会計と経済


 経済学者は実務が解らないから経済の実体を理解できない。会計が解らない経済学者が景気を語るのは、喜劇を通り越して悲劇的ですらある。
 なぜ、経済学が実業の世界に取り入れられないのか。それは、現代の経済学が実業の世界では役に立つ代物ではないからである。

 実業家が新規事業や新たな地域や国に進出したり、投資をしようとするときに行う分析こそ経済学の本質なのである。ところが、経済学においては、その様な研究や実業家の意見は不当に低く評価されている。その為に、経済学が、経済の実態から乖離してしまっている。

 現代経済では生産の効率化だけが問題とされている。しかし、本来、効率化とは、生産だけでなく、分配や消費の効率化も計られなければならない。そして、生産、分配、消費の相互牽制によって経済は、制御されるべきなのである。
 市場に求められる機能とは、単に、低価格を実現する事ではなく。生産と分配と消費とを均衡させることにある。

 業種毎に会計の在り方が違う。特に、金融や建設業は、違いが顕著である。金融機関では、基幹となる基準や構造まで異質なのである。ところが金融業はその異質性を明らかにさえしていない。

 また、資産、費用、負債、資本、収益、各々に独自の規制が必要とされる。

 個々の市場は、市場を成立させる条件を極力統一化することが前提となる。その為に必要なのは、前提の標準化である。

 スポーツの世界を見れば解る。スポーツが成り立つためには、前提となる条件が同じでなければならない。
 競争は、人と車を競わせてはならない。一人対百人の格闘技は成り立たない。ロボットや戦車と人は戦わせてはない。虎や、ライオンと無防備な人は戦わせてはならない。武装した人間と無防備な人間を戦わせてはならない。この様な行為は、虐殺というのである。
 片一方が人力なのにもう一方が機械を使えば公正な競争など最初から成り立たないのである。ところが経済では、往々にしてその様な行為がまかり通っている。しかも、公正という名の下にである。
 少なくともルールがあることが前提である。ルールをなくせと言うのは、公正云々という以前に野蛮である。文明的ではない。

 貨幣経済が成立するまでは、生産地と消費地は一体だった。生産と消費が分離する過程で生産の場と消費の場が分割される。生産の場は、職場として独立し、消費の場は家庭として独立する。同時に分業が深化していく。生産地と消費地の分離、及び、分業は、物流の発達とともに、より広範囲にわたるようになる。それに伴って貨幣経済が発達した。
 生産地と消費地が一体の時は、生産量と保存量の総計によって消費量の上限が制約された。物流の発達は、この制約を緩和したのである。

 企業は、生産主体であると、同時に、中継機関である。それに対して、家計は消費主体である。企業は、財を生産すると同時に、生産主体と消費主体とを中継する機関である。

 企業は、財を生産することによって商品を市場に供給し、又、雇用を創出することによって労働の対価として所得を貨幣という形で消費主体に分配する。
 この企業が機能不全に陥れば、物も金も最終消費者に渡らなくなる。即ち、分配機能が働かなくなるのである。
 企業が物や貨幣の中継機能を果たせなくなっているのが問題なのである。

 複式簿記上において、資産は反対勘定において相殺され価値は均衡、即ち、零である。企業は、非常に繊細な均衡の上に成り立っている。利益と言っても総資産や収益、費用から見れば微々たるものなのである。ちょっとした景気の変動によって吹っ飛んでしまう。

 何でもかんでも収益を改善するような施策を大企業優先という者達は、革命思想に被れた人間であり、体制を覆す目的だけで施策を批判しているのである。
 収益を改善するための施策は、大企業にのみ恩恵を施すわけではない。

 現代の経済統計資料には、現金収支主義と期間損益主義が混在している。それが、経済の実体を解りにくくしている。現金収支と期間損益は、本来目的としているところが違うのである。
 経済の実体は、最も、堅い部分を忠心に把握すべきであり、最も堅い部分は、現金通貨の流れである。そして、現金通貨の流れには、期間損益と現金収支が深く関わっているのである。

 経済を分析するための指標は数多くあるが、経済の決め手となる指標は、現金の流れる方向と流通する現金の量である。
 重要なのは、現金の流れである。預金と言っても、或いは、負債と言っても貨幣が通過した痕跡に過ぎない。
 信用取引は仮想的取引であるが、追い証が必要とされる現金が必要となる。
 企業経営は、資金がその命運を握っている。決済のために準備できる現金の量が決め手になるのである。損益計算の結果は一つではなく。基準の取り方によって何通りもある。即ち、損益計算は、一つの見解であって確定した事実ではない。その点現金収支は、事実、実体的数値によって表れる。

 資本は、他の勘定、即ち、資産、費用、負債、収益とは決定的な違いがある。それは、第一に、資本は、差額勘定だと言う事である。第二に、外部決定要因であり、その為に、直接経営に影響を及ぼす勘定ではなく。間接的に影響を及ぼす勘定だという点である。第三に、資本は、資本取引によって価値が決まると言う事である。経営とは、直接的に関係のない場所で、資本取引は行われるが、資本を通して経営の在り方に決定的な影響を与えるのが資本である。故に、資本に対する規制は、資本の持つ性格をよく考慮して設定する必要がある。

 賃金、利子、地代は、現金収支上の所得であり、利潤は、期間損益上の所得である。財政、会計の黒字は、現金収支上の黒字であり、企業の黒字は期間損益上の黒字である。

 市場取引を制御しているのは会計制度である。市場における貨幣の供給は、財政の在り方によって決まり、会計制度によって調整される。期間損益は、生産量を規制し、供給量を決定付ける。即ち、市場における貨幣の流通量は、期間損益によって決まり、期間損益は会計によって制御されるのである。

 現金の量と現金の流れる方向を経済現象に結び付けて解析する。その上で、現金通貨が循環しやすいように会計の利益基準や税制基準を設定し、市場を含む経済の仕組み設計する。

 大企業は、資金的に有利と言うだけでなく。会計的に有利なのである。
 大企業は、会計的に優遇されているというのではなく。会計的に優位な立場に立てるという事なのである。第一には、償却資産の問題である。会計上、処理の仕方の選択肢が多いと言えるのである。
 大量生産をすれば原価が安くなると言うだけなのである。大量生産をするのは、原価を抑えることが目的であってどれくらい売れるかが前提となっているわけではない。大量に生産をして原価を安くし、後は、売りさばくだけなのである。つまり、会計的要請によって大量生産をしているのである。その結果大量に廉価なものが市場に出回り、それが、市場価格を決定したら、以後、その価格が正当な価格とされてしまう。仮に、採算点以下の量しか売れれなくとも価格だけは残るのである。
 結局、不当な価格での廉売は、採算性を度外視した市場構造に市場を変えてしまう。事情を知らないメディアは、不当な廉売業者のみをもてはやす。その結果に対しては、無責任なのである。要するに安ければいいのである。しかもそれを経済的な論理ではなく。道徳観にすり替えてしまう。




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