経済は、生きる為の活動である。生活である。



 経済を金勘定だと思ったら経済の本質を見失うこととなる。経済は、生きる為の活動である。生活である。経済の根本は、金の関係ではなく、人間関係であり、人と物との関係である。
 貨幣価値は、自然数の集合である。しかし、その自然数の集合である貨幣価値を成り立たせているのは、人間の日々の営みなのである。その日々の営みが経済から失われたら経済は本質をも失うのである。貨幣価値が、経済の実体ではない。経済とは、人々の生き様や日々の営みを言うのである。
 経済について考える事とは、即ち、人生や生活について考えることなのである。故に、経済とは、哲学であり、思想なのである。

 金儲けは、手段であって目的ではない。金を儲けるのは、生活をするためである。金のために、生活が破綻したのでは本末転倒である。ところが現代の経済では、金儲けを目的化しているようにさえ見える。経済の本質には、人間の尊厳がある事を忘れてはならない。人間らしく生きる。それをなくしたら人間の経済など土台から崩れ去ってしまう。ところが、今の経済は金に纏わる問題しか扱わない。だから、経済の問題は解決できないのである。ハイパーインフレ下でも、大恐慌下でも、戦時下、大災害後でも人々の日々の営みは欠かすことなく継続されたのである。
 その点から言うと経済破綻というのは、本来、物理的に生存活動、生活が成り立たなくなる状態、即ち、旱魃や飢饉、戦争を指して言うのである。

 雇用を生み出すのは、収益だと言う事を忘れてはならない。
 消費の元は所得である。所得は、雇用があって維持される。そして、所得は、収益の中から配分されるのである。

 日本は、景気対策や災害対策を言う時、資金の投下量を問題とする。しかし、景気対策にせよ、災害対策にせよ、供給する資金の量より、いかに資金を循環、回転させるかの方が、重要なのである。
 通貨量は、供給量と回転数の積で決まる。景気対策や災害対策においては、供給量よりも回転数を高める事を考えるべきなのである。そうしないと財政負担が過大になる。
 砂漠に水を撒くようにただ金をバラ撒く様な政策は、資金の回転を生まない。景気対策や災害対策としては、大した効果が期待できない。
 逆に、効率的に資金が循環するような仕組みが予め出来ていれば、比較的少ない資金で効果的な対策が打てるものである。大切なのは、一時的な所得ではなく。安定した所得をどれくらいの期間継続的に支給できる体制や仕組みを作り出せるかなのである。

 資金は、回転することで効用を発揮する。逆に、回転が止まったり、停滞したりすると市場に重大な損傷を与えてしまうことがある。

 資金で問題となるのは、量と言うよりも、必要なところに必要なだけの資金が廻らないのが問題なのである。

 金融政策ばかりに比重を置くから貨幣の供給量ばかりが増えて肝腎の回転数が上がらないのである。言い替えると、円滑に市場に貨幣が流れなくなるのである。貨幣が流れる道は収益である。安定的な収益を維持することによってのみ、資金の流れる道は確保されるのである。収益が圧迫されるのは、収益の流れる道を細くすると同時に、所得や雇用を不安定にするのである。

 会計上に形成された市場経済は、資産、負債、資本、収益、費用の増減運動として現れる。経済は、資産、負債、資本、収益費用の均衡と相互牽制が鍵を握っている。資産、負債、資本、収益、費用の均衡が破れ、相互牽制の働きが利かなくなると市場の規律は失われ、経済は、抑制が出来なくなる。

 財政で問題なのは、収入と支出という概念しかなく、収益や費用、資産、負債とと言う概念がないことである。つまり、経済の動きを資産、負債、資本、収益、費用の増減運動として捉えられないのである。必然的に利益という思想もない。だから国家的事業は、儲からないのである。期間損益という思想も欠如している。
 公共事業では、損になる事でも平気でやる。罪悪感もない。民間事業では、損を承知でやれば詐欺になる。これは歴とした犯罪である。
 投資なのか、臨時的支出なのか、それとも恒常的な支出なのか判別がつかない。つまり、資金の時間的働きに対する認識がない。
 財政現象の原因を知るためには、現金の出納だけでなく、その現金の出納の背後にある物を明らかにする必要がある。

 財政で問題なのは、会計の原理、原則となるべき部分の思想が欠落しているからである。だから、財政は、期間損益主義以前の状態に止まっているか、それで良しとしているのである。

 財政には、会計原則のような仕組みの基礎となる部分の視点が欠けている。
 確かに、財政も合目的的で、検証可能のように見える。しかし、それはあくまでも現金主義的な意味でしかない。財政的な支出がどう収入に結びつくのかという発想に基づくものではない。
 大体、貨幣価値は、絶対数として表されるのではなく。相対数として表されるものである。費用対効果、期間損益と言った一定の相対的基準がなければ、結局、絶対的な基準によるしかなくなるのである。それが単式簿記の欠点でもあり、単式簿記に依拠する現金主義の限界でもある。
 貨幣価値、経済的価値というのは、本来が相対的なものなのである。相対的なものだから相互牽制が働くのである。絶対的基準に基づいたら相互牽制の働きがきかなくなる。
 財政には、反対給付とか、対価とか、代償と言った観念が成立しにくい。それは、各人の働きと成果とを結び付けて評価する事を難しくしている。

 会計的にみて産業には、柔構造の産業と剛構造の産業がある。会計的にみた産業の硬度は、経済政策に重大な影響を及ぼす。

 利益や資本は差額勘定である。差額勘定というのは、いわば会計運動上の緩衝器、サスペンションみたいなものである。

 簿記上の取引には、交換取引、損益取引、混合取引がある。
 交換取引とは、交換取引とも言い、利益や損失の発生を伴わない取引を言う。
 損益取引とは、利益や損失に結びつく取引を言う。
 混合取引とは、交換取引と損益取引が混ざり合った取引を言う。

 ここで言う、損益との引きは、会計上で用いられる資本取引・損益取引の区分の損益取引とは違う概念である。
 会計上で言う資本取引と損益取引の区分とは、資本から生じた資本剰余金と利益から生じた利益剰余金とを明確に区分するという意味で用いられている。
 それに対して簿記上における交換取引と損益取引、混合取引とは、利益に直接結びついている取引か否かの問題である。
 交換取引、損益取引、混合取引の考え方は、期間損益の根幹に関わることであり、交換取引、損益取引、混合取引が取引の中に占める割合は、景気の状態にも直接反映する概念と言える。

 いずれにしても財政では、交換取引、損益取引、混合取引の発想はない。また、資本取引、損益取引の区分も明確でない。なぜならば、財政は、期間損益主義でなく、現金主義だからである。それが今日の財政問題と経済政策の障害になっているのである。

 税制にしても税の働きが、どの部分、資産、費用、負債、資本、収益のどの部分に、どの様な、どの程度の負荷や障害がかかるのかを計算しておかなければならない。しかし、それが、今の税制では、困難なのである。それは財政が、期間損益主義に基づいていないからである。
 例えば、法人税は、税引き前利益を課税対象としている。しかし、税引き前利益は、長期借入金の返済原資でもある。法人税が税引き前利益の働きを理解していないと長期資金の働きに過重な負荷がかかり、資金繰りに支障をきたすことになる。また基本は、収益であり、いくら補助金を出しても会計上においては、負荷は取り除けないのである。

 又、税には、反対給付や対価、代償という思想がない。この点も費用対効果を量る基準が設定されていないことを意味する。

 つまり、現在の財政の仕組みは、財政全体を抑制する働きが利きにくい仕組みなのである。
 また、財政には、最初から期間損益という思想もないのである。期間損益という発想がなければ費用対効果、利潤の追求という思想も成り立たない。資金の長期、短期の働きを明確に区分する基準も設定できない。大体、財政には、経営という思想すらないのである。
 それが財政の健全性を測る基準を曖昧にしているのである。

 ウォーレン・バフェット氏は現代アメリカを象徴している。バフェット氏は実業家として出発したが、実業がうまくいかないのを資産の運用によって乗り切った。そして、資産運用によって大成したのである。バフェット氏の実業がうまくいかなかったのは、バフェット氏に経営の才がなかったからではなく。バフェット氏の手がけた事業がアメリカでは成立しなくなってしまったからである。
 ただ、全てのアメリカ人がバフェト氏のような生き方は出来ない。
 資産を運用しようにも元手も才覚もない人が大多数なのである。だからといって彼等に幸せになる権利はないと言えるだろうか。運にも才覚にも見放されたと言って幸せになれないと言うのは間違っている。真面目に、地道な努力をした者が報われない社会の仕組みの方がおかしいのである。




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