消費は人生を考える事


 スピルバーグ監督制作のリンカーンという映画を見ました。リンカーン大統領の生き方に改めて心から感動しました。リンカーン大統領の苦悩は、現代にも通じるところがあると感じました。今の日本人もアメリカ人も民主主義という体制、自由の意義に対してもっと確信を持つべきだと思います。
 国を守るとはどんなことか。大本にあるのは、建国の理念です。アメリカ人が軍を世界中に展開してまで、何を守ろうとしているのか。それは、自由と民主主義だと思います。
 故に、日本は植民地にならなかった。そしてまた、今も、未来も、日本はアメリカと伴にあるのです。その絆は、アメリカ人が考えている以上に強固なものです。
 それを忘れたら、これまで流された多くの日本やアメリカの若者の血の意味が失われてしまいます。

 民主主義は革命によって混乱とともにやってきます。民主主義を実現するのは本当に難しい。なお、難しいのは自由です。ただ民主主義的体制にすれば民主主義が実現するとは限らない。その意味で、アメリカで民主主義が実現したのは奇蹟なのです。それは、神のご意志なのです。自由と民主主義、そして、独立を蔑ろにすれば、アメリカは存在意義を失うのです。

 経済も自由主義だからこそ上手く機能しているという事を忘れるべきではありません。統制的体制では、経済はいつか破綻します。それは、統制経済では分配の働きが循環的な流れでなく一方方向的になりやすいからです。

 国防は観念ではない。現実です。重要なのは力の均衡であることを忘れてはならないのです。
 日本は、アメリカ、ロシア、中国、三大国の真ん中に位置して、三国と国境を接している上、間に立っているということを前提とすべきです。

 日本の領土問題は、日本だけの問題ではありません。むしろ、アメリカの国防に直結した問題だという事を忘れるべきではありません。
 重要なことは、価値観を共有できる相手かどうかです。

 故に、日米両国は、世界戦略についてより直裁的な意見を交換できる体制を構築すべきなのです。

 日本の政治家も、韓国の政治家も,中国の政治家も、慎重さが掛けています。
 政治は、所詮、妥協の産物です。問題はボーダーラインをどこに引くかです。先ず、政治家としてどうあるかの前に、人としてどうあるかを明らかにする事です。即ち、政治家としてどこまでが譲れる線であり、何を守らなければならないのかです。今の日本の政治家は、その点が曖昧で、本来、譲ってはならないところで譲ってしまい。逆に妥協すべきところを妥協できないでいる。

 歴史の問題は、歴史から何を学ぶかの問題です。その意味では、日本の政治家も、韓国の政治家も、中国の政治家も歴史から学んでいるとは言いかねます。

 人間は、物を食べなければ生きていけない。住むところも必要である。裸では、危なくて生活できない。
 人間は、生きていくためには多くの資源を消費していかなければならないのである。
 経済というのは、生きていくための活動を言う。単なる金儲けをさして、経済と言うわけではない。又、経済は、生産活動に限ったことではない。
 金儲けは、生きていくための手段に過ぎない。生きる目的ではない。
 生産は、必要に基づいて為されるべきであり、必要以上に生産することは、資源の浪費や乱開発に結びつく危険性がある。
 生きるための活動は、人生に通じる。それが人間である。
 いかに生きるべきか、それを考えるのが人間だからである。

 使い道も考えずに、物を作ったり、金を稼いでも意味はない。
 それでは、物があるから使うのであり、金があるから使うという事になる。本末転倒である。

 世は、使い捨て時代。
 物を大切にするなどと言えば、古い考え方と笑われてしまう。
 自分の物を大切に使い、丁寧に手入れをして、何度も何度も修繕をして,思い出や、愛情を込めて、他の物には変えがたい物にしていく。それは、どんなに高額の物よりも大事な宝物なのだ。しかし、この様な考え方は、愚かだと切り捨てられてきた。もったいないなんて貧乏くさいことなのである。しかし、それは心が貧しくなったからではないのだろうか。
 大量生産、大量消費。つまり、生産の仕方によって消費のあり方も制約を受ける。質より量の時代なのである。大量に作られた物は、ことごとく消費されるか、無駄に捨てられていく。それを効率的というのだろうか。
 使い捨てを突き詰めていくと、自分の人生をも使い捨てにする事になる。自分の肉体をも使い捨てになってしまうのである。
 本来、生産は、使う人に合わせて変化すべきものなのに、今は、物の生産に合わせて人間の生き方も変えられてしまう。
 大量生産に合わせて大量消費型の生活をしなればならなくなる。大量生産された物は、効率化されることによって均一化される。自分に合わせて改造するなどという事は、不経済な行為とされるのである。
 自分に合わせて、自分だけのもを作る。そして、自分の物を愛着を持って大切にするという考え方は、不経済だと馬鹿にされる時代なのである。
 だから、全ての物が画一的なものになってしまう。多様性は、不経済なのである。世界中の人間が同じ物を食べ、同じ仕様の服を着て、同じ形の家に住む。それが現代経済のあり方である。
 消費に合わせて生産の仕方を変えるなんて考えもしない。
 しかし、そこに現代の貧困の原因が潜んでいる。要は、精神が貧しいのである。芸術や文化は、育たない。効率ばかりを追求して、ゆとりがないのである。心の豊かさがないのである。
 本来、生産技術が成熟すれば、大量生産、大量消費から多品種少量生産、個性的消費へと移行するはずである。ところが、現代社会では、何でもかんでも均一にしなければ気が済まない。だから、標準化、平準化ばかりを追求する。それは、社会主義も資本主義も変わらない。
 何でもかんでも同じにすることそれが平等だと思い込んでいる。同等と平等とは違うのである。

 人はパンのみに生きているわけではない。どのように生きていくかは、何をどのように消費するかに関わっている。消費の仕方が経済のあり方を規制するからである。
 ところが、現代人は、経済を金儲けや生産だと思い込んでいる節がある。生産は、手段である。消費は目的である。
 現代経済の不毛さは、目的を明らかにしないままに、手段のみを追求している事から生じる。

 食べるという事は、他の生き物を犠牲にする事を意味している。飽食は、他の生き物を無駄に殺すことを意味するのである。
 だからこそ、我々の祖父母は、神に祈りながら食事をしたのである。

 消費を考えることは、信仰に通じる。そして、消費は人生に通じるのである。

 生まれて、学び、働いて、結婚し、家を建て、子供を産んで、育て、そして、病み、老いて,死んでいく。その一つ一つが消費である。その一つ一つが経済である。生きるための活動なのである。その一つ一つの人生が重なり合って一つの国の経済を成り立たせている。
 消費を考えることは、人生を考えることなのである。

 生産だけが経済ではない。消費も又、経済である。消費の基礎は分配にある。
 即ち、消費には限界があり、その限界を決めるのが所得である。所得は分配である。所得を決めるのは、労働であるのが基本である。

 経済というのは、いかに差をつけるかにある。
 所得差や価格差が経済を動かす原動力の源になるのである。故に、差をつけることが悪いのではない。差が固体化し、それが階級格差となることが問題なのである。また、差が拡大しすぎて社会の枠組みを破壊することが問題になるのである。

 経済は組み合わせで決まる。

 分配は、制約と限界、個人の持ち分と必要性、嗜好、そして、組み合わせで決まる。
 制約は、生産に関わる制約、流通に関わる制約、消費に関わる制約、財の物理的な性質に関わる制約、金銭的制約等がある。制約とは、前提条件である。特に、物理的制約は、保存性(鮮度)、或いは、外形や重量等に関わる制約などがある。
 経済的資源は、有限なのである。有限であるから、必然的に限界がある。限界は、制約を生む。そして、有限である以上、範囲が問題となる。例えば、生産の限界であり、財政の限界であり、物流の限界である。
 制約と限界の違いは、制約は、前提条件を意味し、限界は範囲を特定する。
 持ち分とは、所得である。所得差は、分配の基底を制約する。
 生活水準は、取り分を基礎にして決まる。
 生活水準は、所得格差によって生じる。所得格差は、所得を均一にしても生じる。所得を均一にしても物理的な差を解消することはできないかである。
 生活水準は、支出の配分によって決まる。配分とは比率である。所得は、支出の配分を制約する。所得の範囲が支出の限界を制約する。

 経済とは、生きるための活動である。つい最近まで、生きるために必要となる資源の何割かは自家製であり、市場から調達しないでも生産することが可能であった。貨幣経済、市場経済が浸透した今日では、生活に必要な物資の殆どを市場から調達しなければならないような仕組みになっている。

 また、基本的に生産手段の私的所有権を認めていない社会主義国では、自家製の物資は存在しないことになる。資源の配分は、公的機関によって為される。

 景気の動向は、貨幣の流通量と財の流通量によって左右される。

 個々人の持ち分は、所得と貯蓄によって決められる。
 貨幣経済というのは、所得によって個人の持ち分を制限する制度と言っていい。即ち、所得がその人の生活水準を確定するのである。むろん、持ち分の中には、過去からの蓄積も含まれるから、所得だけに限定するわけにはいかない。ただ、基本的に、蓄積された持ち分は、住宅投資のような長期的な支出や病気や災害、結婚,出産と言った突発的、或いは、臨時の支出に備えて蓄えたものであり、その時点その時点の所得が日々の生活に必要な資源を調達するための持ち分と考えるのが妥当である。

 持ち分は、所得という形式によって金銭で分配され、必要に応じて財と取引によって変換される。

 経済を構成する人的主体は、その働きによって、生産者(労働者)、消費者の二つの側面を持つ。

 持ち分と資源の量によって市場の動向、即ち、景気の動向は決まる。言い換えると通貨の流量と財の流量が市場の制約,および、限界となる。
 一つの市場に流通する通貨は原則的に一様である。それに対して、財は、多種多様である。故に、個々人が調達する財は、個々人の必要性と嗜好に基づいて組み合わされる。

 財の配分は、消費者の必要性と嗜好によって決まる。

 財の性質は、一様ではなく、多種多様である。
 財の組み合わせによって消費の傾向は決まる。財の組み合わせは、個々人、固有であり、人それぞれの嗜好に左右される。
 財には、使用目的や物理的性格に依って多様な性質があり、その性質が個々の財の市場のあり方を制約している。
 生鮮食品は、鮮度によって市場の特性は制約される。石油のように保存がきく資源は、その特性によって市場は制約される。そして、その財の性格に依って市場の取引は、性格づけられる。財の取引は一様ではない。
 故に、取引のあり方や競争のあり方も財各々違いが生じる。何でもかんでも規制を一律にして、競争をさせれば経済は安定するというのは乱暴、野蛮な発想である。

 最終的には,資金の問題な還元される。即ち、事業が継承できるか否かは、支払い力の問題になり、資金の調達力が問題となる。貨幣経済では、資金が決済できなくなれば、経済活動は破綻するのである。金が続くかぎり、つまり、資金繰りがつくかぎり、事業は継承されていくのである。
 資金の調達は、企業では、収益と借入や増資である。つまり、収益力と担保力の問題に還元される。収益がたりない時は、借入金や資本金によって補う。
 財政では、資金の供給力の問題である。通貨の流通量と財の流通量,および、担税力が制約となる。資金の供給量は、税収と借入金、事業収益による。
 家計では、所得と貯蓄,財産である。

 経営分析の手法は数多くあるのに、財政分析の手法は殆どない。それは、期間損益主義が財政に導入されていないからである。
 会計士が、政策に立案に参加しないことが現代の財政を象徴している。







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