市場は一つではない


最後に、神に問われたら何と答えるべきなのか。
己の所業を正直に答えられるだろうか。
神に恥ずる事のない生き方をするしかないのであろう。

市場は一つではない。複数の独立した市場が組み合わさって全体を構成している。
部分を構成する市場は、一律一様ではなく、それぞれが固有の仕組みを持っている。また、部分を構成する市場も調達、製造、物流、販売等、いくつかの階層から成り立っており、その階層ごとに個々独立した市場を構成している。また、市場は、発展段階によって様相を変える。さらに、市場は、海外などの他の市場の影響もうける。
個々の市場は、歴史、地域性、立地条件、文化、宗教、環境(為替、原材料価格の動向、技術革新、労働条件、風俗習慣等)、貿易環境、経済制度、政治体制等の下部構造の上に成り立っている。
この様な部分を構成する市場は、それぞれのおかれている位置や状況、発展段階に応じて仕組みを変えなければならない。その仕組みの原理を担っているのが規制である。
故に、商品の性格、市場の発展段階、外的環境などによって規制を変えていく必要がある。規制緩和とは、この様な市場の要請に基づいて行われる事であるが、その前提となるのは必要性である。
緩和すべき市場もあるが、反対に、規制を強化すべき市場もある。
規制を強化すべき部分もあれば、規制を緩和すべき部分もある。
ただ、所得が停滞し始めた時期と、ひたすら規制を緩和し始めた時期が重なっているというのも事実なのである。
この事実を真摯に受け止めるべき時なのではないのか。
理屈、理論が優先されて事実を蔑ろにするのは、不合理な事である。
なぜ規制を緩和するのか、その目的は、なぜ、規制するのかという目的と表裏をなしている。なぜならば、規制を緩和する目的と規制をする目的は同じだからである。
規制を緩和するのも、規制をするのも、その目的は、適正な価格を実現する事にある。
特定の人間に利益を供与する事でもなければ、低価格を実現する事でも、競争を煽りことでもない。
適正な価格とは、適正な費用を負担したうえで、環境の変化に対応する事の出来る利益を上げる事、そのうえで、消費者の負担を最小限に抑える事を実現した価格である。
規制緩和によって飛躍的に技術革新をしたのが、通信情報産業である。反対に市場が荒廃してしまったのは、石油産業である。
この様に規制緩和は万能薬ではない。
技術革新のある高付加価値産業である通信、情報産業と装置産業で、消費の差別化の難しい石油業界とを一緒くたにするわけにはいかないのである。
いまだかつて市場で完全に公正な競争など実現された験しなどない。大体、すべてを同じ条件にしてしまったら、競争は成り立たない。市場参加者は、同じ前提条件で競争することが不可能だからである。
全てのスポーツを一つのルールで統一する事は不可能である。
サッカーも野球もテニスもゴルフも全てを一つのルールに統一しようとするのは乱暴である。同じように一つのルールですべての市場を統一する事は少なくとも現時点ではできない。何でもかんでも統一、一般化、普遍化しようとするのは、科学主義の悪弊の一つである。
市場は、適正な価格を実現する事を目的としているのであり、公平な分配を実現する事を目的とした場であり、低価格を実現する事や競わせることを目的とした場ではない。そして、会計は、市場の働きを監視するため基準を提供する仕組みなのである。
会計基準ありきは、速度計に合わせて車を作るようなものである。速度計は、安全かつ、快適な運転をするための手段であって、車を作る目的ではない。
市場は正直に反応しているのである。個々の事象をとやかく言うよりも生起した事象をに対して適正な規制がされていたかどうかが問題なのである。適切な規制がされていればリーマンショックのような出来事は防げたはずである。
なぜ規制をしないと価格戦争に陥るのか。それは、収益構造に原因がある。
収益構造は、基本的に利益と費用からなる。費用は不必要な事、削除すべき事だという費用に対する間違った認識が、一番の問題である。これが価格や規制に対する歪んだ考えを生み出している。
費用を否定したら市場経済は成り立たない。なぜならば、費用こそが分配を担っているからである。
費用こそ付加価値なのである。
収益と費用は、現金収支を平準化する目的で設定された概念である。
利益は、収益と費用の均衡を測るための尺度であり、相対的なものであり、経営実態を正しく反映するためには、経営が置かれている状況に応じて変更されるものである。
故に、利益は、状況に合わせて操作する事を前提としている。利益操作が許されないのは、正しく状況を反映できない事象に限ってである。なぜならば、それは費用の性格が一定ではなく、環境や尺度によって変化するからである。また、費用の認識の仕方によって正しい経営がなされなくなる危険性があるからである。

ただ留意すべきなのは、期間損益は、元々現金収支を平準化する目的で作られたという点である。
問題は費用の性格である。費用は、原価などの変動費と管理費などの固定費からなる。
固定費を構成するのは、主として人件費と減価償却費、支払金利である。
しかし、減価償却費という費用に支出としての実体はない。
厳密にいうと実体がないわけではないが、減価償却費という勘定自体が支出と直接的に結びついているわけではない。
減価償却費は、過去の投資の後処理という性格がある。減価償却費というのは本来、設備投資、すなわち固定資産にかかる支出を根拠としている。しかし、減価償却費が計上される気に減価償却費に相当する支出はない。
固定資産を根拠とした費用と人件費のような固定的費用が集まって固定費を形成する。費用は、固定費と変動費から成り立っている。この固定費を構成する費用の核となる部分にこの減価償却費がある。これが、単価を流動的にする要因の一つとなる。
もう一つ重要なのは、現在の損益計算では、この固定を超えると利益が計上されてくるという点である。一定の売上まで至らないと利益が上がらない事を意味する。それが売上至上主義に結びつく。売上は、数量と単価の積であるから、数量を上げるか、単価を上げるかしかない。
つまり、操業度、販売量が利益を決めるのである。
量販すればするほど、早く損益分岐点を超え利益を上げる事ができるという点にある。そのために、部分として利益を犠牲にしても全体の利益を追求しようとして勢い低価格戦争に陥るという事であり、低価格戦争に陥っても単年度の帳尻を合わせる事ができる。
だから、一度価格戦争に陥ると収拾がつかなくなるのである。
もう一点、市場で人々は、理性的な行動をとらないし、取れないという事である。
市場は、闘争の場であり、学者や評論家が考えるような合理的な競争の場ではない。市場は戦場なのである。一度戦いが始まれば、相手の息の根を止めるまで戦い抜く。なぜならば、規制のない争いは無法な行為であり、どちらかが倒されなければ決着がつかないからである。
こういうことを学者、評論家、会計士はわかっていない。だから彼らは経営者にはなれないのである。

一度、低価格戦争に火が付くと、抑制が利かなくなり、泥沼と化し、市場は荒廃し、最終的には、寡占独占に陥る。
利益を上げる事は悪いように思える。
会計は、適正な利益を上げさせることが目的なのであって会計の整合性や低価格を実現させることは二義的な事である。学者や会計士、評論家には経営はできない。
また、市場は、生産財を分配する場であるとともに、「お金」を分配する場でもある。
「お金」は、物が流れる経路を伝わって分配もされるのである。
表面的価格ばかりに注目していると、「お金」の流れる経路を見落とす事になる。
ただ、中間経路を削減すればいいというのは、「お金」の経路を見落としてしまっている。
市場は消費者だけ成り立っているわけではないし、生産者だけ成り立っているわけでもない。どちらかの利益を代表するだけでは偏りが生じる。
生産者は消費者であり、消費者は生産者でもある。
単純に消費者が喜ぶからと言って低価格を実現する事は、生産者の立場を否定する事であり、生産効率や生産者の都合だけで余剰利益を上げるのも許されない。だから均衡なのである。
ビックデータとか、AIとか騒ぐけれど、なぜ、経済問題に活用しようとしないのだろうか。
経済の根本は、単純であり、演算も難しくない、ただ膨大なデータがある。
つまり、ビックデータは、経済に対して最適な手段であるはずである。





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