市場は失敗などしない



経済の仕組みは人工的な仕組みであり、本来、合目的的な体系である。
経済の仕組みは人の作ったものなのである。

経済の仕組みの目的は、お金儲けではない。お金は手段である。
経済の目的は、人を生かす事にある。故に、経済の仕組みの目的は、生きる為に必要な資源を生産し、それを必要とする人に分配して、人々が生活に困らないようにする事にある。
故に、生産活動を、お金ではなく、人や物にどの程度還元できるかが重要なのである。経済効率は、生産と消費から測られるべき事であり、お金は、指針、基準を与えるものに過ぎない。生産や消費は過剰でも不足でも困るのである。
不足するよりましと大量生産を前提としているのが今日の経済である。だから、何もかもが過剰となり、結果的に資源や労力の浪費、無駄遣いが横行するのである。それを放置すれば、環境問題や資源問題、温暖化問題が起こり、いろいろな災難を次の世代に残すことになるのは明らかだ。

市場は失敗しない。失敗するのは、人である。
人が失敗するのは、市場の本来の目的を見失っていることによる。

自動車を暴走させて事故を起こしておいて自動車が悪いというのは屁理屈である。どんな高性能の車だって運転する人間によっては凶器となる。自動車は目的に応じて仕様が変わる。個々の自動車は、各々目的があって作られている。石油を運ぶ目的のタンクローリーは、石油を運ぶ目的によって性能が決められ設計される。
市場も同じである。市場も一種の仕組みである。仕組みである以上目的があり、目的に応じて設計されるべきなのである。ところが市場という仕組みだけは、他の仕組みと違って不可侵な聖域であり、市場の仕組みや目的を論じること自体を否定する者達がいる。そういう者は競争を原理だとする。こうなると一種の宗教みたいなものである。
市場に欠陥がないとは言わないが、欠陥車を作るのが人なら、欠陥のある市場を作るのも人である。しかも、それを改めようとしなければ、悪いのは人であって市場ではない。そうなると、市場が失敗したなどと言うのはいいわけに過ぎない。

経済の成果は、自然に成る物ではない。人の創造物である。神の創造物ではない。経済の出来事に対する責任は人にある。ところが人は自分の都合が悪くなると経済は、自然に成ったもののように語り始める。挙げ句に神の責任にしようとさえする。経済の仕組みには、人の意志が働いている。それを忘れてはならない。

経済には目的がある。その目的の過程でいろいろな状況、現象が生じるのである。
例えば、お風呂に入る目的でお湯を沸かすとか、目的地に行くために、飛行機を操縦するようなことである。
お風呂に入ることが目的ならば、一定の温度までお湯を沸かし、後は、その温度を維持するようにお湯の温度を調節する事である。
又、飛行機は、一定の高度まで達したらその高度を維持するように操縦する。一定の温度を超えても加熱し続け、お湯を沸騰させたら目的を達成するどころか危険な状態になる。飛行機の安全な高度以上に上昇し、成層圏を越えてまで上昇しようとするのは、破滅的行為である。
ところが経済は、この道理が通じない。意味もなく、危険な水準まで加熱し、危険な水準を過ぎてもひたすら熱を加え続ける様なことを平気する。その結果、悲惨な事態を人間自らが引き起こしているのである。

所得は人的資源に基づき、生産は物的資源に基づいている。しかし、人的資源の分散と物的資源の分散は一様ではなく、整合性がとれているわけでもない。
経済の仕組みは、人的資源の分散と物的資源の分散の整合性をとり、分配を公平にする目的で構築される体系である。

人的資源とは、労働力である。故に、所得は、労働力に帰す。

市場経済では、資金や財は市場を介して交換によって得られる。つまり、所得は、労働手段と交換に市場から得られる。

人的資源の分散と物的資源の分散の不整合は、あらゆる社会の格差の背後に潜んでいる。格差の根源とも言える。資本主義社会では、労働や資本という資源を活用できる場がなければ、資金を手に入れる事は出来ない仕組みになっている。働きたくても働く場がない者達と、働く場を提供するだけで所得を得られる者との差は容易には埋められない。

経済状態を決めるのは、物的資源と人的資源の分散の不均衡である。
物的資源と人的資源の不整合は、収入と支出の構造の非対称性となって現れる。
物的資源が乏しい地域の者は、他所から資源を持ってきて加工し他の地域に売らなければ資金を手に入れる事は出来ない。分業が進化すると、余剰な資源を持つ者と資源が不足している者が相互に融通し合う必要が生じる。相互に資源を補い合う事によって交易は発達する。

貨幣経済では、個人収入を基礎として成り立つ。個人収入は言い換えれば、所得である。所得は、分配の為の原資である。
所得には、労働に基づく所得と労働に基づかない所得がある。労働に基づく所得を労働所得とし、労働に基づかない所得を非労働所得とする。経済の根本は、労働に基づく所得である。

生産だけでは経済は成り立たない。消費だけでも経済は成り立たない。重要なのは国際分業である。国際分業を成り立たせるのは、労働に基づく所得である。
所得は人的資源に基づき、生産は物的資源に基づいている。しかし、人的資源の分散と物的資源の分散は一様ではなく、整合性がとれているわけでもない。
経済の仕組みは、人的資源の分散と物的資源の分散の整合性をとり、分配を公平にする目的で構築される体系である。

市場経済では、資金や財は市場を介して交換によって得られる。つまり、所得は、労働手段と交換に市場から得られる。

人的資源の分散と物的資源の分散の不整合は、あらゆる社会の格差の背後に潜んでいる。格差の根源とも言える。資本主義社会では、労働や資本という資源を活用できる場がなければ、資金を手に入れる事は出来ない仕組みになっている。働きたくても働く場がない者達と、働く場を提供するだけで所得を得られる者との差は容易には埋められない。

経済状態を決めるのは、物的資源と人的資源の分散の不均衡である。
物的資源と人的資源の不整合は、収入と支出の構造の非対称性となって現れる。
物的資源が乏しい地域の者は、他所から資源を持ってきて加工し他の地域に売らなければ資金を手に入れる事は出来ない。分業が進化すると、余剰な資源を持つ者と資源が不足している者が相互に融通し合う必要が生じる。相互に資源を補い合う事によって交易は発達する。

売り買いの陰には、貸し借りの関係が隠されており。しかも、売り買いは一時的な関係であるのに対して、貸し借りは継続的な関係である。
つまり、長期的な働きだけを考えると売り買いより貸し借りの方が影響力が強い。
本来、借り手は、貸し手よりも弱い立場に立つが、海外取引においては必ずしもこの関係は成り立たない。なぜならば、背景として武力が働いているからである。

貨幣取引の根本は、物とお金の出入りである。
不足する資源を海外から調達しようとした場合、その為の資金がなければならない。

お金の世界と物の世界とは次元を異にしている。
物の世界には、最初から貨幣は存在していないのである。貨幣という存在は、純粋に人工的な物なのである。
貨幣が貨幣としての働きをするためには、市場の信認がなければならない。市場の信認は、貨幣が制約する事を根拠にして得られる。

市場取引が成立するためには、売り手は商品を買い手はお金を所有していなければならない。一つ、この関係が成り立つためには、所有権が確立されていなければならない。もう一つは、市場にお金が満遍なく行き渡っている事が前提となる。つまり、貨幣制度が成立するためには、いかにして貨幣の信認をとりつつ、市場に満遍なく市場を行き渡らせるかが鍵を握っている。また、信認をとりつつ、貨幣を満遍なく行き渡らせるためには、貸借関係が不可欠なのである。

物は、消費されれば終わりである。しかし、お金はそういうわけにはいかない。お金は循環させなければならないのである。
役割をおえたお金は一旦貯蓄されるのである。そこでも貸借関係が生じる。

売り手は、買い手がお金を所持していなければ、何らかの形で相手にお金を渡す必要がある。一つの手段は、何らかの物かサービスと交換でお金を手渡す事である。お金を貸す事である。いずれにしても、売り手、買い手が貨幣の価値を信認している事が前提となる。
お金の価値が信認されていない場合は、お金を貸して財を売る事を手始めとする。
生産者は、お金を貸して生産物を売り、お金を回収する。しかし、これで終わるとお金は循環しなくなる。故に、又お金を貸す。この関係だけでは、債務は、一方的に累積していってしまう。そこで逆方向の流れが必要となるのである。

一方的に生産し、一方的に消費するという関係は成り立たない。生産と消費との間を仲介するのが、労働と報酬である。労働と報酬によって所得の基本は形成される。それが原則である。

取引は、全て、ゼロ和均衡するよう設定されている。売りと買いはゼロ和均衡し、貸しと借りはゼロ和均衡し、売買と貸借はゼロ和均衡する。
経常収支は、売買関係によって形成され、資本取引は貸借によって成立する。交易は、経常収支と資本収支は、ゼロ和均衡する事で成り立つ。

売買取引は、売り手は買い手の存在を前提とし、買い手は売り手の存在を前提としなければ成り立たない。市場原理主義者は、この原則を無視して競争、競争と囃し立てる。しかし、いくら競争を奨励しようと売り手と買い手の関係が存在しなければ意味がない。
市場を介して売買取引をするためには、買い手がお金を予め持っていることが前提となる。先ずお金が市場に供給されていなければならない。最初からお金が市場に偏りなく満遍に供給されているわけではない。そこで、貸借関係が生じるのである。お金は、貸し借りによって市場に供給されるからである。
これが貨幣経済を基盤とした市場の原則である。問題はお金を消費者に如何に満遍なく偏りなく予め配布するかである。そこに労働という資源が重要な役割を果たすのである。原則は、最初は労働という資源の成果に応じてお金を配分することなのである。

売り手が有利で買い手が不利と言う事はないし、貸し手が優位で借り手が劣位と言う事もない。有利不利、優位劣位は力関係や状況によって決まることである。
売り手は買い手を必要としているのであり、買い手は売り手を必要としているのである。これが摂理である。
どちらが是、どちらが否という関係ではない。
経常収支が黒字か赤字かは結果であってそれ自体が良いとか悪いとか言う問題ではない。問題となるのは、均衡である。だから、黒字赤字の原因であり、黒字赤字を生み出す仕組み、構造の是非である。

経済の本質は、売り手がいいか、買い手がいいか、黒字は是で、赤字は否というような問題ではない。

金融資産は、支払い準備であり、資産とは言え負債である。

現代社会の病巣は、目に見えない所で、実体的裏付けのない負債が増大している事なのである。そして、負の部分が実の部分を侵食している事である。

支払いを分割すると一回一回の支払いが少額で済むため、何か得した気分になる。しかし、借金は、借金である。借金というのは、結局、支払を延べ約利しているのに過ぎない。しかも金利付きであるから、実質的な支払額は、名目的な値段を上回る。又、返済は待ったなしにかかる。つまり、自由になる金、可処分所得か圧縮されるのである。過剰になれば、月々の返済によって自由に使える金がなくなり、最悪返済額が所得を上回る事になる。
所得が増加している局面においては、月々の返済額は、圧縮される事が期待できるが、所得が減少したり、途絶えると破産してしまう。
逆に言うと借金がなければ破産はしないのである。これは財政も企業も同じである。

そして、この資金の流れが資本主義の問題の根底にあるのである。
なぜならば、借入金の返済という流れは、期間損益上は何処にも現れてこないからである。キャッシュフロー計算書からもなかなか実態はつかめない。

借金がなければ破産をしないという事を見落としてはならない。これは家計も、企業も、財政も変わりはない。
では借金をしなければいいではないかと考えがちであるが、そうはいかない。なぜならば、紙幣は、金融資産としての性格を持ち、金融資産は、負債の一種なのであり、負債を否定したら貨幣経済そのものが成り立たなくなるからである。

要は、負債は、不可欠な要素であり、積極的に活用すべきだが、取扱を間違うと破滅すると言う事である。

収益は順調なのに、ある日突然、経営破綻する。また、景気が突然変調をきたす。リーマンショックが好例である。
それは、この貸借に関わる資金の流れによるのである。
資金の流れによって収益とは関係ない部分でジワジワと進行し、見かけ上は、順調なのに、ある日突然資金の流れが止まって機能不全状態に陥る。お金の流れる道が狭まり、お金の働きが限定的、硬直的になる。場合によっては、お金の流れる道が詰まってお金が流れなくなるのである。
大切なのは、借金を敬して遠ざけるのではなく。借金の実体を知り、借金を味方にする事なのである。

人は、信仰によってしか救われない。なぜならば、人は科学によって神の力を手に入れたからである。神に対する恐れを抱かぬ者が神の力を使う事は赦されない。人は神にはなれない。神の本質は、力ではなく存在にある。神を恐れぬ者が神の力を手に入れれば、神の力によって滅ぼされる。それが科学者の良心である。







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