経済を動かす力は差にある。


 エネルギーは、歪みによってもたらされる。経済を動かす力も歪みによってもたらされる。歪みは、差である。
 競争は、現象であってエネルギー源ではない。働きが現れた結果である。
 競争を煽りすぎるとかえって競争の原理が働かなくなる事もある。重要なのは、競争の作用をどのようにどこに働かせるかであって競争をさせる事ではない。
 歪みは、差によって生じる。差は、正との働き、即ち、プラスの働きと負の働き、即ち、マイナスのはたきの均衡として認識される。
 お金にもプラスの働きとマイナスの働きがある。プラスの働きから資産が生まれ、マイナスの働きから負債が生じる。
 歪みを是正しようする力と歪みを維持しようとする力の働きによって景気は動かされるのである。投資は、市場に歪みを生み出す。
 投資によって生じた歪みによって資産と負債が生じるのである。この歪みを是正しようとする力と歪みを維持しようとする力が通貨を流通させる力の根源となるのである。
 経済を動かすのは、投資と借金である。借金がなくなると景気は、失速する。ただ、負債は、マイナスの力である。負債はマイナスの力が働いているという事を念頭に置いておく必要がある。マイナスの力を否定的に捉えるのではなく。マイナスの力から人類にとって有効な働きを引き出すかを考えるべきなのである。
 火を人類が上手に活用したようにである。
 お金は、人間にとってプラスにもマイナスにも作用するのである。

 貨幣経済を動かす力は差から生まれる。差は比と組み合わせて考えないと理解できない。比の働きは、分母と分子の構成に隠されている。分母と分子の働きの構成は、分母、分子の基礎となる足し算を見れば解る。足し算を構成する個々の要素は、かけ算によって成立している。このように貨幣経済の大本には、四則の演算が隠されている。故に、貨幣経済の本質は数学なのである。
 貸借では、負債は、マイナス要因と見なされるが、現金収支では、負債は、収入の一種なのである。しかも、損益上はいいくら借金をしても計上されない。逆に、いくら借金を返済しても損益上には、表されない。
 しかし、実際に経営主体の活力は、現金である。極端に話し、借金しようが、だまそうが、収入があれば、あるいは、支払いで言えば、借金を踏み倒してでも、お金、現金の残高さえ確保されれば、経営は維持できるのである。ただ、支払いで言えば、不渡り手形を出したらお終いである。そこに、債務の怖さがある。

 負債や資産は、長期の資金の動きであり、短期的には、負債や資産の動きは、表面に現れてこない。
 負債や資産のような長期的な資金の働きは、損益の表面には現れてこない。損益の表面に現れてくるのは、短期的な働きである。しかし、短期的な働きは、現金収支に直結している。ゆえに、損益の表面には現れてこないが、実際は、深刻な働きをしているのである。

 ある意味で、資産は、二重の構造の上に成立しているといえる。一つは、貸借と損益、もう一つは、負債と資産である。この二つの構造による作用が経済現象を抑制し、又、複雑にもしているのである。

 経済の負の部分を担っているのが金融である。金融は、損益の部分では、貸借の部分で働いている。金融は、費用や収益の部分に直接的に作用するのではなく、資産や負債、資本を介して間接的に費用や収益に作用しているのである。
 故に、金融の働きは、財政収支、家計収支、経営収支、経常収支の対極に現れて財政収支、家計収支、経営収支、経常収支を均衡させているのである。

 人生設計において、住宅ローンのような負債は、重要な意味を持っている。これは、定収を前提としているからである。だから、収入を一定に確定する必要がある。

 不動産会社の経営に如実に表れる。
 資産価値が上昇すれば初期投資も増大する。それは、短期的にみれば、家賃に反映されるのである。新設物件は、初期投資が増加する分、家賃も高く設定せざるを得なくなる。そうすると、中古物件にもそれなりの競争力が持てる。設備や建物が老朽化した分、家賃を安く設定できるのである。しかし、時間価値が換算されなければ、このような市場は成り立たなくなる。

 時間的な差がなくなれば、初期投資の差はなくなる。そうなると費用である償却費にも差がなくなる。当然、家賃の格差もなくなる。残されたのは、設備やデザインの差である。こうなると新築物件には、中古物件は競争力がなくなる。不動産などと言う長期的に償却を行う産業では、時間差が消滅する事は、重大な障害になる。このことは、差によって成り立っている産業を壊滅的に破壊する事になる。
 原則的に、支出を上回る収入を確保することが求められる。原則的とするのは、貯蓄があるからである。即ち、収入が不足したら、貯蓄を取り崩して不足分を補うことが可能だからである。ただ、貯蓄もなくなったら、経済は破綻する。これは、家計も企業も財政も同じである。ただ、財政は、貨幣の発行権、紙幣だと発券権を持つ。
 収入は、収益と借金によって賄われる。
 資本は、ある時払いの催促なしの借金と変わりない。

 キャピタルゲインには、収益を補完する作用がある。
 赤字の際は、含み益を表に出して赤字を埋め、黒字の時は、含み損を表に出して資金の流出を防ぐ。それが金融資産を持つ動機である。黒字の時に、金融資産を使って営業外収益を出してもその分、課税されるのでは意味がないし、利益分は、資本に組み込まれるか負債の返済に充てられるために、無理をしてまで金融資産を処分しようという動機にはならない。

 財政と企業会計の間には、制度的な断裂がある。

 制度的な断裂が、現金主義と期間損益主義の分離を招いている。それが、現代の市場経済を狂わせているのである。
 現金主義と損益主義は、相互に独立して存在するものではなく、相互補完的なものである。ところが、現金主義である財政や家計と期間損益主義である企業会計とが制度的に断裂していることによって現金主義と損益主義が分裂し、あるいは対立関係に陥っている。それが、経済に重大な齟齬をきたす原因となっているのである。

 良い例が、利益を否定する考え方である。公的機関は、単年度単年度で収支を均衡することを建前とし、前決めした予算を使い切らなければならないことになる。つまり、利益を卑しい事として否定しているのである。そのために、民間企業と公共機関は、全く違う論理、倫理観で行動する事になってしまう。
 早い話、公共機関も税収ばかりに頼るのでは、儲けを考えるべきなのである。反対給付を前提としない労働は、労働の成果と所得が結びつかない。それは、消費によって生産を制御するという仕組みを構築する事ができなくなる。そうなると、生産は、生産。消費は消費として脈絡がないままに、バラバラに動く事になる。

 制度的断裂を明確に現れているのは決算主義と予算主義である。決算主義は、結果主義であり、実績主義である。予算主義は、前決め主義であり、法定主義である。
 そして、現金収支に基づく単年度均衡主義と利益に基づく長期均衡主義の違いである。

 規制緩和の意味が私には理解できない。
 規制緩和というのは、全ての規制を撤廃しろというのか、それとも、規制の数を減らせというのか、あるいは、規制を時代や環境の変化に合わせて変更しろというのか、判然としていない。極端な規制緩和論者のいう事は、規制は邪悪のものであり何が何でもなくしてしまえと言っているようにも聞こえる。しかし、それは、無政府主義であって真の規制緩和とは違う。また、何の意味もなく、規制が多すぎるという理由だけで、規制の数を減らせというのは理不尽である。
 同様に、保護主義の意味も不明である。保護主義と言うが、何から何を保護するのかが、判然としていない。
 これまでの保護主義は、関税障壁によって自国の産業をただ守ろうとしているのに過ぎない。結果的に、市場や生活を破綻させてしまった。結局国民の生活を保護している事に結びつかないのである。
 本来の保護は、制度的な歪みから市場を保護することである。

 財政問題は、制度の整合性をとって期間損益主義の観点から見直さないと分析はできない。

 収入と支出を一定の期間の中で短期的働きと長期的働きに区分したのが期間損益である。そして、収入は、収益と資本と借入によって構成され、支出は、費用と投資によって構成されていると考えれば収支と損益の関係が見えてくる。
 利益は、指標である。
 利益が増えれば、借入が減る。その分、資本の比率が高くなる。それに対し、マイナス利益、即ち、損失が出れば、借入が増えて資本の比率が低下する。
 この事は、財政も家計も同じである。しかし、財政も家計も現金主義であるために、収支と損益の関係が見えてこない。そして、現金主義による単年度均衡主義を採っているために、現金収支が全てになる。
 財政を期間損益に置き換える場合、民間企業と同じように考える事はできない。なぜならば、民間企業は、常に反対給付を前提とする事になるが、財政の場合、反対給付を前提とできない部分が含まれるからである。
 財政では、収入を税収と、借入金、事業収入に分けて考える事ができる。要は、比率の問題なのである。総支出に対して税収と事業収入が減れば、借入金は増加する。税収を増やす余地がなければ、事業収入を計る必要がある。支出も反対給付を期待できる支出と反対給付が期待できない支出、そして、投資とに分けて考えるべきなのである。
 反対給付が期待できない支出は、軍事と治安、助成金や給付金である。それに対して投資は、社会資本以外に社会保険がある。

 財政政策というのは、都市計画のようなもである。どのような社会、どのような国にするのかの明確な構想がなければ、上手く機能しない。

 経済には、二種類の専門家がいる。一つは、経済学者である。もう一つは、会計や税務、経営学と言った実務の専門家である。経済学者は、経営の実務家は、経済を判っていないと頭から馬鹿にしている。経済の現場にいる者は、経済学は役に立たないと相手にしていない。だから、経済の本質は解明できないのである。








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