GDPは、付加価値である。


何が善で何が悪か。
善良なる者が迫害を受け、邪悪なる者が守られる。
時々私は、なぜと、神に問いたくはなる。
しかし、それは、所詮、人間の所業。
神に答えを求めたところで、神は善悪を超越している。
神には善も悪もない。
あるのは人の罪。
ただ自らの行いの報いは、自らが受けなければならない。
ならば、答えは自分で見つけ出すしかない。
富者も、貧者も、聖者も、独裁者も、予言者も。
生病老死の苦しみから逃れられない。

「お金」の循環は、水の循環によく似ている。
雨が大地に振って川となり流れ、やがて大海へと流れ込む。大海に流れ込んだ水は、また、雲となって湧きあがり、大地に雨を降らす。この循環が大地を潤し、多くの植物を育む。
ただ、大地は一様ではない。砂漠もあれば密林もある。氷の大地もある。それは、雨が降る量も時期も一様ではないからである。
資金の循環も同様に一様ではない。一様でないから雨の降らない不毛の大地もあれば、水資源に恵まれた豊かな大地もある。
水は時には、洪水や津波となって何もかも押し流していく。
水利は人類長年の知恵の結晶である。「お金」の流れも水の流れのように制御する事が難しい。
「お金」は、放置すれば均等一様に循環する物ではない。

自然にお金は、均衡したりはしない。砂漠のような市場もあれば、密林のような市場もある。水を生かしたように「お金」も生かして使わなければ、効用は期待できない。

GDPは、経済全体の中の付加価値を表していてる。資金の付加価値は、部門間の取引によって生じる資金の過不足によって形成される残高項目である。この事は、経済の本質の一局面を表している。

GDPが表す資金の流れは、産出から中間消費、そして、最終消費と段階を追って部門間を流れる。それ故に、段階ごとに部門間の残高を見る事で資金の流れと働きを分析する事が出来る。

付加価値は、キャッシュフローでいえば、営業キャッシュフローである。

GDPは、付加価値を意味している。逆に考えると三面等価は、付加価値の多面性を表していると言える。
例えば、営業キャッシュフローの直接法と間接法の違いは、GDPの生産面と、所得(分配)を表していると言える。ただ、支出による側面がない。そこが企業分析において問題なのである。支出に係る部分は、投資キャッシュフローと財務キャッシュフローに係る部分なのである。

付加価値は、時間価値となってフローを形成する。同時に付加価値は、ストックを反映している。付加価値を構成する個々の要素は、何らかのストックに結び付いている。
そのストックとの結びつきが、先ず重要となる。それ故に、付加価値では、水平的比率と相関的比率の均衡が個々の要素の働きと性格をきめる。そして、付加価値の働きによって経済の仕組みは制御されているのである。

利益は、市場を基礎とし、収益を分母とした利益率が重要な指標となる。金利は、負債を分母とし、減価償却費は資産を分母として、所得は、粗利益を分母として労働分配率を表し、税は、課税所得を分母として税率として表現される。気を付けなければならないのは、減価償却の背後には、長期資金の働きがある点である。
そして、それぞれの要素働きの関係は付加価値に占める割合として表現される。
故に、分母となる物との関係と付加価値に占める割合によって経済の動きは見えてくる。

また、付加価値は、部門間の関係にも影響される。例えば、人件費は、家計と関わり、金利は、金融とかかわり、税は、財政と関わっている。

付加価値は、市場の状況や環境、経済の発展段階などに応じてその働きや性質を変える。
高度成長期の市場は、市場の水平的広がりによって垂直的拡大が促されることによって調和が保たれてきた。しかし、市場が飽和状態になり水平的な広がりが期待できなくなると付加価値は、量的拡大から質的拡大へと変化し、密度の調和が求められるようになる。
市場が飽和状態に至ったら無理の量的拡大は、経済の仕組みそのものを毀損してしまう。日本の高度成長は、技術革新によって第二次産業に余剰人員を吸収する余地が生じる。その事で、第一次産業の余剰人員が第二次産業に吸収され第一次産業の生産効率も上昇する。それが第三次産業の発展を促すという好循環が生まれた。それが高度成長の原動力である。しかし、問題は、格差である。高度成長は、成長の度合いによって格差を生む。それは、階級的格差、地域的格差、国家的格差、産業的格差となる。この格差が、世界に修復困難な亀裂を生じさせるのである。
この格差が拡大し、清算するのが不可能な状態に陥ると市場は、暴力的な手段で解消しようとする。それが恐慌であり、ハイパーインフレーションであり、財政破綻であり、革命であり、戦争である。

収益や所得もないのに、経営や生活が成り立つのはおかしい。収益や所得でなければ、何から収入を得るのか、自給自足の時代ではないのですから、借金をするか、貯蓄を取り崩すしかない。いずれもストックで生計をたてている事になる。ストックは、あくまでも残高である。
借金をしたり、蓄積を取り崩しても何も生産しない。生産性がないのである。だから、社会の効用は増えない。社会の効用どころか、借金が増え、蓄えは減っていくのである。そんなことが続くわけがない。要するに「お金」を遣り繰りしているだけに過ぎないのである。
大体、残高と言うのは、位置のエネルギー、蓄えられたエネルギーである。残高の厚みによってフローの勢いや力、速度が定まるのである。

経常的経済活動を成り立たせているのは、フローである。経営や生計の経常的経済活動を成り立たせているのは、所得や収益である。この点を忘れるとストックとフローの関係がおかしくなる。

国の経常的活動を支えているのは、国家的付加価値、即ち、GDPである。

経営や生計の経常的経済活動を成り立たせているのは、所得や収益である。この点を忘れるとストックとフローの関係がおかしくなる。

今の経済のおかしさがそこにある。本業で収益が上がっていないのに、金融や投機で利益が上がっているようではまともではない。それは、正業で生計をたてずに賭博や博打で生計をたてているのと同じである。まっとうとは言えない。まっとうとは言えないのに、その分別すら現代人は、つかなくなってしまった。経済が傾くのは道理である。借金や博打で生計をたてるのはおかしい。
今の経済は、金融や投機でしか経営が成り立たないのである。
そうなったら、先ず、生活を立て直し、まともな商売で生計が立てられるようにすべきなのである。

世界の環境が一律一様でないように、世界の市場も一律一様ではない。密林のような市場もあれば、砂漠のような市場もある。それぞれの環境に適した対策を立てないと資金は、循環しなくなるのである。




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