シンメトリー

自由主義国は、幻想を抱くべきではない。民主主義は万能ではない。民主主義は、制度、仕組みによって表現される思想なのである。
民主主義は、その基盤が確立されるまで混乱状態が続く事を宿命付けられているのである。
逆に言えば成熟した民主主義国というのは、希有な存在だと言う事を忘れてはならない。自由主義国、民主主義国に生まれた者は、そのありがたみをともすると忘れてしまいがちである。言論の自由、思想信条の自由、集会の自由、結社の自由というのを所与の事、自明な事として当たり前に受け止めるが、これらの自由を確立し、維持するために、どれほどの血が流されたかを自覚しなければならない。又、自由ほど繊細な事はなく。簡単に失われてしまうという事も忘れてはならない。

信仰のみが混乱を収束する事が出来る。

国際社会は、力の均衡によって成り立っている。
地政学的な力の均衡が働いているという側面は否定しない。地政学は、帝国主義を前提とするが、国際社会は、重層的な事であり、地政学的な力の均衡だけでは説明がつかない。思想や制度的な側面も強く働いている。
又、力の均衡は、その土台にある仕組みによって左右される。

地政学は、力の均衡を重視する事により思想の働きを無視する傾向がある。

民主主義国と帝国主義国とでは本質が違う。そこが根本になければならない。民主主義国同士が戦争をするかという問題がある。問題は民主主義の本質である。民主主義の本質が同じならば、民主主義国同士が戦争になる確率は低いと思われる。

貨幣価値は数値化によって進化したが、同時に、数値化という限界がある。
その限界を前提としないと貨幣経済を有効に機能させることは出来ない。

数学は、本来、計測の手段である。
対象や目的によって数は選択される性格の事である。
数の体系は一種類ではない。
本来、数の種類は、用途によって選択される。
経済では、数は、合目的的な手段なのである。
経済的事象においては、数はそれ単体では成り立たない。
数を成立させる実体、集合を前提としている。

設定された数の体系や前提条件によってその後の経済が制約を受けるとしたら、初期設定とその前提条件がどの様になされ、又、どの程度の合意が得られたかが、経済の事象の働きを決定づける。

経済というのは人為的な事象であり、無為な事象ではない。
儲けるべくして儲けるのであり、儲かるべきして儲かるのではない。
しかし、初期の設定を間違えれば儲からなくなる。
その初期設定に諸々の経済規則や制度、規制、政策がある。

競争というのは、無作為な事象ではない。作為的な事象である。
競争は、初期設定に基づく合目的的な原則である。故に、どの様な働きを期待し、どの様な目的によって競争の仕組みが市場に組み込まれたかが、重要なのである。

シンメトリー、対称性というのは、結果ではなく。最初の設定によるのである。
経済事象は、シンメトリーになるべくして、なるのである。なぜなら、その様に最初に設定されているからである。

分散も、貸借も、売買もゼロ和である。なぜゼロ和になるかというと初期設定や前提においてゼロ和になるように設定されているからである。
そして、ゼロ和を成り立たせているのは、中心極限定理である。
つまり、平均からの距離とバラツキである。
これが市場経済の根幹である。

経済的事象では、シンメトリーは重要な働きをしている。

シンメトリーな働きを生み出しているのは、金の動きと物の動きを一対一に関連づけ、対応させることに依る。
つまり、「お金」と物との交換を前提として貨幣価値を特定させるのが貨幣経済の前提である。

経済主体は、組織的主体と個人的主体の二種類がある。
更に、組織的主体は、家計、企業、財政の三種類に区分される。
取引の形態は、売り買い、貸し借りの二種類である。

経済的手段の中心は、分配の手段である。
分配の手段には、シンメトリーな手段と非シンメトリーな手段の二つがある。
シンメトリーな手段は、市場的手段であり、非シンメトリーな手段は組織的な手段である。

会計空間上では、市場取引を成立させる主体間にはシンメトリーな関係が成立している事を前提としている。

個々の取引においては、物の「お金」との間に同値関係、等価関係が成立している事を前提としている。
故に、個々の取引の取引において物と「お金」の関係は分解されシンメトリーな働きは設定される。

「お金」と物との等価交換という事象によってシンメトリーな関係は生じる。
故に、シンメトリーな関係は、取引によって設定されているのである。

「お金」と物との交換は、現金収支という形で表現される。
この現金収支が貨幣経済、市場経済の根底を形成している。

市場取引は、貸しは借りであり、売りは買い、支出は収入という関係が成り立っている。
つまり、貸借も、売買も、収支もシンメトリーが成り立っている。

売り手がいれば買い手がいる。買い手がいれば売り手がいる。
貸し手がいれば、借り手がいる。借り手がいれば貸し手がいる。
出し手がいれば受け手がいる。受け手がいれば出し手がいる。

貸借、売買、収支がシンメトリーであるという事は、必然的に債権、債務もシンメトリーな関係になる。

個としての主体は一体である。
売り手は買い手にもなり、買い手は売り手にもなる。貸し手は、借り手にもなり、借り手は貸し手にもなる。出しては受け手にもなり、出しては売り手にもなる。生産者は消費者にもなる。
より多くの与える者は、より多くの物を得られる。

この全体と個の関係が、利益を生み出すのである。

売買、貸借、収支は、市場全体では均衡している。個々の外部取引は対称的である。
それに対して内部取引は非対称である。
この捻れが利益を生み出すのである。

取引が成立した時点で価値は均衡している。即ち、ゼロである。
ゼロから始まりゼロに終わる。

取引が均衡する、即ち、総和がゼロと言う事は、均衡点を起点として正と負の関係が生じる事を意味する。この関係は、シンメトリーである。
つまり、正かあれば同量の負が生じるのである。
赤字が良いか、黒字が良いかの問題ではない。
誰が何をどれくらいの負の部分を引き受けるか。時間的空間的均衡をどうはかるかの問題である。

均衡は、時間的均衡と空間的均衡がある。空間的均衡とは、任意の一時点における状態の均衡を言う。

又、市場の均衡には、水平的均衡と、垂直的均衡がある。水平的均衡とは、経済主体、即ち、財政、民間、家計、海外の収支の均衡などであり、垂直的均衡は、経常収支と資本収支の関係のような事である。

内的対称性と外的対称性がある。我々は複式簿記では、内的対称性は学んでも外的対称性は学ばない。しかし、経済全体から見ると外的対称性の方が重要である。
気を付けるべき点は、内的対称性も外的対称性もゼロ和だと言う事である。

市場では、外的対称性も内的対称性も市場取引の形式によって成立する。そして、この外的対称性と内的対称性が複式簿記の基本講座を根幹となるのである。
市場的手段の最小単位は取引によって形成される。

利益は、外的対称性が、内的対称性が内部取引によって破られることから成立する。
外的対称性と内的対称性を破る要素は時間である。

シンメトリーな関係を成立させているのは、等号とゼロサム関係である。
同時にシンメトリーは負の空間とも重大な関わりがある。

貨幣経済を動かしているのは、振幅なのである。

交換は、回転運動を示唆する。交換によって成立するシンメトリーは、物と「お金」が回転する事でもある。
回転運動は周期運動、波動運動を生む。

また、シメトリーの事象は、同じ方向のベクトルを持つ傾向があるために、同調同機、シンクロしやすい。
又、経済行為は連鎖する。つまり、個々の取引は、連鎖している。
シンメトリーな事象は、シンクロする事によってシナジー効果が現れる。
シンメトリーな運動によって生じる回転運動と、シナジー効果が経済事象の性格を形作る。

経済というのは人為的な事象であり、無為な事象ではない。
経済的事象は、なるのではなく、するのである。
儲かるのではなく、儲けるのである。
儲けるべくして儲けるのであり、儲かるべきして儲かるのではない。
しかし、初期の設定を間違えれば儲からなくなる。
その初期設定に諸々の経済規則や制度、規制、政策がある。
規則や制度、規制、政策を間違えば、儲からなくなるのである。
利益が上がるのではなく、利益を上げるのである。
初期の設定を間違えは、利益は上がらなくなるのである。
経済的事象は無作為な事象ではなく、作為的事象である。
故に、経営者は、利益が上がらなくなれば、責任をとらされるのである。
自然の災害や無作為の事故、認識のある過失に対しては、基本的に責任は問われない。
しかし、未必の故意に対しても責任を問われるのである。

経済的事象は、何を前提として、どの様な初期設定をされたか、それが、経済原則であり、原理である。


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