経済数学

資産と費用


 今日の貨幣経済が確立されるまでは、税は物納だったのである。貨幣は、補助的、或いは、代用的初段に過ぎなかった。その貨幣も、鋳造貨幣であり、貨幣その物が物としての価値を有していて、紙幣のような表象貨幣ではなかったのである。この点は、重要である。
 封建時代では、政府は、独自に生産的部分を持ち、君主である将軍家は、大地主でもあった。財政は、君主の家政、宮廷官房の延長線上にあったのである。
 つまり、近年まで貨幣経済ではなく、物経済だったのである。現代のような貨幣中心の社会になったのは、紙幣を中心とした近代貨幣制度確立された以後である。この点を理解しないと貨幣制度や財政問題の本質は理解されない。

 物経済では、貨幣と言っても物質的な裏付けが確保されていた。しかし、表象貨幣の時代、特に、不兌換紙幣の時代になると貨幣から物としての価値は失われ、物としての価値が信用に置き換わってのである。

 その事によって貨幣は、物としての頸木(くびき)、制約から解き放たれることになる。

 物の経済の時代と貨幣経済とでは、財政赤字の意味を大きく違ってくる。物の時代の財政赤字は、物の不足により、それを補う形で貨幣が使用された。又、財政赤字と言っても物としての裏付けは常に担保されていたのである。
 それに対し、貨幣経済下における財政赤字は、貨幣的事象なのである。だから、貨幣の働きによる貨幣の必要量が問題となるのである。

 貨幣価値は、自然数によって表現される。自然数は無限の広がりを持つ。故に、貨幣価値は、抑制を失うと際限なく膨張するのである。
 それに対し、物は有限である。物には、物質的な制約がある。人の力にも限界がある。人間が与えられた時間は、限りがあるのである。人は、必ず死ぬのである。これも仮定である。しかし、誰もがそれを自明だと信じている。それが重要であり、大前提となるのである。


 市場に流通する紙幣の総量は、紙幣の発行残高を上回ることはない。

 単位期間における紙幣の流通量の総量は、紙幣の発行残高と回転数によって決まる。

 紙幣の流量は、紙幣を発行し、管理する仕組みによって決まる。紙幣の発行残高は、紙幣の発行の仕組みと回収の仕組みによって制約されるからである。

 資金の量は、資金の調達手段によって制約を受ける。

 紙幣の発行の形態は、借入をする手続と同じである。なぜならば、紙幣の発行は、公的負債の形式をとるからである。

 兌換紙幣は、政府の保有する金や徴税権を担保として中央銀行が紙幣を発行する。不兌換紙幣は、国債を担保として中央銀行が紙幣を発行する形式をとる。中央銀行にとって銀行券は負債勘定として、保有現金と区別して表示される。即ち、紙幣は、公的債権を代償として発行される。公的債権は、対極として公的債務を発生させる。即ち、紙幣というのは、借用書の一種である。

 政府が直接紙幣を発行する形態でも公的債務という性格は変わらない。ただ、紙幣を直接発行することには、若干の弊害がある。

 政府が直接紙幣を発行することは、幾つかの問題点がある。その第一が、政府が直接紙幣を発行することによって中央銀行の機能が発揮できなくなるという事である。その為に、金融機関に対する中央銀行の統制力が弱まり、金融機関による系統だった紙幣の管理に支障が生じることである。
 第二に、財政は、現金主義に基づく会計処理がされているのに対し、市場は期間損益に基づく会計処理がされている。この間に制度的な連続性がない。故に、中央銀行を仲介することによって財政と市場との整合性を取っている。この働き、変換ができなくなる。その為に、会計的整合性が失われる。
 第三に、紙幣価値を規定する何等かの物的、或いは、貨幣的基準が得られないため、紙幣の信認が得られなくなる。貨幣価値が不安定なものになる。物的というのは、金本位制では金、不兌換紙幣では国債を言う。

 紙幣の流通量という観点からすると国債の問題は、国債の発行量の問題よりも国債がどれくらい資金化され、市中に流通したかの問題の方がより重要である。

 紙幣の発行は発電によく似ている。発電量は、使用電力によって決まるのである。発電量に対して使用電力が多くなると停電が生じる。また、使用電力が少なければ、発電の効率は低下するのである。発電量ばかりを問題にしても意味がないのである。問題は、電力に対する需要、必要性の問題である。
  
 財政の基本的な機能は、財政支出の規模と財政収入の規模によって紙幣の発行量を調節する事にある。財政収支の不均衡は、公的債務の量によって調節される。

 市場規模と生活水準が均衡するように紙幣の発行量を調節するのが財政の役割である。
 市場と規模と生活水準を均衡させることが出来るように税制度を構築し、予算を作成するのが政府の責任である。

 財政破綻というのは、政府が紙幣の流量を制御できなくなって状態を言う。紙幣の量は、財政収入と財政支出と公的債務の関数である。
 故に、財政破綻の原因は、財政収入と財政支出の差が極端に広がり、公的債務に対する抑制が効かなくなることを意味する。
 
 財政の働きは、効率よく紙幣を回収し、又、環流することにある。政府が、紙幣を回収する仕組みは、税制度である。税の仕組みは、効率よく紙幣を回収する仕組みでなければならない。紙幣の回収と環流の均衡がとれなくなると財政は、破綻する。

 国家の支出は、紙幣の発行量の増加に繋がり、国家収入は、紙幣の回収量の増加に繋がる。国家の収入と支出が紙幣の発行量の増減量を決める。

 国家の支出は所得の再分配の問題であり、国家の収入は、紙幣の回収の問題である。国家の債務の問題は、収支の均衡の問題である。

 国家の支出は、民の生活により、国家の収入は、市場の規模による。民の生活とは、所得の再分配と社会資本の整備、行政費用からなる。これらの根底にあるのは、国家観である。
 国家の働きは、金の働きや物の働きだけではなく、人の働きがある。例えば、老人介護に対する働きには、ただ、金を与え、施設を作ればいいと言うのではない。むしろ、人としていかにあるべきかが重要なのである。つまり、国家観の根本は人にある。その根本がなくして国家財政の基礎は築けない。

 国家の債務の規模は、紙幣の発行量に比例する。紙幣の発行量は、財政収支によって決まる。 

 国家の支出は、紙幣の発行量を増加させることによって潜在的需要を顕現化する働きがある。潜在的需要が顕現化するという事は、市場取引を活発化することに繋がる。
 ただし、紙幣を流通させるだけでは、需要を喚起することには繋がらない。国家の支出で重要なのは、所得の偏りを是正することによって市場の取引の均衡を保つことにある。

 税制の要点は、紙幣の回収率と税率の問題だといえる。

 税収は、即ち、国家収入、言い換えると政府の紙幣の回収高は、市場の規模に比例する。市場の規模は、取引の総量によって決まる。問題は、市場の規模を税制度がどこまで捕捉するかである。

 行政費用は、極力、必要最小限に抑えるのが、鉄則である。その為には、行政の一部を現金主義会計から期間損益会計に移行する。即ち、民営化が有効である。なぜならば、現金主義会計は、時間価値に対して硬直的であるのに対し、期間損益は、時間価値に対して柔軟に対応できるからである。故に、行政の一部を民営化するのは、効果的である。その際に公的債務も併せて資本化することである。


 資産、即ち、債権を構成する要素には、使用価値と交換価値がある。交換価値は、流動性の問題である。
 不良債権問題を考える場合、資産、債権の質が劣化したことが原因なのか、それとも、流動性が悪化したことが原因なのかを見極める必要がある。
 例えば、不動産を例にとると問題となっている土地は、資産価値が低下した土地は、土地の利用価値や使用価値が低下したのか、それとも、土地が売れなくなったのが原因なのか、その点が重要なのである。
 また、不良債権と言うが、本当に不良債権の問題なのか、実際は、不良債務の問題なのかも明らかにしなければならない。債権の対極には、債務があるのであり、債権と債務は一組で考える必要がある。資産価値が下落した、不良債権を安直に処分すると裏付けのない債務、借金だけが取り残される例も生じる。
 又、使用価値のある資産、稼働中の資産でありながら、交換価値が低下している資産もある。その様な資産を流動性がないという理由だけで処分させるのは、角を撓めて牛を殺すような行為である。
 不動産や設備のような固定資産は、長期的な均衡を前提とした資産であり、表裏をなす債務との関係で評価すべき対象なのである。それを短期的な価格の変動によって判断すれば、破綻するのは必定である。
 更に、問題の本質はフローにあるのか、ストックにあるのも重要なことである。
 不況期には、資産価値も収益も悪化する。業績が悪化した場合でも、それが、ストック部分に原因があるのか、フロー部分に原因があるのかによって対策も違ってくる。
 その場合、資産価値は、一時的な低下なのか、長期的な下落なのかを見極めないで、資産価値が下落したと言うだけの理由で借入金の元本の返済を迫れば、事業の継続に支障がでることになる。最悪の場合倒産する。その様な行為は犯罪に近い。
 また、収益に影響を与えるような性格の下落なのか、収益に関係ない部分での下落なのかを明らかにする必要がある。
 収益が悪化したとしても、収益が悪化した原因を把握しなければ、対策のたてようがないのである。



 景気は、費用によって左右される。

 不景気になると費用や借金は、何かと目の仇にされる。兎に角、借金や費用を減らせと言う大合唱が起こる。そして、合理化の名の下に経費や人員の削減が行われる。
 それが経済的合理主義だといわれる。しかし、本当に経済全般から見て、経費や人員削減は、いい効果をもたらすのであろうか。

 費用というのは、裏返してみると所得である。費用を削減すると言う事は、所得を削減すると言う事と同義なのである。
 経費を削減すれば、取引相手の収益は減少する。人員を削減することは、雇用の減少を招く。取引は、連鎖によって成り立っている。費用を削減すると言う事は、負の連鎖の始まりを意味するのである。

 利益を追求することだけが、経済的合理性だと錯覚している者が結構いる。そういう者は、経済的指針は利益しかないと思い込んでいるのである。収益も、費用も、利益をあげるための手段でしかないと決め付けている。
 そう言う人が、経済的合理性というと限りなく費用を削減することでしかない。費用の働きなんて一切認めないのである。
 そして、経済的合理性をすぐに結果である利益に結び付けて解釈しようとする。結果、安直に費用の削減に走るのである。
 しかし、合理性を検証する根拠は、論理の前提、設定にある。結果は、前提や設定に則って論理的に導き出される結果である。前提や設定を変えれば、まったく違った結果が導き出される。

 経済の根本は分配にある。それも、物の分配だけでなく、所得の分配も意味する。そして、所得を保証することは、経済的自立を意味し、身分を保証することにもなる。それは自由を保証することでもある。




       

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