経済を動かす力パート2


 人は、借金と費用を悪者扱いするが、借金と費用によって経済は成り立っているのである。借金や費用の対極には、投資と所得がある。借金と費用を全て削減したら、投資や所得がなくなり。結果的に、通貨は流れなくなり、貨幣経済は成り立たなくなるのである。

 エネルギーは、歪みによってもたらされる。経済を動かす力も歪みによってもたらされる。歪みは、差である。
 競争は、現象であってエネルギー源ではない。働きが現れた結果である。
 競争を煽りすぎるとかえって競争の原理が働かなくなる事もある。重要なのは、競争の作用をどのようにどこに働かせるかであって競争をさせる事ではない。
 歪みは、差によって生じる。差は、正との働き、即ち、プラスの働きと負の働き、即ち、マイナスのはたきの均衡として認識される。
 お金にもプラスの働きとマイナスの働きがある。プラスの働きから資産が生まれ、マイナスの働きから負債が生じる。
 歪みを是正しようする力と歪みを維持しようとする力の働きによって景気は動かされるのである。投資は、市場に歪みを生み出す。
 投資によって生じた歪みによって資産と負債が生じるのである。この歪みを是正しようとする力と歪みを維持しようとする力が通貨を流通させる力の根源となるのである。
 経済を動かすのは、投資と借金である。借金がなくなると景気は、失速する。ただ、負債は、マイナスの力である。負債はマイナスの力が働いているという事を念頭に置いておく必要がある。マイナスの力を否定的に捉えるのではなく。マイナスの力から人類にとって有効な働きを引き出すかを考えるべきなのである。
 火を人類が上手に活用したようにである。
 お金は、人間にとってプラスにもマイナスにも作用するのである。

 貨幣経済を動かす力は差から生まれる。差は比と組み合わせて考えないと理解できない。比の働きは、分母と分子の構成に隠されている。分母と分子の働きの構成は、分母、分子の基礎となる足し算を見れば解る。足し算を構成する個々の要素は、かけ算によって成立している。このように貨幣経済の大本には、四則の演算が隠されている。故に、貨幣経済の本質は数学なのである。
 貸借では、負債は、マイナス要因と見なされるが、現金収支では、負債は、収入の一種なのである。しかも、損益上はいいくら借金をしても計上されない。逆に、いくら借金を返済しても損益上には、表されない。
 しかし、実際に経営主体の活力は、現金である。極端に話し、借金しようが、だまそうが、収入があれば、あるいは、支払いで言えば、借金を踏み倒してでも、お金、現金の残高さえ確保されれば、経営は維持できるのである。ただ、支払いで言えば、不渡り手形を出したらお終いである。そこに、債務の怖さがある。

 負債や資産は、長期の資金の動きであり、短期的には、負債や資産の動きは、表面に現れてこない。
 負債や資産のような長期的な資金の働きは、損益の表面には現れてこない。損益の表面に現れてくるのは、短期的な働きである。しかし、短期的な働きは、現金収支に直結している。ゆえに、損益の表面には現れてこないが、実際は、深刻な働きをしているのである。

 経済の負の部分を担っているのが金融である。金融は、損益の部分では、貸借の部分で働いている。金融は、費用や収益の部分に直接的に作用するのではなく、資産や負債、資本を介して間接的に費用や収益に作用しているのである。
 故に、金融の働きは、財政収支、家計収支、経営収支、経常収支の対極に現れて財政収支、家計収支、経営収支、経常収支を均衡させているのである。

 規制緩和の意味が私には理解できない。
 規制緩和というのは、規制をなくすことを意味するのか。規制を少なくすることを意味するのか。規制を限定的なものにするのか。規制を緩やかなものにするのか。規制を時代の変化や市場の状況に適合するものに改定するのか。そのとらえ方によって全く意味や次元が違ってくる。
 規制のない競争というのはあり得るのかである。規制はルールの一種である。競争は、ルールがあって成り立つ。ルールのないければ、それは競争ではなく闘争である。規制を取り払ったら戦場しか残らない。しかも、子供も、若者も、大人も、年寄りもまるで無差別に争うような状況になる。その上、武装した兵士や戦車に素手で素人が向かっていくような状況にもなりかねない。それはもう殺戮である。平等や公平という意味すら虚しく響く。子供や年寄りが若者の対等に争うことを公平、平等というのであろうか。
 規制のない競争というのはあり得るのかである。ルールは規制の一種である。競争は、ルールがあって成り立つ。ルールのないければ、それは競争ではなく闘争である。規制を取り払ったら戦場しか残らない。しかも、子供も、若者も、大人も、年寄りもまるで無差別に争うような状況になる。その上、武装した兵士や戦車に素手で素人が向かっていくような状況にもなりかねない。それはもう殺戮である。平等や公平という意味すら虚しく響く。子供や年寄りが若者の対等に争うことを公平、平等というのであろうか。
 いったいどのような世界を思い描いて、競争を煽り、規制をなくそうとしているのか。効率と言うが、何をもって効率というのか。物を大切に使い節約をすることを効率というのか。それとも、使い捨てを奨励して大量消費を促すことを効率というのか。その点も明らかにしないでひたすらに効率効率と叫んだところで、虚しい。
 根本になければならないのは、どのような国を、どのような社会を作ろうとしているのかの構想である。しかも、その構想は、人々の幸福に結びついたものでなければ意味がないのである。

 同様に、保護主義の意味も不明である。保護主義と言うが、何から何を保護するのかが、判然としていない。
 これまでの保護主義は、関税障壁によって自国の産業をただ守ろうとしているのに過ぎない。結果的に、市場や生活を破綻させてしまった。結局国民の生活を保護している事に結びつかないのである。
 本来の保護は、制度的な歪みから市場を保護することである。

 競争、競争と言うが何によって競争させようというのか。ただ価格のみの競争が不毛であるのは明らかである。又、価格の持つ働きは、競争によってのみ発揮されるものではない。競争によってかえって価格の持つ働きが阻害されることもあるのである。価格の働きは、相対的なものであり、環境や状況、前提によって変化するのである。

 収入と支出を一定の期間の中で短期的働きと長期的働きに区分したのが期間損益である。そして、収入は、収益と資本と借入によって構成され、支出は、費用と投資によって構成されていると考えれば収支と損益の関係が見えてくる。
 利益は、指標である。
 利益が増えれば、借入が減る。その分、資本の比率が高くなる。それに対し、マイナス利益、即ち、損失が出れば、借入が増えて資本の比率が低下する。
 この事は、財政も家計も同じである。しかし、財政も家計も現金主義であるために、収支と損益の関係が見えてこない。そして、現金主義による単年度均衡主義を採っているために、現金収支が全てになる。

 財政問題は、制度の整合性をとって期間損益主義の観点から見直さないと分析はできない。

 財政を期間損益に置き換える場合、民間企業と同じように考える事はできない。なぜならば、民間企業は、常に反対給付を前提とする事になるが、財政の場合、反対給付を前提とできない部分が含まれるからである。
 財政では、収入を税収と、借入金、事業収入に分けて考える事ができる。要は、比率の問題なのである。総支出に対して税収と事業収入が減れば、借入金は増加する。税収を増やす余地がなければ、事業収入を計る必要がある。支出も反対給付を期待できる支出と反対給付が期待できない支出、そして、投資とに分けて考えるべきなのである。
 反対給付が期待できない支出は、軍事と治安、助成金や給付金である。それに対して投資は、社会資本以外に社会保険がある。

 経済には、二種類の専門家がいる。一つは、経済学者である。もう一つは、会計や税務、経営学と言った実務の専門家である。経済学者は、経営の実務家は、経済を判っていないと頭から馬鹿にしている。経済の現場にいる者は、経済学は役に立たないと相手にしていない。だから、経済の本質は解明できないのである





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