勝者は奢り、敗者は阿る。

勝者は奢り、敗者は阿る。それでは、真の平和は訪れないし、真の自由も実現できない。

戦争は、残虐で残酷なことである。
それは特定の国や民族に限った事ではない。戦争は、人類総てにとって、残虐で残酷な事である。
戦争に於いて敗者だけが残虐、残酷なのではない。勝者だって残虐で残忍なのである。敗者にだけ戦争の残虐さや残酷さの責任を負わせていたら、戦争の本質は見えてこない。

人道主義は、普遍的な事であって、歴史的問題ではない。
どの国の歴史も、どの民族の歴史も血塗られたものである。歴史を学べば誰も自国の犯した罪を正当化する事はできない。
歴史から何を学ぶべきなのか。それは人間の犯してきた罪を学ぶべきなのである。

戦争に正義はない。戦争にあるのは勝敗だけである。勝敗で問題とされるのは、強弱である。強者だけが己の正義を全うできる。
敗者に大義は許されない。敗者に許されるのは、勝者の憐憫に縋るだけである。
しかし、それて正義は実現できるのだろうか。
戦争で一番被害を被るのは弱者である。
それが歴史の真実である。
歴史は、人の犯した愚行や悪行の満ちている。
戦争の惨禍は人間の犯した罪である。
神の問題ではない。
歴史は、血に飢えている。
ロミオとジュリエットの昔より、憎しみの連鎖を立ちきる事も必要なのである。
戦争は起こしてはならないのである。

 貨幣経済は、負の勘定によって支えられている。つまりは借金が貨幣経済の根幹にあるのである。貨幣経済では、借金を肯定的に捉えないと上手く機能しなくなるり、制御不能に陥るのである。借金や赤字は単に悪い事だからなくせば良いと短絡的に考えていると貨幣経済は成り立たなくなる。借金の働きを肯定的に捉え、負の勘定を有効に活用できるようにならなければ経済は安定しなくなるのである。そのために考案されたのが期間損益であ

なぜ、戦争になるのか。それは、負の勘定を肯定的に捉えられないからである。負の勘定を肯定的に捉えられないから、負の勘定の非効率な部分が解消されずに累積されるのである。その結果、負の勘定が膨張し、負の勘定を制御できなくなる。その結果、デフォルトが頻発するようになるのであ
そして、負の勘定を一掃しないと経済が正常に機能しなくなるのである。そのために、経済が創造的破壊を求めるようになる。こり様な負の部分を解消する手段の一つが戦争である。
戦争は、生産設備をフル稼働し、多額の借金を生み出す。その一方で多額の支出をもたらす。人員も動員される。インフレーションにもなるが、それによって雇用も創出される。つまり、過剰な消費が生じて過大な需要を生み出す。その結果、金回りが良くなるのである。その一方で過去の負債や債務が清算される。又勝てば新たな市場を獲得する。この部分は幻想でもあるが、それても、特定の資源を独占できるようになるのも事実であ
しかし、戦争は戦争である。一方で莫大な破壊を伴う事を忘れてはならない。

戦争ではなく。より生産的で創造的な事に国際投資をすべきなのである。
環境投資にせよ、宇宙開発にせよ、海洋開発や資源エネルギー開発にせよ、交通、通信にせよ多額の投資を必要とする課題は山積しているのである。

物と金には、正と負の違いがある。
元々、負の概念は、負債に由来している。信用貨幣は造り出すのは、負の空間である。
紙幣の前身は、借用証書だという事が何よりもその証拠である。

政府が直接、実物貨幣を発行しただけでは、貨幣は、政府の借金にならないのである。
また、紙幣は返済を前提とするから回転する。返済義務のない紙幣は、負の空間を作れないのである。その意味で、政府が直接発行する紙幣は、返済義務を負わないが故に、負の空間を作れないのであ
政府発行の紙幣は、回収を前提としていないから双方向の働きを発揮させない。
貨幣は、返済を前提とした借金の延長線上にある事によって負の働きを作り出したのである。その負の働きによって貨幣経済は動かされているのである。言い換えれる貨幣の負の働きが、市場経済を動かす原動力なのであ
実物貨幣は、交換の手段道具に過ぎない。金貨などの実物紙幣は、金貨そのものに価値がある。それ故に、実物貨幣は、交換価値を表象する働きしかなかった。それに対して、信用貨幣は、貨幣そのものに価値がない故に、負の空間を作り出したのであ
信用貨幣である紙幣が成立する事によって独立した空間である信用空間、貨幣空間が作られる。
信用貨幣とは、物的な裏付けのない、言い換えれば、必要としない貨幣である。
故に、信用貨幣は絶対的な価値を持たない相対的な貨幣である。信用貨幣は、それ自体が価値を持っているのではなく、貨幣が指し示す対象があって価値が生じる。つまり、働きに価値があるのである。紙幣それ自体は、ありふれた印刷物に過ぎな

 数には、任意の性格で対象を集合化するという性格がある。この性格は、逆に、任意の性格に依って対象を等しくすると言う働きもある。また、特定の性質や要素を抽出し、その性格に依って対象を類型化するという働きが数にはあり、数の性格を基礎とする貨幣にもこの性格は継承されてい
 この作用は、貨幣を考える上で重要な働きとなる。
 即ち、貨幣の本質は自然数であり、自然数は、負のない離散数という性格に則って対象を類型化し、一旦、貨幣価値に換算した上、異質な対象を貨幣価値によって演算する事を可能にするという働きがあ
 これが貨幣の働きで最も重要な要素である。

 等号は、ゼロ和を成立させる。
 ゼロ和を成立させる事象は、一つの事象を完結させる。
 ゼロ和は、正と負の関係を成り立たせる。
 即ち、足すと零になる関係である。
 この足すと零の関係は、対称非対称の関係を判定する。

 運動の基本は、回転運動と直線運動の二つである。
 循環運動の根本も周期運動の根本も波動の根本も回転運動である。

 故に、経済事象で問題なのは、正と負の関係が継続的な事象なのか、一過性の事象かである。
 それは、事象が回転運動に基づく事象か、直線運動に基ずくかを判定する。

 その上で規則性の有無が問題となる。
 規則は、周期性の根拠となる。

 正の価値は、消費されるのに対して負の価値は集積するという性格がある。
 金利によって形成される時間的価値は、負の価値によって複利的に増殖する性格を持つため、負の価値が一定の限界を超えると幾何級数的に増幅する。
 財政を考える場合、この性格が災いする事がある。
 正の価値と負の価値の均衡が保たれずに負の価値が一方的に累積すると経済は停滞する。
 経済的価値は、正の価値単独で成り立っているのではなく。その対極にある負の価値との均衡によって成り立っている。

 負の価値と正の価値の釣り合いがとれなくなると名目的価値と実質的価値が分離し、フローとストックか不均衡になり、物価の急激な変動を引き起こす事になる。

 労働には、正の労働と、負の労働がある。
 正は、生産的労働、負は、非生産的労働である。
 非生産的労働には、金融労働と消費的労働がある。

 黒字を生み出すのは、正の労働であり、赤字を補填のは負の労働である。
 現金収支は、正と負の労働の均衡によって安定する。
 故に、経済全体は、現金の動きと損益の動きを調和させる事によって完結する。

 経常収支を考えた場合、一定期間で黒字と赤字を振幅する運動と見るのか、短期的に均衡する運動としてみるのか、直線的に蓄積する運動と見るのかでとるべき施策は変わる。その点を見極めないで黒字が是か、否かを論じるのは愚かであ

 財政収支というのは、通貨の供給と回収の結果である。供給した通貨を総て回収できれば財政収支は均衡する。
 しかし、税によって供給した通貨を総て回収するという事は不可能であり、そんな事をしたら貨幣制度自体が破綻する。
 通貨は、取引によって循環する。取引は、売買と貸借である。税によって捕捉できる範囲は、売買による部分である。貸借による部分は未実現の部分であるため課税対象には適さない上、売買取引だけでは通貨は環流しない。なぜならば、信用貨幣はその性格上貸借によって市場に供給され、回収されるからであ
 売買取引だけでは、通貨は、市場を環流しない。物流は、一定方向な資金の流れしか作り出さないからである。貸借取引が通貨の供給と回収をする事で、市場に資金の環流を引き起こすのであ
 市場に供給した通貨を総て回収したら通貨は環流しなくなる。それが貸借取引である。通貨を市場に流通させ続けようとしたら、総ての通貨を税収によって回収する事はできない。そんな事をすれば一時的にせよ、市場から通貨が消滅してしまうからである。市場に恒常的に通貨を流し続ける為には、市場に直接結びついて資金の供給と回収をする必要があ
 そのためには、税収だけに頼らず、市場から直接資金を回収する手段、即ち、政府も営利を目的とした事業を一部取り入れるべきなのである。
 一定の周期による通貨の供給と回収によって通過の流量を制御する仕組みが大切になる。 つまり、一定の周期で通貨の供給と回収を繰り返す仕組みを導入すべきなのである。
 一定の周期で供給と回収を繰り返す仕組みを導入するためには、単年度の均衡を前提とせず、長期的均衡を前提とすべきなのである。
 専売や独占は、通貨の循環を妨げ、富の偏在を引き起こす。富の偏在は、通貨の滞留の原因となる。反対給付のない事業は、通貨の供給と回収という機能を果たせないのである。それは貸借取引と売買取引が関連しないからであ

 経済的価値の上下運動によって経済の正と負のエネルギーを回転運動に転換することで物流を起こし、市場の交換を通して資源を分配する。それが市場経済である。
 問題となるのは、直線運動を回転運動、循環運動、周期運動に変換できなくなることである。直線運動を回転運動に変換できなくなると負の連鎖が始まる。

 直線運動を上下動によって回転運動に変換していく。
 例えば、為替の上限運動が経常収支を調整し、経常収支の上下動が為替相場に影響を及ぼす。

 経済では、因果関係よりも相関関係の方が重要である場合が多い。為替や経常収支の関係もどちらが原因でどちらが結果というのではなく、連動しているという事である。

 貨幣の循環を引き起こす仕組みの一つがゼロ和関係である。ゼロ和関係によって作り出される正と負の関係が回転運動の原動力になる。

 現金収支は直線運動であるが、期間損益によって一定周期の運動に置き換え、回転運動に転換するのが会計制度である。故に、会計制度は、複式簿記を基盤とするのである。
 会計制度は直線運動を回転運動に変化する仕組みなのである。 

 現金収支は直線運動であるが、期間損益によって一定周期の運動に置き換え、回転運動に転換するのが会計制度である。故に、会計制度は、複式簿記を基盤とするのである。
 会計制度は直線運動を回転運動に変化する仕組みなのである。 

 現代の経済は、直線運動を回転運動に変換できないが故に、負の連鎖を起こしているのが最大の問題なのである。

 一方的にエネルギーが蓄積され、市場を歪め、富の偏在を促してしまっている。それによって公正な分配ができなくなり、物流が阻害されている。又、生産と消費を結びつけることができなくなる。それは生産手段と生産力の結びつきを断ってしま

 資産価値の下落によって資金の調達能力が低下し、資金不足に陥り、負債が増加し、資金が流出し、内部資金か減少する。内部の資金が枯渇することによって再投資の原資を失う。

 人は、パンのために生きているのではない。生きる為にパンを食べるのである。
 金儲けの為に、金を儲けるのではない。金儲けは、手段であっても目的にはなり得ない。 金儲けの目的は、人々を幸せにすることにある。金儲けのために、家族の幸せを犠牲にするのは本末転倒であり、愚かなことであ

 歴史は、事実にはなりえても真実にはなり得ない。
 事実は、認識の問題であるが、真実は、存在の問題である。
 事実は、あると言えばあるし、ないと言えばない。
 真実は人は助け合って、或いは、助け合わなければ、解決できない深刻な問題が山積されているという事である。
 それが神の意志である。真実にこそ神の意志が隠されている。
 史実に囚われて真実から目をそらすのは愚かである。
人が滅んだとしてもそれは神故ではない。人の愚かさ故である。
 神は、救いを求めぬ者を救いはしない。なぜならば、救いを求めぬ者を救いようがないからである。
 神を信じぬ唯物論者が人類を滅ぼすであろう。




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