景気の根本は収益にある




 収入と収益は、違う。収入というのは、現金の受け入れをいう。支出は、現金の支払いをいう。それに対して、収益というのは、何らかの財を提供することに対する対価を指していう。そして、一定期間における経済活動を、収益を基にして評価する思想を期間損益主義というのである。
 企業経営は、損益主義を基にしてなされる。なぜ、期間損益主義に基づくのかというと、基礎となる資金の源、すなわち、負債と資本と、期間収益(経営活動の基となる資金)を区分し、その上で、資産価値(負債と資本の実質的水準)と、費用(期間の収益の基となるの効用)を収益を土台にして測るためである。その指標が利益である。
 利益が上がっている場合は、収益と費用の効果が均衡していることを意味し、損失が出ている時は、収益と費用の均衡が崩れていることを意味する。収益と費用の均衡が崩れると負債と資本の合計、すなわち、総資本が増大することになる。
 利益は、指標である。利益が上がらず、損失が出るのは良くないが、過剰に利益を上げるのもいいことではない。重要なのは、均衡なのである。
 財政や家計の問題点は、利益を否定的にとらえていることである。それ故に、公共機関や家計と市場とは、制度的に断絶が生じるのである。

 期間損益主義において基礎となるのは、収益である。
 この点を錯覚してはならない。負債と資本は、基底となる部分だという事である。
 期間損益を見る上でのキーワードは、償却と再投資、負債、資本である。
 負債、資本、収益によって調達された現金は、一旦、金融資産に蓄えられ、そこから支払いに向けられる。資金の支払いによって資産と費用が形成される。
 負債や資本というのは、債務を形成し、資産は、債権を形成する。
 債権は、債務の裏付けとなる物である。資金の長期的働きを示している。注意しなければならないのは、債権と債務は非対称な動きをするという事である。そして、債権と債務のバランスによって資金の流れる方向が決まるという事である。
 企業経営で基礎となるのは、あくまでも収益である。
 資産は、金融資産、償却資産、非償却資産からなる。
 多くの人は、負債と借金とを混同し、借金は、返さなければならないという先入観に囚われている。しかし、期間損益では、負債は必ずしも返済を前提としているとは限らない。その証拠に、金融機関の収益は金利を基としているのであり、元本を基としているわけではない。また、企業の側では、費用は金利を指すのであり、元本の返済は、費用として計上されない。この点が。現金主義との決定的な差である。
 この事は、期間損益上、負債は、必ずしも返済を前提としているわけではないことを意味する。それは、資本の有り様に現れている。資本は負債と同じ債務の一種である。しかし、資本は、返済を前提としていない。配当と金利の働きの本質は、同じである。金利も配当も時間価値を形成する因子である。

 時間価値は、通貨の流通量を制御する。時間価値が生じることによって時間差が派生し、時間差には資金の流れを促進する働きがあるのである。
 金利や配当の効用は時間価値にあるのである。ただ、配当は利益を基礎としているのに対して、金利は、元本を基礎としているのである。元が入り口にあるか、出口にあるかの差である。極論とすると負債も資本も返済する義務はがあるが、返済しなければならない資金ではないという事である。元手なのである。
 金融機関にしてみると借金を返された金利の元を失うことになる。要は、借金の水準を一定に保ちながら、費用に見合った収益を上げ続けているのが最適なのである。
 重要なことは、負債や資本の名目的価値を一定の水準に保つことである。そのために、利益を上げる必要があるのである。利益が失われると負債が増加する。そのように、企業損益のみならず財政も、家計も、期間損益は設定すべきである。
 ある意味で期間損益、その基となる会計や簿記の仕組みは、負債や資本の水準を一定に保つための仕組みだともいえる。借金は、単純になくせばいいというものではないのである。借金も資本も元手という働きがあるのである。借金は返済しなければならないというのは、現金主義に基づく思想である。資本主義社会では、財政も家計も企業も期間損益主義に基づくべきであり、問題となるのは、負債が制御できなくなり、累増してしまうような仕組み(構造)なのである。
 償却資産は、費用として計上されるのは償却資産は、再投資を前提としているからである。償却費を設定するのは、費用対効果を釣り合わせるためである。
 非償却資産の返済原資は、利益を上げることによって蓄積するか、資産価値の上昇によって補うことになる。
 問題は、費用に見合った収益を国も企業も家計も上げられるかなのである。その構造に変化があった時、収益が上げられるような方策をとるべきなのに資金の回収を急げば、経済構造は土台から崩壊してしまうのである。

 適正な収益は、適正な費用を元とする必要がある。収益は、一方で価格の集合である。つまり、適正な収益とは、適正な価格を維持することを意味する。
 適正な収益を維持することの意義は、適正な費用を確保することになる。費用は、最終的には、個人所得に還元される。個人所得は、消費の源泉である。価格と所得が均衡した時、市場は、有効に機能するのである。価格の均衡が崩れたり、所得の変更が生じると経済は、暴走するのである。

 価格は、物価を形成する。物価とは、物の価格の平均値である。しかし、価格は、一律に上昇するわけでもなく、下がるわけではない。価格は、個々の商品固有の値である。物価を構成する価格は、全てが同一の動きをするわけではない。また、地域的にも違う。価格は、市場取引によって定まる値である。市場取引は、市場の置かれている前提、すなわち、状況や環境によって違うのである。市場価格は、時々刻々変化し続けている。
 物価を形成するのは、状況や環境だけでなく、価値観や風俗習慣といった市場を構成する文化的要素、社会的下地、基盤によっても違ってくる。物価は、その地域地域固有の条件や地理的特性、生活様式、生活水準、宗教によっても違うのである。

 経済的基盤、社会的基盤が収入に波を起こす。この波を平準化する役割、整流機関が金融機関である。金融機関は、長期的な観点に立って資金の流れを整流する必要がある。

 投資は、収益に転換されないと利益にはならない。利益は、資本に転換されないと資産や負債に転換されない。

 投資は、投資元では資産に還元され、投資先では、収益に還元される。収益は、費用になり、費用は、収益と個人所得に還元される。費用は、段階的に個人所得に還元されていく。

 投資の原資となる資金は、負債と資本によって調達される。
 投資された資金は、投資先では収益に計上される。収益は、費用に還元される。費用は、他の経営主体の収益と個人所得に還元される。
 期間利益は、政府、経営者、出資者に分配された後、資本化され全て投資される。投資された資本は資産となる。
 利益が計上されることで負債が圧縮され、資産への再投資が可能となる。また、税として公的部分に収益の残高を公的部分の収入に還元し、公的部分の負債を圧縮する。配当として投資家に還元することで新たな投資を促し、資本を充実させる。利益は、指標であると同時に以上の働きがある。
 すなわち、負債・資本から資産に転換され、資産から収益に転化され、収益から費用に転化され、収益の残高が利益となり、利益は資本に転化することによって負債を圧縮するか、再投資の原資となるこれらの一連の働きによって資金と生産財とを循環させるのが貨幣経済の仕組みなのである。そして、貨幣経済の文法が会計制度なのである。

 利益は、第一に、負債の返済と再投資といった経営資源に振り分けられ、第二に、税として公的部分に振り分けられ、第三に、配当として投資家へ振り分けられ、第四に、長期借入金の返済として金融機関へ振り分けられ、第五に、報酬として経営者に振り分けられる。この分配の比率が経済に対して重要な働きをする。

 税は、国家の収入となり、国債の返済の原資となる。ただ、財政は、現金主義であるために、収益に転換することができず資産、負債、費用への振り分けがされない。

 公共投資は、一旦取引によって収益に返還される。公共投資の原資は、借入と税収である。ただ、財政は、現金主義であるために、収入側における負債と資本、収益の仕分け、支出側における資産と費用の仕分けはされていない。
 取引によって収益に変換された後、一部は、費用として放出され、費用を差し引いた残高は、利益として計上される。利益として計上された部分は、配当と税と報酬に分配され、分配された後の残高は、負債の元本の返済の為、および、再投資の為の原資とされる。
 費用は、収益と個人所得に振り分けられる。

 現金主義の最大の問題点は、投資と費用、そして、負債、資本と収益の区分が判然としていない。それを補完する形で期間損益主義が発達してきたのである。現金主義に則る財政と家計は、未だに、投資と費用、そして、負債、資本と収益の区分が曖昧なままなのである。その結果、資金の長期的働きと短期的働きによる効果の測定が難しく、対処の仕方が明らかにできない。
 負の経済では、負の制御が鍵を握っている。負債の水準をどの程度に保つかが、財政、家計、企業、交易において重要な意味を持つのである。
 そして、負の制御において決定的な働きをするのが時間である。
 問題なのは、投資と費用、そして、負債、資本と収益との間にある境界である。その境界に属しているのが、償却費であり、長期負債元本の返済なのである。
 負の経済では、負債は、貨幣の供給量の目安である。要は、負債を一定の水準に保てるか否かの問題なのである。

 今の市場経済では、生産の効率のみが追求されている。
 しかし、効率性は、生産の効率性ばかりを追求すればいいというわけではない。効率を計らなければならない要素には、生産だけでなく、分配や消費の効率もある。
 例えば、所得である。所得には、費用という局面、報酬という局面、生活費という局面がある。そして、それぞれの要素の働きの方向は、必ずしも一定方向を向いているわけではない。
 所得における費用という側面は、収益と結びついてて生産に関係している。報酬は、労働と結びついて分配と関連づけられる。生活費は、支出と通じて消費に転化される。

 生産の効率は、費用をいかに抑制するかにかかっている。そのためには、設備の稼働率を上げたり、作業の標準化や人件費の平準化をいかにするかが、鍵になる。それが大量生産、機械化に繋がるのである。

 百人で一億円の利益を上げる企業と千人で一億円の利益を上げる企業とでは、どちらが効率が上かというと生産性という観点からすれば前者であろう。しかし、分配という観点からすれば後者である。経済性というのは、単純に、生産性という観点から飲みとらえるのは間違いである。
 分配の効率というのは、いかに、多くの者に効率よく、所得を分配するか、また、財との交換を促すかの問題である。流動性の問題でもある。
 所得の分配は、財や通貨の循環にかかわる問題でもある。一律平等に配ればいいというわけではない。かといって格差が広がりすぎれば、労働効率の低下を招く。所得の分配には、自己実現、すなわち、労働に対する評価の問題でもあるのである。

 消費の効率化は、生活に関わる問題でもある。生産と消費は、需要と供給、収入と支出の問題でもある。
 消費という観点から経済性を考えると、倹約、節約という点が核心となる。すなわち、消費の効率からみると、いかに、少ない資源を効率よく使用するかという事にある。また、品質の問題でもある。
 いい物を長く大切に使うという事が、消費の効率を高めることになる。そうなると、高品質、高価格でも成り立つことになる。単純に廉価、標準だけが効率の指標ではない。使い捨ては必ずしも消費の効率を高めることにはならない。
 大量消費は、大量生産の効率を高める事に対する要求による。必ずしも消費の効率を良くする目的ではない。消費の効率を高めるためには、むしろ、多品種少量生産の方が、資源や環境保全という観点から見ると消費の効率を高めることになる。

 このように、生産の効率、分配の効率、消費の効率は、同じ方向を向いているわけではない。
 そして、生産、所得、消費の効率の不均衡が、通貨を循環させるための原動力となるのである。






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