貨幣の働き


 財の働きは直線的な働きであるのに対し、貨幣の働きは、循環的な働きである。財と貨幣の働きの差は、取引における財と貨幣の運動の差としても現れる。財の運動は、個々の取引において完結するが、貨幣の働きは、次の取引に対して連鎖的に影響する。それは貨幣が交換の手段であることに起因する。
 故に、財の働きは単一方向のものなのに対して、貨幣の働きは、二方向の働きとなる。即ち、売りと買い、貸しと借り、入りと出と言うように必ず一つの方向の働きには、反対方向の同量の働きがある。その結果、働きの総和はゼロとなる。そして、その働きは、経済主体に対して内と外、自と他という形で表出する。

 この財と貨幣の働きの差は、費用の働きにも影響する。

 財の動きというのは、財の必要性に基づいた生産から供給という直線的な動きである。それに対して、貨幣の動きは、交換取引を前提とした循環的動きである。

 取引が成立するためには、買い手と売り手、即ち、人的要素。財、即ち、物的要素。そして貨幣の三つ要素がなければならない。

 これらの三つの要素は、人的流れ、物的流れ、貨幣的流れの三つの時系列的流れを形成する。
 人の流れは、労働から消費。また、労働と金との収支関係は、労働によって収入を得て、その収入の範囲内で市場から財を得て消費するという流れを形作る。
 物の流れは、生産から供給。即ち、財を生産して市場を供給するという物の流れに対して、物と金の収支関係は、財を生産する過程で支出して、財を供給して収入を得ると言うように流れる。物の流れは、支出してから収入を得るという流れとなるので、最初の資金は、外部の出資者から供給される事を前提とする。

 取引においては、取引の主体と相手に働く双方向の作用を基としている。それは、費用の働き中に、財の提供を受ける物のとしての働きと貨幣を支払うという貨幣の働きの差を生じさせるのである。費用は、収益、所得に転換される。つまり、費用には収益や所得という裏の働きがあるのである。

 財の働きは、生産から供給といった直線運動である。人の働きは、労働の対価として所得を得て財を消費すると言った直線運動である。この物と人の直線的働きを貨幣の回転運動によって駆動し、制御するのが貨幣経済である。つまり、貨幣経済の動きは、ピストン運動みたいなものである。
 経済主体は、生産主体、消費主体、収入主体、支出主体の四つの側面を持つ。消費は、生産の範囲内で行われ、支出は、収入の範囲内で行われる。そして、余剰の生産物や収入は、在庫や貯蓄に、即ち、ストックに廻される。
 貨幣経済は、経済の基数は、生産を分母とし、消費を分子とする。また、収入(所得)を分母とし、消費、支出を分子とする。その上で、貨幣価値は、ゼロサムになるような仕組みになっているのである。

 そして、生産は、労働と結びつき、労働は報酬となり、所得、収入に還元される。消費は、家計に結びつき、支出に還元される。
 つまり、生産(物的要素)と収入(貨幣的要素)は、労働という人的な要素によって結びつき。消費(物的要素)と支出(貨幣的要素)は、費用、家計、生活という人的な要素によって結びついている。その効用は、費用対収益によって測られる。その指針の一つが利益である。
 
 生産と雇用は関連しており、雇用と所得とは結びついている。所得は、負債の裏付けとなる。所得と負債は、収入に転化される。負債は、資産、債権へと形成する。収入は、支出、貯蓄とに転化される。支出や貯蓄は、消費、投資、費用となる。
 生産力が低下すれば雇用も低下する。雇用を減らせば所得も減る。所得が減れば負債の返済力が落ちる。負債の返済力が低下すれば、投資力も減退する。消費力も低下する。資産価値も下落する。そして、巡り廻って生産力も低下する。
 景気や経済の問題は、財の生産量、或いは、供給量と雇用(所得)、そして、通貨の流量の均衡の問題なのである。

 現代人の多くは、経営の目的は利益の追求にあると錯覚している。利益は、一つの指標に過ぎない。経営の目的は、貨幣の循環過程において適正な費用を形成することにある。即ち、費用を形成する過程で所得を生みだしていくことにあるのである。

 適正な費用が維持されないから景気は回復しないのである。

 生産から消費、収入から支出への過程は、取引、即ち、売り買い、貸し借りといった市場における交叉した、交換行為によって成立する。その取引の媒体か貨幣なのである。この様な取引が費用の実体を構成していく。

 生産から消費への流れと収入と支出の流れを結び付けのが貨幣の働きであり、円滑な流れを維持できるように貨幣を供給するのが金融機関の役割である。
 生産と消費、収入と支出の場を形成するのが産業と家計なのである。

 生産と消費との間にある時間的制約は、貨幣の働きを長期、短期に区分したうえで、所得の範囲内で金融機関によって調整される。
 住宅ローン等が好例である。ある意味で今日の経済は、負債経済、借金経済だとも言える。借金を可能とするのも貨幣経済の特徴の一つである。

 貨幣経済では、負債はなくならない仕組みになっている。貨幣経済は、負債がなくなると機能しなくなる仕組みなのである。そして、負債は、貨幣の信認の前提となるからである。負債を否定的に考えている限り、貨幣経済は理解できない。問題なのは、負債の水準であり、負債の存在ではないのである。

 負債残高の水準は、法人税の在り方が関わっている。それは、負債の元本の返済原資は、税引き後利益から捻出される性格の資金だからである。税率が高ければ、返済資金は確保されず負債残高は高水準に維持される。場合によっては、慢性的に上昇する。

 長期的に固定される資金、即ち、長期的に一定の支出が確定している債務と短期に変動する、即ち、予測がつかない変動する収入の関係が、経済を不安定にしている要素なのである。そして、固定的な資金が固定費を構成する。固定費の中で大きな部分は、減価償却費と人件費である。つまり、減価償却費というのは償却資産、即ち、設備投資に関わる仮想的費用であり、人件費は、労働の対価として所得の基となる費用である。

 実際的な資金の流れからすると設備に対する支出は、減価償却費ではなく、元本に対する返済額でなければならない。

 なぜ、長期借入金の返済額ではなく。減価償却麻痺が問題となるのかというと、あくまでも期間損益というのは、費用対効果の測定に基づいて、利益処分の基礎となる数値を算出することを目的としているからである。
 つまり、収支や資金の流れが問題とされているわけではない。
 実際の収支や資金の流れに基づいて減価償却費は計算されていない。つまり、減価償却費というのは、あくまでも見積額なのである。減価償却費には実際の資金の流れの裏付けがあるわけではない。

 借金があったら借金のことばかりで頭が一杯になったり、財産があったら取らぬ狸の皮算用になるのは、単式簿記的な発想である。複式簿記的発想とは、借金、即ち負債を問題とする時は、必ず財産、即ち、資産を併せて考え、資産のことを考える時は、負債との均衡を考える。
 複式簿記的な発想を土台とした上で現金の流れの働きを明らかにしなければ、経済の状況も経営の状況も理解できない。

 借金を担保する為の資産や財産があるから安全であるというのは、大きな錯覚である。流動性や支払い能力がなくなれば、いくら財産があったとしても潰れる(デフォルト)のである。
 支払い能力というのは、資金の調達能力を言う。
 資産や財産があったとしても資金の調達能力に結びつかなければ、資産や財産も急場の役には立たない。結局重要なのは流動性である。流動性と支払い能力の構造は、長期資金、短期資金の働きに応じた交換によって成り立っている。支払い能力は、資金の長期的働きに依拠し、流動性は、資金の短期的働きに依拠する。

 競争というのは、同じ前提条件の上に成り立つのであり、前提条件が違う者同志の間では成り立たない。前提条件が違う者同志の間であらそう事は、闘争である。スポーツは、前提条件を均一にすることによって成り立っている。
 近代兵器で武装したと丸腰の人間では競争は成り立たない。それは虐殺である。
 会計は、現象を統一的な条件で記録することはできても前提条件を均一にする力はない。前提条件を均一にするのは、法制度である。
 景気の低迷や金融危機は、この競争の前提条件の差が原因していると考えられる。
 重要なのは、費用と負債の働きであり、前提条件の違いによって個々の国の市場における費用と負債の負荷の在り方に差が生じ、それが、収益構造を歪めて、産業や市場の構造を歪めてしまっている。現行の市場の在り方では、新興国に対し、市場が成熟した国にとって費用と負債が負荷ばかり大きくなり、本来の効用を発揮できないでいるのである。

 経済の目的を利益追求と規定するのは危険なことであり、適正な費用と負債を維持すること、その為に、適正の収益を確保する事を忘れてはならない。
 競争力というのは、収益力が土台にあることである。そして、収益力は、適正な費用と負債を維持する上でこそ意味があるのである。
 
 現在、経済の主たる題材は、生産に関連したことであるが、経済にとって所得も生産に劣らないくらい重要な問題である。そして、所得の問題で、肝腎なのは、所得の源泉であり、それは、労働の問題でもある。所得には、労働による所得と不労所得がある。又、所得の支払い形式には、貨幣によるものと、現物によるものとがある。賃金には、出来高と定収とがある。
 定職があって定収入が得られる。つまり、職業と収入は不離不可分関係にある。職業に形式によって収入の形式も変わる。
 職業、即ち、仕事に対する思想が問題となる。
 仕事に対する思想の根源には、誰のために、何のために働くかという事が重大な問題となる。

 労働には質がある。労働の質に応じて仕事にも質がある。労働の質を無視しては、経済は語れない。
 
 産業には、大雑把に工業と商業があり、工業は、生産的産業、商業は消費的産業といえる。そして、生産的産業と消費的産業を結び付けているのが、流通産業であり、全産業の基盤(インフラストラクチャー)を構成する産業と基盤(インフラストラクチャー)を建設する産業があるというのが経済構造全体の構図だと言える。
 生産的産業、基盤産業の構造は、資本集約型の産業が大勢を占め、商業は、労働集約型産業が大勢を占めてきた。そして、その中間に位置するのが、流通業や建設業である。
 資本集約型産業、特に、基盤産業は、長期的資金の流れを形成し、労働集約的産業は、短期的資金の流れを構成する。

 生産的労働か、消費的労働か。生産側の労働に分布しているのか。消費側の労働に分布しているのか。
 何を国の産業の要とするのかが国家観において最も重要なのである。生産側の仕事によるのか、消費者側の仕事によるのか、それによって国家の有り様は根本的に違ってくる。それは、国家は、産業の有り様を、産業は、労働の有り様を土台としているからである。

 本来、品質の良い品をより長く使うことを経済的と言ったのである。それがいつの間にか低価格の品を使い捨てすることを経済的と言うようになってしまった。その為に、節約とか倹約という言葉は、経済性と言う意味から失われ、浪費や無駄遣いが節約や倹約という言葉に取って代わった。そして、大量生産が効率性の代名詞となり、安物が経済性の代名詞となったのである。そこには、消費者の好みや意志など入り込む余地がない。




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