成長期においては量を優先し、市場が成熟するにしたがって量から質へと転換していくのが本来の在り方である。しかし、現実の市場は、量から質への転換がうまくいかず。いつまでも量ばかりを追求している。その結果市場が荒廃し、生活の質の向上どころか、低下すらしているのである。

地価を例にとるとわかる。まず土地は有限があり、活用できる土地には制限がある。また、全ての土地が有効活用されているわけではなく、有効活用されていない土地がある。
土地はその活用目的によって用途が変化する。
人口の増加や経済成長に伴って土地の有効活用が計られ、活用できる土地も減少する。
住宅を建てる場合、一戸当たりの敷地面積にも制限がある。これが前提である。
経済は、いかに土地を有効活用するかの問題であり、土地からどれくらい収益を上げるかが問題なのではない。

住宅市場が成熟したら、敷地面積が拡大し、住宅の質も向上する。また、全ての人に良質な住宅が提供される。それこそが経済体制が求める土地政策なのである。

土地が有効に活用されているかどうかの指針は、土地の配分に要約される。

地価と、実際の敷地面積の相関関係は、市場が拡大している期間と市場が縮小している期間とでは違いがあるのが当たり前である。

土地の総量に変化がないとしたら人口が増加している間は、世帯数の増加に応じて土地は細分化される。地価は、土地の需給によって定まる。しかし、人口が減少に転じると敷地面積は、本来、拡大しなければならない。
また、住宅も新築からリフォームへと質的な転換が計られるべきである。

現実の土地取引は、土地の実需と関わりのないところで乱高下し、バブル現象を引き起こしたり。かと思うと人口が減少に転じ、空き家空室が増えている一方で空前のマンションブームが起こったりと土地の有効活用とかけ離れた状況が現出している。
また、片一方で住宅の在庫が過剰だというのに、もう一方でホームレスが増加している。

経済的な意味で地価の問題は、土地の有効活用を最大にすることが目的であり、土地取引を拡大したり、土地取引の利益を最大にすることが目的なのではない。この点を見誤ると重大な錯誤をすることになる。

近代経済の特徴は、社会的分業の深化によって生産地と消費地が分離した事である。それに伴って職場と生活空間が別々のところに形成されるようになり、その隙間と距離を埋めるように市場や貨幣制度が形成されたのである。
そして、地域の生産力と消費量の不一致が、地域間格差を生み出す事になる。
人口は、労働と消費の基数となる。そして、労働は生産の資源となり、消費は生活の根拠となる。
生産と消費の基礎はいずれも人口であるが、生産労働人口と消費人口に歪が生じ、それが格差を生み出す原因となっている。
労働と分配の均衡を図るのが経済の本来の在り方なのである。

仮に人口や物の消費量も生産量が変化しないと仮定したら価格は通貨の量に左右される。確かに、表面だけ見たら経済は、純粋に貨幣的現象だと言える。
しかし、人口も、消費量も生産量も絶え間なく変化しており、単純に貨幣だけの現象だと断定する事はできない。
経済の実体は、本来、人口と、消費量と生産量に還元されなければならない問題なのに、現代経済は、貨幣的現象に振り回されている。極端な場合、貨幣の動きでしか経済を理解しようとしていない。それが経済の本質を見誤らせているのである。

見落としてはならないのは、生産にせよ、消費にせよ、人口がかかわっているという事である。労働人口と消費人口の関係が経済の基礎にある事を忘れてはならない。

それ故に、人口の分布と偏り、生産手段の分布と偏りが重要な要素となる。統計の意義は、分布と偏りを見出して是正する事にある。

消費者と生産者が同じ地域にいるとは限らない。また、消費者は必要な資源を得る為には、必要な資源を得る為に必要なだけの資金を所有していなければならない。必要な資金を所有するための手段は、主として収入、所得による。所得は、何らかの対価として得る事が原則である。所得を対価として得るという事は、現代の経済が交換に基づいている事を意味しているのである。この交換という働きをいかに、経済の仕組みに組み込むかが、最も重要な経済施策なのである。

人手不足な地域と余剰人員を抱えている地域が混在している。一方で過剰生産で物が余っている地域があるのに、他方で物不足で飢餓状態の地域がある。新規の豪邸が売れずに空き家になっているのに、街は、ホームレスで溢れている。生産力は上がったのに、失業者ばかりで購買力がない。この様な歪が経済の仕組みを破綻させるのである。

分布と偏りを補正するためには、交易の自由が確保、保障されている必要がある。






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