科学とは世俗的なものである

 人は、豊かなる時、神を侮り、貧しくなると神を呪う。しかし、神は神である。
 人の不行跡の結果を神の責に帰すのは罪深いことである。
 神を必要としているのは人であり、神が人を必要としているわけではない。
 市場に神は存在しない。神が存在するのは、人々の信仰の内である。
 市場に神が存在しない以上、市場は人間が治めなければならない。その時、問われるのは、人間としての道徳心である。人々が信仰心を失えば、忽ち、市場は崩壊する。神は市場を必要としてはいない。市場を必要としているのは人間なのである。
 市場を造り出したのは、人間である。市場の不始末は、人間自らが正さなければならない。怖れるべきは、人間の強欲である。

 科学というのは、本来、世俗的なものである。科学万能というのは、間違った信仰である。万能な存在は神でしかない。経済も又然りである。神を否定する者は、自らを神とする。

 貨幣は、流通循環することによって効能を発揮する。
 経済体制とは、貨幣が流通、循環することによって動く仕組みである。経済は人為的仕組みである。自然に成る法則ではない。人々の合意の上に成り立つ仕組みである。
 貨幣は流れてることによってその働きを発揮する。貨幣は停滞することは、効能を発揮するどころか弊害にすらなる。

 決算書には、多額の金額が記載されているが、それらの多くは、潜在的貨幣価値を表しているのに過ぎない。
 故に、企業の手持ちの現金は、決算書に記載されている資金の総量に比べて少量である。資金繰りに失敗すれば、簡単に企業は潰れてしまう。そう言う体質を企業は持っているのである。

 経済主体が、貨幣を流通、循環することによって貨幣経済は成り立っている。経済主体にとって貨幣は、資源となった時、資金となる。故に、常時、企業や家計には、資金が供給され続けなければならない。その資金の源泉は、収益や所得が基本でなければならない。つまり、借金や贈与、相続は、臨時的なものであることが原則なのである。

 貨幣は、電力と同じで循環する事によって効力を発揮する。現在の状況は、電力不足ならぬ貨幣力不足である。それは、貨幣の量が不足しているのではなく。貨幣の循環している量が不足しているのである。
 
 資金には、運用圧力と回収圧力が常にかかっている。
 圧力は、金利と元本の返済によって発生する。金利と元本の働きは、働く部分に違いがある。期間損益に基づくと短期資金に作用するのが金利であり、長期資金に作用するのが元本の返済である。

 資金は、流動性と流れる速度によって働きに違いが生じる。
 流動性とは、換金化されるのにかかる時間の差によって生じる基準である。即ち、流動性が高いというのは、換金する時間が短いことを意味し、必然的に、現金が最も高い。それに対し、換金に時間がかかる多くの固定資産は流動性が低いことになる。
 流れる速度とは、回転する速度を言う。長期的資金、即ち、回転速度の遅い資金と短期的資金、回転速度の速い速度では、働きと役割に差が生じる。

 長期的資金と短期的資金の差である。

 所得を課税対象にするのは、間違いとは言わない。しかし、所得の持つ性格を全体としなければならない。
 長期的な資金の働きとそれに与える影響を見極めないと所得への課税は、経済に長期的な悪影響を与える。

 長期的な資金が熔解をはじめているという事である。中期的な資金が正規の経路で手に入らない。そのために、企業は追いつめられているのである。窮余の策として企業買収や合併、財テク等をやらざるを得なくなっている。それも自ずと限界がある。

 高額な報酬を問題とするが、個人の所得を増やすのは合理的選択の一つである事を忘れてはならない。問題があるとしたら、合理的選択肢の一つになり得るという点である。企業にとって合理的選択肢になり得たとしても社会正義、分配の公正から見て妥当かというと、それは違う。弊害が多い。
 合理的選択肢になりえるのは、個人所得の根本思想が現金主義によるからである。又、いくら企業が利益をあげても、機関化された経営主体では、蓄えておく動機も、手段もないのである。

 企業が有効に機能し得ない原因の一つは、経営目的が個人の欲望を充たす動機に限定され、公の目的が見失われていることにある。経営目的とは、利益の根源である。つまり、利益本来の意義が忘れられているからである。利益をあげる要因は、個人的欲望の充足だけにあるわけではない。公的な目的による部分が大きいのである。
 いくら合理的な選択肢として巨額の報酬を得ることが妥当だとしても経済の目的からすれば逸脱しているし、また、その様な勝手を許す仕組みがおかしいのである。その様な経済の仕組みは、人間を堕落させるだけである。人間を堕落させるような仕組みは明らかに、経済的合理性を欠いている。

 現在の経済対策は、対症療法にしかならない。熱が出たと言えば解熱剤を出し、腹をこわしたと言えば、胃腸薬を出し、頭が痛いと言えば鎮痛剤を出す。それだけの話である。なぜならば現象でしか経済を判断していないからである。

 豚に真珠、猫に小判と言うが、猫や、豚は、真珠、小判のために殺し合いをしたりはしない。人間と豚や猫、どちらが真珠や小判の価値を知っていると言えるのであろうか。




                

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