四つの次元

 我々は、経済現象を認識する際、物理的量であろうと、貨幣的量であろうと、時間的量であろうと数に依る場合が多い。しかし、経済の総てが数値に表せるわけではない。むしろ経済という目に見えない事象を目に見えるようにする過程で数が使われているのである。経済には、数字で現れない部分があることを忘れてはならない。
 それは、経済は、人間の営みであり、文化だからである。

 人的価値、物的価値、時間価値は、アナログな量である。それに対して、貨幣価値は、デジタルな量である。即ち、経済的価値を貨幣価値に換算すると言う事は、アナログの実体をデジタルな量に変換する。即ち、デジタル化すると言う事を意味する。

 経済的価値は、数値化できない部分だけでなく、貨幣化できない部分も含んでいる。

 血液は、大切だが、肉体を構成するのは、血液だけではない。貨幣も同様である。貨幣だけで経済は成り立っているわけではない。
 全体像を把握しないと経済の動向を明らかにすることはできない。
 貨幣が流れる道は、地形に左右され、地形を作る。また、貨幣の流れを活用しようとしたら、地形を利用して堤防を築き、ダムを造り、運河を掘る必要がある。

 資本主義体制や自由主義経済は、人、物、金、時間の四つの次元から成る経済体制である。資本主義体制というのは、人、物、金の価値、及び、時間価値の均衡によって成り立っている。

 金利(時間価値)による時間価値を前提とした経済社会では、時間価値によって時間の経過と伴に、物価(貨幣価値)が上昇する。物価が上昇することは費用の増加を意味する。費用の増加が年々続くことを前提とすると個人所得(人的価値)を年々上げていかなければ、生活水準(物的価値)を維持する事ができなくなる。
 一定の率で個人所得(人的価値)が年々上がることを前提とした場合、販売している財の単価(貨幣的価値)を上げるか、数量(物的価値)を増大する以外に利益(時間価値)を維持する手段はない。
 財の標準化によって差別化が困難であり、単価の上昇が見込めない場合、販売数量の増大を測る以外に収益を維持する手段がなくなる。
 それが、過激なシェア争いをまねき、大量生産が市場を過当競争状態に陥らせ、市場が無秩序な状況に陥らせる。市場が無秩序な状態に陥るとかえって単価の下落を招く場合も予想される。
 金利を考えずに時間価値を想定しなくていい時代では、例えば、小売店では、使用人を雇っても人件費の上昇を見込んで事業を拡大する必要はなかった。だから、老舗と言われるような商売が成り立ったのである。しかし、時間価値を前提とした社会では、そう言うわけにはいかない。時間価値を前提とした経済体制は、成長し続けることが要求され、成長、発展を止めれば淘汰されてしまうのである。
 大量生産、大量販売型社会のジレンマである。
 では、金利や個人所得の上昇を抑えればいいかというと、時間価値が抑制される上に、消費の減退も招く。金利や所得が抑制されれば、今度は企業利益が圧迫を受ける。何よりも金融機関が収益を上げられなくなる。なぜならば、金融機関の収益原は金利だからである。
 企業は、通常の営業活動によって利益が確保できなくなれば、資産を操作して会計上の利益を計上しようとする。金融機関は、金融資産を操作することによって収益を確保しようとする。通常の経営活動によって得られる利益は、営業利益である。結果的に、企業は、通常の経営活動によって営業利益が確保できなくなると資産に資金を移動するようになる。これがバブル現象を引き起こす一因となる。

 経済に対する根本的な考え方を変えないかぎり、資本主義的悪循環を断ち切ることはできない。

 鍵となるのは、人、物、金、時間の均衡をどの様な仕組みによって保つかなのである。

 資産価値の変動と負債の変動は、非対称であり、複式簿記特有の動きをする。複式簿記特有の変動は、資産価値や負債だけではない。簿記上の借方、貸方は、相互に牽制しながら自律的な動きをする。それが経済に重大な影響を及ぼすのである。
 即ち、借方は、物に基づいて実体的な動きをし、貸方は、貨幣価値に基づいて名目的な動きをする。即ち、実体的な動きをするのは資産と費用であり、名目的な動きをするのが負債と資本、収益である。
 経済的変動は、実体的な部分、即ち、借方の勘定科目、資産や費用に直接的な影響を及ぼす。それが名目的な部分、貸方に反映されるのである。
 物価や為替の変動は、資産や費用に影響を及ぼす。それが、負債や資本、収益に反映されて利益が変動するのである。

 重要なのは、資産価値の変動と、負債の変動は、非対称だという事である。
 又、資産価値と負債、資本は、長期的資金の働きとしてストックの部分を形成し、費用と収益は、短期的資金の働きとしてフローの部分を形成する。

 お金(貨幣)の流れは、個人所得として家計に分配される。家計に分配されたお金は、消費によって企業に、貯蓄や返済を通じて金融へ、税によって財政へと配分される。そして、配分先それぞれに再投資、返済、繰越に割り振られる。
 ただし、家計と財政は、現金主義であり、企業会計は、期間損益主義である。
 期間損益主義は、この貨幣の流れに沿ってフローとストックに振り分けるのである。
 問題になるのは、どちらの方向にどれだけの量の資金が流れたかである。
 資金が再投資の側に流れ、尚かつ、収益に結びついた時、市場は拡大する。資金が返済の側に流れれば、市場は、収縮する。どちらにも流れずに、留保が積まれれば、市場は停滞する。

 ストックの部分は、貨幣の流量に影響をし、フローは、物の価値の水準を決める。
 故に、物の価値である物価を基礎とするインフレーションやデフレーションは、フローの問題であるが、その原因となる貨幣の流量はストックの水準に左右される。現象としてのインフレーションやデフレーションは注目されるが、その因子となるストックが軽視されているから景気の対策として有効な政策を立てられないのである。

 インフレーションやデフレーションには、資産、負債、資本、収益、費用を原因としているものがある。そして、例えば、費用を原因としているインフレーションがコストプッシュインフレーションであり、負債を原因としているインフレーションが過剰流動性によるインフレーションである。
 経済政策は、どの様な要因によって引き起こされた現象であるかを見極めることが肝要となる。経済現象の根本の原因によって施策を変える必要があるからである。
 また、経済現象は、資産、負債、資本、収益、費用が単独の要因となって起こされるのではなく。貨幣の流れと結びつくことによって引き起こされる。対策は、貨幣の流れる量と方向をよく見極めながら慎重に行われなければならない。

 財政収支は、資金が循環する過程で均衡する。故に、財政を健全に保つのは、資金を循環させる仕組みなのである。

 貨幣というのは、決済の道具、手段なのである。貨幣は、決済のための道具であり、支払のための準備である。そして、貨幣は、支払準備だからこそ価値を持つ。支払のための準備であるから、支払のための保証が必要である。即ち、貨幣は何を担保としているかである。金を担保としているのが金本位制である。また、不兌換紙幣の発行とは、国家の信用、支払い能力を担保して発行されるのである。国家の信用を裏付けているのが土地と言った国の資産や徴税権、そして、国が発行する債券、国債である。
 又、通貨圏間の決済は、外貨準備に依って為される。通貨圏の取引に用いられる基軸通貨も貨幣の信用を裏付ける重要な要素である。

 経済活動が低下すると資産価値が低下する反面、名目的価値の負担が増大する。資産価値が上昇している時は、負債の負荷を軽減し、資金調達を活発にするが、資産価値が下落すると負債の負荷が増して資金調達に支障をきたすようになる。資産価値が下落している時に金融が資金を回収しようとすると収益の低下に合わせて借入による資金調達も難しくなり、資金繰りが悪化する。

 担保力が低下すると相対的に負債の負荷が増大する。それは、資金調達力に対する負担が増大することを意味する。

 1000万の土地を同額借入で資金を調達をした場合、地価が1200万に上昇すれば資金調達力に200万の余力が生じるが、800万に下落すれば、資金調達力に200万の不足が生じる。しかも地価が下落している最中は、土地を売れば売却損が生じる。当然に地価の下落は、投資を抑制する効果がある。その上、問題を難しくしているのは、資産価値と負債との差額は、含み損益、未実現損益だという点である。
 地価が全面的に下落すると資産価値が一様に低下し、企業の資金調達力を低下させ、必然的に投資余力も狭める。この様な状況に陥った場合は、資金の回転を速め資産の働き、活力を高める必要がある。その為には、土地の流動性を促す施策を採る必要がある。

 資金のフロー、即ち、回転が悪くなると正のストック、即ち、資産価値の時価が減少し、負のストック、即ち、負債の残高の水準が上昇する。その為に、ストックの均衡が破れ、資金の回収圧力が強まることになる。
 大切なのは、均衡である。回転率が低下した時、ストックの水準を抑制しようと思ったら、利益率を上げる施策を採る必要がある。
 
 いくら資金を注入しても収益に結びつかないかぎり、ただ、長期的負債を積みましているだけで、景気は上向かない。なぜならば、資金を注入しただけでは、決済に結びつかないからである。収益上に現れてはじめて清算のである。

 確かに、公共投資には、資産価値を上昇させる要素がある。しかし、資産価値のどの部分にどの様な影響を及ぼすかを良く考慮しないと公共投資は実効力を持たないと心得ておかなければならない。

 一方に家を欲している消費者がいるというのに、他方に家を売りたがっている業者がいる。仕事がなくて困っている大工がいる。一方に家が不足していてながら、もう片方で家が余って壊している。
 貨幣や物が上手く循環していない。物や貨幣を分配する機構、仕組みが機能していないのである。
 貨幣と物の配分の対称性が保たれていないことに原因がある。

 市場経済や貨幣経済の発展を考える上では、分業が鍵を握っている。市場経済や貨幣経済は、分配の手段として交換を前提としているからである。交換がなければ、市場経済も貨幣経済も成立し得ない。そして、分業が交換を促しているからである。
 自給自足体制では、貨幣も市場も機能を発揮することはできない。自給自足体制では、交換という行為はあったとしても市場や貨幣を介する行為なのではなく、共同体内部の力関係に依存する行為だからである。
 分業は相互依存関係を生み出す。相互に相手を必要とする関係にしてしまう。売り手は、買い手があって成り立つ概念であり、貸し手は、借り手があって成り立つ行為である。逆も言える。買い手は、売り手があって成り立ち、借り手は貸し手があって成り立つ。この様に交換を前提とした経済行為は、鏡像関係にあり、これが複式簿記の前提となる。
 それが売り手と買い手の表裏関係を成立させた本質的な要因なのである。この事によって売りと買い、貸しと借りは、均衡を前提とする。
 複式簿記では、貸しと借り、売りと買いが均衡するのは、前提となるのではなく。前提とするのである。

 この事が端的に現れるのが為替取引である。
 経済関係というのは、鏡像関係にある。経常収支と資本収支の関係は、不思議な関係なのだ。
 経常収支と資本収支は均衡する。この関係は、言い換えると、物を売って、金を買う。物を輸出して金を輸入する。
 基軸通貨制では、基軸通貨国は、経常赤字を出しながら、基軸通貨を国際市場に供給する。供給された基軸通貨は、外貨準備として蓄積されると同時に、相手国の通貨を供給を増加させる。
 供給された資金は、資本として基軸通貨国に逆流する。この様にして経常赤字国と経常黒字国の関係は、切り離せなくなる。つまり、経常赤字国と経常黒字国は表裏の関係となる。

 資金の効率は、資金の回転と比率によって決まる。資金の回転は、例えば、総資産と収益、或いは、負債と収益との関係から求められる。
 経済にしても、経営にしても、収益と資産、収益と負債との比率が重要な意味を持っている。

 何でもかんでも大きければいいと言うわけではない。規模による利益のみを追求する時代は、過ぎたのである。
 アメリカは、本来、スケールメリットの追求と同じくらい分立を重んじる国である。集中と分散、一見対立した概念を統合する概念こそ、仕組みにあるのである。そして、それが民主主義の原理である。

 何でもかんでも大きければいいと言うわけではない。規模による利益のみを追求する時代は、過ぎたのである。
 アメリカは、本来、スケールメリットの追求と同じくらい分立を重んじる国である。集中と分散、一見対立した概念を統合する概念こそ、仕組みにあるのである。そして、それが民主主義の原理である。

 組織効率は、単に、生産効率ばかりに求められる基準ではない。組織効率は、生産効率、分配効率、消費効率の均衡によって求められる。そして、組織に於いて生産、分配、消費の効率を均衡させるためには、情報効率が重要な働きをしている。故に、組織効率は、規模の拡大ばかりを追求しても高まらない。組織には、適正な規模があり、その規模の範囲は、情報の伝達速度によって決まる。

また、分配の効率とは、労働と生産、消費をいかに効率よく結び付けるかにある。

 組織効率という観点からすると規模の拡大は、効率を低下する場合が多い。それは、管理部門の範囲の拡大と情報伝達の速度の問題に関連する。又、同様に、分配という観点からも組織の拡大は、効率を低下させる。合理化がともすれば人員の省略化に繋がるからである。
 大量生産型社会が必ずしも効率的社会とは言えない。
 その典型が市場の効率である。市場の効率を突き詰めてしまえば、独占、寡占に至ることがある。競争煽り、競争を過熱化させることよりも如何にして、競争状態を保つかが重要になる場合がある。

 競争にも物の価値を規定し、価格によって競争させる場合と価格を規定して物の価値で競わせる仕方がある。単純に競争を価格だけに限定する必要はない。

 景気変動の源泉は、儲けの絡繰り(カラクリ)にある。本来は、人件費の比率を高める事に合理化の目的がある。ところが不当な競争が合理化本来の目的を失わせているのである。

 利益は、思想である。利益という思想があって費用、特に人件費は、抑制できる。
 利益を悪だとする思想、つまり、公共は道徳で、営利は欲とする思想は、錯誤である。だから、財政や公共事業は破綻するし、公務員の報酬は抑制できなくなる。
 利益というのは、期間損益上の最終的指標である。故に目標である。利益を出す仕組みをどの様に設定するかによって経済は決まるのである。故に、利益は思想である。公共事業のように利益を悪だとしたら、経済的指針は定まらない。
 なぜならば、経済のおいて最も重大なのは単位期間の経済的効果を特定することだからである。その期間損益を測る基準が利益なのである。
 利益は、収益と費用の差額として表現される。利益の根幹をなすのは費用であり、利益を実現するのは収益である。収益とは、社会的評価を実現した結果である。利益は、費用をどの様に認識し、設定するかにかかっている。故に、利益の本質は、思想なのである。
 公共事業は、現金収支を均衡させ、収支をゼロにする事を前提とする。故に、経済的効果を基礎とすることができない。なぜならば、現金収支には、思想がなく。どの様な経済的効果を狙って費用を掛けているのかを測る基準がないからである。
 現金収支には、費用対効果を計る根拠、思想がない。
 しかも、現金収支には、経済的効果の働く期間という思想が欠如しているために、長期資金と短期資金の区分がされない。その為に、費用の平均化ができない。
 故に、現金収支に基づく財政は、長期的な展望に欠ける。最も、長期的計画の事業に適さない仕組みである。
 重要なのは利益を生み出す仕組みであり、その為の費用構造である。

 国家経済を確立するためには、仕組みとして、企業会計と財政、家計を一体化する必要がある。
 その為には、営利事業と公共事業の境目をなくす必要がある。営利事業と公共事業の境目をなくすとは、期間損益と現金主義とを一体化することである。
 期間損益と現金主義とを一体化するためには、短期資金と長期資金とをどの様な基準に基づいて区分するかにかかっている。
 期間損益で重要な概念は、流動性である。流動性とは、短期的、変動性である。流動性を明らかにするためには、固定的部分と変動的部分を分化する事が重要となる。
 変動性と固定性の働きを分化することは、短期資金と長期資金の働きと区分がに繋がる。なぜならば、流動性というのは、変動性と短期性の二つの性格から成るからである。
 この様な区分を実体化するのは仕訳である。故に、仕訳は思想である。
 国債の一部を資本化した上で、社会資本に対する償却基準を定める。
 また、期間損益を実行力あるものにするためには、予算主義から決算主義に切り替える事が肝要である。その上で、公務員の報酬を成果主義も実績主義に切り替える。
 更に、所得の再配分を国家収入に連動させる。所得の再配分に廻される資金は、短期的収支に基づいて形成される性格の物が多いからである。
 そして、経済裁判所、経済警察を設ける事が決めてとなる。

 国債は、ただの借金ではない。現金取引は、現金の授受をもって完結する。
 それに対して負債は、対極に資産、債権を生み出す。国債が生み出す債権とは、何か、それが意味するところが重要なのである。

 現金主義で言うところの借金は、債務に転置される。債務は、債権を生み出し、中でも、国家債務から派生する国家債権は、貨幣価値の根幹を形成する。

 国家経済を制御するためには、通貨の総量管理と比率が重要となる。それは、貨幣価値の根源が債務に基づくからである。通貨の総量管理は、国家債務の管理を意味し、国家債務の管理は、経済規模に比例してなされなければならないからである。
 貨幣経済体制では、負債というものはなくならない。負債を限りなくなくそうという発想は、貨幣経済を否定する考え方である。貨幣経済は、負債を能動的なものとして受容することによって成り立っている。
 通貨の総量管理と比率を調節するとは、部門別に貸借を明らかにし、貸借全体の水準と個々の部門が占める割合を調節することである。  

 資金の過不足総枠は、貨幣の供給量によって決まる。又、資金の過不足の総和は、ゼロになる。
 市場の状態は、貨幣の供給量(ベースマネー)と貨幣の流通量(マネーストック)と物の需要と供給によって決まる。貨幣の流通量は、貨幣の供給量(ベースマネー)の回転数によって導き出される。

 取引は、等価交換を前提としている。借りる者がいれば貸す者がいるのである。つまり、取引が成立した時点時点では価値が均衡していることが前提となる。それが、三面等価の根拠にもなる。
 つまり、市場経済は、取引を土台としており、市場全体では、経済的価値は、均衡即ちゼロサム、ゼロ和的状態にある。

 物の取引は、一方通行に流れる。それに対して貨幣取引というのは、双方向に流れる事を前提としている。つまり、物の流れる方向の反対方向にお金が流れることで取引の均衡を保つのである。その為に、貨幣は、債権と債務という双方向の働きを生むのである。そして、この働きの総和はゼロである。

 経営者ならば、価格が単に貨幣の流通量だけで決まるのではないことを知っている。又、単純な需給だけで決まるわけではないことも知っている。
 価格を決定する要素には、貨幣的要素だけでなく物的要素、即ち、農産物で言えば、天候や作柄に左右されるし、また、工業製品ならば原材料価格や為替、流通などが影響していることは明らかである。つまり、物価に対して決定的な役割をしているのは、物の生産や流通なのである。それを前提として貨幣の働きを考察する必要がある。

 石油の備蓄も、ただ石油も備蓄すればいいと言うのではない。何の目的でなぜ、石油を備蓄する必要があるのかである。石油の備蓄は、必要とされた時に、市場に放出されなければ意味がないのである。肝心なのは、どの様な時に、石油を放出すべきかなのである。それを決めるのは、石油を備蓄する目的に依るのである。

 現代人の多くには、借入は悪い事だという認識がある。しかし、今日の経済社会は借入によって成り立っている事を覚えておく必要がある。借金は経済の半分の世界を担っていると言えるのである。そして、部門毎の借入の増減を分析することである。借金の能動的な働きを正しく認識しないと今の経済の実体を理解することはできない。
 負債というのは、家計や企業の貯蓄が増えると財政赤字や資金収支の赤字も増えるというように、資金の過不足の状態によるのである。借金がなくなるという事はない。なぜならば、公的債務がなくなるという事は、通貨の流通がなくなることを意味するからである。

 部門別に見ると家計、民間、政府、海外部門の資金の過不足は均衡する。資金の過不足は、資金側から見ると資金の貸し借りとして現れる。つまり、負債として現れる。
 そして、家計、民間、政府、海外部門の資金の過不足の総和はゼロになることが前提である。

 例えば為替である。
 国際経済において国家の外部にある経済を外部経済とする。
 為替は、外部経済である。即ち、為替取引の結果、経常取引と資本取引の国際為替市場全体では、総和は、過不足なく均衡しているので常に、ゼロである。
 また、資本取引と経常取引は、表裏をなしている。

 経常収支は、物を本とした収支である。金を本とした収支は資本収支である。物と金とは、鏡像関係にある。
 経常収支は物を基盤とした収支であるのに対し、「お金」を基盤とした収支は、資本収支である。

 又、家計貯蓄や企業貯蓄というのは、裏返して金融機関から見ると借入である。
 企業の貸借は企業の貯蓄から投資を引いた値として表れる。
 経済の状態を見るためには、金融機関の預貸率、預金超過額の推移が重要な鍵を握っているのである。

 家計の貯蓄残高と企業の貸借、政府の財政収支、資本収支の総和は、均衡、即ち、ゼロに調整される。調整できなければ、経済は均衡を失い破綻する。

 通貨の総量の水準は、余剰資金の総和、即、不足資金の総和である。
 そして、比率とは、家計の過不足、企業の過不足、政府の過不足、資本収支が資金に占める割合である。
 現在の資金の水準は、家計が貯蓄を積み増すと同時に、企業が借金の返済をしている為に、全体として縮小傾向にある。その分、財政赤字と資金収支が増大しているのである。つまり、現在の状況では、家計が預金を積めば積むほど、財政赤字は拡大する。
 個々の部門に蓄積される負債の量を清算する為には、資金運用の時間構造によって解消するように仕組む必要がある。故に、単年度予算制度では解消することは困難である。

 投資の対極には、負債があり。経常収支の対極には、資本収支があり、公共投資の対極には、財政収支がある。これらの要素を均衡させるためには、短期、長期の時間的構造によらなければならない。
 その為にも現金主義と損益主義の二つの視座が必要とされるのである。

 人は所得、物は生産、金は、支出、時間は金利に現れる。人、物、金の均衡は、時間の均衡、即ち、短期、長期の均衡によって実現する。
 その為には、短期的には、損益におけるの単位期間均衡と資金における長期的均衡均衡の二つの均衡を明らかにする必要がある。

 問題なのは、構造的な残高は、蓄積されるという事である。この様な単位期間に基づく不均衡は、短期、長期の時間的構造によって解消する以外にはない。
 即ち、経済構造の長期的変化と単位期間における構造とを調節することによって解消するのである。
 それが、損益構造、貸借構造を明らかにする動機でもある。損益は、単位期間内の動的構造を表し、貸借は、一時点での静的構造を表している。

 この構造を財政も家計も持っていない。

 例えば構造的に経常収支が黒字国は、外貨準備が蓄積し、経常赤字国は、国債残高が蓄積する。又、恒常的な財政赤字国は、国債残高、累積してしまう。

 故に、経済政策の根本においては、通貨の総量管理と比率が重要となる。比率とは、家計、企業、政府、海外、個々の部門の働きを意味するのである。  

 また、通貨の働きと単位期間内における費用対効果の両面から経済活動は考察されなければならない。その為に、現金主義と期間損益主義の二つの視座が必要とされるのである。

 経済では、三面等価が成り立つ。三面等価とは、総生産、総支出、総所得が等しいとする事を意味する。この事は、生産と支出と分配は、一つの事象を共有していることを表している。言い換えると一つの事象を三つの側面に分解できることを意味する。
 三面等価の中で支出面から見た国内総支出は、民間消費+民間投資+政府支出+経常収支を言う。
 これは、家計消費+家計投資+民間企業消費+政府支出+経常収支でもある。つまり、家計支出+民間企業支出+政府支出+経常収支である。
 又、分配面から見た国内所得は民間消費+民間貯蓄+政府収入である。
 これは、家計消費+家計貯蓄+民間企業消費+民間企業貯蓄+政府収入に分解できる。
 国民総支出と国民総所得は一致するから
 (民間貯蓄−民間投資)=(政府支出−税収)+経常収支
 (家計貯蓄−家計投資)+(企業貯蓄−企業投資)=(政府支出−税収)+経常収支
 家計貯蓄の過不足+企業貯蓄の過不足=財政収支+経常収支

 家計、民間、政府、海外からの借入金は、相関関係にあるが性格は違う。
 家計上の負債は、可処分所得に影響するのに対し、民間企業の負債は、資産とに対応し、資金繰り、資金調達に影響する。財政上の債務は、資金の供給量に影響をする。

 家計、民間、政府、海外、いずれにも、貸借関係がある。

 例えば、家計が金融機関から借り入れれば、金融機関から見ると貸付金である。
 負債は、企業では、調達された資金の量、財政では、供給された貨幣の量を意味する。
 そして、収益は、循環した貨幣の量、税収は、回収量を意味する。

 家計、民間企業、政府、経常収支によって不足した資金は、借金か収入によって補填する。補填できない場合、国家経済の均衡は破れ、破綻する。

 家計、民間企業、政府、個々の要素が破綻を避ける為には、家計では、支出を削減すると同時に、所得の増加を計る必要がある。
 企業は、経費を削減すると同時に資金の調達を計る必要がある。資金の調達には、借入と増資と売上がある。
 財政の資金不足は、税か、外債、国内債、輸出によって補填する。

 政府の役割は、分配に関しては、所得の再分配であり、生産に関しては、再生産、貨幣は、再循環である。
 そして、生産は消費に、労働は所得に、転換されることによって効力を発揮する。つまり、消費を促し、雇用を創出し、貨幣を万遍なく供給するのが政府の主たる役割となる。

 再分配は、税と社会保障によって実現する。

 日本のように、財政が均衡しないのは、歳入、歳出の仕組み、構造に問題があるからである。

 現代の日本の税制で一番問題なのは、税制上、課税対象とする基準が現金主義に基づいているのか、期間損益主義に基づいているのか判然としていないことである。その為に、税制の設計思想に一貫性が欠けているのである。

 直接税、間接税という分類もあるが、それ以外に、現金収支を課税対象の基盤としているのか、それとも期間損益を基盤にしているのかも重要な要素である。
 同じ、所得税に属する所得税と法人税でも所得税は現金主義に基づき、法人税は、期間損益に基づいている。この違いは、税制の働きの本質的な違いを表している。
 又、取引を前提としているのかも重要な要素である。基本的に未実現損益を課税対象にした場合、現金の動きの実体がない対象に課税することになる。

 税が現金収支を課税対象としているのであれば、巨額な利益をあげた時、広い土地を買えばそれだけ現金収入が減り節税対策になる。しかし、損益では、土地を買っても課税対象である利益は減らないのである。故に、土地を買っただけでは節税対策には成らない。

 ローンを支払って土地付きの家を買うのが得か、家賃を支払って借り家住まいをした方が得か、それは会計思想と税制思想によって決まる。

 この様な違いは、人生観や価値観と言った人間の根幹的な部分も変質させてしまう働きがある。

 財政を現金主義から損益主義に変える際、留意しておかなければならないのは、会計上、借入の回収が隠されている点である。逆に、現金主義では長期債務と運転債務の区分がされない。

 財政を立て直すためには、支出が増大している原因と歳入、特に、税が減少としている原因を明らかにする必要がある。

 歳入とは、貨幣の回収装置である。現在の歳入の仕組みは、税制度の多くを依存している。それは、国家事業において営利という思想が欠如しているか、或いは軽視されているからである。
 公共という思想の中に、営利という思想を排除しようとする傾向があることが最大の問題である。そこから、公共事業の民営化の発想が生まれる。しかし、何でもかんでも公共事業を民営化してしまえと言うのは乱暴である。
 公共部門が、期間損益という思想を受け容れないことが最大の原因なのである。要するに、利益は、悪いという価値観を変えればいいだけである。思想の問題である。

 歳入の仕組みや国家債務の在り方を見直すとは、ギリシアを例にすると、観光資源を資本として観光事業を株式化する様なことである。
 株式化することによって公務員数、公的債務を削減する一方で、民間投資を促し、産業を興し、民間の雇用を創出する。
 また、規制を強化して観光資源や規律を国法によって守る。観光資源や観光サービスをの質を向上させることによって観光客によって利益をあげる。
 ギリシアで問題なのは、世界有数の観光資源を資産化できないでいる事である。
 自国の資源に対する自覚が低く、その為に、サービスも悪い。それが、ギリシアの国家資産の価値を著しく毀損しているのである。

 税金の使い道も大切である。例えば、民間企業が、生産に直接関係ない福利施設や手当に多額の投資をしても収益の向上に貢献しない。
 公共投資は、拡大再生産に結びつく投資である必要がある。即ち、税の使い道、即ち公共投資の基本は、社会資本の在り方にあり、社会資本の在り方は、国家構想、建国の理念に基づく必要がある。

 今の経済は、ボイラーの空焚き状態に似ている。

 経済は、生きる為の活動だというのに、どの様な社会を、どの様な生き方をすべきかの思想が欠けているから、経済の本質を見失うのである。


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